尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

サマセット・モームを読む

2016年01月20日 22時59分23秒 | 〃 (外国文学)
 年初からしばらく、たまったサマセット・モームの本を読みふける。特に理由はないんだけど、もともと大好きでたくさん読んでいる。一時は翻訳が減ったものの、最近でも文庫で新訳が出たりする。その度に買っておくが、何冊かまとまったのでそろそろ読もうかな。何となく、ミステリーも新書や…に飽きてくると、古典的な「面白い物語」に体が飢えているような気がしてくる。

 サマセット・モーム(William Somerset Maugham 1874~1965)は、20世紀イギリスでもっとも読まれた作家ではないか。生前は大人気で、85歳で日本を訪れた時は大歓迎を受けた。日本で発行された世界文学全集では、モームに1巻どころか、時には2巻も割り当てた。英語が判りやすいし、物語性に富むから、日本の大学の授業なんかでも、よく使われていた。そういう思い出がある人が多くて、最近はモーム人気が復活しているようだ。僕自身も大学でモームを読んだ記憶がある世代である。
(サマセット・モーム)
 昔からモームは好きで、代表作の一つ「月と六ペンス」なんか3回も別の翻訳で読んでいる。(龍口直太郎訳の旺文社文庫、中野好夫訳の新潮文庫旧版、行方昭夫の岩波文庫。)最近も土屋政雄訳の光文社古典新訳文庫、金原瑞人訳の新潮文庫と新訳が出ているが、さすがにそこまではいいかなと思って読んでない。ゴーギャンの人生にインスパイアされた物語で、最初は何だろうと思うところもあるが、途中から止められなくなる。モームほど「俗物」をうまく描く作家はいないのではないか。(ただし、ラスト近くのハンセン病に関する設定は、今となっては疑問が残るところだ。)

 最高傑作は、もう間違いなく「人間の絆」(Of Human Bondage、1915)で、第一次世界大戦中に発表されたから評価が遅れたけど、今はモームに止まらず、世界文学史上の大傑作と認められている。モームが自分の心の救済を目的に書いた作品だけど、フィクション化と物語性が非常にうまくできている。文庫本3冊の長い作品だが、途中から長さを意識せず、主人公の運命に一喜一憂する。それでいて、人生とは、愛とは…と深く考えさせる内容で、ひたすらすごい小説。新潮、岩波の両文庫にある。長いけど面白くて読書の楽しみを満喫できるのは、「人間の絆」とスタンダールの「赤と黒」だと思う。

 ところで、今挙げた二作は今回は読んでない。モーム傑作選「ジゴロとジゴレット」(金原瑞人訳、新潮文庫)が昨年9月に出た。新潮には「雨・赤毛」という「南海もの」が生き残っているので、それ以外の作品が選ばれている。この本がまず読みたかった。岩波文庫に「モーム短編集」が上下で入っていて、同じ作品も多いんだけど、忘れているし面白いから別訳で何度も読みたい。「マウントドラーゴ卿」とか「ジェイン」は、どのモーム短編集でも選ばれる。「俗物性」に関する観察がこれほど鋭いということは何なんだろうか。ものすごく面白い。でも皮肉ばかりではなく、「サナトリウム」のように人間性の善なる側面も捉えられている。これは数多い「結核サナトリウム小説」の中でも大傑作だろう。

 だけど、皮肉または暖かな目で見つめるだけではない視点があるのが「征服されざる者」で、第二次大戦中のフランスでドイツ兵に犯された女性を描いている。「戦時性暴力」をこれほど厳しく見つめている作品が書かれていたとは…。「アンティーブの三人の太った女」という短編も、南仏のリゾートで遊びながらダイエットを考える女たちの話で、現代日本でこそ面白く読める話だろう。欧米に憧れていた時代が終わり、世界文学の読み方も変わってくる。モームの現代性がここにある。

