新宿末廣亭9月中席は昼夜通じて「古今亭志ん生没後五十年追善興行」をやっている(20日まで)。合わせて志ん生長男の10代目金原亭馬生没後40年、次男古今亭志ん朝23回忌、2代目古今亭円菊13回忌を追善すると同時に、一門の五街道雲助人間国宝認定記念まで加わった。これは行ってみたいなと思って、14日に久しぶりに末廣亭に行った。夏に行きたい寄席はいっぱいあったのだが、喪に服していたわけでもないけど、忙しいからしばらく控えていた。

朝日新聞の記事によると、この「大法事年」に気付いたのは、古今亭菊之丞で、11代目金原亭馬生と相談して企画したという。その菊之丞が二つ目2人に続き、早くも3人目に出て来る。幇間(ほうかん=太鼓持ち)が主人公の「法事の茶」という噺。不思議な茶を手に入れた幇間が客の前で茶をよく焙じると、アラ不思議、念じた人物が出て来る。歌舞伎役者の中村歌右衛門に続いて古今亭志ん生が出てくる。要するに物真似だが、さらに先代林家正蔵や立川談志などが出て来る。一端そでに引っ込んで、それらしき雰囲気で出直してくる。客席は大受けだった。よく焙じないとダメなお茶である。
(古今亭菊之丞)
前座は別にして、一番最初が金原亭杏寿、続いて桃月庵黒酒と二つ目。次が菊之丞で、それから金原亭駒三(「替わり目」=酔っ払いと車引きの噺)、桂やまとに代わって古今亭菊千代(「たぬき」)、漫才の笑組をはさんで、古今亭志ん雀、2代目金原亭馬の助(「九年母」)と、古今亭一門には色物が少ない。中入り前の3代目古今亭円菊の頃には疲れていてウトウト。泥棒の噺だったと思うけど。この一門は本格派で古典が多いんだなと判った。
「お中入り」を経て、その後は座談会である。ここだけ最後に写真撮影が可となった。毎日ゲストが出て来るらしいが、この日はゲストなし。下の写真で左から、古今亭菊春(司会)、五街道雲助、金原亭馬の助、古今亭円菊の4人。志ん生は何しろ没後半世紀経ってるので、知ってる人が少ない。五街道雲助は1968年に金原亭馬生に入門したから大師匠の晩年を少しは知ってるはずだが、あまり語らなかった。金原亭馬の助は1965年に初代馬の助入門なので、一番古い。志ん生晩年には上野鈴本で幕引きをした話などおかしかった。志ん朝は打ち上げ途中で、皆が麻雀していると二階へ上がって稽古していたという。16日夜には池波志乃(先代馬生の娘)、中尾彬夫妻も出るという。
(座談会の様子、左から二人目が五街道雲助)
全員書いても仕方ないが、古今亭菊春(「お花半七」「宮戸川」前半=親から締め出しをくった男女)、古今亭菊太楼(「まんじゅうこわい」)、合間に奇術の松旭斎美登・美智、漫談のぺぺ桜井が出て、いよいよトリの五街道雲助である。今日は若手も多かったが、トリとなると、いやさすがに「人間国宝」(重要無形文化財保持者)、「レベチ」だなと思った。演目は「抜け雀」という貧乏絵師が貧乏宿屋に泊まって、宿代代わりに雀の絵を描くと、その雀が朝に絵から抜け出て餌を取り、また絵に戻るという不思議…。口跡がはっきりしてて、聴いていて耳に快い。何度も聴いてる雲助だが、改めて名人だなと思った。
(五街道雲助)
僕の若い頃から、何度か落語や漫才のブームがあった。その中で落語の「昭和の大名人」と言えば、桂文楽(8代目)、古今亭志ん生(5代目)が挙げられる。文楽は1971年、志ん生は1973年に亡くなったから、もちろん僕はナマで聴いたことはない。でも、そういう名人が亡くなって大ニュースになったのは覚えている。その後、志ん生長男の10代目金原亭馬生(1928~1982)、次男の3代目古今亭志ん朝(1938~2001)が思わず早く亡くなって、古今亭一門が地盤沈下したのは否定出来ない。特に志ん朝は存命ならば志ん生を襲名した上で、人間国宝に加えて東京落語界初の文化勲章も夢じゃなかっただろう。
(古今亭志ん生)
(古今亭志ん朝)
僕もよく知らないので、主にウィキペディアで調べてみる。古今亭一門では弟子が「古今亭」を名乗っていない人も多い。代表が長男の金原亭馬生だが、その弟子に五街道雲助(6代目)、むかし家今松(7代目)、吉原朝馬(4代目)などがいて、落語に詳しくないと一門とは判らない。その雲助の弟子が、桃月庵白酒(3代目)、隅田川馬石(4代目)、蜃気楼龍玉(しんきろう・りゅうぎょく、3代目)で、今後の東京落語界を担う人材が育っている。亭号が違うから師弟関係が判りにくいが。
(志ん生と馬生)
もう一人、馬生、志ん朝らの弟弟子にあたる2代目古今亭圓菊(1928~2012)の系譜で、本人が長生きしたこともあって弟子も多い。その中には、息子の3代目古今亭圓菊や女性真打第1号の古今亭菊千代などがいる。その下に古今亭菊之丞がいて、一番下の弟子が古今亭文菊。この二人は古今亭一門の中心になっていくだろう。志ん生といえば、貧乏と大酒が伝説になっている。そのDNAを受け継ぐのか、馬生、志ん朝だけでなく、病気で早く死んだ人が多い。そのため、どうも東京の落語家と言えば、柳家とか林家、あるいは三遊亭、春風亭といった名前がすぐ浮かぶ人が多いのではないか。志ん生を受け継ぐ一門もいるぞという追善興行である。


