20世紀後半の日本を代表する映画監督大島渚(1932~2013)が亡くなった。80歳。1996年にロンドンで倒れ、一時回復して1999年に最後の作品「御法度」(2000年公開)を撮ったが、その後は長らく闘病生活を送っていた。妻の女優小山明子の献身的な介護に支えられた晩年だった。小山明子は一時「介護うつ」になるなど大変な時期があったもあったと著書や講演で語っている。
大島渚が一番活動的だった時期には常に政治的、性的な映画で物議をかもす存在だった。テレビにド派手な衣装で登場して面白いトークをしたので、顔と名前は誰でも知っていた。闘病生活が長くなったため若い人には忘れられたかもしれないが、重要な映画監督である。講演も聞いたことがあるが、それより地下鉄に乗っていたら突然大島渚が乗り込んできた時の思い出が強烈だ。存在感がすごかった。(電車で有名人に会ったのは、地元の先代三遊亭圓楽と大島渚だけだ。)
僕にとっては一番最初に自分の金で見た日本の映画監督だった。中学生の頃から「アメリカン・ニュー・シネマ」と呼ばれた「イージーライダー」や「明日に向って撃て!」などの洋画は見ていた。日本映画は任侠映画や古くさそうな喜劇が多くて、見たいとは思わなかった。高校生になり視野が広がり、ATGで作られた日本映画を見に行こうかとなった。今の有楽町マリオンの地下にあった日劇文化というATG映画館で、1971年の「儀式」を見た。「日本」を問い直す思想的、政治的かつ様式美に満ちた映画世界に僕はショックと感激を覚えたものだ。キネ旬のベストワンになり、翌年正月に凱旋興行があったので、もう一回見に行った。
ところが翌年の沖縄返還直後に作られた「夏の妹」が存外につまらなく、以後は1976年の「愛のコリーダ」まで作品がなくなる。むしろ大学生になってから名画座などで見た過去の作品の影響が大きい。大島渚は、僕の若い頃はその重要性に関して、黒澤明と並ぶ名声を持っていた。小津安二郎が世界的に「発見」されるのは70年代以後で、60年代から70年代の政治の季節には「変革の文化人」を映画部門で代表する存在が大島渚だったのである。僕は大島渚の映画監督作品は全部見ている。
大島は京大法学部を卒業して1954年に松竹に入社した。戦前の映画監督には大学卒が少ないが、戦後になって一大産業になった映画会社は、大卒の助監督を取るようになった。同じ松竹の山田洋次や吉田喜重は東大、篠田正浩は早大(陸上部で箱根駅伝出場)である。大島は京大では学生運動の中心にいて、京都府学連の「輝ける委員長」だった。「京大天皇事件」や京都女子大民主化運動(木下恵介の名作「女の園」のモデルになった大学紛争)の時代である。そういう経歴の青年でも映画会社は受け入れたのである。その時代のことは「体験的戦後映像論」に興味深く書かれている。
松竹は若手助監督にシナリオを書かせるが、大島もいっぱい書いては同人誌を作って「監督昇格運動」をしていた。1950年代末期に世界ではゴダールなど「ヌーベルバーグ」と言われる新しい世代が登場していた。日本でも他社では増村保造、岡本喜八らがスピーディでエネルギッシュな作品を撮り始めていた。松竹と言えば小津や木下恵介で、「大船調」と言われた女性映画で知られた。だんだん不振になっていき、会社は若手監督の抜てきに踏み切る。その最初が大島の第1作「愛と希望の町」(1959)という中編である。シナリオの原題は「鳩を売る少年」で、映画化に際し「愛と怒りの町」としたが会社に退けられ、次の「愛と悲しみの町」も却下、最後に「愛と希望の町」になった。「愛も希望もない町」を描く中味と正反対の題名に変えられたのである。
川崎の貧民街に住む少年とブルジョワの少女の触れ合いをリリカルにも描いているが、それ以上に「言語による明晰な階級対立関係」を描いている。最初から大島渚の特色ははっきりしていたし、会社との対立も存在したのである。60年になると大ヒット作「青春残酷物語」(1960)を作った。大学生と女子高生の「無軌道な青春」をスピーディに描き切り、今見ても新鮮である。この時代は「純潔」が一番叫ばれた時代なのだが、若者の性を大胆に取り上げたことでも大問題作だった。当時大島と交際を始めていた小山明子は、兄から「お前も映画のようにやられちゃったのか」と木場で結ばれる有名な場面を話題にされたと書いている。それくらいショックを与えたのである。
(青春残酷物語)
