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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

向島百花園ー東京の庭園①

2019年10月20日 22時59分09秒 | 東京関東散歩
 毎年思うことだが、気候がどんどんおかしくなっている。今年は10月になっても半袖を着てた。その後、東日本各地に大きな被害を出した台風19号が過ぎたら涼しくはなったが、雨の日が多い。なかなか散歩に出かけられる日がない。そこで、遠出をやめて東京の庭園を回ろうかと思った。今までに書いた庭園も多いけれど、まだ行ってないところもある。ちょっと時間を作って、年内に行ってみよう。

 まずは10月初めに行った向島百花園。もとをたどれば江戸時代に行き着く由緒ある庭園だ。明治になって荒廃し、昭和初期に東京市が整備したが、今度は東京大空襲で大被害を受けた。その後再び整備され、今は国の史跡、名勝に指定されている。東武線東向島(旧玉ノ井)駅から徒歩7分。家から近いので、学生時代から何度も行っている。一時は近くの学校に勤務していたが、だからといって何度も行くわけじゃない。東京有数の歴史・文学の散歩コースだから、そのうち散歩しようと思っていた。

 百花園は春の梅秋の萩が名物とされる。今回は有名な「萩のトンネル」がほんのちょっと花が残っていた。それもいいんだけど、今回思ったのは「借景としてのスカイツリー」がいいこと。「とうきょうスカイツリー」駅から2駅と完全に地元である。園内の一番奥の「桑の茶屋跡」まで行くと、ちょっと小高いところから池越しにスカイツリーが見える。これが一番「映える」情景なんじゃないか。
   
 池の周りはやはり写真的に面白い。今はススキが伸びていて面白い。池周辺を少し。
   
 有名な「萩のトンネル」はこんな感じ。最盛期は終わってた。よく判らないと思うけど。
  
 向島百花園は「庭園美を味わう」場所ではない。江戸後期の文化文政時代、都市文化の発展する中「文人墨客のサロン」だった場所なのである。1804年に、骨董商佐原鞠塢(さはら・きくう)が開園し、画家の酒井抱一が命名した。大田南畝(蜀山人)などが集い、春秋の七草など詩想を呼ぶ花々を植え、池を作り碑を立てた。そんな「人文的景観」を愛でて風流を感じる場所なのだ。
   
 今でも季節になれば、「月見の会」「虫聞きの会」などが開かれ、夏は朝顔展が開かれる。下町の文化交流の場所として生きている。江戸野菜の一種「寺島なす」も植わっていた。周辺は雑然とした住宅街になっているが、よく危機を乗り越えて続いて来たと思う。上の最初の写真は入り口のようす。
   
 そのような「歴史を感じ風流を愛でる」心意気で回らないと、上の写真のような園内を回って「雑草園」かなんて悪口を言いかねない。なんか草が生い茂って昔のイメージと違うと言ってた人がいたけど、まあ季節によると思うけど、ここはこのような場所なんだと思う。そして園内各所に文学碑が建っている。こんなに多い場所も珍しい。入り口においてある園の案内図に、碑の紹介がある。「いろは」順に「や」まである。29カ所である。そのうちいくつかを載せておく。
    
 最初から順に、芭蕉「春もやや」の碑、其角堂永機句碑、二代河竹新七追善狂言塚、山上憶良秋の七草の歌碑、月岡芳年翁之碑ということになる。まあ書いたからと言って、よく判らないことは変わりない。他に聞いたこともない俳人の句碑がいっぱいある。最近のものじゃなくて、古びていて江戸時代のものも多そうだ。園内には最後に載せる写真の「御成屋敷」という建物がある。ここは場所を借りることが出来る。(僕は何度か利用したことがある。)
 
 他に売店「さはら」があって、なんと創始者の佐原家がずっとやってるから驚き。今の当主は、かつて定時制高校時代に地域代表としていろいろ協力して貰った思い出がある。
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陸奥宗光邸と御行の松ー根岸散歩③

2019年08月01日 22時55分42秒 | 東京関東散歩
 梅雨明けとともに全国は猛暑になり、とても散歩などできない。いま書いているのは7月上旬に散歩したもの。何となく暗い写真が多いが、実際に雲に覆われて一日中暗い日が続いた。でも、梅雨の時期は夏至に近いから日が長い。いつも降っているわけじゃないから、案外散歩日和の季節だ。根岸あたりは、古い家も多く、行き止まりの道の迷宮世界が魅力的。なかなか面白い町だったけれど、個人の家を載せるのも何だから有名な場所を最後にまとめて終わりたい。

 まずは明治の政治家で、日清戦争期に外務大臣を務めた陸奥宗光の旧邸。そんなものがあったのか。僕も知ったのは最近だが、調べると大磯にも陸奥宗光邸が残っているし、死んだのは旧古河庭園だった。根岸の旧陸奥邸は、鶯谷駅北口を出て東へ行って、根岸小学校の裏手にある。地元では長いこと「ホワイトハウス」と呼ばれていたらしい。1884年から86年に陸奥が英国に留学した際に妻子が住んだ場所で、86年に帰国した陸奥も一年ほどここに住んだという。その後六本木に転居し、やがてここに出版業を営む長谷川武次郎が住んだ。そこら辺のことは根岸子規会の設置した案内板に詳しい。
   
 陸奥邸を書いたから、その近くにある根岸小学校を。何でも学制発布前の1871年に創立されたというものすごく長い歴史を持つ。卒業生には池波正太郎有吉佐和子林家三平(初代)などがいる。豆富料理の笹の雪から歩道橋を隔てて真向かいに非常に大きな建物があって、それが小学校。学校前に子規の句碑や庚申塔がある。近くの根岸3丁目に「発祥の地」の碑がある。
   
 根岸小からさらに歩いて、西藏院不動尊に「御行の松」(おぎょうのまつ)と呼ばれる銘木がある。江戸時代から有名で、広重などが描いたという。1925年に天然記念物に指定されたが、もうその時は老木で1928年に枯死してしまった。戦後植えられた2代目はすぐに枯れ、1976年に植えた松は盆栽状だったために、2018年に4代目が植えられたばかり。枯死した初代も残されている。 
   
