尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

北条vs上杉55年戦争-戦国時代の関東③

2018年04月19日 22時53分11秒 |  〃 (歴史・地理)
 関東地方の戦国時代に関しては、その名の通りの本がある。黒田基樹「関東戦国史」(角川ソフィア文庫)である。気づいてない人も多いと思うけど、角川ソフィア文庫は最近中世史の研究書をいっぱい文庫化している。原著は2011年に出たが、副題が「北条vs上杉55年戦争の真実」である。戦史だけでなく、幅広く社会の動きにも触れており、この一冊で大体判る。

 北条氏の登場は前回書いたが、じゃあ上杉氏って何だろう。上杉と言えば、誰だって上杉謙信が思い浮かぶ。次が上杉景勝、そして江戸後期の上杉鷹山になるだろう。大名は滅びたら忘れられるので、明治まで続いた金沢の前田、仙台の伊達、鹿児島の島津…なんかの知名度が高い。上杉氏も歴史の荒波をしのいで山形の米沢で続くけど、もとは関東の一族である。

 そもそもは京都の貴族で、藤原氏(北家勧修寺流)。鎌倉幕府の6代将軍に皇族・宗尊親王が選ばれたとき、藤原重房が一緒に下向してきて武士化した。この重房が丹波の上杉荘(現・京都府綾部市)を領地としたため、上杉氏を名乗るようになった。関東で有力者と認められ、源氏一門の有力者足利氏と縁戚関係を結んだ。足利尊氏の生母は上杉氏である。室町時代の関東では、代々鎌倉公方を補佐する関東管領に任じられた。また、相模・武蔵・上野・越後などの守護に任じられた。(現在の神奈川・東京・埼玉・群馬・新潟。)

 「55年戦争」と言うのは、伊勢氏が北条を名乗り本格的に関東侵攻を開始した1523年から、上杉謙信が1578年に没して事実上関東から手を引いた時までを指している。関東は前に見たように、「享徳の乱」(1454年)から(あるいはその前からとも言えるが)長い長い戦乱の時代が続いた。そんな中でも、メイン・イヴェントとなったのが「北条・上杉戦争」である。伊勢氏が北条を名乗るのも、元は伊豆から攻めてきた「侵略者」だという印象を薄めるために、鎌倉幕府の執権・北条氏を名乗ったわけである。(やがて古河公方に認めさせて、「関東の副将軍」を自負する。)

 この長い戦争をいちいち細かく書いてるわけにはいかない。一応簡単に書くと、最初は上杉氏一族どうしの内紛も多かったけど、次第に北条氏が相模を支配するようになる。上杉氏もまとまり古河公方も加わって、1546年河越(現在の川越)の戦いで決戦が行われた。ここで関東南部を支配した扇谷上杉氏が滅亡した。ついで北条氏は上野(こうづけ・群馬県)に勢力を伸ばし、上杉本家にあたる山内上杉氏を追い詰めてゆく。1552年にはついに上杉憲政が関東を追われ、越後を事実上支配していた長尾景虎を頼って越後に落ちていった。

 この長尾景虎こそが上杉謙信である。(謙信は出家後の法名。)長尾氏は越後の守護代を務める家だが、景虎はその庶流の一族から出てほぼ越後を統一していった。1561年に憲正は景虎を養子とし、正式に「上杉姓」と「関東管領職」を譲った。関東の副将軍が二人いてはおかしいから、この後両者の長い戦いが始まる。1560年についに謙信は越境して上野に攻め込みほぼ制圧する。1561年になると武蔵から相模へと兵を進め、鎌倉を押さえ小田原を包囲した。1529年に起こったオスマン帝国のウィーン包囲を思い起こさせる。
(上杉謙信)
 これは成功しなかったが、謙信は同時期に武田信玄とも戦っている。5回に及ぶ川中島の戦いは、1553年から64年にかけて行われた。当時は武田・今川・北条が三国同盟を結んでいた。1560年の桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、それが謙信の関東出兵をもたらした。ところが、1568年に信玄は駿河に攻め込み今川氏を事実上滅ぼした。同盟関係を結ぶ北条氏は激しく反発し、武田氏と断交、今度は上杉氏との同盟を求めた。その交渉の様子は興味深いが、今までどっちかについて戦っていた各地の一族は猛反発する。1569年に「越相同盟」が結ばれたが、なんだか「独ソ不可侵条約」みたいだ。これはまた壊れたりいろいろあるんだけど、もういいだろう。結局、謙信の死(1578年)以後は上杉氏の家督争いもあって、関東出兵は無くなる。
 
 これで事実上、北条氏が関東の覇権を握ったといってよい。しかし、それでも大勢力に従わない一派もある。常陸北部の佐竹氏、安房の里見氏などがそれ。米ソ陣営と距離を置く「非同盟諸国」という感じ。それにしても、一回読んだだけでは覚えられないほど多くの一族が出てきて、滅んだかと思うと再興され再び戦が始まったり…。「戦国ターミネーター」である。支配者と言っても、この段階では村を完全に押さえているわけではなく、在地領主(国人とか国衆と言われる)の力が強かった。大勢力に呑み込まれた勢力もあるが、緩衝地帯だった上野(群馬県)では、北条が強ければ従うが上杉謙信が攻めて来れば上杉方になる。武田や織田の場合も同様。重要地点が押さえられるとガラッと勢力が変わる「戦国ドミノ」で小勢力は生き抜いたのである。
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