その大ヒットに続いて「太陽の墓場」を作り、これも話題になる。大島以外にも次々と新人監督が登場し、「松竹ヌーベルバーグ」と言われた。60年の最後に大島は安保闘争の総括である「日本の夜と霧」を作った。これは世界映画史上、大手映画会社で製作された一番政治的に過激な映画だろう。会社には概要だけ示して急いで作ってしまったらしい。ここでは日本共産党の「50年代問題」と、学生運動の中のスターリン主義批判を正面から取り上げた。共産党をさらに左から批判するという、後に「新左翼」と言われる問題意識である。安保闘争を通して、古い世代の渡辺文雄と若い世代の桑野みゆきが結ばれ、その結婚式に招かれざる客が現れる。こうして結婚式が大演説大会となり、過去を暴く「公開裁判」となるのであった…という卓抜な設定。「儀式」に直接つながる設定である。
今見直すと、早撮りの技術的難点も見受けられるが、戦後左翼運動の暗部を見つめる「暗いロマンティシズム」が魅力的だ。登場人物が皆沈鬱で、過去の古傷に塩をすり込むように語り合う不思議な世界。僕はこの暗さが昔から好きで、何度も見ている。後に東條英機を演じた津川雅彦が、安保世代の活動家として先輩党員を大批判しているのがおかしい。この映画は公開4日目に起こった、社会党の浅沼稲次郎委員長暗殺事件によって会社側により公開中止とされた。その直後に大島と小山明子の結婚式があり、これが映画のような会社批判の大演説大会となり、大島は松竹を退社する。
大島はテレビでドキュメントを作ったり、他社に招かれて作ったりしたが、基本的には自分が中心になって設立した独立プロ「創造社」に拠って前衛的映画を作り続けた。中には松竹で公開された作品もある。僕は武田泰淳原作の「白昼の通り魔」(1966)が類を絶した傑作ではないかと思う。犯罪を主題に「戦後民主主義の欺瞞」を描くが、思想的問題性は今も生きていると思う。犯罪ドラマとして「人間の不可知性」を露出過多の画面に描く映画的完成度の高さ。今後さらに論じられる必要性があると思う。女教師役の小山明子が黒板に「自由 平等 権利」と書く場面は忘れられない。
「日本春歌考」(1967)、「無理心中日本の夏」(1967)なども興味深いが細かいことは省略。白戸三平のマンガを一コマずつ撮影した「映画紙芝居」のような「忍者武芸帳」(1967)、フォーククルセイダーズが韓国脱走兵にふんして、映画が途中で同じ場面をくり返すという奇想天外な「帰ってきたヨッパライ」(1968)など、手法的にも前衛というか、変な作品も多く、今後の再評価が必要だろう。
その後はATG(アートシアターギルド)の時代で、大島の最高傑作が作られた。特に「絞死刑」(1968)、「少年」(1969)、「儀式」(1971)が傑作。なお「絞死刑」という言葉は本来はない。「絞首刑」である。この映画の造語だが、一般用語と思っている人が時々いるようだ。有名な在日朝鮮人死刑囚をモデルにして、「失敗した死刑執行」という奇想天外な想定で戦後日本思想史をあぶりだす傑作脚本。去年見直して、その面白さは今も生きていると思った。
「少年」は当たり屋事件を起こして日本中を回る鬼夫婦と少年二人を哀切に描くロード・ムービー。僕の一番好きな作品だ。「新宿泥棒日記」(1968)も当時の新宿を取り入れて、懐かしい風景と人物に会えて面白いが、映画として大傑作ではないだろう。「東京戦争戦後秘話」(1970)も成功はしていないが、今見直すと「東京風景映画」かつ「映画オタク青年映画」という意味が出ているかもしれない。
(少年)
「愛のコリーダ」(1976)は阿部定事件をモデルにして、実際に性交場面を取ったまま国内では現像せずフランスに持っていって完成させたフランス映画。そういうやり方があるのか、さすが国際的監督だとビックリした。面白くないわけではないのだが、田中登監督のロマンポルノ「実録阿部定」の方が短くてコンパクトでいいんじゃないか。続く「愛の亡霊」(1978)はカンヌ映画祭監督賞。これは人間の業を見つめて、僕は後期では最高の出来ではないかと思う。
「戦場のメリー・クリスマス」(1983)は坂本龍一、ビートたけし、デヴィッド・ボウイというキャストがすごい。日本の捕虜収容所を舞台に文化の衝突を描く。非常に興味深いし、これが最高傑作という人がいるのも判るのだが、僕は何が言いたいのか今一つ判らない感じがした。2回見たが同じ感想。BC級戦犯の問題は、いろいろ調べたこともあるので、なんだか知ってることしか出てこない感じがしてしまう。フランス映画「マックス・モン・アムール」(1987)は何で作ったのかよく判らない失敗作。チンパンジーと人間との間の愛というテーマは人によっては重大なのか。最後の「御法度」(2000)は新選組を描く。面白くないわけではないのだが、エネルギーは枯渇気味だったと思う。ニュースでは「コリーダ」「戦メリ」「御法度」などを取り上げていたが、「絞死刑」「少年」などが最高傑作である。(なお、2012年5月に「小山明子映画祭と大島渚の映画」を書いた。重複もあるが関連性があるので参考に。)