 地名としては根岸じゃなくて下谷になるが、地下鉄入谷駅近くに小野照崎神社がある。都会の真ん中にあるけど、なかなか森厳な場所である。最近人気の御朱印を求める人が並んでいた。ここに「下谷坂本富士」がある。入れないけど、要するに富士講信仰のミニ富士山である。国指定の重要有形民俗文化財だそうで、見応えがある。出来れば登ってみたいものだが、写真は撮れる。
   
 他に有名なところとしては「ねぎし三平堂」がある。初代林家三平は今では「昭和の爆笑王」なんて言われている。まあ確かにテレビに出てきただけで、みんな笑っていた。その海老名家が根岸にあって、いまは週に何日か公開している。まだ行ってないけど、下の最初の写真。鶯谷駅北口の地下通路にには「ウグイス」と「朝顔」の絵が飾ってあった。鶯谷駅南口から線路を渡る陸橋を降りると、そこに「東京キネマ倶楽部」という大きな建物がある。なんだこれはと調べてみると、昔はグランドキャバレーで、今はイベントホールとして使われている。ホームページを見ると、そのゴージャスな内装にビックリ。
   
 最後に近辺にお店を。単に下町というだけでなく、東京を代表する洋食屋として知られているのが「香味屋」である。今じゃオムライスやメンチカツなどどこでも大人気だけど、30年ぐらい前は気楽で美味しい洋食屋が少なかった。いろんな本に紹介されていて、僕は昔2回ほど行っている。ムチャクチャ高くはないから、「下町デート」に知ってるといい。また、この辺のお菓子屋としては、御行の松近くにある「竹隆庵岡埜」本店が有名らしい。日暮里や鶯谷駅前にも店がある。「こごめ大福」というのが名物らしいが、売り切れだったので夏季限定の包装がキレイなお菓子を買っていった。 
  
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子規のいた町ー根岸散歩②

2019年07月31日 21時00分20秒 | 東京関東散歩
 台東区根岸という場所は、明治の俳人正岡子規が住んでいて、そして死去した町である。子規が住んでいた家が「子規庵」として公開されている。えっ、そんなものが残っているのかと思うと、関東大震災では家屋が傾きながらも何とか残ったが、1945年4月に空襲で焼失してしまった。しかし、外観、間取りなどを同様に、1950年に同じ場所に再建された。1954年には東京都の史跡に指定された。再建からもう70年近く経ち、今では歴史的ムードに浸れる場所になっていると思う。
   
 外観は上の最初の写真のように、昔風の小さな一軒家。それよりそこへ行くまでが大変だ。山手線鶯谷駅下車徒歩5分だが、この鶯谷という駅の東口はいわゆる「ラブホテル街」なのである。そういう場所の中でも、こんなに駅前に乱立しているのは珍しい。線路に沿って日暮里方向へホテル街を抜けて、すぐの場所に「子規庵」がある。いや、こんな場所にという感じなのである。そして、公開時間は10時半から16時、12時から13時はお休みだから、案外入りにくい。最初に行ったときはお昼休みだった。真ん前に旧中村不折邸という書道博物館が建っている。こっちはまだ入ってない。
   
(2枚目は子規庵の外壁にある庭の説明写真。3枚目は書道博物館。)
 正岡子規と言ったら、近代の写生俳句の創始者で、愛媛県松山生まれ。東京で夏目漱石と友人となり、「野球」という言葉の名付け親である。しかし、長いこと結核で病臥したあげく若くして死んだ。ということをいま何も見ずに書いたけど、実はちゃんと読んだことがないのである。調べてみると、1867年に生まれて、1902年に亡くなった。1894年(明治27年)に、旧前田藩下屋敷の長屋に母と妹を呼び寄せて住んだ。それがこの根岸の家である。翌年からたびたび句会歌会が行われた。根岸短歌会には伊藤左千夫、長塚節らが集い、「アララギ」に発展する。
   
 500円払って子規庵に入ると、一番最初の写真のように畳敷きの部屋がある。一間に「子規終焉の間」と木札がある。子規の文机などが再現されている。隣の間で簡単な子規紹介のビデオを見られる。他に子規を解説する展示室もある。まあ小さい家なのは初めから判ってるけど、やはり小さいなあ。と思うと、案外庭が大きい。靴を持って上がり、庭から外出するようになっている。ヘチマ(糸瓜)の棚があって、子規の頃と同じだという。9月19日が「糸瓜忌」である。正岡家が使った井戸の跡もある。
 
 根岸界隈を歩いていると、よく子規の句碑にぶつかる。俳句募集などの貼紙も多い。そんな中で、有名な「豆富料理」(豆腐じゃなくて豆富と書いている)の店「笹の雪」の前にも、子規の碑があった。正岡子規は一高、東大(当時はただの帝国大学)を出て、国民主義的なジャーナリスト、陸羯南(くが・かつなん)が編集長を務める日本新聞社に勤めた。日清戦争では従軍記者として遼東半島まで赴き、その帰りに喀血した。日本の詩歌史において、古今和歌集を否定して万葉集を評価した。そのような思想的な全体像を僕はよく知らない。でも、まあ「子規庵」は一度行ってもいい場所かなと思った。
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入谷の朝顔市ー根岸散歩①

2019年07月30日 22時46分31秒 | 東京関東散歩
 2019年の梅雨もようやく7月29日に明けたのはいいけど、今度は猛暑が続いている。まあ去年は6月末に梅雨明けしてしまって、その後ずっと猛暑だったから、今年はまだましと言うべきか。ところで、東京23区の東の方に何十年も住んでると、ああ今年も夏が近づいたなと思う「風物詩」がいくつかある。7月初め、七夕の頃に入谷の朝顔市、続いて7月10日に浅草寺の四万六千日ほおずき市)。そして足立の花火大会、最後の週末に隅田川花火大会と続く。今日は電車に浴衣掛けのカップルが多いのはそれかと思ううちに8月が近い。今回は特に「入谷の朝顔市」に絞って紹介。
    「
 入谷
」(いりや)は地下鉄日比谷線の駅名だが、朝顔市の会場になる真源寺は台東区下谷になる。しかし、寺が面する言問通りの向こう側は「根岸」である。JR山手線日暮里から鶯谷の東一帯がおおよそ根岸になる。根岸という地名は日本のあちこちにあり、中でも横浜の根岸も有名だ。東京東部の根岸は明治の頃は金持ちの老人が妾宅を構えるようなイメージの、東京周縁の「別荘地」のような場所だったらしい。今はもちろんそんな趣はないが、それでも上野や秋葉原のすぐ近くなのに高層ビルは少ない。
   
