尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「テロ」とは何か③-仏テロ事件⑤

2015年01月31日 01時05分58秒 |  〃  (国際問題)
 ブログを書いてると読書時間が削られて困るんだけど、書きだしたので書いてしまいたいと思う。例によって、「テロとは何か」で3回も書く予定はなかったんだけど。さて、日本でも世界でも、歴史上に様々なタイプのテロ事件が起きてきた。もちろん、テロとは言わない「普通の殺人事件」も無数に起きてきた。何が違うのだろうか。僕が思うに、「テロ事件は正しい」という点だろうと思う。もちろん、「正当な行為だと主張する政治的(宗教的)集団が実行した」という意味である。犠牲者の側からすれば、どんな犯罪であれ「許せないもの」であるだろう。でも「ある背景」を持った「犯罪」を特に「テロ」と呼んでいる。

 「無差別殺人」という点では、たとえば「秋葉原無差別殺傷事件」などは、「ある意味ではテロ」と呼べる部分があるかもしれない。「社会に対する怒り」から「個人的決起」を行ったと解釈することも不可能ではないだろう。しかし、この事件はいくら考えても「普通の犯罪」としか言えないだろう。(それが良いとか悪いという評価の問題ではない。)あるいは、永山則夫の事件なども同様である。その犯罪が起きたことに社会や国家の責任があるとか、犯罪者側に「同情」すべき事情があると言った考え方はありうる。だから、その意味で「犯罪が起きた後になって振り返ってみれば、それは社会に対する一種のテロとも言えるのではないか」と「後追い解釈」の余地があるという話である。「テロ事件」というのは、どんなに卑劣でも、どんなに悲惨でも、とにかく事前に計画された「政治的目的」があり、その計画を立案した集団(個人)が存在しなければならない。

 「殺人」はどんな国家でも処罰の対象になっている。また世界の主要な宗教では「殺してはならない」という戒律を持っている。仏教もキリスト教もイスラム教も。だから、その意味では国家間、宗教間の戦争、殺し合いというのは起こらないはずなのだが、歴史上何度も何度も戦争は起きてきた。しかし、それは当然のことだとも言える。なぜなら「迫害され殺されたとしても反抗してはならない」という宗教はないし、「侵略されても自衛してはならない」という国家もないからである。つまり、自分たちの同胞は殺してはならないが、他国や異教徒が侵略してきたときには反撃しても良いと言うのが大体の集団のルールだからである。自分が悪いんだという戦争はないわけで、どんな戦争も相手の方が悪いと主張している。日本も同じで、殺人は処罰されると刑法で規定されているが、自衛隊や死刑制度は存在している。自衛戦争や死刑執行は「普通の意味での殺人ではない」と言われるかもしれないが、それはその通りだけど、「やむを得ない場合は国家権力は人命を奪うことが許される場合がある」という規定であるのも間違いない。(自衛隊も死刑制度も憲法違反だから本来は存在してはいけないと解釈したとしても、警察による緊急措置の射殺等は存在するし、その存在は認めなければならない。)

 「テロ事件」を考えてみれば、テロ事件を起こす側は必ず、「自衛戦争」か「死刑執行」かのどちらかの行為を行っていると主張している。シャルリ―・エブド襲撃事件は、「ムハンマドを風刺画に描くというイスラム教に対する侮蔑」に対する「死刑執行」であるとみなせる。もちろん、それは決して容認できない行為である。なぜならば、もともとのきっかけ(この場合はムハンマドを描くこと)が許されないことだと考えたとしても、「裁判抜きの処刑」は「虐殺」であり、かつまた襲撃組織には裁判を行う法的な正当性が認められていないからである。このテロ組織による「死刑執行」は「代理処罰」と呼ぶべきかもしれない。「神」や「民族」の名において、自分(たち)が代わって「天誅を加える」わけである。日本でも、右翼によるテロはこのタイプが多い。近年の例では元長崎市長の本島等を右翼が銃撃した事件が有名である。世界的にも、政治的、宗教的な保守派が「代理処罰」型テロを起こしやすい。今回のフランスのテロ事件も同様である。

 前回書いたアルジェリア独立戦争やベトナム戦争において、「解放勢力」側は首都において「無差別テロ」戦術を採用していたことがある。しかし、その主体となったFLN(解放民族戦線)や南ベトナム解放民族戦線(後には南ベトナム臨時革命政府)は、世界的には「事実上の政府」並みに認められるに至っていた。そのような強力な反政府組織が、世界が了解可能な政治的目的(民族独立や独裁政府の打倒など)を掲げる時、反政府組織の軍事行動は「自衛戦争」の要素を帯びてくる。少なくともそう主張された時に、むげに否定できなくなる。そうなってくると、「テロ」というより「戦争における作戦行動」と見なしうる余地が出てくるわけである。