大島渚が一番活動的だった時期には常に政治的、性的な映画で物議をかもす存在だった。テレビにド派手な衣装で登場して面白いトークをしたので、顔と名前は誰でも知っていた。闘病生活が長くなったため若い人には忘れられたかもしれないが、重要な映画監督である。講演も聞いたことがあるが、それより地下鉄に乗っていたら突然大島渚が乗り込んできた時の思い出が強烈だ。存在感がすごかった。(電車で有名人に会ったのは、地元の先代三遊亭圓楽と大島渚だけだ。)
僕にとっては一番最初に自分の金で見た日本の映画監督だった。中学生の頃から「アメリカン・ニュー・シネマ」と呼ばれた「イージーライダー」や「明日に向って撃て!」などの洋画は見ていた。日本映画は任侠映画や古くさそうな喜劇が多くて、見たいとは思わなかった。高校生になり視野が広がり、ATGで作られた日本映画を見に行こうかとなった。今の有楽町マリオンの地下にあった日劇文化というATG映画館で、1971年の「儀式」を見た。「日本」を問い直す思想的、政治的かつ様式美に満ちた映画世界に僕はショックと感激を覚えたものだ。キネ旬のベストワンになり、翌年正月に凱旋興行があったので、もう一回見に行った。
ところが翌年の沖縄返還直後に作られた「夏の妹」が存外につまらなく、以後は1976年の「愛のコリーダ」まで作品がなくなる。むしろ大学生になってから名画座などで見た過去の作品の影響が大きい。大島渚は、僕の若い頃はその重要性に関して、黒澤明と並ぶ名声を持っていた。小津安二郎が世界的に「発見」されるのは70年代以後で、60年代から70年代の政治の季節には「変革の文化人」を映画部門で代表する存在が大島渚だったのである。僕は大島渚の映画監督作品は全部見ている。
大島は京大法学部を卒業して1954年に松竹に入社した。戦前の映画監督には大学卒が少ないが、戦後になって一大産業になった映画会社は、大卒の助監督を取るようになった。同じ松竹の山田洋次や吉田喜重は東大、篠田正浩は早大(陸上部で箱根駅伝出場)である。大島は京大では学生運動の中心にいて、京都府学連の「輝ける委員長」だった。「京大天皇事件」や京都女子大民主化運動(木下恵介の名作「女の園」のモデルになった大学紛争)の時代である。そういう経歴の青年でも映画会社は受け入れたのである。その時代のことは「体験的戦後映像論」に興味深く書かれている。
松竹は若手助監督にシナリオを書かせるが、大島もいっぱい書いては同人誌を作って「監督昇格運動」をしていた。1950年代末期に世界ではゴダールなど「ヌーベルバーグ」と言われる新しい世代が登場していた。日本でも他社では増村保造、岡本喜八らがスピーディでエネルギッシュな作品を撮り始めていた。松竹と言えば小津や木下恵介で、「大船調」と言われた女性映画で知られた。だんだん不振になっていき、会社は若手監督の抜てきに踏み切る。その最初が大島の第1作「愛と希望の町」(1959)という中編である。シナリオの原題は「鳩を売る少年」で、映画化に際し「愛と怒りの町」としたが会社に退けられ、次の「愛と悲しみの町」も却下、最後に「愛と希望の町」になった。「愛も希望もない町」を描く中味と正反対の題名に変えられたのである。
川崎の貧民街に住む少年とブルジョワの少女の触れ合いをリリカルにも描いているが、それ以上に「言語による明晰な階級対立関係」を描いている。最初から大島渚の特色ははっきりしていたし、会社との対立も存在したのである。60年になると大ヒット作「青春残酷物語」(1960)を作った。大学生と女子高生の「無軌道な青春」をスピーディに描き切り、今見ても新鮮である。この時代は「純潔」が一番叫ばれた時代なのだが、若者の性を大胆に取り上げたことでも大問題作だった。当時大島と交際を始めていた小山明子は、兄から「お前も映画のようにやられちゃったのか」と木場で結ばれる有名な場面を話題にされたと書いている。それくらいショックを与えたのである。
(青春残酷物語)
その大ヒットに続いて「太陽の墓場」を作り、これも話題になる。大島以外にも次々と新人監督が登場し、「松竹ヌーベルバーグ」と言われた。60年の最後に大島は安保闘争の総括である「日本の夜と霧」を作った。これは世界映画史上、大手映画会社で製作された一番政治的に過激な映画だろう。会社には概要だけ示して急いで作ってしまったらしい。ここでは日本共産党の「50年代問題」と、学生運動の中のスターリン主義批判を正面から取り上げた。共産党をさらに左から批判するという、後に「新左翼」と言われる問題意識である。安保闘争を通して、古い世代の渡辺文雄と若い世代の桑野みゆきが結ばれ、その結婚式に招かれざる客が現れる。こうして結婚式が大演説大会となり、過去を暴く「公開裁判」となるのであった…という卓抜な設定。「儀式」に直接つながる設定である。