 上の写真は主たる会場の真源寺。開山は江戸時代初期の1659年。だけど、そんな正式名を知ってる人は少ないだろう。ここは普通「鬼子母神」(きしもじん)と呼ばれている。「恐れ入谷の鬼子母神」という言葉で知られている。これは江戸時代の狂歌師、蜀山人(大田南畝)が作ったんだという。朝顔市は江戸時代後期に始まり、一時途絶えていたものの1948年に復活した。なんで朝顔市かというと、元々はこの辺一帯が朝顔の産地だったのである。朝顔市の時だけ大繁盛で、他の時期にはあまり風情がない。
   
 朝顔市の期間、道は歩行者天国になる。鬼子母神側が朝顔売りの屋台が並び、反対側はいろんな食べ物の屋台が並ぶ。朝顔を買うんじゃなくてお祭り気分で来ている若者グループがいっぱいいる。でも、ここの朝顔は素晴らしい。僕はもう花火大会には行かないけど、朝顔市は時々行っている。元は東京人じゃないうちの奥さんも最近は毎年買いに行っている。2000円は決して高くない。何しろ10月頃まで毎日いろんな色が咲くのだ。もう終わりかなと思ったら、去年は残暑が長くずっと咲いていた。この付近には他にもいろんな名所・旧跡がある。今年は涼しいからとこの機会に根岸あたりを回ったのは7月初旬。選挙などで書くのが遅くなったけど、何とかまとめてみたい。
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港区立郷土歴史館ー壮麗な「内田ゴシック」

2019年07月01日 21時17分41秒 | 東京関東散歩
 東京メトロ南北線白金台駅からすぐの「港区立郷土歴史館」に行った。大阪では「東京は特別区だから二重行政にならない」とか思ってるようだが、実際には各区ごとに歴史館のような施設がある。区が基礎自治体だから、学校教育、社会教育に使える郷土意識向上施設がいるわけである。特に港区に関心があったわけじゃなく、元々の建物が見たいのである。元は「公衆衛生院」という施設で、2002年に国立保健医療科学院として埼玉県和光市に移転した。その建物を港区が取得してリニューアル、2018年秋から「郷土歴史館」の他「がん緩和ケアセンター」や「子育てひろば」も入った「ゆかしの杜」として再生された。カフェもある。建物見学だけなら無料。一度は見る価値がある。
   
 とにかく壮麗な外観で、入ったところのホールも圧倒される。これは「内田ゴシック」なのである。内田ゴシックというのは、東大総長を務めた建築家、内田祥三(うちだ・よしかず)の設計した建物のことで、一番有名なのは東大安田講堂。東大に今も残る格調高い校舎は内田ゴシックである。東京を中心にかなり残されているが、ここほど建物を自由に見られるところはないだろう。特に面白いのは4階の旧講堂。残念ながら座ったりできないんだけど、昔の映画に出てきそうなムードがある。
   
 3階には旧院長室旧次長室がある。また旧書庫は今も図書館として利用されている。そういう部屋もいいけど、廊下や階段なんかも面白い。戦前の映画かなんかに紛れ込んだ気分になる。この前見た「明治生命館」もいいけど、ここは医学の研究機関で雰囲気が違う。公衆衛生院は公衆衛生に関する調査研究機関で、関東大震災後にロックフェラー財団の援助で建設された。1940年建築
   
 郷土歴史館は3階、4階の北部分を利用している。小部屋ごとに原始から近代まで展示されているが、港区というだけあって海との関わりが深く、貝塚や漁業などの展示が印象的。また大名屋敷も多くて、幕末の英国領事館焼き討ちも薩摩藩邸焼き討ちも、そう言えば今の港区だ。薩摩藩に飼われていたという犬や猫の墓が興味深かった。でも歴史ファン以外は建物だけでもいいかもしれない。

 設計者の内田は麻布笄(こうがい)町の自邸に住んでいて、この建物が見えたという。気に入っていたらしい。隣にある東京大学医科学研究所も内田の設計。内田ゴシックはウェブ上で調べられるが、主に東京に集中している。できれば他のものも見てみたいと思う。そこから自然教育園庭園美術館も近い。今日はその後庭園美術館に行ったが、それは別記事で。
コメント (1)
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明治生命館を見る

2019年06月03日 22時46分07秒 | 東京関東散歩
 昨日の日曜日、「マルリナの明日」をお昼過ぎに見ようかと思ったら、上映時間が変わっていて3時過ぎじゃないと見られない。他の映画や展覧会へ行ってもいいけど、ノンビリしたいしタダだから明治生命館に寄ってみることにした。お堀端に偉容を見せている重要文化財だが、まだ見たことがない。1934年竣工だから、そんなに古くはない。昭和期の建築で初の重文指定となった建物だ。水曜から金曜の夕方にも見られるが、土日の昼間の方が見られる場所が多い。
  
 今は「明治安田生命」である。1881年に設立された有限会社明治生命保険は、三菱系の生命保険会社である。1880年に安田生命の前身会社が設立されていて、どっちも最初を競っていたという。21世紀になって、もう財閥の系列を超える時代となり、2004年に明治安田生命が発足した。上の写真の入り口には、当然「明治安田生命」とある。リニューアルされた建物の裏に大きな本社ビルが付いている。

 中へ入ると2階へ登るようにエレベーターに案内される。このエレベーターも壮麗で乗りごたえがある。2階は回廊になっていて、1階が広々と見えて圧倒される。廊下もすごい。戦前の財閥のすごさは、日本橋の三井本館でも感じることが出来る。やはり建築史に残るような建物は、まず最初に権力か金力を握るものが作るわけだろう。近代日本では皇族か財閥のものが多い。他には大学・旧制高校の建築も相当残っているけれど。こういう建築は普通の意味での「美」とは違って、現世の財力の壮大さを無視することはできない。それは大昔の寺社、城郭なんかでも同様だ。 
   
