そろそろ歴史の本が読みたくなって、新書で出た「ハプスブルク王朝」と「藤原氏」を読もうと思った。ちょっと人名が大変なんだけど、日本史、世界史を考えるときに絶対出てくる一族だし、歴史ファンなら面白く読める。(逆に言えば、こういう本を面白く読めない人は歴史ファンじゃない。)細かい事実がいっぱい出てくるのが楽しいのである。
講談社現代新書で2017年8月に出た岩崎周一「ハプスブルク王朝」は、新書本なのに400頁を超えている。ズッシリとした重みに、買おうかどうか迷う本だが、これほど読みでがある本もめったにない。渋谷のBunkamuraで「ルドルフ2世の驚異の世界」展が開かれているが、このルドルフ2世がハプスブルク家である。最近はハプスブルク家に関連した展覧会も多いが、音楽でもモーツァルトやベートーヴェン、あるいはヨハン・シュトラウスやマーラー…みなハプスブルグ帝国の人だった。それなのに、簡単に入手できる入門書がなかった。

先にチェコ人カレル・チャペックによる旅行記を紹介したが、チャペックはスペインやオランダでハプスブルク家の紋章「双頭の鷲」を発見して感慨にふけった。ハプスブルク(Habsburg)家は、今のスイスの端っこで10世紀ころから勢力を伸ばしたドイツ系貴族である。それが何でスペインやオランダまで支配したのかというと、複雑な政略結婚による。大航海時代のスペインはハプスブルク家だし、スペインやオランダの画家を理解するためにもこの一族の知識は欠かせない。系図を何度も見返さないと判らないけれど、ヨーロッパの王家は複雑に結び合ってきた。
ヨーロッパ史で理解しにくいことの一つが「神聖ローマ帝国」である。ローマ帝国の栄光を引き継ぐ皇帝を意味するが、事実上「ドイツ王」の意味しか持たない。後にヴォルテールに「神聖でもローマ的でもないどころか、帝国でさえない」と言われてしまった。弱小のハプスブルク家は次第に勢力を伸ばして、1273年にはルドルフ4世がドイツ王(ドイツ王としてはルドルフ1世)に選ばれ「神聖ローマ帝国皇帝」の資格を得る。王に選ばれるというのも、日本の感覚では判りにくい。ドイツ諸邦の有力者が「選帝侯」と呼ばれて「選挙」をするのである。ハプスブルク帝国では一貫して、諸邦、諸身分の力が強かったことも意外な驚きだ。(だから「帝国じゃない」となる。)
カール5世やフェリーペ2世の時代にラテンアメリカを支配し世界に冠たる帝国となる。その後、スペイン系とオーストリア系に分かれ、スペイン系は後継ぎがなく絶えてしまう。オーストリア系では、18世紀に有名な女帝マリア・テレジアが現れる。その娘がフランス王妃マリー・アントワネット。フランス革命とナポレオン戦争後には、1814年にウィーン会議が開かれ、宰相メッテルニヒのもとヨーロッパの秩序を定めた。「会議は踊る」と言われるが、けっこうちゃんとした会議だったと出ている。
第一次世界大戦に負けたハプスブルク帝国は崩壊するが、その国を教科書では「オーストリア=ハンガリー二重帝国」と書いてある。これは何だろうというのも疑問だった。その経緯もこの本に詳しいが、複雑な民族構成を持つハプスブルク帝国は、もともとオスマン帝国や中国の諸王朝なども同様に諸民族を支配する「帝国」だった。しかし、ヨーロッパでイングランドやフランスが「国民国家」として成長してくると、ハプスブルク帝国でもドイツ系の国なのか、諸民族の国なのかという問題が起こって来た。
そこで帝国内で人口的にも政治的にも重きをなしていたハンガリー人にドイツ人と同格の地位を与えて「二重帝国」という仕組みを作ったのである。今のハンガリーは小国というイメージだが、当時はトランシルバニア(現ルーマニア)などもハンガリーだったのである。そこで「排除」されたのが、チェコ人やクロアチア人などのスラヴ系諸民族。チェコ人にも同等の資格を与えて、「三重帝国」にするべきだという意見も相当強かったという。結局第一次大戦後に、スラヴ系民族は「チェコスロヴァキア共和国」と「ユーゴ(南)スラヴィア王国」という国になった。
1848年のウィーン三月革命のあとで18歳で即位したフランツ=ヨーゼフ1世は、第一次大戦中の1916年に亡くなるまで延々と在位を続けた。長男は謎の心中事件で死亡し、ミュージカルにもなった皇后エリーザベト(バイエルン家出身)は暗殺され、1914年には皇位継承者のフランツ・フェルディナントがサラエヴォで暗殺された。長命したことで悲劇の皇帝となったけれど、その長い長い治世の印象が強く、どうしてもハプスブルク家には停滞のイメージが強い。しかし、現代の欧州統合の中で再評価の声もあるということだ。ハプスブルク家の後裔も活躍している。
