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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

幻覚とドッペルゲンガー-日野啓三を読む③

2017年03月01日 21時25分23秒 | 本 (日本文学)
 さて、もう少し日野啓三の話を書くけど、あまり長くない話を、間に他の話題も交えながら、少し続けて書きたい。まずは、1992年に出されて、伊藤整文学賞を受けた「断崖の年」という短編集について。1990年に日野はガンの手術を受ける。自覚症状はなかったので、不意打ち的な出来事だった。たまたま見つかったのである。そして、それ以後の体験を書いた。それが「断崖の年」だけど、僕は通常の「闘病記」を予想して読んだら、全く違ったのに驚いた。

 難病の手術を受けると、「死」を意識して自分の人生を振り返り、運命に思いをいたしたり、医者や家族に様々な思いを抱く。それを感動的に、あるいは露悪的に書きつづる「闘病記」はいっぱいあると思うけど、こういうのは初めてだった。日野啓三は、手術時の麻酔薬、さらに免疫強化剤などによって、強烈な幻覚に見舞われる。その幻覚の強烈な描写が続き、一種驚くべきファンタジー小説になっている。

 彼は慶応大学病院(JR中央線の信濃町駅そばにある)に入院したので、外苑の緑や東京タワーが病室からよく見えた。そして、東京タワーだけは、最後まで実体として把握でき、夜空に屹立していたけれど、他のビルはみな幻覚になったという。ビルに夜ともる赤い光は、なぜか漢字になったという。そして、病室に様々な人々がやってくる。ただ、それは自分でも幻覚だと判っているという。

 それでも「イメージが勝手に意識内部を荒れ狂った」体験は、圧倒的な迫力で迫ってくる。今までさまざまな幻想小説、あるいは幻想映画などがあるけど、そういうものによく出てくるイメージの噴出のようなものが、日野啓三の意識に実際に起きた。それが病後最初に書かれた「東京タワーが救いだった」という短編に書かれている。手術後に「譫妄(せんもう)」状態が起きることがあるのは知られているけど、それがここまで言語化されているのは珍しいのではないか。(手術時からかなり時間もたって、現在の麻酔の技術はだいぶ進歩していて、そこまで長く深刻な幻覚が続くことは少ないようだけど。)

 その後に書かれた「台風の眼」は前回触れたけど、一種の自伝として書かれている。だけど、この本は非常に不思議な本で、自分と自分の「ゴースト」の対話のように進行している。この「ゴースト」は「断崖の年」でも出てくるけど、自分を見ている「もうひとりの自分」であり、いわゆる「ドッペルゲンガー」(分身、自己像幻視)だと思われる。日野啓三は実際に見ているのだろうか。それとも、レトリックあるいは小説の仕掛けなんだろうか。よく判らない。

 でも、「台風の眼」を読んでわかるのは、常に「居場所がない」と思って生きてきたことである。「故国日本」に帰っても、まったく知らない日本の農村に行かなくてはならない。どこまで歩いても行きつかない体験は、彼にとって後に読んだカフカの「城」のような経験だった。幻想や夢のように思えるものは、彼にとって現実そのものだった。そうやって生きてきたのだから、「ドッペルゲンガー」は実際に見えているかどうかに関わらず、ずっと日野啓三の心の中に居続けたのではないか。

 ここで思ったことは、「幻想小説」と書いてきたけど、というか普通そういう風に読むわけだけど、書いている本人には一種のリアリズムなんじゃないかということである。つまり、本当に見えているものを書いているのかもしれない。そして、それは誰もが見ている。「」を見ない人はいない。夢の中ではいろいろな人が同時に出現して、いろいろと不思議な体験をともにする。それは「夢」であり、「現実」ではないと思うと、でも「夢の中」では「夢がリアル」である。

 日野啓三を読んで思ったのは、誰でも幻覚を(条件によっては)見るということである。統合失調症や、ある種の超常的な能力を持つ人だけに限らない。そして、そこで見た幻覚は、決して危険なものではなかった。自分の今までの世界観に存在しない幻覚は出てこない。手術時に出てきたものは、「病的」なもの、あるいは「被害妄想」的なものではなかった。親和的な幻覚だったとも言える。

 僕たちを成立させている、イメージの統合みたいなものを(麻酔薬によって)外してしまう。その時に出てくる幻覚は、「もう一つの現実」として、僕らのすぐそばに存在していたのである。それは「麻薬」あるいは「精神疾患」にも大きな示唆を与えるもののように思う。(なお、日野啓三は東京タワーを「商業的ではない」ものと考え、東京の象徴の様にとらえている。でも、東京タワーは「日本電波塔株式会社」だと知っていたら、あるいはまたタワーも幻覚にのまれていただろうか。)
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