 設計は岡田信一郎(1882~1932)で、明治生命館は西欧建築様式の最大傑作と言われている。竣工途中で亡くなったので、後は弟の岡田捷五郎が引き継いだ。その他に旧歌舞伎座や震災で破損したニコライ堂の修復などを担当。東京に現存する建築としては、鳩山会館(鳩山一郎邸)や上野公園にある黒田清輝記念館などがある。ビックリしたのは旧府立第一高女校舎の設計がこの人だったことだ。現在の都立白鴎高校で、僕が通ったときは時計台がある昔の建物を使っていた。貴重な近代建築で残して欲しかったけど、今は取り壊して再建された。
 
 2階を回ると、会議室などを見ることが出来る。食堂もあって昔はこういうところで食べていたんだなあと思う。応接室を見ると、小津映画など古い映画に出てくる会社役員の生活を思い出したりする。戦前の作家、水上滝太郎は明治生命の創設者阿部泰蔵の四男で、自身も欧米留学後に明治生命に入社した。1940年に明治生命講堂で開かれた「銃後の娘の会」で専務として挨拶した直後に倒れたとウィキペディアにある。その講堂がどこなのかは判らないが。廊下を歩いていると、最新鋭だった米国製のメールシュートが残っている。昔の外国映画によくある、郵便を入れると一括して届く仕組み。
   
 上の写真の最後がメールシュートである。階段もなんだか豪華感いっぱいで、降りて一階に行くとさらにすごい。一階に敷かれた大理石にはアンモナイトの化石もあると説明があった。
   
 一階にあるラウンジが公開されている。ここは平日も可。ここもゴージャスで、休日はほとんど人もいない。飲食は禁止されているが、スマホを見たり本を読んだりは自由らしい。2階にある資料室の案内の写真も下に載せておきたい。外へ出て、ちょっと南へ歩いたところに、GHQの司令部が置かれた第一生命館がある。明治生命館も占領中はGHQに接収され、第一回の対日理事会はここで開かれた。ほとんど二重橋の向かいあたりで、現代史の現場でもある。下の写真の一枚目がラウンジ。
 
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鈴木信太郎記念館に行く

2019年04月09日 21時09分00秒 | 東京関東散歩
 先週のことだけど、豊島区立鈴木信太郎記念館に行ってきた。それは一体誰だと思う人が多いだろう。鈴木信太郎(1895~1970)はフランス文学者で、東大はじめ多くの大学で教えるとともに多くの翻訳をした。今も岩波文庫に「ヴィヨン全詩集」、「悪の華」(ボオドレール)、「ヴェルレエヌ詩集」などが収録されている。(ボオドレール、ヴェルレエヌなんて表記がずいぶん古めかしい。)死後は長男の鈴木成文(東大名誉教授、建築計画学)が居住していたが2010年に死去。フランス文学者の弟、鈴木道彦(「失われた時を求めて」の全訳、サルトルの研究などで著名)が豊島区に寄贈し、調査の上豊島区有形文化財に指定。2018年から無料で公開されている。
 (これが鈴木さん)
 場所は豊島区東池袋5-52-3、最寄り駅は地下鉄丸ノ内線新大塚駅下車3分。スマホも持ってるし、全然迷うはずがないと思ったら、なんだか全然判らなかった。豊島区と文京区の境目で、道路も入り組んでいて、スマホが示す道がどこだかよく判らない。判れば近いんだけど、案内表示はないので、なかなか大変。さらに門から階段があり、盛り土して高くなった地面に家が建っている。全体を見渡せる場所がないから全景が撮れない。こんなところに住んでいたのか。
 (道に面した入り口)
 建築的にはなんか不自然な感じの建物で、そこが貴重らしい。フランス文学の原書なんかがずらっと展示されているのは洋館書斎棟。その隣にある「茶の間・ホール棟」は戦争直後の「建築制限令」の時代に作られたもの。当時は15坪(約50㎡)以内に新築が制限されていて、この建物は14坪2合3勺(約47㎡)だという。こういう小さな建物は高度成長期以後に、ほとんどが建て直された。この鈴木家だって親も子も大学教授なんだから、お金がないわけじゃないだろう。なぜか知らないけど、残された。そこがすごく貴重らしい。さらに「座敷棟」が付いている。明治20年代に建てられた埼玉県春日部市の家の書院を昭和23年に移築した。高齢になった母親を引き取るためらしい。こうして継ぎ接ぎ的な「鈴木信太郎邸」が成立した。(下の写真=順に座敷棟、茶の間・ホール棟、書斎棟)
   
 入って右側に「書斎棟」があり、東洋文庫ほどじゃないけど、本がずらっと並んで壮観。本好きにはたまらない。まあフランス語の本ばかりだけど。ステンドグラスもあって、鈴木信太郎がデザインしたものだという。展示物の接写撮影は禁止だが写真は可能。だけど暗いからよく撮れない。
   
 続いてお茶の間を見て、座敷を見る。まあそこは普通なんだけど、縁側とガラス窓のある座敷なんか今じゃ貴重かもしれない。茶の間も妙に狭い感じが昔の作りで、逆に今では珍しい。ヴィヨンやマラルメの本が展示される高尚な洋館と、日常的な日本風空間が隣り合っている。そこがある意味で、日本の知識人の精神を表しているとも思う。面白い建物が残されたなと感謝。
   
 (午前9時から午後4時半まで。月曜、第3日曜日、祝日など休館)
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自由学園明日館とフランク・ロイド・ライトのこと

2019年03月26日 22時45分56秒 | 東京関東散歩
 西池袋にある重要文化財、自由学園明日館を訪れた。以前に「池袋西口散歩②ー明日館と東京芸術劇場」(2013.5.26)を書いてるが、それ以来である。今回は非常勤で行ってる福祉施設のメンバーと一緒。行事の時は池袋で集まるので、一度明日館に行ったらどうかなと前から思っていた。近くに住んでるからといって、行ったことがある人はほとんどいないので。時期的にはもう少し後の方が桜が満開だったけど、スタッフの都合もあるから仕方ない。それでも半分ぐらい咲いていた。28日、29日は夜もライトアップして夜桜を楽しめる。外から見るだけでも行く価値がある。

