尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

今井正監督「山びこ学校」ー映画に見る昔の学校⑤

2012年07月04日 21時48分27秒 |  〃  (旧作日本映画)
 昨日は「山びこ学校」を見た。フィルムセンターの今井正監督生誕百年特集。大学の授業で「山びこ学校」を取り上げている大森直樹さん(東京学芸大)や学生さん数名と一緒。画面は雨が降り音声は聞き取りにくい状態だった。ただでさえ方言を多数セリフで使っているので判りにくい。だから「山びこ学校」の原作を知っていて、「戦後史研究」的な問題意識がないと難しい。日教組を通して全国の学校で見られたので、フィルムの状態が悪いものしかないのかもしれない。)

 「山びこ学校」は現在岩波文庫に入っているが、山形県山元村(現上山市)山元中学校(2009年末に廃校)の教師だった無着成恭が、学級文集として書かせた作文をまとめたものである。評価が高まり、1951年東京の出版社から出版されベストセラーになった。翌1952年に八木プロ(脚本家の八木保太郎の作った独立プロ)と日教組が映画を製作した。ほとんどが村のロケで、職業俳優もたくさん出ているが(例えば無着の両親役は、滝沢修と北林谷栄)、脇役に過ぎない。無着先生役の木村功(大熱演で、知らない人が見ると村の先生が出演してると思うかもしれない)と村の子供たちが映画のほとんどを占める。同僚や管理職もあまり出てこない。ひたすら「学級の映画」になっている。

 村は山の中で、貧しい。山を耕し、葉タバコ栽培などでかろうじて生計をたてている。貧困のため修学旅行に行けない生徒もクラスに8人もいる。ではどうしたら、いいか。「学級会」でとことん話し合う。クラス皆で働いてお金を作ってできるだけ皆で行けるようにしようという結論になる。村は貧しいが、そのことは全員の問題で、クラス皆で解決の道を探ろうという感性が「学級共同体」に生きている。そのような共同体の中で、皆の問題を自分の問題として成長していく子供たち。今では生徒皆がバラバラの課題に直面しているのが、学級経営の前提である。もちろん当時の村だって、特に貧しい家、親がいない家、親が病気がちの家など、一人ひとり違う問題を背負っているのだが、それらをまとめて「一生懸命働いても村が貧乏なのはなぜだろう」という共通の問題意識が成り立っていた。

 「共通の問題に直面している子どもたち」をリアルに伝えるのが、画面の子役たちである。工作の場面、旅行で海を見た場面、学級会で話し合う場面、作文を出したくないといいに来る女子生徒、学級会をリードする佐藤藤三郎(「山びこ学校」のリーダー役の生徒である)の発言…子供たちの姿は大変リアルである。戦後の山村の子供たちのリアルを永遠に残したという意味で、この映画化の意味は大きい。作文を書いた子どもたちはどういう人生を歩んだか。ノンフィクション作家の佐野眞一が徹底追跡した「遠い山びこ」という本がある。これは「山びこ学校」と同じように感動的な本で、「戦後」という時代を日本人がどう生きたかの記録として必読である。(文春文庫にある。)

 そのように「山村の子供たちの現実」を映画の中に考えていくのが一つの見方である。もう一つ指導者である無着先生=木村功の教師としてのあり方を考えるのも大切な見方だ。多数の子供を担任しながら、子供の心をつかんで子どもたちもマジメに応えている。うらやましいというのが、今の教員の感想だろう。でも、貧困という現実の中で、現実と格闘する中で作り出されたのが、無着先生の作文である。「作文」と言っても、家の経済を原価計算して考えていくなど、「科学的な思考」を「作文」に求めていくものだ。自分の家計を題材に小論文をまとめるのというのに近い。

 「人間と動物の違い」を強調するなど、教師の認識は人間主義(ヒューマニズム)で、「村に近代をもたらす」ことが目標だと思う。山に住んでいるけど、山は生活の厳しさをもたらす「敵」であり、まだエコロジカルな発想はない。山里だから子どもが素朴などという発想はない。貧しい村で低学力や迷信が子どもの現実である。そういう時代の実践を、生徒の共同性が崩れた今、形だけマネしてもうまくいかない。やはり生徒実態を教員で共通認識して、それぞれの学校に合ったやり方を模索していくしかない。

 僕が疑問に思うのは、木村功が生徒の顔を見ないで出席を取っていること。これは今では認められない。座ったまま出席簿を読みあげるのは、「古い」と思ってしまう。担任生徒数も少なくなっているし、生徒名は暗記して出席を確認しながら顔色を確認しなくてはいけないと今では教えられる。また、村には同姓が多いからだろうけど、生徒を皆名前で呼ぶ(姓ではなく)というのもどうなんだろう。「ちゃんと名字で呼んで下さい」という生徒も今では多いだろう。生徒との関係性の問題で「あえて名前で呼ぶ」のが必要な場面もあるし、「秘書のような生徒」を何人か作れるのも教師の力だとは思う。でも、あまり皆を名前で呼んで、生徒を弟妹のように扱うのも「家父長制」のような感じも持ってしまう。

