人形町界隈には古い地名がいろいろ残るが、「玄冶店」がこのあたりで、碑もあると知った。読み方が判らない人がいるだろうが「げんやだな」である。一体、何のことだか判らないながら、春日八郎の大ヒット曲「お富さん」の歌詞で知った。小さい時のことで、歌詞の意味が不明である。耳で聞きとった歌詞は、「いきなくろべえ みこしのまーつに、あだな姿の洗い髪 死んだはずだよ おとみさん 生きていたとは おしゃかさまでも 知らぬほとけの おとみさん エーサオー げんやだな」で、何の意味だか不明であった。だけど、リズムがいいから、何となく口ずさんでしまう。もう少し漢字に直すと、
粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪
死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは
お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん
エーサオー 玄治店(げんやだな)
この碑は、人形町交差点の東北角(A4出口方面)の道路にある。字が道路側になってるので、ドラッグストアの前に車が停まってると見えない((案内板は歩行者側に書いてある。)「玄冶店」というのは何だろうと思うと、江戸時代初期の幕府医官・岡本玄冶の拝領した屋敷跡の地名のことで、人形町3丁目あたりのこと。「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)なる歌舞伎の演目に「源氏店」と出てくる。「お富さん」の歌詞では、元の通りの字になっている。
歌舞伎の筋を知らないと歌詞はよく判らないが、確かに「死んだ筈だよお富さん」というような話なのである。最近「お富さん」という中編歌謡映画を見る機会があったが、映画はどうってことないけど、春日八郎が出てきて、僕の世代ではよく知らないので面白かった。碑のあるところから裏へ入ると、今では人形町唯一の料亭という「玄冶店 濱田屋」がある。築地あたりにあるのと同じく、いかにも料亭っぽいつくり。大通りに戻り、少し行くと「うぶけや」という天明3年(1783年)創業という刃物屋がある。包丁、はさみの他、毛抜き、カミソリ、「諸流生花鋏各種」と何でも刃物がそろってるらしい。なにより店が古くて風情がある。
大通りの向かい側、スターバックスの前の道に、「堺町・葺屋町(ふきやまち)芝居町跡」というパネルが建てられている。このあたりは、江戸三座と言われた中村座・市村座があった。(もう一つは守田座で今の銀座にあった。)1841年に大火で焼失し、折からの天保の改革で同じ場所での再建が認められず、浅草の猿若町に移転を余儀なくされた。人形劇の結城座もここにあり、一帯に人形遣いが多く住んでいたから「人形町」という地名になったというのが定説らしい。
芝居小屋は自由には作れない。この地域に作られたのは幕府の政策によるもので、江戸時代当初の1650年前後の成立である。当時は実は「吉原」(遊郭)もここにあったという。日本橋の芳町とは、葦(よし)の生える湿地で、そういう新開地にフーゾク街ができる。それが「葦原」と呼ばれ、時代とともに吉原となる。しかし、1657年の明暦の大火で焼失し、幕府は日本橋での再建を認めず、浅草の裏に「新吉原」を移したという。この地域は江戸時代には遊郭地帯だったり、歌舞伎や人形の芝居小屋の集まる娯楽地帯だった歴史がある。
さて、人形町には施設的な場所(博物館、記念館等)がないし、お休み所みたいな場所もない。人形町だからか、辻村寿三郎のジュサブロー館というのがあるけど、今は人形教室としてしか利用していないと出ている。ということで、後の有名な場所は「甘酒横丁」なのかなあと思って、戻って交差点を渡る。「玉ひで」のある通りの向かい側に「甘酒横丁」とある。横丁だから、狭い通りに飲食店が密集してるのかと思ったら、そうではなくて結構広い通り。
入るとほうじ茶の香りがしてくる。ほうじ茶カフェとか出てる。少し行くと、「鳥忠」というお店。鶏肉や卵焼きで有名らしい。向かいの方に鯛焼きの「柳家」という店。店の中に客がズラッと並んでる。どうも入りにくい店が多いんだけど、少し行くと「亀井堂」が見えてきた。ここは前から知っている。人形焼が有名だというけど、深焼きとある煎餅がうまい。でも、店頭のポスターに首相の顔があって「再挑戦べい」なんて大々的に出てくる。買う気失せたな。
甘酒横丁をずっと歩くと弁慶像があった。解説板があるけど、読めないぐらい黒くなってる。歌舞伎で有名な町だからだと思うけど。その先に明治座があるが、そっちは別に隅田川沿いの「浜町散歩」をしたいと思う。戻る途中に「人形町志乃多寿司総本店」を見つける。いなりずし発祥の店だというけど、外見が寿司屋っぽくなくて行きには見逃した。最後に「水天宮」。水天宮というのは安産祈願で有名なところだが、現在は建替え中で仮社殿に移ってる。明治座の隣あたりにあるようだが、今回は行ってない。