 前回の記事では自由学園のことは書いてるけど、「池袋西口散歩」だから設計者のフランク・ロイド・ライト(1867~1959)のことは名前を書いたぐらい。自分でもあまり関心がなかった。今回調べてみて興味深かったので書いておきたい。ライトは旧帝国ホテルの設計で名高いが、20世紀を代表する建築家と言われている。ル・コルビュジエミース・ファン・デル・ローエと並んで、近代建築の三大巨匠とされる。でも、何でそんなすごい人が日本に来たの? 1913年、大正2年のことなのである。そこには壮絶なドラマがあった。あんまりすごいので、ここには書かない。ウィキペディアを自分で調べてみて。
 (明日館にあるライトのパネル)
 ライトは日本に4つの建築を残した。明日館は空襲で焼けずに奇跡的に残り、修復工事を経て、今も公開講座などに使われている。空いている部屋は、申し込めば使うこともできる。なんで空襲で焼けなかったかは、館内にあるライトミュージアムに説明パネルがある。旧帝国ホテル本館は、正面玄関部が博物館明治村に移転されて残っている。それは有名だけど、後の二つ。一つは芦屋にある灘の造酒屋櫻正宗の当主、旧山邑邸である。重要文化財指定で、今はヨドコウ迎賓館として公開されている。最後の一つが世田谷区にある旧林愛作邸で、今は非公開の電通八星苑。検索していると、電通の「過労死自殺」問題の女性社員はこの寮に住んでたという記事が出てきた。真偽は知らないけど、ライト設計の建築も本人と同じく数奇な運命にあるんだなと思った。

 ところで、今日一緒に行った施設の所長(長年の友人)がポール・サイモンに「フランク・ロイド・ライト…」って歌う歌があった、知ってる?と言う。えっ、そんなのあったっけ。明日館にもサイモン&ガーファンクルのLPレコードが飾ってあった。そう言えばサイモン&ガーファンクルはCD全集を持っていたではないか。(CD全集を持ってるのは他にはパブロ・カザルスだけ。)探してみると、「明日に架ける橋」のCDである。何度も聞いてるはずだ。だけど大曲「ボクサー」(僕が一番好きな曲)の前で、それじゃ印象が薄い。「フランク・ロイド・ライトに捧げる歌」(So Long, Frank Lloyd Wright)という曲だ。

 「サイモン&ガーファンクル詩集」っていうのも持っていて、それに訳詞が載ってる。「さよなら、フランク・ロイド・ライト あなたの歌がこんなに早く消えてしまうなんで 僕にはとても信じられません 曲さえまだ覚えていなかったのに… こんなに早く 終わってしまうなんて…」 これじゃ、有名な建築家の歌になってない。最後のフレーズは「さよなら フランク・ロイド・ライト 意気投合した僕たちは 毎晩のように 夜が明けるまで 一緒に過ごしましたね あんなに長いこと 笑ったのは初めてでした あんなに長いこと…… まるでフランクっていう友人を歌っている感じだ。

 アート・ガーファンクルは大学時代に建築学専攻で、ポール・サイモンにライトの歌を作ってと頼んだという。でもサイモンはライトを知らず、こんな歌を作ったのだという話。「so long」が繰り返されて、それはポール・サイモンからガーファンクルへの別離のメッセージが込められていると解釈されている(とウィキペディアに出ている。)「ニューヨークの少年」(The Only Living Boy in New York)という映画「さよなら、僕のマンハッタン」のタイトルソングも同じだという話。ちょっと明日館と離れた話になったけど、素晴らしい建築を訪ねると気持ちが落ち着くなと思う。あちこち散歩に行きたくなってきた。
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小金井・はけの道散歩

2018年11月27日 22時48分05秒 | 東京関東散歩
 東京でも秋も深まり、これからが紅葉の季節。湿度も低い小春日和が続き、映画見るより散歩に行きたい。途中下車みたいな散歩じゃなく、ちょっと長い散歩に行きたいと思って中央線の小金井で降りる。三鷹市と国分寺市の間にある町で、北側には小金井公園、江戸東京たてもの園があるが今回は南側。もう四半世紀も前の散歩ガイドをまだ使ってるけど、当然ながら駅前は大きく開発されている。まずはちょっと歩いて「滄浪泉園」(そうろうせんえん)へ。
   
 入口付近ではちょっと深山の趣もある庭園である。でも中へ入ると案外狭いけど。もと波多野承五郎(古渓)の別荘で、1914年に構えたという。波多野は実業家、政治家だが、今はほとんど知られていない。古風な名前が付いているが、これは1919年に訪れた犬養毅が付けたもの。ここは大岡昇平「武蔵野夫人」の舞台とも言われ、「はけ」と呼ばれる湧水が見られる。この一帯は武蔵野台地の河岸段丘にある「国分寺崖線」にあり、各地で湧水が見られることで知られる。
   
 滄浪泉園は本当はもっと広かったが、だんだん売られて小さくなったという。マンション計画があり反対運動が起こって、東京都が買い上げ小金井市の庭園として残った。そこからちょっと歩いて、「はけの道」を歩く。名前からして「はけ」がもっと各地にあるかと思ったけど、舗装された道で車もけっこう多い。少し行くと「はけの森美術館」がある。もとは洋画家中村研一のアトリエだった建物で、中村研一記念美術館と言ったが今は市営。
    
 美術館の裏に「はけの森カフェ」があり、最近その建物は国の登録有形文化財に指定するように答申があった。大岡昇平は1950年に「武蔵野夫人」を発表してベストセラーになった。ラディゲ風の恋愛心理小説で、武蔵野の風土がうまく生かされている。重要な舞台が「はけ」の邸宅で、このカフェの入り口にも小説の舞台と書かれている。今回は入らなかったが、一度は寄りたい店。美術館の庭は崖になっていて、なるほど「崖線」に沿っているんだなと判る。
   
 美術館の真ん前に「はけの小路」と名前が付いた小さな道があった。小川に沿った小さな道で、小さな道だけど風情がある。「野川」沿いに出ると、案外農村なので驚く。「はけの道」は今では開発された住宅街になっているわけで、野川沿いの道の方が面白いかもしれない。 
   
 少し歩くと広大な「武蔵野公園」。少し色づいているけど、ちょっと紅葉には早いか。テレビで見た京都や鎌倉は外国人観光客であふれていたけど、日曜日に行ったんだけど全く静かな散歩。身近にいろんな場所がある。そこから道を隔てて「野川公園」もあるが、もういいかと思って東小金井駅まで歩いて帰った。けっこうな歩数だった。今度は国分寺や日野などにも足を延ばしたい。
   