 当時の村の子どもの大問題が「学力低下」だったこと、組合での教研活動が若い先生にとって持つ意味、村にはびこる「迷信」の問題など、考えるべき問題も多く出ている。高度成長以前の山村の生活を理解することは今の若い人には大変だろう。そういう意味で、「昔の生活のパッケージ」という意味も大きい。また学級そのものを描いた映画として貴重な映画である。

 ところで、この映画を見なおして、改めて思ったけど、教師の仕事は何が残るのかというと、学級、学年、授業の文集が残るのだ。そういうことをする学年にいたことが多いため、今でも多くの文集をすぐ取り出せる。それは是非多くの教師がやるべきことだろう。どんな形でもいいから、修学旅行文集や卒業文集はなんらかの形で作っておきたいですね。(2020.5.27一部改稿)
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映画「先生を流産させる会」

2012年07月04日 00時38分15秒 | 映画 (新作日本映画)
 「学校映画」というべきものを2本見たので、それについて。一本目は、名前がまがまがし過ぎるので、見たいようなみたくないような「先生を流産させる会」。けっこう評判になっているが、渋谷ユーロスペースのレイトショーだったので見ないうちに終わってしまった。(レイトショー見放題の生活になるかと思っていたけど、夜9時上映というのは僕にとっても遅すぎる。)その後、オーディトリウム渋谷で追加上映中。ユーロスペースのあるビルの2階。6日までは12時半から1回。7日から20日まで、夜7時15分から1回。


 この映画は時間が62分と短い。新人内藤瑛亮の脚本、監督。昔は新人監督が1時間程度の作品をまず作って力量を試すということがあった。(例えば大島渚監督の第1作「愛と希望の街」。)時間が短いことで描き切れていない感じもするけれど、なんかうっとうしい中身なので1時間程度という感じはあまりしないので、このくらいでいい感じもする。撮影、照明などの技術面で、プロ映画としては物足りない面もあるが、作品内容はかなりよく出来ている。その「よく出来ている」評価をできるから、内容的には疑問や批判も起きてくる。

 この映画の始まりは、女性教員が二人してAとかBとか言っている場面である。何だろうと思うと、アンケートの集計で、「保護者向け学校評価アンケート」の結果を集計しているのである。今はこういう仕事があるので、学校のリアルな気分をよく伝える。「モンスターペアレント」的な自由意見も紹介される。教員向けの訴訟費用保険のチラシも出てくる。一般には知られてないだろうけど、教師は全員見たことがあるだろう。保護者などから個人的に訴えられた時に弁護士費用などが払われるという保険で、管理職以外で実際に入っている人は少ないとは思うけど。

 この最初に出てくる女性教員が妊娠中で、担任している女子生徒5人組が「先生を流産させる会」を作って給食に薬を混ぜたり、椅子が倒れるように細工したりする。クラスでこれだけ問題グループがいれば、もう仕事ができず心が折れて休職してしまう先生が多いと思うけど、この映画では教師が反撃に出る。紙を配って知ってることを書かせ、5人組の名前をつかんで呼び出す。もし自分が妊娠中で流産させられるような目にあったら、みんなはどうすると問い詰める。小声で「訴える」などと答える生徒に向かって、私は違う、そういうことをした相手は殺すと宣言するのである。

 元をたどれば、先生が妊娠したっていうことはセックスしたのかな、キモイよねという女子グループの悪意が暴走して行ったのである。その5人組の描き方がリアルである。チラシの写真を見ればわかるけど、その「面構え」が圧倒的にリアルで、教師をしていた人なら「勤務校にいたアイツにそっくりだ」という思い当たるタイプばかり、よくそろえたもんだ。いわゆる「クセのあるタイプ」という悪意を秘めた女子グループは、よくいるのは確かで、学級担任を苦労させる。でも、思春期の心の揺れからくる「妊娠中の女性担任への嫌悪感」というのが、わからないではない。

 もっともこの話は実話にインスパイアされた物語なのだが、実際の事件は男子が起こしたという。しかし映画化に際しては、問題の本質は女子生徒にした方が伝わるということで変えられている。それどころか、公立中学が舞台だと思うんだけど、男子自体が映画に全く出てこない。それは不自然すぎるだろう。男子の事件から「女子グループの事件」に設定を変えたことで、「思春期の性の生々しさ」という主題が浮かび上がるけれど、それこそが作者が男性であることのバイアスに基づくという感じもする。

 生徒一人ひとりの生活を深く描き分ける時間はないので、そこらへんは見る側で深読みしていくことになる。それはまあ、見たときの一人ひとりの見方に任せればいいと思うけど。もうすでにいる子供が死ぬ「告白」よりも、「妊娠中」であるという設定のこの映画の方が「生々しい感じ」がするのは間違いない。この女性教師は担当教科が理科で、実験場面など学校が主に舞台になっているけれど、「学校教育を描く映画」というよりは、「妊娠をめぐる女の闘い」という展開で進んで行く。だけど、こういうまがまがしいものを抱えているのが人間であって、そういう人間を対象にする仕事が教師であるのも間違いない。やはり、この映画は見たくないという方が正解かも…。
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