尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「サーミの血」-スウェーデンの少数民族

2017年10月07日 21時43分12秒 |  〃  (新作外国映画)
 フィルムセンターで黒澤明監督「デルス・ウザーラ」の70ミリフィルム上映があったんだけど一回目の上映はもう満員だった。これは予想していたのに遅くなった自分が悪い。家を出るときは2回目4時でも良いつもりだったけど、間が長すぎるから他へ行くことにした。(ちなみに黒澤がソ連で撮った「デルス・ウザーラ」は、上映機会が少ないから見てない人も多いだろう。僕は公開当時見て感動したけど、それは70ミリじゃないはずだ。まあ40年前なので再見してみたかったが。)

 時間を見て、新宿武蔵野館で「サーミの血」を見てから、渋谷のユーロスペースで「米軍が最も怖れた男 その名はカメジロー」と見てきた。後者は米軍統治下の沖縄で「不屈」の抵抗運動をした瀬永亀次郎を描くドキュメント。かなり評判になったが見てなかった。丹念な取材で興味深く作られている。まあ沖縄戦後史の「常識」なんだけど、学校じゃ出てこないから「本土」ではほとんど知らない人が多いだろう。70年の本土復帰選挙で衆議院議員に当選した5人の一人である。

 ここでは「サーミの血」を紹介しておきたい。そんな映画やってるのかと知らない人も多いだろうけど、これは思った以上に傑作だった。去年の東京国際映画祭で審査委員特別賞と最優秀女優賞を取っている。北欧映画祭なんかで上映されたので名前は知ってたけど、見るチャンスがなかった。美しい風景厳しい差別、そして主人公の少女の生き方をどう考えるか、映像に引き込まれて目が離せない傑作だった。単にスウェーデンだけの問題ではなくマイノリティの在り方を考えさせる。

 「サーミ人」というのは、フィンランド、スウェーデン、ノルウェーなどの北部「ラップランド」(辺境という意味の蔑称)に住む人々のことで、主にトナカイを飼って暮らしていた。この映画は1930年代のスウェーデン北部で、サーミ人少女が集められた学校が舞台になっている。そこでは「差別」がまかり通っている。この学校を出ても進学することはできない。サーミ人の頭脳は進学に適さない。けっこう親切そうだった女性教師も冷たくそう言い放つ。時にはエライ人たちが「人類学的調査」に来る。

 冒頭に自動車で葬儀に向かう老女の姿が出てくる。妹が亡くなったらしい。その女性が「エレ・マリャ」でサーミ人らしいが、あまり葬儀にも行きたくないらしい。これが現代のシーンで、その後30年代のシーンになる。エレ・マリャは実はスウェーデンの学校へ進んで、どこかで教師をしていたらしい。今までこういうマイノリティの民族を描く映画だと、「同化」を迫る学校が「敵」で、それに抵抗して民族文化を守り抜く主人公が出てくることが多い。

 だけど、この映画が面白いのは、「同化」を選んで家族との伝統的生活を捨てた主人公が出てくること。スウェーデン社会の中で、差別や好奇のまなざしにさらされながら、「勉強ができる」主人公はスウェーデン社会を選んでいく。だけど、いつも「くさい」と言われて気にしている描写など、繊細に描かれた「差別の内面化」が痛ましい。「先住民」にも「学校」を作って少し「文明化」させる。これは全世界で共通している。支配者の言語を教えて、納税や徴兵の義務を果たせるようにする。そういう必要が「近代国家」には必要なのである。

 だけど、「学校」で文明の一端に触れると、先祖伝来の生活ではなく、文明化された生活を担いたいと思う人も出てくる。能力が劣っていると支配者側は思い込んでいるが、もちろんそんなことはないわけだから、マイノリティの中に「文明」の力を使って文化を発信したいと思う人も出てくる。この主人公は、スウェーデン人のダンスパーティにもぐりこんで、男子学生と知り合う。この主人公のありようをじっくり描いて心に響く。サーミ人の民族音楽という「ヨイク」を歌うシーンも忘れがたい。

 監督はサーミ人の父とスウェーデン人の母の間に生まれたアマンダ・シェーネル監督(1986~)という若い女性。非常に才能があると思う。主人公を演じたのは、レーネ=セシリア・スパルロク(1997~)でノルウェーで実際にトナカイ飼育に従事しているという。映画の中でヨイクを歌ったり、トナカイを捕まえたりしているのも納得。スウェーデン北部の風景やトナカイとの生活など、興味深いシーンも多い。なかなか複雑な感動を味わう映画だった。
コメント
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