尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』ーコーマック・マッカーシーを読む②

2023年10月27日 22時31分40秒 | 〃 (外国文学)
 「コーマック・マッカーシーを読む」の2回目は、『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』(No Country for Old Men、2005)について。『ザ・ロード』の前作で、2007年にコーエン兄弟によって映画化された。映画はアカデミー賞で作品賞、監督賞など4部門で受賞し、日本でも2008年に『ノー・カントリー』の題で公開されキネマ旬報ベストワンに選出された。翻訳は最初「扶桑社ミステリー文庫」から『血と暴力の国』の名で刊行され、2023年に改訂のうえハヤカワepi文庫で再刊された。もとの文庫も読んでいるけど、大分前のことでほぼ忘れた。映画も公開時に見たままで、傑作だったことしか覚えていない。
 
 当初ミステリー専門文庫で刊行されたように、この小説は多分マッカーシーの作品中でも一番「ジャンル小説」に近い。この小説のジャンルは、広義のミステリーだが、さらに細分化すると「犯罪小説」「ノワール小説」になる。アメリカ南部、テキサス州のメキシコに近い辺り、麻薬に絡む抗争と思われる殺人が起きる。トラックに数多くの死体があり、現場に遭遇したヴェトナム帰還兵が金をさらって逃げる。それを回収しようとして男が追ってくる。その逃げる男、追う男の追跡劇が主筋となる。ところがストーリーの間に、その地域の保安官を務める人物の語りが入る。次第に長くなっていて、主筋よりそっちが心に響いて終わる。
(映画『ノー・カントリー』)
 題名はイエーツの詩から取られたというが、「老人の住む国はない」といった意味である。(だから映画の邦題は「国はない」だけになってしまい、意味が通じない。)第2次世界大戦に従軍した経歴がある保安官エド・トム・ベルは、「最近はおかしな世の中になった」と慨嘆している。小説内の時代は1980年である。インターネットやスマホが現れた21世紀は、ますますおかしくなったと言うべきか。昔いっぱい作られた日本のヤクザ映画でも、大体古いタイプの主人公は「最近の若いもんは仁義を忘れている」などと言う。あからさまに金儲けや殺人を行うのは、悪党の中でも尊敬されないことだった。

 しかし、新世代になると「麻薬」に平気で手を出すし、殺人にもためらいがない。これは映画『ゴッドファーザー』シリーズでも同じような描写になっていた。ビジネスであれ、学問であれ、昔とは大きく違ってしまったという「嘆き」のようなものは、いろいろと描かれてきた。ところで、この小説で際立っているのは、金回収を行うアントン・シガーという人物が「凄すぎ」なのである。映画ではハビエル・バルデムが圧倒的な存在感を見せ、2007年のアカデミー賞助演男優賞を獲得した。(スペイン人として初。なお、妻のペネロペ・クルスも翌2008年にアカデミー賞助演女優賞を得ている。結婚は2010年だが。)
(映画のアントン・シガー)
 このシガーという殺し屋をどう理解するべきか。この小説はそこにすべてがある。娯楽としてのミステリーにしては、異形にすぎるのである。殺し方(あるいはコインの裏表で殺害実行の可否を被害者に決めさせる場合もある)が異常すぎるというのもある。対象を見つける手段も、その当時最新のハイテクを駆使しているが、それだけでは理解出来ないぐらい凄い。しかも、ミステリーなら「合理的な解決」がラストに示されるべきだが、この小説はそうはならない。最後にシガーがどうなったか不明だし、完全すぎる悪役は皮肉すぎる「事故」に見舞われる。

 そこでこの小説は「神」あるいは「悪魔」を描いているという解釈が出て来る。人間はひょんなことから「悪」に染まる。それを「神の手」が追ってきて、逃れることが出来ない。神あるいは悪魔のように見える「完璧な悪党」であってさえ、やはり「神の手」の上で踊っている存在なのか。そういうことを考えさせられるのである。あまりにも血が流れるし「痛い」(肉体的に)描写が多いので、多くの人に勧めて良いかと迷う小説だが、一貫して「暴力」を突き詰めたマッカーシーのひとつの頂点だろう。
(『チャイルド・オブ・ゴッド』)
 ここで長編第3作の『チャイルド・オブ・ゴッド』(1973)にも触れておきたい。これはアパラチア山脈近辺のプア・ホワイトが連続殺人者になる話である。いつの時代かと思うと、60年代半ばの実話がモデルだと後書きに出ていた。主人公の内面が全く描かれず、これぞ「ハードボイルド」という小説で、僕にはよく判らないところが多かった。まだ作家として完成していない時期なのかと思う。ここでも暴力が描かれ、あまりにも悲惨、残酷な描写が多い。それを「神の子」と題するところなど、やはり作家の関心は「暴力を通して神を考える」という点にあるのだろう。非常に高く評価する人もいるらしいが、他文化に属する者としては理解するための材料がなさすぎて困った。
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