工事中の写真なんか意味ないんだけど、神社の建設工事というのも珍しいかなと思って。この地域には、人形町だけでなく、地下鉄駅が小伝馬町、水天宮前、浜町、東日本橋、馬喰横山などいっぱい集中している。地下を走ってる分には関係ないから、地上の地図が全然頭に浮かばないんだけど、今回歩いて少し判った。また近辺を歩いてみたい。けっこういろいろあるようだ。
粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪
死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは
お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん
エーサオー 玄治店(げんやだな)
この碑は、人形町交差点の東北角(A4出口方面)の道路にある。字が道路側になってるので、ドラッグストアの前に車が停まってると見えない((案内板は歩行者側に書いてある。)「玄冶店」というのは何だろうと思うと、江戸時代初期の幕府医官・岡本玄冶の拝領した屋敷跡の地名のことで、人形町3丁目あたりのこと。「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)なる歌舞伎の演目に「源氏店」と出てくる。「お富さん」の歌詞では、元の通りの字になっている。
歌舞伎の筋を知らないと歌詞はよく判らないが、確かに「死んだ筈だよお富さん」というような話なのである。最近「お富さん」という中編歌謡映画を見る機会があったが、映画はどうってことないけど、春日八郎が出てきて、僕の世代ではよく知らないので面白かった。碑のあるところから裏へ入ると、今では人形町唯一の料亭という「玄冶店 濱田屋」がある。築地あたりにあるのと同じく、いかにも料亭っぽいつくり。大通りに戻り、少し行くと「うぶけや」という天明3年(1783年)創業という刃物屋がある。包丁、はさみの他、毛抜き、カミソリ、「諸流生花鋏各種」と何でも刃物がそろってるらしい。なにより店が古くて風情がある。
大通りの向かい側、スターバックスの前の道に、「堺町・葺屋町(ふきやまち)芝居町跡」というパネルが建てられている。このあたりは、江戸三座と言われた中村座・市村座があった。(もう一つは守田座で今の銀座にあった。)1841年に大火で焼失し、折からの天保の改革で同じ場所での再建が認められず、浅草の猿若町に移転を余儀なくされた。人形劇の結城座もここにあり、一帯に人形遣いが多く住んでいたから「人形町」という地名になったというのが定説らしい。
芝居小屋は自由には作れない。この地域に作られたのは幕府の政策によるもので、江戸時代当初の1650年前後の成立である。当時は実は「吉原」(遊郭)もここにあったという。日本橋の芳町とは、葦(よし)の生える湿地で、そういう新開地にフーゾク街ができる。それが「葦原」と呼ばれ、時代とともに吉原となる。しかし、1657年の明暦の大火で焼失し、幕府は日本橋での再建を認めず、浅草の裏に「新吉原」を移したという。この地域は江戸時代には遊郭地帯だったり、歌舞伎や人形の芝居小屋の集まる娯楽地帯だった歴史がある。
さて、人形町には施設的な場所(博物館、記念館等)がないし、お休み所みたいな場所もない。人形町だからか、辻村寿三郎のジュサブロー館というのがあるけど、今は人形教室としてしか利用していないと出ている。ということで、後の有名な場所は「甘酒横丁」なのかなあと思って、戻って交差点を渡る。「玉ひで」のある通りの向かい側に「甘酒横丁」とある。横丁だから、狭い通りに飲食店が密集してるのかと思ったら、そうではなくて結構広い通り。
入るとほうじ茶の香りがしてくる。ほうじ茶カフェとか出てる。少し行くと、「鳥忠」というお店。鶏肉や卵焼きで有名らしい。向かいの方に鯛焼きの「柳家」という店。店の中に客がズラッと並んでる。どうも入りにくい店が多いんだけど、少し行くと「亀井堂」が見えてきた。ここは前から知っている。人形焼が有名だというけど、深焼きとある煎餅がうまい。でも、店頭のポスターに首相の顔があって「再挑戦べい」なんて大々的に出てくる。買う気失せたな。
甘酒横丁をずっと歩くと弁慶像があった。解説板があるけど、読めないぐらい黒くなってる。歌舞伎で有名な町だからだと思うけど。その先に明治座があるが、そっちは別に隅田川沿いの「浜町散歩」をしたいと思う。戻る途中に「人形町志乃多寿司総本店」を見つける。いなりずし発祥の店だというけど、外見が寿司屋っぽくなくて行きには見逃した。最後に「水天宮」。水天宮というのは安産祈願で有名なところだが、現在は建替え中で仮社殿に移ってる。明治座の隣あたりにあるようだが、今回は行ってない。
工事中の写真なんか意味ないんだけど、神社の建設工事というのも珍しいかなと思って。この地域には、人形町だけでなく、地下鉄駅が小伝馬町、水天宮前、浜町、東日本橋、馬喰横山などいっぱい集中している。地下を走ってる分には関係ないから、地上の地図が全然頭に浮かばないんだけど、今回歩いて少し判った。また近辺を歩いてみたい。けっこういろいろあるようだ。