朝日新聞の記事によると、この「大法事年」に気付いたのは、古今亭菊之丞で、11代目金原亭馬生と相談して企画したという。その菊之丞が二つ目2人に続き、早くも3人目に出て来る。幇間(ほうかん=太鼓持ち)が主人公の「法事の茶」という噺。不思議な茶を手に入れた幇間が客の前で茶をよく焙じると、アラ不思議、念じた人物が出て来る。歌舞伎役者の中村歌右衛門に続いて古今亭志ん生が出てくる。要するに物真似だが、さらに先代林家正蔵や立川談志などが出て来る。一端そでに引っ込んで、それらしき雰囲気で出直してくる。客席は大受けだった。よく焙じないとダメなお茶である。

前座は別にして、一番最初が金原亭杏寿、続いて桃月庵黒酒と二つ目。次が菊之丞で、それから金原亭駒三(「替わり目」=酔っ払いと車引きの噺)、桂やまとに代わって古今亭菊千代(「たぬき」)、漫才の笑組をはさんで、古今亭志ん雀、2代目金原亭馬の助(「九年母」)と、古今亭一門には色物が少ない。中入り前の3代目古今亭円菊の頃には疲れていてウトウト。泥棒の噺だったと思うけど。この一門は本格派で古典が多いんだなと判った。
「お中入り」を経て、その後は座談会である。ここだけ最後に写真撮影が可となった。毎日ゲストが出て来るらしいが、この日はゲストなし。下の写真で左から、古今亭菊春(司会)、五街道雲助、金原亭馬の助、古今亭円菊の4人。志ん生は何しろ没後半世紀経ってるので、知ってる人が少ない。五街道雲助は1968年に金原亭馬生に入門したから大師匠の晩年を少しは知ってるはずだが、あまり語らなかった。金原亭馬の助は1965年に初代馬の助入門なので、一番古い。志ん生晩年には上野鈴本で幕引きをした話などおかしかった。志ん朝は打ち上げ途中で、皆が麻雀していると二階へ上がって稽古していたという。16日夜には池波志乃(先代馬生の娘)、中尾彬夫妻も出るという。

全員書いても仕方ないが、古今亭菊春(「お花半七」「宮戸川」前半=親から締め出しをくった男女)、古今亭菊太楼(「まんじゅうこわい」)、合間に奇術の松旭斎美登・美智、漫談のぺぺ桜井が出て、いよいよトリの五街道雲助である。今日は若手も多かったが、トリとなると、いやさすがに「人間国宝」(重要無形文化財保持者)、「レベチ」だなと思った。演目は「抜け雀」という貧乏絵師が貧乏宿屋に泊まって、宿代代わりに雀の絵を描くと、その雀が朝に絵から抜け出て餌を取り、また絵に戻るという不思議…。口跡がはっきりしてて、聴いていて耳に快い。何度も聴いてる雲助だが、改めて名人だなと思った。

僕の若い頃から、何度か落語や漫才のブームがあった。その中で落語の「昭和の大名人」と言えば、桂文楽(8代目)、古今亭志ん生(5代目)が挙げられる。文楽は1971年、志ん生は1973年に亡くなったから、もちろん僕はナマで聴いたことはない。でも、そういう名人が亡くなって大ニュースになったのは覚えている。その後、志ん生長男の10代目金原亭馬生(1928~1982)、次男の3代目古今亭志ん朝(1938~2001)が思わず早く亡くなって、古今亭一門が地盤沈下したのは否定出来ない。特に志ん朝は存命ならば志ん生を襲名した上で、人間国宝に加えて東京落語界初の文化勲章も夢じゃなかっただろう。


僕もよく知らないので、主にウィキペディアで調べてみる。古今亭一門では弟子が「古今亭」を名乗っていない人も多い。代表が長男の金原亭馬生だが、その弟子に五街道雲助(6代目)、むかし家今松(7代目)、吉原朝馬(4代目)などがいて、落語に詳しくないと一門とは判らない。その雲助の弟子が、桃月庵白酒(3代目)、隅田川馬石(4代目)、蜃気楼龍玉(しんきろう・りゅうぎょく、3代目)で、今後の東京落語界を担う人材が育っている。亭号が違うから師弟関係が判りにくいが。

もう一人、馬生、志ん朝らの弟弟子にあたる2代目古今亭圓菊(1928~2012)の系譜で、本人が長生きしたこともあって弟子も多い。その中には、息子の3代目古今亭圓菊や女性真打第1号の古今亭菊千代などがいる。その下に古今亭菊之丞がいて、一番下の弟子が古今亭文菊。この二人は古今亭一門の中心になっていくだろう。志ん生といえば、貧乏と大酒が伝説になっている。そのDNAを受け継ぐのか、馬生、志ん朝だけでなく、病気で早く死んだ人が多い。そのため、どうも東京の落語家と言えば、柳家とか林家、あるいは三遊亭、春風亭といった名前がすぐ浮かぶ人が多いのではないか。志ん生を受け継ぐ一門もいるぞという追善興行である。