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道灌山散歩

2018年11月23日 20時38分46秒 | 東京関東散歩
 散歩というより「途中下車」程度だけど、昔からどんなところだろうと思っていた「道灌山」を歩いた。JR山手線で一番新しく1971年に作られた西日暮里駅。地下鉄千代田線開通に伴い、乗り換え用に作られた。以来JRと地下鉄を何百回も乗り換えたが、駅を出たことがなかった。駅の真ん前にある高台が「道灌山」である。江戸時代には景勝地として知られ、多くの浮世絵に描かれた。
  
 西日暮里駅の道灌山方面出口を南へ上ると「西日暮里公園」がある。ここに道灌山の昔をしのぶ解説パネルが立っている。右に絵や写真、左に解説が書かれたパネルが3セット。「道灌山」の説明、「日暮里船繋松」(ふねつなぎのまつ)、「道灌山虫聴き」である。ここは武蔵野台地の東端で、西は富士、東は筑波の眺望で知られた。秋になると虫聴きの名所として有名だった。「道灌山」の名前は江戸城を作った太田道灌の出城があったという説と鎌倉時代の豪族、関道閑の館跡という両説があると書いてある。てっきり太田道灌だと思ってた。
 
 西日暮里公園から少し南へ歩くと、もう谷中の寺町。日暮里は今は谷中方面の散歩で始終賑わっているが、西日暮里となると人が少ない。荒川区立第一日暮里小学校前に高村光太郎の書で「正直親切」の碑が建っている。その近くに一番古い美術団体の「太平洋美術会」があった。この一帯は今は山を切り開き鉄道と道路が作られたので、山という感じはない。西日暮里公園だけが多少昔をしのばせている。公園を出ると、階段になる。下の道路が道灌山通り、向こうの建物が開成学園、反対側を見るとJRの西日暮里駅。
    
 階段を下りて歩道橋を渡って道灌山通りの北側へ出る。そのまま線路沿いに上っていく道が「ひぐらし坂」。坂の途中に「道灌山遺跡」の解説版がある。開成学園の校庭工事で弥生時代の土器などが出土したという。坂を登りきると、下の線路を一望。JRの山手線、京浜東北線に加えて、東北・上越新幹線や東北線も通っている。遠くにはスカイツリーも見える。少し行くと北区で「田端台公園」があり、田端駅南口も近い。公園から左へ下りると「道灌山坂」がある。
   
 その坂の途中に「道灌山学園」があった。東京の東の方で高校教員をしていると、「道灌山学園」の名をよく聞く。特に保育士を目指す生徒の進路先として有名。「道灌山学園保育福祉専門学校」では保育士、幼稚園教諭、介護福祉士などの資格が取れる。僕は「道灌山」と聞くと、一番最初にここを思い出すんだけど、一般的には西日暮里駅に近いところにもっと広い敷地を持つ「開成学園」の方が有名だろう。毎年のように、東大合格者ナンバーワンになるあの「開成」である。僕は初めて見たんだけど、ここにあったんだ。学校用地が「向陵稲荷坂」をまたいで橋で結ばれていた。
 
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柳橋散歩ーいまはなき花街

2018年11月18日 21時20分45秒 | 東京関東散歩
 かつて東京有数の花街だった柳橋が今はどんな様子になっているのか。一度行ってみたいと思っていたのは、ここが「流れる」の舞台だからだ。幸田文原作、成瀬己喜男監督の映画については、「幸田文『流れる』原作と映画」(2017.7.8)を前に書いた。今とは大きく違う柳橋の姿を映像に留めている。JR総武線浅草橋駅から近いけど、今じゃあまり意識することもない町だろう。
   
 柳橋は川の町である。「橋」って言うんだから当たり前だが、東京では新橋とか京橋とか川を埋め立ててしまったから、案外忘れている。柳橋もそういう名前の橋から発した地名だ。神田川隅田川に流れ込む最下流の橋である。神田川は井の頭公園に発し、早稲田の裏辺りからお茶の水駅前を流れて両国橋近くで隅田川に合流する。最初の橋は1698年に架かり、震災後の1929年に現在の橋が作られた。橋にはかんざしのレリーフが並んでいる。

 「両国」は今じゃ国技館や江戸東京博物館のあるJR両国駅近辺をイメージするが、戦前までは両国橋西詰の方を指すことが多かった。時代小説なんかで両国の見世物小屋なんて出て来れば、それは西両国の話だという。そのことは西両国生まれの作家小林信彦の自伝的な本によく出てくる。そんな繁華街のすぐそばだから、ここに料亭が立ち並んだんだろう。「大川」(隅田川)を望みながら飲食できる店が最盛期には60軒以上も立ち並んでいた。
   
 浅草橋駅を降りて神田川に出ると、ほのかに潮の香が漂う。川にはズラッと屋形船が泊められている。花街の址はほとんど残ってないけど、川に並ぶ屋形船はなんだか違う町に来た感じがする。こんなところに泊っていたのか。舟宿もいっぱい並んでいる。一番下流側、南に舟宿の「小松屋」があり、北には佃煮の「小松屋」がある。店主はいとこ同士だという。冬には牡蠣の佃煮も売ってる。店頭に柳橋の地図を置いている。すぐ近くに和菓子の「梅花亭」もあって名物らしい。
  
 柳橋は隅田川を見る場所だった。今も神田川をはさんで隅田川の南北に「隅田川テラス」が整備されている。特に南の方は晴れていればスカイツリーが真ん前にあって眺望がいい。かつて料亭があったあたりは、ほとんどマンションやビルになっているけど、川を見れば気にならない。もっとも椅子など休める場所が少ないが、のんびりできる。今は柳橋で一押しはここだろう。
   
 かつて柳橋にあった店で唯一残っているのは、安政年間創業という「亀清楼」。橋の北側、大きなマンションの中に残っている。明治の新政府高官は官庁街に近い新興の新橋をよく利用し、一方下町にある柳橋は旧幕びいきだったと言われる。でも亀清楼は伊藤博文愛用と伝えられる。2枚目は小松屋にあった地図の裏。橋から北に歩くと、石塚稲荷がある。石門に「柳橋料亭組合」「柳橋藝妓組合」と彫られている。料亭の名前も石に刻まれて残っている。
   