今見直すと、早撮りの技術的難点も見受けられるが、戦後左翼運動の暗部を見つめる「暗いロマンティシズム」が魅力的だ。登場人物が皆沈鬱で、過去の古傷に塩をすり込むように語り合う不思議な世界。僕はこの暗さが昔から好きで、何度も見ている。後に東條英機を演じた津川雅彦が、安保世代の活動家として先輩党員を大批判しているのがおかしい。この映画は公開4日目に起こった、社会党の浅沼稲次郎委員長暗殺事件によって会社側により公開中止とされた。その直後に大島と小山明子の結婚式があり、これが映画のような会社批判の大演説大会となり、大島は松竹を退社する。
大島はテレビでドキュメントを作ったり、他社に招かれて作ったりしたが、基本的には自分が中心になって設立した独立プロ「創造社」に拠って前衛的映画を作り続けた。中には松竹で公開された作品もある。僕は武田泰淳原作の「白昼の通り魔」(1966)が類を絶した傑作ではないかと思う。犯罪を主題に「戦後民主主義の欺瞞」を描くが、思想的問題性は今も生きていると思う。犯罪ドラマとして「人間の不可知性」を露出過多の画面に描く映画的完成度の高さ。今後さらに論じられる必要性があると思う。女教師役の小山明子が黒板に「自由 平等 権利」と書く場面は忘れられない。
「日本春歌考」(1967)、「無理心中日本の夏」(1967)なども興味深いが細かいことは省略。白戸三平のマンガを一コマずつ撮影した「映画紙芝居」のような「忍者武芸帳」(1967)、フォーククルセイダーズが韓国脱走兵にふんして、映画が途中で同じ場面をくり返すという奇想天外な「帰ってきたヨッパライ」(1968)など、手法的にも前衛というか、変な作品も多く、今後の再評価が必要だろう。
その後はATG(アートシアターギルド)の時代で、大島の最高傑作が作られた。特に「絞死刑」(1968)、「少年」(1969)、「儀式」(1971)が傑作。なお「絞死刑」という言葉は本来はない。「絞首刑」である。この映画の造語だが、一般用語と思っている人が時々いるようだ。有名な在日朝鮮人死刑囚をモデルにして、「失敗した死刑執行」という奇想天外な想定で戦後日本思想史をあぶりだす傑作脚本。去年見直して、その面白さは今も生きていると思った。
「少年」は当たり屋事件を起こして日本中を回る鬼夫婦と少年二人を哀切に描くロード・ムービー。僕の一番好きな作品だ。「新宿泥棒日記」(1968)も当時の新宿を取り入れて、懐かしい風景と人物に会えて面白いが、映画として大傑作ではないだろう。「東京戦争戦後秘話」(1970)も成功はしていないが、今見直すと「東京風景映画」かつ「映画オタク青年映画」という意味が出ているかもしれない。
(少年)
「愛のコリーダ」(1976)は阿部定事件をモデルにして、実際に性交場面を取ったまま国内では現像せずフランスに持っていって完成させたフランス映画。そういうやり方があるのか、さすが国際的監督だとビックリした。面白くないわけではないのだが、田中登監督のロマンポルノ「実録阿部定」の方が短くてコンパクトでいいんじゃないか。続く「愛の亡霊」(1978)はカンヌ映画祭監督賞。これは人間の業を見つめて、僕は後期では最高の出来ではないかと思う。
「戦場のメリー・クリスマス」(1983)は坂本龍一、ビートたけし、デヴィッド・ボウイというキャストがすごい。日本の捕虜収容所を舞台に文化の衝突を描く。非常に興味深いし、これが最高傑作という人がいるのも判るのだが、僕は何が言いたいのか今一つ判らない感じがした。2回見たが同じ感想。BC級戦犯の問題は、いろいろ調べたこともあるので、なんだか知ってることしか出てこない感じがしてしまう。フランス映画「マックス・モン・アムール」(1987)は何で作ったのかよく判らない失敗作。チンパンジーと人間との間の愛というテーマは人によっては重大なのか。最後の「御法度」(2000)は新選組を描く。面白くないわけではないのだが、エネルギーは枯渇気味だったと思う。ニュースでは「コリーダ」「戦メリ」「御法度」などを取り上げていたが、「絞死刑」「少年」などが最高傑作である。(なお、2012年5月に「小山明子映画祭と大島渚の映画」を書いた。重複もあるが関連性があるので参考に。)
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