尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

柳宗悦をどう考えるか

2016年12月08日 23時14分10秒 |  〃 (歴史・地理)
 お芝居に合わせて、柳宗悦(やなぎ・むねよし)に関する本を読んだ。2013年に出た中見真理「柳宗悦」(岩波新書)を買ったまま読んでなかった。それと鶴見俊輔「柳宗悦」(1976)を前から読み直したかったので、この機会に読み直した。そこで考えたことを少し書いておきたい。

 柳宗悦(1889~1961)は、日本の「民芸の父」というべき人物で、東京都渋谷区の駒場に日本民芸館を創設した。戦前からある文化運動が今も続いている例は少ない。民芸館は僕も何回か行ったことがあるが、家から近くないので最近は行ってない。とても気持ちのいい場所だと思う。だけど、僕の若いころには、もう「民芸」が一種の権威となっていて、柳もエライ人という印象がした。

 70年代には、韓国の軍事独裁政権に対する民主化運動が活発に行われた。日本でも韓国政治犯の救援運動や民主化連帯運動が起こり、日本の「植民地として支配した責任」が問われるようになった。朝鮮との連帯を求めた日本人も「再発見」されるようになった。1919年の三・一独立運動が起こった時、日本の新聞は「暴動」と報道したが、同情を公然と表明したのは、吉野作造(民本主義の主張者)や石橋湛山(東洋経済新報)、あるいはキリスト教の人々などごく一部だった。「朝鮮文化」を守る運動を行った柳宗悦もその有力な人物として再発見されたのである。

 中見著に詳しいが、80年代以後、柳に対しては批判も大きくなっていった。「同情」に留まったとか、朝鮮総督府の「文化統治」に結果的に協力しているなど。さらに柳が主張した「朝鮮文化=悲哀の美」論が、支配者の目から見た「押しつけ的見方」であり、「オリエンタル・オリエンタリズム」とでも言うべき「幻想」だというようなものである。ある意味、それは否定できない面もあるだろう。日本でもそうだが、民衆には「派手」な原色は禁止され、民芸品は「白」を基調とした作風になった面はあるだろう。

 僕も「民芸運動」は偉くなりすぎて、文化勲章を取るような「エライ作家」(濱田庄司、棟方志功など。河井寛次郎は辞退)を生み出して、「無名の工人」を大事にするはずが少し違ってきたような感じがした。また最後のころは(というか最初からではあるが)、宗教や神秘思想への関心が強く、「抹香くさい」文章が多くて、ちょっと嫌になるところがある。そんなこんなで、岩波からずいぶん著作が文庫化されたが、あまり読まなくなったのである。

 でも、柳宗悦の基本的方向は今でもすごく好きである。それは「文化」や「日常の美」を求めて、理想社会へ近づこうという発想である。イギリス社会主義運動の中の、ウィリアム・モリスのような考えである。政治や経済の権力を握るだけでは、「反体制」が「体制」に代わっただけで、相変わらず専制的な権力が続く。歴史の中にあるのは、そんな「革命」ばかりである。だからこそ、日々の暮らしの中に美を作り出そうというモリスや柳の発想は、いまも魅力的ではないか。
(柳宗悦)
 中見著は副題を「『複合の美』の思想」とあるが、この言葉は柳が若いころから使っているものだという。どんなに美しい花でも、世界中にその花しかないというのでは、世界は単調である。「単色の美」ではダメなのである。この発想は、文化人類学や美学から来たものではなく、若いころに熱中したブレイク(イギリスの詩人、画家)の神秘思想に元があるらしい。世界は光だけでなく、影もあるという発想である。若くして父を失い、兄弟も失うことが多かった柳は、神秘主義にひかれる面があったのだろう。

 そして、朝鮮文化に触れてから、柳は「民芸」という考えをはっきりさせることができた。日本の民芸を朝鮮に当てはめたのではなく、朝鮮の民衆文化発見が先だったのである。柳は「朝鮮民族」や「二つの文化」というとらえ方をしている。「朝鮮」を日本と違った一つの「民族」と表明するのは、当時は危険思想に近いが、柳は一貫して「朝鮮民族」と表現している。その視点は、アイヌ文化や琉球文化にも貫かれた。世界に「文化的排他主義」が力を増しているときに、柳の文化のとらえ方は今も意味がある。

 そして、柳の「平和思想」や「宗教的寛容」も、もっと注目するべきものだ。もともと「白樺」に属していた時も、武者小路実篤や志賀直哉と違って、ケンカしない人柄で信頼されたという。一番若年だったこともあるだろうが、事務能力も高く、周囲をまとめる役だった。そういう資質もあってか、戦時中も平和主義を貫いた。武者小路なんか、戦時中は戦争賛美の文章を書きまくったが、柳は一切書いていない。民芸運動を守るため、当局にある程度協力した場面はあったけど、戦争の旗振りはしなかった。

 文化のとらえ方も決して、伝統墨守の固定化したものではなかったという。民芸館では、椅子に座った茶会も考案したし、コーヒー茶会も行ったという。(獅子文六の「コーヒーと恋愛」はまんざら突拍子もない発想じゃなかったのだ。)朝鮮文化の「悲哀の美」論も、柳が各民族の比較文化的研究に乗り出した初期のもので、最初に図式的な仮説を作ったというものだという。大正時代だけで10回以上朝鮮を訪れた柳だが、戦後は当然一度も訪問していない。だから、最終的な判断と受け取る必要はないと思う。

 むしろ、宗教的な原理主義が世界に広まっているいまこそ、宗教的寛容と民衆文化に目を向けた柳の思想が役に立つんじゃないか。改めて、柳宗悦という人を考えてみると発見することがいっぱい残っている。文章など、少し古い面はあるけれど、イスラム世界でも柳の発想を広めていけないか。平和を求めること、民衆芸術の豊かなことで、イスラム世界こそ「民芸」が求められている気がする。
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