 亀清楼は1976年に芸妓を入れない割烹に転換、最後に残った料亭も1999年に閉まって芸妓組合も解散した。花街としての柳橋は終わったわけだが、ぶらぶら歩いているとこれは昔の料亭かな、古そうな建物だなという家もまだ多少は見られる。もう僅かしかないので、いずれ全部ビルに建て替えられるだろう。僕の小さなころ、隅田川は悪臭で有名だった。川が汚れれば川辺の花街はつぶれる。そういうことで柳橋が廃れて行ったのだろう。

 そんな中に隠れ家的な居場所を見つけた。「ルーサイト・ギャラリー」というところで、芸者歌手として有名だった「市丸」さんの旧宅で、何だか入りにくいけど2階が川を望むカフェになってる。写真を撮ろうかと思ったけど、お客さんもいるし狭くて暗いから、むしろ載せなくていいかと思った。駅から5分、千円以内でのんびり過ごせる場所ってあまりない。行きたい人は是非探してみてください。
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旧東京音楽学校奏楽堂を見る

2018年11月08日 23時02分41秒 | 東京関東散歩
 最近散歩をしてなかった。夏は連日の猛暑で、9月になったら10月半ばまでほぼ毎日雨。どうも出かける気がしない。ようやく秋晴れが続いているので、上野公園にある「旧東京音楽学校奏楽堂」に行ってみた。5年前から保存活用工事で休館していて、11月2日にリニューアルオープンしたばかり。実は一度も行ったことがなくて、数年前に上野公園を散歩した時は閉まっていた。国立博物館と都美術館の先、芸大の手前に移築されている。重要文化財指定。
   
 1893年に建設された日本最初の本格的ヨーロッパ式音楽ホールである。東京音楽学校、つまり今の東京芸術大学の演奏会場で、ここで多くの有名な音楽家が学んできた。滝廉太郎がピアノを弾き、三浦環が日本最初のオペラを演じた。1971年まで使われたから、戦後に活躍した音楽家もたくさん演奏したのである。老朽化で使用中止となり、一時は明治村への移築も検討されたが、保存運動が起きて地元の台東区が中心となって上野公園に移築された。1987年のことで、東京でも早い試みだった。現在も音楽会に使用される施設となっている。
   
 一階に展示施設があり、階段を上るとホールがある。舞台正面にはパイプオルガンがあり、天井には大きなシャンデリア。演奏会がある日は公開していないが、やってないときは座席にも座れる。入館料300円なりが必要だが、動物園や博物館は座って見る場所が少ないから奏楽堂もいいかなと思った。歴史を感じながら物思いに浸れる。まあ見物客は時々は来るが。
  
 窓から外を見たり、廊下を撮るのも面白い。外には滝廉太郎の銅像があった。展示室は写真を撮れないところもあるが、日本の音楽史に貴重な史料がいっぱい。奏楽堂自体は小さな施設だが、他にいっぱいある中で、ここも立ち寄るのも面白い。一度演奏会にも行ってみたい。隣の都美術館でムンク展を見ようかと思ったけど、どうもすごい混雑なので敬遠することにした。上野公園のあちこちをブラブラ歩きながら、松坂屋新館だったところにできたTOHOシネマズ上野で「ビブリア古書堂の事件手帖」を見て帰った。
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高島平から東京大仏まで②-古民家と赤塚城

2018年04月08日 22時39分33秒 | 東京関東散歩
 高島平周辺の散歩の2回目。暖かくなると散歩に行きたくなる。出掛けた日は北風が吹いた涼しい曇りの日で、年に何回もない散歩日和だった。もう晴れ渡ると暑いぐらいで、地下鉄は冷房を入れているから注意がいる。さて、都営地下鉄三田線の高島平で降りて、行きたいところがあった。(美術館だけなら終点の西高島平の方が近い。)それは「旧粕谷家(東の隠居)住宅」という古民家で、今年の1月31日から公開されている。新聞で見て知ったんだけど、行き方がよく判らない。でも今はスマホですぐ道案内が出てくるから、確かに便利なんだよな。

 高島平駅から西へ団地を抜けると、高速道路がある。そこを過ぎると坂道になっている。ここら辺は「武蔵野台地」の東のはずれの方で、案外アップダウンがあってビックリした。そんな中を丘の上の小学校をぐるっと回って探し回りながら、やっと「粕谷家」を見つける。案内板のようなものがない。2007年に所有者から区に寄贈され、建築当初の様子を復元した。「享保八年」(1723年)の建立を示す墨書が発見されたという。こういう古民家は何度も見てるけど、正直言って細かい違いは判らない。でも関東最古級の民家だというから貴重である。

 そこから高速道路の下まで降りて行くと、赤塚公園になっている。この公園も昔は城の一部らしいが、なかなかいい散歩コースだ。そこを10分ぐらい北へ歩くと、赤塚溜池公園。もとは赤塚城の堀の一部だったともいう溜池で、多くの人が釣りをしていた。
  
 溜池公園に「板橋区立郷土資料館」と「板橋区立美術館」がある。溜池の真ん前が郷土資料館で、そこにも「旧田中家」という古民家が移築されている。こっちは江戸時代後半というだけで、具体的な建築年代は書いてない。屋根は萱葺きじゃなくて、稲わらとススキだという。大まかには粕谷家と同じような感じで、細かい違いは判らない。近世の板橋は中山道の最初の宿場町で、宿駅の負担もあった。また鷹狩で将軍が立ち寄る場所でもあった。資料館には様々な実物史料が展示されている。明治になって貸座敷となった新藤楼の門が館前にあって興味深い。
   (真ん中が旧田中家、最後が新藤楼)
 資料館の前が高台になっていて、赤塚城の説明板がある。階段を上り切ると、広い原っぱになっていて、今はどこにも城の面影はない。関東の中世のお城には、そういうのが多い。丘というか台地というか、自然の地形を利用して堀を整備して敵に備える。この一帯は荒川に近く、交通の要衝だった。1回目に書いたように、城の主は千葉氏で1456年と伝えられる。江戸時代になると、幕府のおひざ元で大きな城は必要ないから、中世の城跡はよほど大きな山城以外は荒廃して、ほとんど址も判らない。赤塚城もそんな感じ。関東の中世史を勉強しないといけないなあと思う。
  