 「お菓子とビール」(1930)は、昔新潮文庫で「お菓子と麦酒」を読んだ時にはよく判らなかった。今度、行方昭夫新訳の岩波文庫を読んで、初めて判った気がした。筋書きだけはつかめるのである。だけど、それがどんな意味を人生上に持つのか、主人公の思いが読んでいて沁みとおってくるには、ある程度の年齢が必要なのではないか。有名作家が亡くなり、故人と若い時に関わりがあった者として、「悪妻」とされる有名作家の前妻を思い出す。その思いの深さ、せつない思いが今の方が僕に判る気がする。モデル問題が解説で触れられていて、よく判った。モーム自身が一番好きな小説だというが、それはモデル問題も関わっているらしい。この小説から読むと、モームが遠くなると思う。短編や「人間と絆」を読んで、「お菓子とビール」は後に取っておくほうがいい。

 ちくま文庫で、モームの新訳がずいぶん出ている。ちくま文庫は、かつてモーム・コレクションとして10冊近く出していたと思う。僕はそれを全部読んでいる。新潮文庫でいっぱい出ていた短編集がほぼ絶版になってしまたのだが、その代わりにちくまが出してくれた。だけど、それもかなり品切れ中。また出して欲しいと思う。12月に「片隅の人生」が出て、これは読んでない本だから、すぐに買った。「南海もの」ただ一つの長編だという。中国の福建省・福州で貧しい中国人の中で眼科医をしているサンダース医師。大富豪に招かれて、南海の島(マレー列島の「タカナ島」という架空地名)に行く。そこに謎の帆船が到着し、ニコルズ船長とフレッド青年が乗っている。船中で、また寄港した島で、サンダース医師は「人間観察」をする。だから、設定がこっている割にはアクションは少なく、人間性をめぐる内面劇となっている。そこがいかにもモームらしく面白いが、やはり最高傑作レベルではない。

 それより2001年に出てまだ読んでなかった「昔も今も」が面白かった。1946年に出た最後から2番目の長編で、ルネサンス期のイタリアが舞台。主人公はかの「君主論」のマキアヴェリ。フィレンツェ共和国の外交官として、チェーザレ・ボルジアのところに派遣される。その外交的駆け引きとともに、「恋のかけひき」にも熱中するのがいかにもイタリア人。そのやり取りが素晴らしく面白く、何だこれはと思いながら読んで行くと、ラストで落ちがある。ルネサンス期イタリアは教皇領やヴェネツィア、フィレンツェ、ナポリ王国などにフランス、スペインなどが絡み、訳が分からないほど複雑。この小説も地名が厄介だけど、地図が付いている。日本で言えば「秀吉と利休」(野上弥生子)といった具合かと思うが、「政治」なるものの構造を観察するモームの目はさすがに冴えている。

 ついでに2014年に出た「女ごころ」の新訳(ちくま文庫)。これは前に新潮文庫で読んでいる。第二次大戦前のフィレンツェで、山荘を借りて住む若き英国未亡人をめぐる恋のさや当て。いつ読んでも面白い中編だが、展開をほとんど忘れていたので、こうなるんだと驚き。

 最後に、岩波文庫で続々と新訳を出してきた行方昭夫(なめかた・あきお)氏の「モームの謎」(岩波現代文庫、2013)。モームの人生と小説の謎が現時点での研究成果をもとに解明されている。結局、「同性愛者」だったことをいかに隠し続けたかがポイントなのである。「同性愛」というより、多分「両性愛」なのかと思うが、「秘書」として長年関わった男性がいた。それを隠すためにさまざまな制約があった。1930年ごろまで、イギリスを代表する人気劇作家で、多くの舞台劇を書いてお金も儲かったが、ある時期から受けるためのコメディを書かなくなる。そして南仏リヴィエラ海岸に大邸宅を建てて住みつく。それもアメリカ人の「秘書」が英国で同性愛を理由に「国外追放」となって英国に入国できなかったのが最大の理由らしい。アンドレ・ジッドやフォースターなど当時の作家にも同性愛が多いが、それらは生前は隠されていた。日本でも、大人気だった戦後の一時期には、性的志向の問題は全く触れられなかった。問題意識の外だったのだろう。「皮肉屋の女嫌い」なんだと思われていた。だけど、けっして「女嫌い」ではないことが行方著で判る。嫌いなのは「俗物」で、俗物男性を描いても人は当然だと思うが、俗物女を徹底的に厳しく見つめると、人は「女嫌い」などというのである。他にも、第一次大戦中に英国情報部に頼まれスパイ活動を行ったことは、「アシェンデン」という短編集で有名だが、実像はどんな様子だったのかとか、日本旅行の実際などいろいろ興味深く書かれている。モームの人生を判りやすく伝える名著で、納得できる点が多い。なるほどこれがモームの実像か。
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6 コメント

