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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「金大中事件」から50年、歴史の中で考える

2023年08月11日 21時52分50秒 |  〃  (国際問題)
 ちょっと時間が経ってしまったが、2023年8月8日は「金大中事件」(金大中氏拉致事件)が起きてから50年になる日だった。当時金大中(以下敬称略)は東京のホテルグランドパレスに滞在していて、1973年8月8日午後1時19分頃に2212号室を出たところで、6、7人の男たちに取り囲まれて拉致された。今ではこれは韓国中央情報部(KCIA)による作戦だったことが確認されている。金大中はそのまま行方不明になったが、拉致から5日後にソウルの自宅近くで解放され、自力で自宅に戻った。
(解放直後に自宅で記者会見する金大中)
 金大中は1971年4月27日に行われた韓国大統領選挙で、現職の朴正熙大統領に対抗して野党「新民党」から立候補して大善戦した。最終的に公表された結果は、朴正熙が634万票(53.2%)、金大中が539万票(45.3%)だったが、金大中は自由な選挙運動が出来なかったと言われる。首都ソウルでは金大中が6割近くを得票して、朴大統領に衝撃を与えた。朴正熙は61年に軍事クーデタで権力を得た後に大統領になったが、3選禁止の憲法を改正して権力維持を図ったことに批判が強かったのである。
(今は解体されたホテルグランドパレス)
 選挙当時45歳だった金大中は「韓国のケネディ」と呼ばれて、国際的に知られるようになった。選挙戦中にトラックが車に突っ込んで運動員が死亡する事故が起きて、金大中も腰や股関節に傷害を負った。(これはKCIAによる暗殺未遂事件だったことが判っている。)選挙後は政権側の攻撃を避けるため、ケガ治療を目的として日本やアメリカに滞在していた。そして、そのまま事実上の亡命生活を続け、海外から韓国の民主化運動を続けていた。日本では金大中を支持する韓国人らがガードしていたし、宇都宮徳馬(自民党左派の政治家)ら支持する政治家らがサポートしていた。

 この事件に関しては、今も多くの謎が残されている。拉致そのものの経過も不思議なことが多いが、韓国への連行途中にヘリコプターが警告の照明弾を投下したという経緯は解明されていない。日韓両国は海で隔てられているから、船で連れて行くしかない。関西まで車で行って、神戸港から密出国したと言われている。その後、どのような経過によるものか、日本の海上保安庁(ウィキペディアにはそう出ている)のヘリに警告されたという。単に「不審船」ということではなく、事件を危惧していたアメリカ政府筋の連絡という観測が事件直後からある。何にせよ、この警告で金大中を殺害せずに韓国に連行したと言われている。
(ノーベル平和賞を受賞した金大中)
 金大中はその後の何度もの弾圧を生き延び、韓国が民主化された後に1998年から2003年まで大統領を務めた。初の南北首脳会談や日本との関係改善などが評価され、2000年にノーベル平和賞を受賞している。(現時点で韓国唯一のノーベル賞。)歴史の中で、そのようないわば「ハッピーエンド」を迎えたため、73年に起きた拉致事件は忘れられたかもしれない。金大中本人も、政権獲得後に関係者の個人的な責任追及を行わなかった。この事件は独裁政権下で独裁者が本気で不機嫌になった時、「下位の者」がどういう作戦を計画・実施するのかをよく示している。その意味で今もなお普遍的な教訓を残している事件だ。

 ところで、当時の日本政府の対応は大きな禍根を残したと思う。田中角栄首相は結局「政治解決」を2回にわたって行ってしまった。当時の警察捜査で、現場から韓国の金東雲一等書記官(これは情報関係者の仮名だったが)の指紋が発見された。警察は金書記官に出頭を求めたが、外交特権により拒否され、そのまま出国してしまった。この人はその後どういう人生を送ったのだろうかと僕は時々思い出す。最低限、この金東雲一等書記官を日本側で刑事立件することが必要だったと思う。

 何故なら、「日本政府は拉致事件に甘い対応をする」という「教訓」を「北朝鮮」に与えたと思われるからだ。日本で最初に起きた公然たる外国公権力機関による拉致事件は金大中事件だったのである。いつもなら「国家主権」を大声で叫ぶ自民党保守派も黙っていた。そもそも有名無名を問わず、日本から拉致され外国へ連行されるのは許されない人権侵害である。もっとも後に判ったことでは、ロッキード事件で丸紅からの賄賂を最初に受領したのが、1973年8月10日だった。(この認定には疑問を持つ人もある。)田中首相には他のことに関心を向ける余裕がなかったのかもしれない。
(映画『KT』)
 最後にいくつか。この事件は2002年に阪本順治監督によって『KT』という映画になった。ベストテン3位になっている。機会があったら、どこかで見て欲しい。日本側の謎、監視する元自衛官なども描かれていたと記憶する。事件の年は高校3年で、受験勉強のため奥日光の小さな宿に10日位行っていた。新聞が置いてなかったので、近くにある大きなホテルに毎日行って新聞を読んでいた記憶がある。国際問題に関心が強かったから金大中の名前はよく知っていて、事件の行方を追わずにいられなかった。

 朴大統領は大統領選後、選挙で国民の支持を取り付ける大変さから、72年10月に非常戒厳令を発して国会を解散した。その後に独裁的な「維新憲法」を公布して「維新体制」を発足させた。その中で多くの「在日韓国人」らの冤罪政治犯が生まれた。金大中事件も、このような朴正熙独裁の中で生まれたものだった。もう多くの人は忘れてしまったかもしれないが、僕は「維新」と聞くと、まずこの恐怖の独裁体制を思い出すのである。(事件の時間などはWikipediaの記載によった。)
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