 ところで今では高齢化が進む一方という高島平団地。昔は「自殺の名所」なんてありがたくない名所だった時代もある。(今は防備のフェンスが設置されている。)団地に住んだことがないので、感覚的によく判らないんだけど、とにかくここはどこまでも高層団地が並んでいるのは壮観だった。美術館から東京大仏、松月院を見た後は、東上線下赤塚駅に向かって帰った。
 
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高島平から東京大仏まで①-乗蓮寺と松月院

2018年04月07日 23時05分16秒 | 東京関東散歩
 板橋区立美術館の周辺には史跡がいっぱいある。ついでに、いろいろと回ってみたが、まったく知らない地域である。大体、板橋区めざして出かけたことも人生で1、2回しかないと思う。そのぐらい板橋区って縁遠い。美術館もよりの高島平には、1972年から入居が始まった「東洋一」の高島平団地(当時はよく「東洋一」と言われたもんだ)があるのは知ってたけど、行ったこともなかった。後で書くけど、高島平という地名そのものが歴史だった。いや、知らなかったなあ。

 美術館などがある「赤塚溜池公園」から「東京大仏通り」を5分ほど行くと、乗蓮寺(じょうれんじ)がある。そこに「東京大仏」がある。なんでも奈良、鎌倉に次ぐ全国3位だとか。「青銅製の鋳造仏像としては」という限定付きだけど。首都高建設により1973年に今の場所に移転され、1877年に大仏を作った。天保飢饉供養塔などの他、駒込にあった藤堂家下屋敷にあった多くの石像が置かれている。下の3枚目の写真は、「役小角」(えんのおづぬ)で、他にもたくさんあった。
  
 乗蓮寺の近くの松月院(しょうげついん)に幕末の砲術家・高島秋帆(たかしま・しゅうはん)の顕彰碑がある。長崎で西洋式砲術を学び、高島流砲術を完成させた。アヘン戦争後の1841年、危機感を持った秋帆は江戸に出て公開演習を行った。その時に弟子たちと泊ったのが松月院で、近くの徳丸が原で砲術を行った。それで「高島平」という地名が作られたのである。
  (2枚目が秋帆顕彰碑)
 ここは中世に千葉自胤(ちば・よりたね)が近くの赤塚城に移ってきて、近くの寺を菩提寺と定め松月院と名前を改めさせた。千葉氏というわけだから、もともと下総の一族だけど、鎌倉公方や関東管領の上杉氏が分裂して争った「享徳の乱」で、一族が分裂して自胤は武蔵に逃れた。その後、後北条氏に仕えたが秀吉の小田原征服で滅んだ。その移ってきた自胤の墓と伝えられるものが今も残っている。また「次郎物語」で有名な作家、下村湖人の墓もある。
 
 もう一つ、この松月院は三遊亭圓朝の有名な怪談「乳房榎」の舞台とされたところである。今の寺域から外れた道沿いにあるので、なかなか見つけにくいけど、記念碑がある。それも道沿いにフェンスがあって近づけない。お参りすると乳が出るようになる榎ということだけど、それはよく判らない。「乳房榎」は「牡丹灯籠」ほど知られていないけど、面白い話だ。因縁話がわかりにくいけど。ここだったのか。何だか長くなってきたので赤塚城や古民家の話はもう一回別に。
   (これが乳房榎)
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旧安田楠男邸を見に行く

2018年04月04日 23時16分59秒 | 東京関東散歩
 水曜と土曜しか開いてない旧安田楠男邸庭園という場所がある。安田楠男(やすだ・くすお)と言っても判らないけど、安田財閥を築いた安田善次郎の三女の婿、安田善四郎の長男である。1995年に亡くなった後に、夫人が日本ナショナルトラストに寄贈し、公開されている。この季節には2階からシダレザクラが見事に見え、一幅の日本画のようだというので見に行ってみた。今年は開花が早いので、もうすでに終わりつつあったけど、それでも見事だった。
   
 上の写真は最初がカラーで、次に同じ写真をあえて白黒に加工してみた。モノクロの方が面白いかなと思ったので。桜が満開だったらカラーの方がいいだろうが。この庭園には桜が一本しかないんだけど、2階の書院造の部屋から見ると実に見事。手が届くほど近くから見られる。ところで、旧安田楠男邸と言うけど、作ったのは安田家ではなく、藤田好三郎という人で豊島園の創始者である。震災後に家を失った安田善四郎が買い取った。藤田は中野にもっと広大な家を持っていたんだという。そっちは残ってないので、藤田好三郎という人はこの邸宅で名前が残った。
  
 旧安田楠男邸は地下鉄千代田線千駄木駅で降りて、団子坂を登って団子坂上から案内に従って5分ほど。団子坂というのは、鴎外の邸宅・観潮楼(現・森鴎外記念館)があったり、漱石の「三四郎」に出てくるところ。乱歩の「D坂の殺人事件」のD坂でもある。隣には高村光雲遺宅もあって、なかなかのお屋敷町。団子坂は今でもかなり急だけど、ゆるゆる登れば案外駅から近い。

 観覧料500円を払うと、荷物は預けてガイドの解説付きで周る。そのことで最初の作り主、藤田がいかに「目立たないぜいたく」をして作り上げたかよく判った。写真は撮れるけど、そんなには撮らなかった。1階の応接間や廊下の写真はこんな感じ。3枚目は台所。もともとは土間だったというが、楠男氏の結婚に際して当時最新式の台所に改装された。都市ガスを使っていた。昔の冷蔵庫(氷を入れて冷やす)などもあって面白い。
   
 だけどやっぱり2階が素晴らしい。庭から見るとまた違うかもしれないけど、水曜日は庭に出られない。このような近代の建築が震災、戦災を超えて、ほぼ建築当時のまま東京・山手線内に残っていたのは素晴らしい。また一年に2階だけ防空壕の公開もある。1階の畳を除けると、そこからコンクリ製の地下室に通じているもので、写真を見るとかなり不思議。興味深い建物が残されていたものだと思う。東京にいても見てない人が多いと思うけど、是非訪れる価値がある。今年の8月いっぱいで1年以上耐震建築のため休館。
 
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