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Unknown (日本モーム協会会員)
2016-01-21 08:55:25
初めまして。
素晴らしいモーム評だと感動し、勝手ながらFacebook「サマセット・モーム倶楽部」でシェアさせていただきました。
「日本モーム協会」ブログにもぜひ一度お立ち寄りください。
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ありがとうございます (ogata)
2016-01-21 20:36:45
 いやあ、大好きなモームを読んで勝手に書いただけなのですが、日本モーム協会の方の目に留まるとは、ちょっとビックリです。ぜひ、多くの人に、モームの本に触れてもらいたいなあと思ってます。そりゃあ、今では古くなった部分もありますが、「人間観察」は古びてないでしょう。

 ところで、「片隅の人生」でサンダース医師が、最後に信条を問われて「あきらめ」と答えます。これは諦めて何もしないという意味ではないと僕は思うんだけど、若い時に読んだら、多分反発したかもしれないと思います。でも、年取ってきて読むと、なるほどと思うところがあるなあと思う。だって、人生で何もかもを実現させることはできないのは、よく判ってしまっているのだから。それどころか、もう二度と会えない人やペットのことをどう考えればいいのか?

 ところで、僕は「かみそりの刃」が大好きなのですが、ちくま文庫でぜひ再刊して欲しいと思います。若い人はなかなか手に取らないかもしれないけど、読めば共感すると思います。電子書籍でもいいけど。
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モーム伝記の決定版 (伊勢田 和良)
2016-01-25 09:13:11
2,010年にSelina Haistingsの "The Secret Lives of Sommeset Maugham"が発表されています。
モームの未公開だった膨大な私信、記録をもとに集大成ともいうべき伝記です。
今後も、ここまで詳細なモーム伝記は出ないでしょう。
男色家で若い頃からイタリア、スペインに男を買いに出かけていることも書かれています。
男の愛人を秘書にしていたのは周知です。
読み応えがありますが、残念ながら日本語に翻訳出版される予定はありません。
行方昭夫先生にあった時に、聞きましたが、残念ながら翻訳出版はないだろうというお答えでした。
やはりモーム人気は、もう下火だと実感しました。
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モームの伝記 (日本モーム協会会員)
2016-01-26 09:24:28
恐らく、Selina Haistings著“The Secret Lives of Sommeset Maugham”の翻訳は出ないと思いますが、この伝記を踏まえた行方昭夫著『モームの謎』(岩波現代文庫)は一読の価値があります。
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「モームの謎」は (伊勢田 和良)
2016-01-27 14:38:17
ポイントを押さえ、うまくまとめられています。
私も、読みましたが、詳細さ、緻密さ、ボリューム、それに何より驚愕の事実の数々の羅列で、ちょっと比較にならないと考えます。
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初めまして (菊地喜平(日本モーム協会会員))
2020-01-21 15:36:42
尾崎様の記述を読ませて頂きました。 私は日本モーム協会会員です。 ただいまモームに関するノン・フィクション、The Nuclear Fushion, William S. Majgham and I を英語で執筆中です。 若しお読みいただければ幸甚です。 メイルアドレスをお伺い出来れば、送信させて頂きます。
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