講談社現代新書で2017年8月に出た岩崎周一「ハプスブルク王朝」は、新書本なのに400頁を超えている。ズッシリとした重みに、買おうかどうか迷う本だが、これほど読みでがある本もめったにない。渋谷のBunkamuraで「ルドルフ2世の驚異の世界」展が開かれているが、このルドルフ2世がハプスブルク家である。最近はハプスブルク家に関連した展覧会も多いが、音楽でもモーツァルトやベートーヴェン、あるいはヨハン・シュトラウスやマーラー…みなハプスブルグ帝国の人だった。それなのに、簡単に入手できる入門書がなかった。

先にチェコ人カレル・チャペックによる旅行記を紹介したが、チャペックはスペインやオランダでハプスブルク家の紋章「双頭の鷲」を発見して感慨にふけった。ハプスブルク(Habsburg)家は、今のスイスの端っこで10世紀ころから勢力を伸ばしたドイツ系貴族である。それが何でスペインやオランダまで支配したのかというと、複雑な政略結婚による。大航海時代のスペインはハプスブルク家だし、スペインやオランダの画家を理解するためにもこの一族の知識は欠かせない。系図を何度も見返さないと判らないけれど、ヨーロッパの王家は複雑に結び合ってきた。
ヨーロッパ史で理解しにくいことの一つが「神聖ローマ帝国」である。ローマ帝国の栄光を引き継ぐ皇帝を意味するが、事実上「ドイツ王」の意味しか持たない。後にヴォルテールに「神聖でもローマ的でもないどころか、帝国でさえない」と言われてしまった。弱小のハプスブルク家は次第に勢力を伸ばして、1273年にはルドルフ4世がドイツ王(ドイツ王としてはルドルフ1世)に選ばれ「神聖ローマ帝国皇帝」の資格を得る。王に選ばれるというのも、日本の感覚では判りにくい。ドイツ諸邦の有力者が「選帝侯」と呼ばれて「選挙」をするのである。ハプスブルク帝国では一貫して、諸邦、諸身分の力が強かったことも意外な驚きだ。(だから「帝国じゃない」となる。)
カール5世やフェリーペ2世の時代にラテンアメリカを支配し世界に冠たる帝国となる。その後、スペイン系とオーストリア系に分かれ、スペイン系は後継ぎがなく絶えてしまう。オーストリア系では、18世紀に有名な女帝マリア・テレジアが現れる。その娘がフランス王妃マリー・アントワネット。フランス革命とナポレオン戦争後には、1814年にウィーン会議が開かれ、宰相メッテルニヒのもとヨーロッパの秩序を定めた。「会議は踊る」と言われるが、けっこうちゃんとした会議だったと出ている。
第一次世界大戦に負けたハプスブルク帝国は崩壊するが、その国を教科書では「オーストリア=ハンガリー二重帝国」と書いてある。これは何だろうというのも疑問だった。その経緯もこの本に詳しいが、複雑な民族構成を持つハプスブルク帝国は、もともとオスマン帝国や中国の諸王朝なども同様に諸民族を支配する「帝国」だった。しかし、ヨーロッパでイングランドやフランスが「国民国家」として成長してくると、ハプスブルク帝国でもドイツ系の国なのか、諸民族の国なのかという問題が起こって来た。
そこで帝国内で人口的にも政治的にも重きをなしていたハンガリー人にドイツ人と同格の地位を与えて「二重帝国」という仕組みを作ったのである。今のハンガリーは小国というイメージだが、当時はトランシルバニア(現ルーマニア)などもハンガリーだったのである。そこで「排除」されたのが、チェコ人やクロアチア人などのスラヴ系諸民族。チェコ人にも同等の資格を与えて、「三重帝国」にするべきだという意見も相当強かったという。結局第一次大戦後に、スラヴ系民族は「チェコスロヴァキア共和国」と「ユーゴ(南)スラヴィア王国」という国になった。
1848年のウィーン三月革命のあとで18歳で即位したフランツ=ヨーゼフ1世は、第一次大戦中の1916年に亡くなるまで延々と在位を続けた。長男は謎の心中事件で死亡し、ミュージカルにもなった皇后エリーザベト(バイエルン家出身)は暗殺され、1914年には皇位継承者のフランツ・フェルディナントがサラエヴォで暗殺された。長命したことで悲劇の皇帝となったけれど、その長い長い治世の印象が強く、どうしてもハプスブルク家には停滞のイメージが強い。しかし、現代の欧州統合の中で再評価の声もあるということだ。ハプスブルク家の後裔も活躍している。
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