尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

中平康映画の芦川いづみ-芦川いづみを見る②

2015年09月15日 02時04分42秒 |  〃  (旧作日本映画)
 今回の上映で見ると、監督別では中平康が最多で5本もある。中平作品では、傑作アクション「紅の翼」や奇怪な作品「結婚相談」など芦川いづみ出演作はまだあるけど、とりあえず大ヒット作「あいつと私」など、芦川いづみの魅力を一番描いたのは中平康かもしれないと思う。
 
 もっとも僕の考えでは、芦川いづみ最高の映画は「硝子のジョニー 野獣のように見えて」(1962、蔵原惟善)である。この映画については、シネマヴェーラ渋谷で蔵原特集があった時に「蔵原惟善の映画⑤」で書いた。蔵原惟善(これよし)は、「南極物語」や「キタキツネ物語」の監督だが、普通代表作と言われるのは浅丘ルリ子主演の「執炎」や「愛の渇き」である。でも、僕は一般的には観念的で失敗作とも言われる「硝子のジョニー」や「夜明けのうた」が大好きだ。もともと「観念的で、なんだかよく判らない」といった映画の方が好きなのである。
(「硝子のジョニー 野獣のように見えて」)
 この映画は間宮義雄撮影の函館など北海道の暗い画面が素晴らしい。また木村威夫の美術、黛敏郎の音楽なども良い。前に書いたブログで、「芦川いづみは清楚可憐な役柄がほとんどだが、その純粋部分を抽出してさらに凝縮したような役を熱演」と書いてて、我ながら結構うまいことを言っていると思う。まあ「道」のジェルソミーナのような「聖女」である。訳がわからないながら、これほど心に残る映画もないなあ。

 中平康(なかひら・こう 1926~1978)は早く亡くなってしまい、没後に再評価の声も高いが、あまりにも多彩な作品群にまだ評価も定まらない。晩年に不幸な時期が長く、最後は忘れられたような感じだったが、50年代から60年代前半には日活で素晴らしい作品を続々と作っていた。最初の公開作である「狂った果実」(1956)は裕次郎初の本格主演映画で、「湘南海岸を舞台にした青春映画」のプロトタイプの傑作である。こういう瑞々しい青春を描いたと思ったら、後に再評価された日本で珍しいスラプスティックコメディ「牛乳屋フランキー」を撮る。「才女気質」「地図のない町」「現代っ子」のような不思議な映画をたくさん撮る。アクションの傑作も、メロドラマの傑作も、コメディの傑作もある。だけど、もっともっと不思議な映画がたくさんあるということである。

 今回上映された中平作品の最初の映画は「誘惑」(1957)で、銀座の洋品店(二階に画廊)を作ったセットが素晴らしい。店主の千田是也の昔の恋人、およびその娘の二役が芦川いづみ。現実に生きた芦川が出てくるのは終わりの頃で、この映画のヒロインは千田是也の娘の左幸子である。左幸子とその仲間たちの恋のてん末を、多くの人物をさばきながら点描していく。画廊のオープニング場面で岡本太郎や東郷青児が出てくるのも貴重。50年代にかなり作られたオシャレでソフィスティケートされた映画の典型で、楽しく見られる。ただし中平の最高傑作というほどの評価は、二回見たけど高過ぎではないか。俳優座の千田是也をたっぷりと見られるのも重要だが、芦川いづみの母が千田是也の恋人で、二役やるという設定である。

 1959年に作られた「その壁を砕け」も2回目だけど、実に本格的な冤罪映画でビックリする。新藤兼人脚本、姫田真佐久撮影、伊福部昭音楽というスタッフの力量を見る思いがする。小高雄二の恋人が2年間働いて自動車を買い、恋人の芦川の住む新潟まで飛ばしていく。その途中で三國峠を越えたあたりで、つい乗せてあげた男が殺人犯で、小高は犯人に間違えられて逮捕される。だから、観客は小高は無実であることを最初から知っている。問題は裁判なんだけど、それがどう進むか。恋人の芦川は裁判を行う新潟地裁長岡支部のそばで働きながら、無実を信じて待ち続ける。やがて、最初に逮捕に貢献した長門裕之の巡査が事件を疑い始め、実地検証が行われることになって…。
(「その壁を砕け」)
 「犯人の情婦」とののしられながら恋人の無実を信じる芦川いづみの一途な思いが素直な感動を呼ぶ。中平にこんなリアリズムの社会派映画があったのか。戦後に作られた冤罪映画のほとんどは、実際の事件に材を取った救援映画である。今井正「真昼の暗黒」(八海事件)、山本薩夫「証人の椅子」(徳島ラジオ商事件)などのように。フィクションの冤罪映画はあまりないが、この映画は出色。当時の捜査(をきちんと反映しているかどうかは別だが)の問題性もよく判る。被害者の面通しはあれでは証拠価値がない。この映画はどこでロケされたんだろう。事件の起きる山村はどこなんだか。新潟駅や長岡駅、柏崎駅や佐渡まで出てきて、新潟県の風景がいっぱい見られる。
 (「その壁を砕け」)
 「あした晴れるか」(1960)は菊村至原作の都会派コメディ。芦川いづみに黒縁の伊達眼鏡をさせて、裕次郎と共演させるのがおかしい。新進カメラマンと仕事を組む宣伝部員が、女だと馬鹿にされないためにあえて変装しているのだ。だから、裕次郎に眼鏡を取るとカワイイなどと言われる。そこに中原早苗も裕次郎に絡んできて…。登場人物の出会いに偶然が多すぎて、そう思わせてしまうレベルの娯楽編だけど、楽しく見られる。芦川いづみのイメージも他の作品と全然違って、おかしいことこの上ない。まあ裕次郎や芦川いづみファンしか楽しめないかもしれないが。
(「あした晴れるか」)
 「学生野郎と娘たち」(1960)は快作とか秀作という評価もあるが、僕には受け入れられない。芦川いづみの女子大生は、言い寄る男に犯され、学費稼ぎに怪しいアルバイトをさせられ、挙句に自殺してしまう。そういう暗い設定がダメなのではない。清楚可憐な役ばかりでなくていいし、他の女子大生もみな厳しく見つめられている。だが、これでは貧乏人が大学まで行っても、バイトに明け暮れてダメになるしかないという感じだ。最初にナレーションが入るが、もうそれが辛辣。たぶん、原作の曽野綾子「キャンパス110番」に問題があると思う。嫌味を風刺と取り違えている。木下恵介「日本の悲劇」はあんなに辛辣に登場人物を見つめていても、決して嫌味な感じを残さない。芦川いづみ(藤竜也夫人)、中原早苗(深作欣二夫人)、清水まゆみ(小高雄二夫人)などがおバカな女子大生を演じる映画。

 それに比べると、「あいつと私」(1961)のストレートな描写がうれしい。これは石坂洋次郎の原作という違いだろう。戦後民主主義にたつ石坂と、批判ばかりの曽野綾子の違いである。登場人物の裁き方のうまさが、中平の手腕か。裕次郎の青春映画は、というか日本の青春映画はどれも現実離れした設定が多いが、「陽のあたる坂道」よりも「あいつと私」の方がまだしも現実感がある。この二人の共演では石坂原作の「乳母車」が最初だが、それも現実離れした設定。どれもセックスをめぐって、今では考えられない設定になっている。「純潔」が叫ばれ、今とは全く違った性的環境だったことを理解しないといけない。そんな中で、悩みながらも自分に素直に、社会に負けずに歩んで行く芦川いづみのヒロインには、見ていて熱いものがこみ上げてくる。当時のキャンパス風景も面白い。貴重な映画だと思う。
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1 コメント

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中平康は (さすらい日乗)
2015-09-17 09:25:26
今回、中平の『その壁を砕け』を見て、彼はなんでも作ることのできる結構器用な監督だったと思いました。その意味では、非常に松竹大船的な監督で、川島雄三や渋谷実に近いものがあったと思う。

結局、本質は自己主張のある作家的な監督ではなかったわけで、『あいつと私』『紅の翼』『泥だらけの純情』などの、スターの娯楽映画の方に良い作品があったと思う。
ただ、そこに安住できなかったことが彼の悲劇で、遺作の『変奏曲』は、ほとんどお笑いでしたから。
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