 現代において、そういう例は存在するだろうか。パレスティナの場合はどう考えればいいのだろうか。イスラエルの建国には国連決議が存在するが、第3次中東戦争でイスラエルが占領した「ヨルダン川西岸地区」「ガザ地区」「ゴラン高原」は、占領からの引き揚げを求める国連決議がある。そうすると、世界的に正当性を認められていると言ってよいパレスティナ自治政府が、ヨルダン川西岸やガザで行う反イスラエル軍行動は「自衛」の行動ではないのだろうか。しかし、ガザ地区を選挙によって実効支配をしているハマスは、イスラエルの存在そのものを認めずイスラエル国内にロケット弾を撃ち込んだりした。これはどうなんだろうか。「自衛」ではないが、(テロではなく)「戦争行為」と見なすべきだろうか。しかし、そうすると、攻撃を受けたイスラエルの側にも「自衛権」を認めなければならなくなる。この問題は非常に解決の難しい問題になっているが、中東のすべての問題はこの問題の解決を抜きに先に進まないだろう。(また、イラク戦争の解釈も重要な問題だけど、今回は触れない。)

 一方、世界的には「テロ組織が敵とみなす欧米諸国で無差別テロ事件を起こす」ということが、最大の恐怖となっている。欧米諸国だけでなく、西アフリカ、中部アフリカ、インド亜大陸やインドネシア、中国などでもかなり起きている。(オーストラリアでも起きたが、類型上は欧米諸国と同じと考えてよい。)これは何なのだろうか。イスラム過激派勢力からは湾岸戦争以来の特に米英の対応が、イスラム教に対する戦争と見なされているということだろうか。(「イスラム国」はその欧米諸国を「十字軍」と呼んでいる。)この解決は非常に難しいと思わざるを得ない。「宗教」という要素が入ってくるからである。宗教の問題は別に考えたいと思うけど、「政治」的なテロ組織の場合は、政治的な情勢変化により「テロ」はなくなるか、テロ戦術を放棄することはよくある。政府側と協議が成立し、政治犯の釈放などと引き換えに軍事行動を停止し、自治権獲得をめぐる協定を結ぶなどという場合である。それほど簡単に進んでいる地域ばかりではないが、北アイルランド、スペインのバスク地方、スリランカ、フィリピン、インドネシアのアチェ地方など、おおよそのところ、そういう方向で進んでいると評価できると思う。

 歴史を振り返ってみると、世界的に昔は皇帝や国王、独裁的権力者などの暗殺が、一番多いテロ事件だった。近代日本でも政治家や実業家に対する「代理処罰」的な「天誅」決行は非常に多かった。また70年代半ばころまで、日本でも世界でも、極左的グループによるテロ事件(爆弾やハイジャックなど)も多数起こっていた。それらは次第に少なくなってきた。かつて事件を起こしたグループも、間違いを認めて謝罪したり、解散したところが多い。解散しなくても、左右を問わず、先進国では極めて小さなグループとなっている場合が多い。それは何故かと考えてみれば、基本的に民主主義政治が実現している社会では「テロによって政治的目的を実現する」という主張の現実性が全くないために、「政治市場」「思想市場」で「負け組」となり人的にも資金的にも新規リクルートが困難になってきたことが大きいだろう。だから、テロを防ぐ最大の方法は、民主主義(自由選挙)、言論の自由、三権分立、民族自決、少数派への寛容などが基調となる社会を実現していくということしかないだろう。

 だけど、左右のテロがほぼ無くなりかけた時代の日本で、世界宗教史上もっとも恐るべき、また奇妙な宗教テロであるオウム真理教事件が発生している。これも一種の「社会への報復」かもしれないが、われわれの社会はまだ完全には完全には理解できていないのではないかと思う。宗教テロをなくすためには、今書いたような民主的なシステムの構築だけでは有効ではないのかもしれない。これは非常に難しい問題で、僕には今答えを書けないけれど、宗教が「民主主義的な社会において、自由な宗教市場で信者獲得の自由競争を行う」というあり方に安住できるものなのだろうか。日本のような社会では、実定法に違反しない限り信教の自由が保障されるが、本来の宗教はもっと荒々しく野性的な、魅力もあれば危険もあるというものなのではないか。一神教の伝統に遠く、オウム真理教事件を起こした日本社会こそ、この「宗教とテロ」をめぐって諸宗教間の対話を進めていく格好の場所ではないか。またその責任もあるのではないか。一応、その辺りで「テロとは何か」をいったん終わりにしたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする