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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

劇作家・別役実の逝去を悼む

2020年03月13日 21時12分41秒 | 演劇
 劇作家の別役実が3月3日に死去した。82歳。葬儀は親族で営み、訃報は10日に発表された。姓の読み方は「べつやく」だと思っていたし新聞の訃報にもそう出ているが、日本人の姓としては「べっちゃく」と読む方が多いらしい。訃報を見ると、どれも「不条理演劇を確立した」と出ている。カフカやベケットの影響を受け、日本で不条理演劇を書き始めたとか…。まあ、その通りなんだけど、それでは一度も見てない人はきっと「すごく難しいお芝居なんだろうなあ」と思ってしまうだろう。

 僕が最初に見た別役戯曲はテレビだった。文学座アトリエ公演「にしむくさむらい」が評判になって教育テレビで放映していたのである。その不思議な劇世界にものすごく心惹かれた思い出がある。(ところで最近は「西向く侍 小の月」を知らない人がいるらしい。)別役は生涯に144本もの劇を書いていて、全部が載ってるサイトが見つからない。だから正確な時期が判らないけれど、同名の戯曲集は1978年に刊行されているから1970年代後半だ。自分は大学生だったからお金の問題で演劇を気軽に見に行くことは難しい。映画だってロードショーじゃなくて、ほとんど名画座で見ていた時代なんだから。

 いつ実際に公演を見に行ったのかも覚えてない。でも別役実の新作はできるだけ見ようと思っていた時があって、結構見ている。その多くは信濃町の文学座アトリエで見たと思う。「天才バカボンのパパなのだ」(これが最初かも)、「ジョバンニの父への旅」「やってきたゴドー」なんかは見たと思う。文学座の名優三津田健の最後の作品「」も見てる。どうも「見てると思う」という書き方になってしまうけど、別役作品は「ストーリー」じゃなくて「シチュエーション」(状況)だから、どれを見てもストーリーで覚えていることが出来ない。それが「不条理演劇」ということになる。

 あり得ない状況がすでに設定されていて、そこにあり得ない展開が連続してゆく。見てると笑いの連続で、しかし「世界のフシギ」が露出している感じがする。状況がおかしいので、普通に話せば普通のはずのセリフが微妙におかしく感じられる。晩年になると、どうも毎回似てるな感が強くなったきがするが、いずれにせよ、そこには「世界の荒涼」が見え隠れする。70年代、80年代の劇にはそんな感触が強かった。僕は面白いからというよりも、その精神の荒野に惹かれて見ていたと思う。

 そしてそれは別役実が「引揚者」だったからだろうと思っていた。別役は1937年に当時の「満州国」の首都「新京」(長春)で生まれ、幼くして父が亡くなり敗戦とともに母と長野県に引き揚げてきた。そこで生まれたんだから、元々は日本の侵略だと頭で理解出来ても「ふるさと」を失ったという思いは消えない。1932年生まれの作家、五木寛之も生後まもなく朝鮮半島に渡り父の勤務とともに各地を転々とし、敗戦後に日本に帰った。21世紀になって、仏教(というか親鸞や蓮如など)の作家というイメージになったが、若い頃は「デラシネ」(根無し草)を称して漂泊者のロマンを紡いでいた。

 他にも安部公房日野啓三三木卓など、「引揚者」の文学系譜がある。30年代生まれの子どもたちが幼くしして故郷を失い「本国」へ戻っても受け入れられない現実に直面した。その子どもたちが70年代、80年代に「自己表現」を始めたのである。時間が経って忘れられたかもしれないが、僕の若い頃には多くの人が意識していた。これらの人々の書いたものには、どこか共通の感覚がある。何だか日本じゃないような場所で、幻想か現実かも判らないような不思議な世界。別役実の劇世界も、僕はそのような日本近代史の背景の中で出てきたものだと思っている。

 劇だけじゃなく、小説、エッセイ、評論もものすごくたくさん書いている。評論はあまり読んでないが、エッセイに当たるんだろう「虫づくし」(1981)は面白かった。「○○づくし」というシリーズがある。小説というか童話なんかも沢山書いていて、教科書にも載ってるらしい。「別役実」と検索すると「別役実 教科書」というワードが出てくる。残された別役世界はずいぶん広いようだ。

追加・そう言えば小室等と六文銭が歌った「雨が空から降れば」は別役実の作詞だったと人から指摘されて、そうだったっけと思い出した。そうだ、それは70年代にはとても意味を持っていたことだった。調べてみれば、「スパイものがたり」というミュージカルの挿入歌だったとある。2015~16年に開かれた「別役実フェスティバル」では「別役実を歌う~劇中歌コンサート~」というコンサートまで開かれていた。僕は行かなかったので、当時チラシを見たことをすっかり忘れていた。「雨が空から降れば」は、僕らの世代では今でも雨の日につい口ずさむ名曲だ。作詞のことはすっかり忘れてた。
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「ねじまき鳥クロニクル」の舞台化を見る

2020年02月14日 22時25分19秒 | 演劇
 村上春樹の大長編小説「ねじまき鳥クロニクル」が舞台化された。東京芸術劇場プレイハウスで3月1日まで上演中。最近はなかなか劇場に行くこともなかったんだけど、昨年「海辺のカフカ」を見たから、こちらも見ておきたいと思った。これがまたミュージカル仕立ての不思議空間で、物語は原作同様に判らないながらも魅力的な舞台だった。それにしてもよく判らなかったけど。

 「ねじまき鳥クロニクル」は1994年に第1部、第2部、1995年に第3部が刊行された大長編で、このように3部まであるのは他には「1Q84」だけである。村上春樹文学の転換点になったと言ってもいい長編小説で、後の「海辺のカフカ」「1Q84」「騎士団長殺し」につながってゆく世界観が示されている。だけど、後の作品群が「判らないけど、判りやすい」のと違って、「判るけど、全然判らない」ような感じの小説だと思う。読んでない人には通じない表現だと思うが。舞台の物語はほぼ原作通りのイメージ。

 不思議なことに、登場人物が突然歌い出すシーンがある。まあそれはミュージカルと同じだから、趣向を知らなかったからビックリしただけで珍しいことではない。だが主人公「岡田トオル」役に成河渡辺大知の二人がキャスティングされている。普通の意味のダブルキャストではなく、シーンごとに演じ分けるのでもなく、二人共に舞台に出てくる時もある。一人の時もある。不思議で、どうもよく判らない。岡田トオルの猫が行方不明となり、見つかったと思ったら、妻が家を出て行く。猫を探すときに知り合う女子高生笠原メイ門脇麦。他に大貫勇輔(綿谷ノボル)、徳永えり(加納クレタ/マルタ)、吹越満(間宮中尉)、 銀粉蝶(赤坂ナツメグ)等々。なかなか豪華キャストだが俳優で見る演劇じゃない。

 スタッフを見ると、演出・振付・美術:インバル・ピント、脚本・演出:アミール・クリガー、脚本・演出:藤田貴大と演出に3人、脚本に2人の名前がある。インバル・ピントは「イスラエルの鬼才」とチラシにある。「100万回生きたねこ」など日本での経験も豊かなダンス演出家だという。アミール・クリガーは「気鋭」とあるがよく知らない。藤田貴大は近年注目され続けている劇作家・演出家。役割分担は判らない。そこに 音楽:大友良英が加わり、ライブで音楽を繰り広げる。

 ホームページにあるストーリーをコピーすると以下の通り。飛ばして貰って構わない。
岡田トオルは妻のクミコとともに平穏な日々を過ごしていたが、猫の失踪や謎の女からの電話をきっかけに、奇妙な出来事に巻き込まれ、思いもよらない戦いの当事者となっていく――。トオルは、姿を消した猫を探しにいった近所の空き地で、女子高生の笠原メイと出会う。トオルを“ねじまき鳥さん”と呼ぶ少女と主人公の間には不思議な絆が生まれていく。

 そんな最中、トオルの妻のクミコが忽然と姿を消してしまう。クミコの兄・綿谷ノボルから連絡があり、クミコと離婚するよう一方的に告げられる。クミコに戻る意思はないと。だが自らを“水の霊媒師”と称する加納マルタ、その妹クレタとの出会いによって、クミコ失踪の影にはノボルが関わっているという疑念は確信に変わる。そしてトオルは、もっと大きな何かに巻き込まれていることにも気づきはじめる。

 何かに導かれるようにトオルは隣家の枯れた井戸にもぐり、クミコの意識に手をのばそうとする。クミコを取り戻す戦いは、いつしか、時代や場所を超越して、“悪”と対峙してきた“ねじまき鳥”たちの戦いとシンクロする。暴力とエロスの予感が世界をつつみ、探索の年代記が始まる。“ねじまき鳥”はねじを巻き、世界のゆがみを正すことができるのか? トオルはクミコをとり戻すことができるのか―――。」

 読んでいても判らないと思うけど、舞台を見ても原作を読んでも同じように判らない。しかし、「井戸」「行方不明」「日本軍」「異世界での戦い」など、その後の村上春樹世界に決まって登場するシチュエーションがここで出そろった作品だった。それらの複雑なイメージが万華鏡のように散りばめられているので、キラキラ光る魅力はあるが完全に納得した感覚が持てない。そういう原作そのままが舞台化されていて、だから難しいけど音楽やダンスがあるから楽しい。そんな感じかな。何しろ一番判らないのは、笠原メイが主人公を「ねじまき鳥さん」と呼ぶこと。ねじ巻き鳥って何だろう、世界のネジを巻き続ける鳥? What? それが結局よく判らない。
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青鞜社を描く劇、永井愛「私たちは何も知らない」

2019年12月01日 23時20分40秒 | 演劇
 永井愛作・演出の二兎社公演「私たちは何も知らない」が上演されている(東京芸術劇場シアターウェスト)。近代史上に有名な女性運動のさきがけ、青鞜社(せいとうしゃ)に集う平塚雷鳥(本名明=はる)や尾竹紅吉伊藤野枝らをモデルにして、現代につながる問題を突きつけてくる。

 永井愛さんは最近は「ザ・空気」「ザ・空気2」など現代日本を風刺する劇を書いていた。「書く女」(樋口一葉)、「鴎外の怪談」など明治期の人物に材を取った劇もたくさんあるが、今回は「史劇」というより今に通じる「現代劇」だと思った。冒頭には「青鞜」創刊号に載せた有名な「元始、女性は太陽だった」がラップ調で流れる。「青鞜」発起人よりも若い世代である尾竹紅吉伊藤野枝なんかジーパン姿で登場するぐらいだ。なるほど、それもありかと思う。その分、昔感覚が薄れてはいるが。
(平塚雷鳥)
 「青鞜」に関しては、今まで様々に論じられてきた。演劇では宮本研ブルーストッキングの女たち」(1983)、小説では瀬戸内寂聴青鞜」(1984)がある。概説的研究書として堀場清子青鞜の時代」(1988、岩波新書)があり、岩波文庫には「平塚らいてう評論集」(1987)や堀場清子編「『青鞜』女性解放論集」(1991)が入っている。(今も生き残っている。)またドキュメンタリー映画として、羽田澄子平塚らいてうの生涯ー元始、女性は太陽だった」(2001)もあった。

 僕は近代日本の思想・文化が主たる関心テーマであり、長い間「メシの種」でもあったから、「青鞜社」についても関心を持ってきた。この芝居に描かれたエピソードもほぼ知っている。でも今書いて思ったけど、「青鞜」に関する熱い関心は80年代にピークを迎えたようだ。70年代初期に「反乱の季節」が終息し、胸底にわだかまる疑問が80年代に「青鞜」を論じさせたのか。1975年にメキシコで第1回「国際女性会議」が開かれ、以後の10年間を「国際女性(婦人)の10年」とした。1985年には日本で「女子差別禁止条約」が発効している。そのような時代だったことも大きいだろう。

 条約に伴い、高校家庭科の「男女必修」が実現した。今では当たり前すぎて、男子高校生が家庭科をやらなかった(その分の単位は体育だった)時代は想像出来ないだろう。30年経って、制度的な差別は一応無いことになって、明治大正は遙かに遠い。100年前の女性運動家の苦悩に無関心な人が多くても不思議じゃない。では、この劇は何を目指しているのか。過去の「偉人」を顕彰しているのか。そうではなく、主に20代だった草創期女性運動家の青春を今までにない観点で描いている。それは「セクシャリティ」や「リプロダクティヴ・ヘルス&ライツ」(性と生殖に関する健康と権利)といった観点だ。

 冒頭に若い画家の卵、尾竹紅吉(こうきち=本名一枝)が青鞜社を訪ねてくる。平塚雷鳥は不在で、事務をしている保持研(やすもち・よし、研子とも)がぶっきらぼうに対応する。そこに憧れの雷鳥が登場して、紅吉は舞い上がる。その後二人は「同性愛」を噂される仲の良さになるが、やがて雷鳥が年下の画学生奥村博と知り合って惹かれてゆく。(年下の男の愛人を「若い燕」と呼ぶのは、奥村が雷鳥にあてた手紙の一節から。)これらは有名なエピソードだが、今までは「バイセクシャル」な心の揺らぎには描かれなかった気がする。

 女たちが「編集部」に集まって議論するのも、「空気を読まない女たちがマジで議論した」とチラシにあるとおり、現代日本への風刺が込められている。(その意味では「ザ・空気」の続編でもある。)そのマジネタは、売春貞操などで、つまりは上司に迫られたら「身を売る」しかないのかという話だ。これは「セクハラ」であり、「#MeToo運動」につながる。制度的な差別は減った後でも、実質的には一世紀経っても続く問題があった。伊藤野枝が登場し、「意に沿わぬ結婚」からの逃亡、「早過ぎる結婚、出産」「社会運動への目覚め」へと至り(つには夫を捨て大杉栄に走る)のもまさに現代につながる。

 そのような若き女性たちの結節点となる平塚雷鳥朝倉あきがさっそうと演じる。ちょっとはつらつ過ぎにも思えるが、何しろ見映えがいい。映画「四月の永い夢」の主演で注目された。僕もこの映画は見ていて、落ち着いた演技は素晴らしかった。「かぐや姫の物語」のかぐや姫役の声優でもあり、多くのテレビドラマに出ている。対するに青鞜を受け継ぐことになる伊藤野枝藤野涼子。映画「ソロモンの偽証」の主役中学生でデビュー。最近はテレビドラマ「腐女子、うっかりゲイに告る」のヒロインだった。二人とも素晴らしいけど、まだ長いセリフが安定しない箇所もある。今後に期待。
(朝倉あき)
 主演級の二人もいいんだけど、僕は圧倒的に助演陣が素晴らしいと思う。事務を担当する保持研はウィキペディアに項目がないぐらいで、「青鞜」に関心がない人は聞いたこともないだろう。決して容貌には恵まれていなかったが、明るくて事務にたけ(しかし営業には向かない)人物を富山えり子が圧倒的な存在感で好演。映画「リバーズ・エッジ」で、性的に奔放な小山ルミの姉、太っていてオタクでBLマンガを書いている小山マコという役をやっていた。

 岩野清子役の大西礼芳もすごく良かった。尾竹紅吉役の夏子奥村博役の須藤蓮に加えて、評論家山田わか役の枝元恵も相変わらず快調。二兎社3回目で「シングルマザーズ」が思い出される。登場人物はこの7名のみ。省略された重要人物も多い。若い伸び盛りの役者がいっぱいで楽しかった。
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池袋西口野外劇場で「マハーバーラタ」を見る

2019年11月23日 22時45分47秒 | 演劇
 新設された池袋西口野外劇場の「杮落とし」(こけらおとし)公演の「マハーバーラタ~ナラ王の冒険~」を見てきた。「東アジア文化都市2019豊島バージョン」と銘打たれている。「マハーバーラタ」は古代インドの宗教的叙事詩で、「ラーマーヤナ」と並ぶ二大叙事詩で、ヒンドゥー教の聖典でもある。演出は宮城聰、製作・出演は「SPAC - 静岡県舞台芸術センター」。宮城聰はSPACの芸術総監督で、今までも「マハーバーラタ」を各地で上演してきた。歌舞伎座で新作歌舞伎としてやったこともある。今回は池袋の東京芸術劇場の真ん前に野外劇場が作られ、新たに豊島バージョンとして公演した。

 僕は静岡まで見に行くのが大変なので、宮城君の芝居を最近見てない。(君付けの理由は後述。)それまでの「ク・ナウカ」時代はいくつか見ているけど、久しぶりだから楽しみにして発売日にチケットを買いに行った。また豊島区や芸術劇場にも縁があるから、これは見ておかなくちゃと思った。数日前まで楽しみにしていたのだが、最後になって晴れの天気予報が変わった。午後2時半から入場、3時開演だから、それまでどこ行こうかと計画していたが、昨日からグッと冷え込んだ雨が降っている。もう他に行くのはやめにして、防備をしっかりして臨むことにした。

 お芝居の感想は「面白い」とか「判らない」とかいろいろあるだろうが、今日に限っては一にも二にも「寒かった」。小雨ながら、止むことなく降り続き、気温も低い。予定上演時間は90分なんだけど、それでも1時間が限界かなあ。最後の頃は早く終わってよと願うことしきり。ちょっと前まで、暖かな晴天の日が続いていた。まさか、こんなことになるとは。日本の野外公演といったら、「薪能」やあちこちの「ロックフェスティバル」が思い浮かぶが、やはり夏じゃないと難しいのかと思う。事前にチケットを買う必要を考えると、都市における常設野外劇場は最近の気象状況から難しいなと思った。
(シネリーブル池袋の男子トイレから見る、真ん中の丸い部分)
 「あらすじ」をホームページからコピーすると、こんな感じ。「その美しさで神々をも虜にするダマヤンティ姫が夫に選んだのは、人間の子・ナラ王だった。その結婚を妬んだ悪魔カリの呪いによって、ナラ王は弟との賭博に負け国を手放すことになる。落ちのびていく夫に連れ添おうとしたダマヤンティ。だが疲れて眠っている間に、彼女の衣の切れ端を持ってナラは去る。夫を捜して森をさまようダマヤンティを様々な困難が襲う。行く先々で危機を乗り越えた彼女はやがて父親の治める国へ。一方ナラも数奇な運命を経てその国にたどり着く。果たして夫婦は再会し、国を取り戻すことが出来るのか…。

 円形部分の中に椅子を置いて観客席とする。円形部の上が舞台となり、一周をうまく使った。その下に楽器が置かれて、音楽と演技が一体化している。この構造は面白いけど、周りをさえぎるものは何もなく、向こうに「ビックカメラ池袋西口店」のネオンが見える。宮城聰の舞台は、演技者とセリフが分かれることが多い。つまり、人間で行う文楽(人形浄瑠璃)のような感じ。今回も大部分はそうだけど、重要なところはナラ王やダマヤンティ姫が自ら語る。最初にナラ王とダマヤンティ姫が登場するときは、厳かすぎて「即位の礼」か何かか。ナラ王が賭博で国を失った後はコミカルなやり取りも多い。
(ホームページから)
 大団円でダヤマンティ姫が登場するときは、その神々しい姿が圧倒的だ。演じる美加里の存在感の大きさ。「平安時代の日本にインドの叙事詩『マハーバーラタ』が入ってきたらどういう化学反応が起こったか?」とホームページに演出意図が語られている。話自体は判りやすくなっていて、セリフも口語だから理解出来る。音楽と相まって、祝祭的な交響感覚が場内を覆うはずのところ、ある程度は感じ取れたけど、やっぱり寒いなあという観劇体験だった。

 前に「見田宗介「現代社会はどこに向かうか」を読む」(2018.12.30)で書いたけれど、僕は1980年に見田宗介さんを囲む講座に参加したことがある。その会が終わっても、時々事後の集まりを持っていた。そのメンバーの一人だったのが宮城聰君で、僕の方が少し年長だから当時「君」付けで認識してしまった。当時は東大生で自分の劇団を作ろうとする頃だった。先代の林家正蔵(8代目)が大好きだというのが印象的だった。その後、東大をやめてプロになると宣言した頃からは、集まりにも顔を出してないと思う。ずいぶん活躍してるなと遠くで見てるだけ。

 なお「こけらおとし」とは「新たに建てられた劇場で初めて行われる催し」のことだが、「」(こけら)と「」(かき)は違う字である。旁(つくり)の部分が「こけら」は4画で、「かき」は5画なのである。「こけら」って言うのは、材木を削った際の木片のこと。
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舞台「海辺のカフカ」に深い感銘

2019年05月23日 22時56分48秒 | 演劇
 赤坂ACTシアターで上演中の「海辺のカフカ」を見て、深い感銘を受けた。(6.9まで。)全員じゃないけど、久方ぶりにスタンディング・オベーションを見たから、観客もかなり満足したんだと思う。「海辺のカフカ」はもちろん村上春樹が2002年に発表した長編小説である。2012年に蜷川幸雄の演出でさいたま芸術劇場で日本初演された。「海辺のカフカ」は刊行直後に読んだときから好きな小説なんだけけど、さいたまは遠いから見なかった。2014年に東京でも再演されたが、ここでも見逃して、今回が初めて。今回はパリの「ジャポニズム2018」で公演され、今回が東京凱旋公演とうたっている。

 ちょっとキャストを確認しておく。後半で中心的な役割を演じる、高松の不思議な図書館の管理をしている女性「佐伯」は、初演が田中裕子、続いて宮沢りえ、今回は寺島しのぶ。高い席から見てるので、誰でもよく判らないんだけど、もともと舞台の寺島しのぶはうまいと思ってる。非常に良かったと思う。その図書館の司書は初演が長谷川博巳、次が藤木直人、今回が岡本健一。主役である「世界で一番タフな15歳」の田村カフカ少年は、初演が柳楽優弥だったが、再演からオーディションで選ばれた古畑新之(ふるはた・にいの、1991~)が務めている。素晴らしい存在感で要注目である。

 演出は初演時と同じく、すでに亡くなってはいるが蜷川幸雄がクレジットされている。脚本は誰だろうかと思うと、アメリカ人のフランク・ギャラティという人で、2008年にアメリカで初演されていた。村上春樹の長編小説には、二つの違った世界の物語を並行して描く話が多い。舞台の「海辺のカフカ」は、そのような原作の構造をそのまま生かしている。じゃあ、どうやって舞台化するのか、回り舞台でも使うのかと思ったら、全然違った。舞台にいくつもの透明のアクリル板で囲まれた小空間が存在する。(前面だけは開いている。)それらに車が付いていて、黒子が話が変わるたびにアクリル板空間を動かすのである。これは原作の透明感をうまく可視化するとともに、世界がいくつもの別個の小宇宙で構成されているという世界観を示しているようで、非常に面白かった。

 原作がそうなんだから仕方ないとはいえ、突飛な話がコロコロ入れ替わる。もし原作を知らない人が初めて見たらそう思うのかは判らない。僕は原作で大好きな、猫語を話せるナカタ老人木場勝己のさすがと言うべき忘れがたい名演)、トラック運転手の星野青年(高橋努)の絡みが素晴らしく面白かった。原作で忘れられないカーネル・サンダースもちゃんと「正装」で出てくる。原作だと「オイディプス王」だなと思うと同時に、「源氏物語」や「雨月物語」だなと思う箇所も多かったと思う。でもアメリカ人による脚本だからかと思うが、そういう日本の怪異イメージはほとんど見えてこない。

 その結果、ナカタ老人パートは象徴的イメージが弱まり、田村カフカ少年パートの持つ意味がくっきりと浮かび上がる。日本でもますます重大な問題と意識されている「被虐待少年」がいかに「自己の尊厳」を見つけ出すか。そして「ゆるし」を経て生き直せるかという現代人にとっての大テーマである。象徴的な意味での母、父を乗り越えて、ようやく少年に「自立」へ向かう道が開かれる。それは非常に感銘深く、この物語がまさに今を描いていると思った。

 原作では佐伯が昔書いた詩に曲を付けた「海辺のカフカ」が大ヒットしたとされている。その歌詞にある「入り口の石」を通して二つのパートは入り組みながら関連している。その曲が実際に歌われるんだけど、まあこれはどうなんだろうと思わないでもない。また村上春樹が早稲田大学在学中に起こった革マル派による「川口君殺害事件」の影が非常に濃いことに改めて強い印象を受けた。「連合赤軍事件」に大きな影響を受けた作家に大江健三郎や立松和平らがいる。村上春樹は後のオウム真理教事件(地下鉄サリン事件)との関わりが印象に強いけれど、同時代に起きた「内ゲバ」事件のもたらした衝撃も忘れてはいけないんだろうと思った。
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新国立劇場のチェーホフ「かもめ」

2019年04月20日 23時41分09秒 | 演劇
 新国立劇場でチェーホフの「かもめ」を上演している(29日まで)。「かもめ」はよく上演されるが、今回はちょっと珍しい試みをしている。すべてのキャストをオーディションで選んでいる。そしてイギリスのトム・ストッパードによる英語台本を小川絵梨子が翻訳したものを使っている。(演出は鈴木裕美。)ストッパード版を使うのも異例だが、なんと言っても全キャストをオーディションで選んだことが成果を上げたかどうか。それが上演の成否を握るが、残念ながら成功とは言いがたいと思う。

 小川、鈴木らは前から全キャストをオーディションで選んでみたいと思っていたという。昔は「劇団公演」で上演されたから、大体配役は予想できる。ときたま劇団内で抜擢があったとしても。演出で新しい解釈などは少ない代わりに、いつも一緒に稽古してるから仲間でやるから脇役や裏方の技術は安定している。今も劇団はたくさんあるが、大きな劇場のプロデュース公演では、集客力を考慮して初めから有名俳優を主演級にキャスティングすることが多いだろう。そうなるとキャストが固定し、新しい才能が出てきにくい。僕は今回の出演俳優を一人も知らないけれど、それが可能なのは「新国立劇場」だからだろう。(もともと料金も安いし、製作費回収の重圧も低いだろう。)

 オーディションのためには有名な戯曲がいいが、チェーホフは群像劇だから、シェークスピアよりいいんじゃないかと演出家側は考えたらしい。実際応募者が殺到して選考は大変だったようで、みんな熱演している。それはストッパード版の影響もあるかもしれない。トム・ストッパードは「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」や「ロックンロール」などで知られる劇作家だが、「恋に落ちたシェークスピア」でアカデミー賞脚本賞を受賞したことでも知られる。大体みんな元気なセリフ劇が多くて、なんだかストッパード的チェーホフの気がした。オーディションがその印象を増大していると思う。

 チェーホフも「かもめ」も有名だから、ここで劇の内容には触れない。でも少しは書かないと先へ進めないからちょっとだけ。19世紀末のロシア。ある湖畔の領地に、大女優のアルカージナが流行作家のトリゴーレンと一緒に滞在している。アルカージナの息子トレープノフは作家志望で、恋人のニーナ主演の劇を上演しようとしている。ところがすったもんだがいろいろあって、ニーナは女優を夢見てトリゴーレンと一緒にモスクワに行ってしまう。そして2年後…ということになる。

 人が皆ずれた人間関係を抱えて右往左往している。夢を追っては挫折して行く人々はチェーホフの有名な4大戯曲(書かれた順で「かもめ」「ワーニャ叔父さん」「三人姉妹」「桜の園」)に共通している。昔はこれは帝政ロシアの滅び行く階級を描く「悲劇」だとソ連や日本では解釈されることが多かった。しかしチェーホフ本人は「喜劇」と呼んでいて、近年は「喜劇」として演出することが多い。喜劇と言っても、悲劇も起こるのでカッコ付きである。人間関係のズレが「おかしみ」をもたらす。

 「かもめ」は、役柄に「大女優」や「人気作家」があるんだから、完全なオーディションじゃなくてもいいと思う。そうじゃないと、アルカージナが大女優に見えてこない。大女優は役として大女優というだけじゃなく、皆が知っているという知名度があった方が劇に入りやすい。ただでさえチェーホフを見るときに(あるいはドストエフスキーを読むときに)、誰が誰だか人名が判らなくなってしまう。トリゴーレンとトレープノフが(聞いてるだけでは)区別しにくい。だから知ってる役者がいないとチェーホフ劇は判りにくくなる。僕はそんなことを思ったのである。

 なおウィキペディアの「かもめ」の項目に、日本の主な上演のキャストが掲載されている。やはりアルカージナやトリゴーレンは有名な俳優が演じている。ニーナは若い女優だから、近年ではアルカージナが大竹しのぶ、ニーナが蒼井優といった感じ。これなら見ただけでイメージが湧く。世界初演のサンクトペテルブルクでは酷評されたが、1898年のモスクワ芸銃座公演で成功した。この時の配役は、アルカージナがオリガ・クニッペルで、大女優にしてチェーホフ夫人。トリゴーレンはスタニスラフスキー、トレープノフはメイエルホリドという超豪華な伝説的な舞台だった。

 オールキャストのオーディションそのものは否定しない。だけど選考が大変過ぎると本末転倒になる。群像劇のチェーホフよりも、やるんだったらシェークスピア、それも「ロミオとジュリエット」なんかでやったらどうか。ロミオやジュリエット役に選ばれたら大注目を受けるんじゃないか。あるいは「リア王」。老け役じゃなくて、現実の高齢者をオーディションで選ぶ。その方が面白いんじゃないか。
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文学座「寒花」を見る

2019年03月09日 21時22分46秒 | 演劇
 文学座公演「寒花」(紀伊国屋サザンシアター)を初日の4日に見た。このところパソコンからのネット接続が不調だったけれど、9日になってようやくつながったので簡単に書いておきたい。鐘下辰雄作、西川信廣演出。12日まで。もともと1997年7月に文学座アトリエ公演として上演され、第5回読売演劇大賞優秀作品賞紀伊国屋演劇賞個人賞(鐘下辰雄)などを受賞した作品。初演は見てないし、記憶もない。テーマ的にも関心があったはずなんだけど。

 1910年、外は雪が吹きすさぶ寒い旅順監獄。そこに伊藤博文を暗殺して死刑判決を受けた安重根(アン・ジュングン)が厳重に拘禁されている。泰然自若としている安重根に対して、さまざまな反応を見せて揺れる日本側の関係者。舞台上には壁があり、窓の向こうに雪が降っている。手前に机や椅子があり、そこでドラマが進行する。時々セットが回って、安重根の独房や通訳の家などになる。舞台装置はシンプルながら印象的で、圧迫されつつも外に降る雪が心に残る。三一独立運動から百年の年に再演された「寒花」には大きな意義がある。(「寒花」とは雪のことだという。)

 監獄側はでは取り外しができない手錠(つまり鍵がなくて一度はめたら壊すしかない!)を準備するなど厳重な手筈を整えている。そこへ内地の外務省から政務局長がやってくる。彼は一日一回喫煙を認めるなど、監獄の通例からは緩すぎる措置を命じる。安重根は「何よりも確実に死刑にしなければならない」存在だからこそ、脱獄は無論だがハンストや病気などによる獄死も防がないといけない。死刑にするためにこそ「健康」でいてもらわないといけない。そのために医者も用意されるし、たまたま医者と同級生だった通訳もやってくる。

 医者は監獄側にも安重根にも思い入れはなく、自分は傍観者だと語る。一方、楠木通訳(佐川和正)は安重根(瀬戸口郁)と語り合ううちに、死刑囚にはありえないような安定した心情を持つ安に惹かれてゆく。医者は楠木通訳に対して、うちに食べに来いなどと誘うが、通訳の反応はいつも煮え切らない。何か隠れた事情があるなと思うと、実は老いた母が正常な心を失っていた。日露戦争で戦死した兄が生きていると信じていて、弟が誰だか判らない。そんな家庭事情から人を招くこともできなかったのである。母親を演じている新橋耐子は素晴らしい存在感。

 安重根はキリスト教信者として、死は超越しているように見える。それが劇中の人々を変えてゆく。捕えている側も感化されてゆき、外せない手錠も壊すことになる。その過程は興味深いドラマだが、今ではかなり知られているだろう。むしろ看守に遺した書などが出て来ないのが不思議である。日本の朝鮮侵略をめぐるドラマというよりも、「死刑」を前にして様々な立場に立つ人々のドラマになっている。それはそれでいいと思うが、宗教や通訳の母の「病気」などいろんなものが絡んで、多少テーマが拡散している気もした。それでも緊張感に満ちた力作だ。
 (安重根)
 ドラマの最終盤、安重根は伊藤博文暗殺と同じ日に処刑される。これは「祥月命日」という意味で、暗殺事件は1909年10月26日死刑執行は1910年3月26日である。その年の8月29日が「韓国併合」である。安重根が「単なる殺人犯ではない」のは今では常識である。韓国では「義士」として評価されていて、ソウルの南山(ナムサン)に記念館がある。ナムサンタワーの下だから、日本で言えば東京タワーに作られたようなものである。

 ハルビンに安重根の記念室が作られたとき、菅官房長官が「日本から見れば殺人犯」と述べた。そういう言い方をすれば伊藤博文も「放火犯」であり「テロリスト」である。(幕末に江戸の英国領事館を放火した。)伊藤博文は日本が大韓帝国を「保護国」にしたときの、韓国統監府の初代統監である。大韓帝国への侵略責任があるのは確かだし、統監時代の出来事(ハーグ密使事件後の皇帝退位など)に政治的責任がある。しかし、安重根が挙げる伊藤博文の罪状はほとんどが歴史的には間違いだらけ。伊藤暗殺事件の時には、すでに韓国併合方針は閣議で決定されていた。

 ところで伊藤博文はなぜハルビンを訪れたのか。日露戦争の10年後、第一次世界大戦では日露は同じ連合国側である。日露戦後に英国の最大の脅威は、ロシアから強大化するドイツに代わっていた。そこで日露も関係の修復が図られ、4次に及ぶ日露協約が結ばれる。そのような日露関係の中で設定されたロシアの大蔵大臣との会談のため伊藤博文はハルビンに出かけたのである。ハルビンは清国の領内だが、事件の起きた駅構内はロシアが管轄していて、安重根はロシアに拘束されて日本に引き渡された。そして租借地の関東都督府(後の関東州)で裁かれた。事件発生地や被告人の国籍国以外で死刑にされたわけだが、法的には問題はなかったんだろうと思う。
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劇団民藝「時を接ぐ」-満映で働いた女性編集者

2018年09月29日 21時15分23秒 | 演劇
 劇団民藝の「時を接ぐ」(つぐ)を見た。10月7日まで。新宿の紀伊国屋サザンシアター。岸富美子・石井妙子「満映とわたし」(文藝春秋刊)の舞台化で、黒川陽子作、丹野郁弓演出。石井妙子は「おそめ」や「原節子の真実」を書いたノンフィクション・ライターで、その本は満映で働いた経験を持つ岸富美子の話をまとめたもの。まあ読んでないけど。

 あらすじをコピーすると、「東洋一とうたわれた映画撮影所、満洲映画協会〝満映″。戦中、日本から大陸へとわたった多くの映画人たちは、1945年8月15日の敗戦を境に過酷な運命をしいられることとなる。「編集」という映画製作では、もっとも地味でかつ重要な仕事を担うひとりの女性技師。逆境のなかで、彼女は、技術者としての確かな腕と誇りで、自らの人生を切り拓いていくのだった……。」ということになる。満映の理事長は関東大震災後に大杉栄、伊藤野枝らを虐殺した甘粕正彦。満映が生んだ大スターが「李香蘭」で、「満州人」とされたが実は日本人の山口淑子

 甘粕の話はちょっと出てくるが、話は淡々と進む。主人公の家は貧しく、兄が映画会社に勤めた。やがて「満映」に行って妹も勤めることになるが、何せ「編集」という仕事だから見栄えはない。自伝の舞台化だから、時間軸に沿って進むが、いつのまにか日本も敗色濃厚になっている。マジメで浮いた話もない主人公に周りが縁談を世話して、お見合いらしいお見合いもなく結婚したのは昭和20年8月11日(だったかな)。そこで休憩になって、二幕目に入ると主人公一家は炭鉱で働いている。そこで夜は政治集会があり、主人公も自己批判を要求されたりする。

 その後、満映の撮影所は「東北電影」となり、主人公は呼び戻されて編集の仕事を中国人助手に教えることになる。そして革命後の中国映画の代表作と言われた「白毛女」の編集にも実質的に携わることとなった。と話は進むけど、舞台の上は不思議な感じで進行する。装置を作り直しつつ、多くの俳優が舞台上で主人公たちの演技を見ている。それは「中国人民衆」でもあるだろうが、映画に出ている俳優たちでもある。彼らが俳優として自在に舞台上を動くことで、「編集」の仕事がよく判る。そんな風に進んできて、本の元になった記録を読んでいた主人公の娘がツッコミを入れる。書いてない時期がある。お母さんはなんか怒っているけど、それは何故?

 主人公は「満映」で仕事をしていたが、それは「日本帝国主義」のために働いていたのか。敗戦後は中国革命後の「東北電影」で働くが、「編集」という仕事は脚本や監督の意図をよりよく生かすための「技術」でしかないと思っていたのだ。しかし仲良くしていた(と思ってた)中国人監督は家族を日本軍に虐殺された過去があったが、主人公は全然知らなかったし、初めは信じられなかった。単なる「技術」なんてものはないんだとそこで気づいた。自分は自分に怒っていたのだと語る。そして単にフィルムをつなぐだけでなく、歴史の記憶を次の世代につないでいくのが大切なんだと。

 ということで最後になると、この劇が何を言いたいのかがよく判るんだけど、そこまでが淡々と進み過ぎる。せっかく「満映」を舞台にしながらも、あまりドラマがないまま進んで行く。前半は特にそんな感じで、疲れていたから眠くなってしまった。やはり劇というのは、もう少し「劇的」な展開が必要なんじゃないか。これほどの題材をもとにしながらも、なんだか淡彩なイメージで残念。「満映」や「満州国」がどのように映画かれているのかという関心から見たいと思ったんだけど…。主人公の岸冨美江役は日色ともゑの熱演。役者もいっぱい出ていて頑張ってるんだけど、どうも淡白な舞台になるのが最近の「新劇」かな。
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サルトルの「出口なし」を見る

2018年09月20日 21時22分04秒 | 演劇
 シス・カンパニー公演、ジャン=ポール・サルトル作の「出口なし」(小川絵梨子演出・上演台本、新国立劇場小劇場)を見た。サルトルというより、大竹しのぶをしばらく見てないなあという程度の動機。発売初日に買った時、19日午後2時のB席しかなかった。大竹しのぶと言えば、この舞台の上演中(8.25~9.24)である9月1日に母親が亡くなった。亡き母の名前は聖書にちなむ「江すてる」だということだが、今回の劇で共演している多部未華子の役名が「エステル」だった。大竹しのぶは何度も「エステル」とセリフで呼ぶ。聴いてる観客としても何だか深い感慨を覚えた。

 演劇公演は長いときが多いけど、今回は1時間20分とすごく短い。サルトルがナチス占領中のパリで書いてパリ解放直前に上演された一幕ものである。設定は簡単で、とある密室に2人の女と1人の男が集められる。窓も鏡もない部屋で、何が何だかわからない。男はジャーナリストのガルサン(段田安則)、女は郵便局員のイネス(大竹しのぶ)、そして年が離れた裕福な夫がいたエステル(多部未華子)。他に門番みたいな役があるが、ほとんどこの3人で進行する。

 この3人はお互いに知らない間柄で、同じ場所にいるから自分の話をし始めるが理解しあう気持ちもない。出口なき密室で傷つけあう3人。しかし段々わかってくるけど、3人は死者でありここは地獄なのである。地獄と言っても拷問のような身体的に苦しい目には合わない。その代りに知らない人間どうしで永遠に密室に幽閉されるという刑罰を受けているのである。しかし彼らの人生には地獄に落とされるほどの悪をなしたのだろうか。

 サルトルと言えば「実存主義」であり、「アンガージュマン」(参加)である。70年代には世界的にもっとも有名な作家・思想家だったが、その後サルトルの失墜が起こった。実際にサルトルの様々な「参加」の選択は今となれば間違いが多かったと思う。でも21世紀になって、サルトル後の様々な思想家たちも相対化して見られるようになり、サルトルもちょっと見直されている。僕も「アルトナの幽閉者」の公演や仏文学者鈴木道彦(「嘔吐」の新翻訳者)の講演について書いた。

 何度たたいても開かなかった密室の扉が、ラスト近くで突然開くシーンがる。皆出て行けばいいはずだが、それでも突然の事態に皆留まることを選択する。「地獄」の中にあえて留まる。それはパリ占領下のサルトル自身のことなんだろうが、僕は見ているうちにこれは現代の話だと思った。トランプ政権のような、あるいは安倍政権のような、あるいはシリアで、ガザで、ミャンマーで、今までの経験では理解できない時代になっている。僕らは「地獄」にいるのではないのか。そして、そこから逃げられない以上は「引き受けて」「参加」するしかないんじゃないか。

 短いドラマだけど、それがサルトルを今見る意味なのかと思った。サルトルは小説以上に戯曲を書いていて、50年代のサルトルにはもっと注目すべき劇があると思う。役者では大竹しのぶ、段田安則がうまくて安定しているのは当たり前。そんな二人に絡む多部未華子が全く遜色ない頑張りでとても良かった。最近は舞台によく出ているが見たことがなかった。テレビドラマも映画でもあまり見てない。UQモバイルのCMぐらいしか思い浮かばないけど、ずいぶん存在感があった。
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劇団燐光群「九月、東京の路上で」を見る

2018年07月23日 22時39分02秒 | 演劇
 劇団燐光群公演「九月、東京の路上で」を22日に見た。下北沢のザ・スズナリで、8月5日まで上演。加藤直樹氏の同名の著書をもとに、劇団を主宰する坂手洋二が作・演出したもの。原作は関東大震災時に起こった朝鮮人虐殺の現場を訪ね歩いた記録である。しかし、これはフィクションじゃなく、ドキュメントである。一体どうやって舞台化するんだろうか。

 テーマに関心があるから、見に行かないわけにはいかない。燐光群も久しぶりだし、ザ・スズナリも久しぶりだが、何しろ猛暑なんで参った。21日がプレビュー公演だから、珍しく事実上の初演日に見に行った。それは原作者がアフタートークに出るだ。それに唯一の午後5時開演というのも良かった。2時開演だと一日がそれで終わるし、7時開演だと帰りが11時を回ってしまう。このぐらいの時間もいいかなと思う。

 さて、劇が始まると本を持った出演者が出てきて、本の「まえがき」や最初に出てくる萩原朔太郎の詩を代わる代わる読み始める。えっ、群読なのという出だしだが、もちろん全部がそうじゃない。世田谷区の千歳烏山(ちとせからすやま)にある「烏山神社の椎の木」の話は、元の本でもとても印象的なエピソードだ。その話を使って、東京五輪に向け千歳烏山を活性化させようと集まる人々という設定を作った。彼らは地元に残る「椎の木」のエピソードを探り、朝鮮人虐殺があったことを知る。衝撃を受け他の現場も訪れるようになる。一方、その後神社に植えられたという13本の椎の木が今は4本しか残っていないのを知り、街を活性化する方策として残りの木を植えるアイディアを思いつく。しかし、この椎の木は何のために植えられたものだったか。

 こうして原作をもとに13人の俳優たちが「市民」となって過去を探っていくのだが…。そこに突然舞台を異化する人物が現れる。ジョギングをしていた自衛官を名乗る人物が、歩いていた国会議員大西を「国民の敵」と罵倒するのである。これはもちろん、実際に起こった小西洋之参議院議員に対する実話がもとになっている。現役自衛官が野党議員に対し「国民の敵」と暴言を吐くという驚くべき出来事だった。しかし、僕もここで書かなかったし、もう忘れてる人も多いかもしれない。改めてほぼ当時の発言そのままという自衛官の言動を聞くと、過去に通じる恐ろしさが身に迫る。

 この自衛官が一つの象徴となって、以後も2回ほど現れる。「大西」が現れる所を追いかけるかのように。これが演劇的には非常に効果をあげていると思う。リアルな設定かというと、どうもよく判らないけど、現在という地点で感じる何か「嫌な感じ」を浮き彫りにしている。アフタートークで坂手洋二が語ったように「代替り」「五輪」を経た時の日本は一体どのような恐ろしい社会になっているか、予想も出来ないということだ。その様子をまだ僕らははっきりと想像することができない。しかし、何だか見え始めている新しい時代を何とか感知しようというのが、この舞台だと思う。

 加藤直樹さんの話でなるほどと思ったことがある。本に関して日本各地で講演に呼ばれたりするようになった。そうすると東京の地名が判らない、イメージが湧かないと言われるというのである。たしかに東京を始めとして関東各地で起こった事件ばかりだ。(中国人王希天や日本人が襲われた福田村事件も出てくる。)それは当然と言えば当然で、関東大震災の話なんだからやむを得ない。でも日本全国の話ではなく、首都圏の問題だったということに気づかされた。

 例えば後に有名な俳優となり、俳優座を結成する千田是也(せんだ・これや)の芸名は、震災時に千駄ヶ谷で朝鮮人と間違われて殺されかけたというエピソードから取られている。「千駄ヶ谷のコリアン」である。その体験を忘れないようにと付けた。これは有名な話なんだけど、確かに「千駄ヶ谷」という地名(というか駅名)の喚起するイメージがこのエピソードには付いて回る。(日本棋院のあるとこだが、建設中の国立競技場や東京体育館など「五輪の中心」になる場所だ。)

 ドラマとして成功しているかは、僕にはよく判らない。原作を読んでるし、東京東部の学校で授業でも取り上げてきたテーマだから、知ってると言えば知ってる話である。早めに下北沢に行ったらどこのお店もいっぱいで猛暑にゲンナリした。あまりの暑さで、ちょっとボっとして見た気がする。でも、これは劇を見るという意味ではなく、日本の「いま」と「これから」を予感するためには絶対に見ておくべき劇だ。あまり詳しくない人は、原作もぜひチャレンジを。
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大傑作、永井愛さんの「ザ・空気ver.2」を見て…

2018年06月27日 21時23分05秒 | 演劇
 「万引き家族」の話は自分でも長くなりすぎだと思う。実は鑑賞条件が良くなかったのでまた見たい。ロケ地の散歩なども含めて、後で書き直したいと思う。ところで、26日に永井愛さん主宰の二兎社42回公演「ザ・空気ver.2」を見た。7月16日まで。池袋の東京芸術劇場シアターイースト。今日は簡単に書きたいと思う。何しろ1時間45分の上演時間で、お芝居としてはすごく短い。ワンテーマにしぼった凝縮された傑作だ。これはすごいと思った。

 前作「ザ・空気」はテレビ局の報道番組を題材に、現場を支配する「空気」を描いた。前作はマスコミのあり方、ジャーナリストの生き方などに広がっていったが、今回の「ザ・空気ver.2」はテーマを絞っている。マスコミと政権の癒着大マスコミとネットメディアの二つである。永井愛作品はずいぶん見てるけど、ここまでうまく出来てるのも少ないと思う。最初から最後までゲラゲラ笑い通し。こんなに笑える劇も久しぶりだが、「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」(芭蕉)である。

 国会記者会館の屋上。そこから国会デモを撮影しようと「ビデオジャーナリスト・ネットテレビ局「アワ・タイムズ」代表」の井原安田成美)が忍び込んでいる。国会記者会館屋上を記者クラブに所属しないメディアが利用できるか。これは実際に裁判になった。そこに「リベラル系全国紙政治部記者・官邸キャップ」の及川眞島秀和)と「大手放送局政治部記者・解説委員」の秋月馬渕英里何)がやってくる。今日記者クラブのコピー機からトンデモナイものが発見された。総理の記者会見のQ&Aを記者側が作っていた証拠である。人物の肩書は公演パンフにある通り。

 その文書を見つけてしまったのは「保守系全国紙政治部記者・官邸総理番」の小林柳下大)である。「政権ベッタリ」と言われる中で志をまだ失っていない若い小林は、自社の上役が絡んでいるのではと疑う。会見で追及する方のマスコミが追及の逃れ方を指南するのはさすがにまずい…と思って、あえてライバル社の官邸キャップに相談したのである。一方、及川は秋月の関与も疑い、事前に呼び出して話を聞く。そこに一番疑わしい「保守系全国紙論説委員・コラムニスト」の飯塚松尾貴史)もやってくる。総理とよく食事するから「メシ塚」と呼ばれている男だ。

 この5人だけで話が進むが、ずいぶん作劇術がうまい。それは現実の風刺だからとも言える。メシ塚さんのケータイは呼び出し音が10種類もあるという。どうやら「ゴルゴ13」が「副総理」。マンガが趣味の方である。「ドンパン節」は官房長官の故郷の民謡だ。「救急車」が総理秘書官で、「パトカー」が総理本人らしい。飯塚と秋月が話していると、どうやら二人ともQ&Aを作っているらしい。飯塚は絶対に認めてはならない派、秋月は国民がウソと思ってることは潔く認めてしまって謝罪するべき派らしい。おかしいけど、だんだん笑ってていいのかと思う。

 最近スクープを連発して政権に打撃を与えた全国紙は明らかに朝日新聞。「政権べったり」全国紙は読売新聞。公共放送はNHKだから、政治部の女性解説委員と言えばあの人か。しかし、この大マスコミはネットメディアの「アワ・タイムズ」に対しては、記者クラブ入会の有無によって、団結して排除する側にいる。これがこの劇の一番重大なところで、ここをどう見るか。このすぐれたドラマに大マスコミしか出て来なかったら、もう絶望しか覚えない。だがもう一つ、別の可能性を安田成美の軽やかな名演で示している。こんな笑えるドラマも珍しいけど、もうすぐ国民は飽きるし、支持率は回復するとセリフで言われると、まさに図星であるから深刻だ。
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てがみ座公演「海越えの花たち」を見る

2018年06月21日 22時17分29秒 | 演劇
 てがみ座15回公演「海越えの花たち」を紀伊国屋ホールで見た。(26日まで)最近てがみ座の長田育恵さんの作品をよく見ているけど、初めての紀伊国屋ホールである。下北沢に本多劇場のグループができるまで、若い劇団にとっては新宿紀伊国屋が目標だった。もっとも最近東京都の耐震性調査結果が発表されて以来、紀伊国屋ホールに行くのはなんだか迷ってしまうのだが…。

 今回は慶州ナザレ園にインスパイアされた物語である。ますます大変なテーマに踏み込んでいる。「慶州ナザレ園」というのは、戦後韓国に残された日本人女性のための施設である。高齢化によって事実上「老人ホーム」となっているが、それだけではない大きな意味があった。上坂冬子の「慶州ナザレ園」(1982)という本が評判になって、80年代にはかなり有名だったけれどもう僕も名前ぐらいしか覚えていない。それをテーマにどんなドラマが展開されるのか。

 長田育恵の劇は一人の人物に焦点を当てることが多かったが、最近は多数の人物の出てくる群像劇で大きなテーマが語られるようになった。今回も「民族」「植民地支配」「女性」「戦争」といった大変なテーマに加えて、「朝鮮戦争」「原爆」「宗教」「障害」などの問題が後半の大きなテーマとして現れる。あまりにも重大なことが劇中で起こり過ぎ、うまく消化されているとは思えないが、常に問われているのは「国家とは何か」という痛切な問いだろう。

 日本の植民地だった朝鮮半島に残された日本人妻とは何か。敗戦後に支配民族だった日本人の大部分は帰国する。しかし、朝鮮人と結婚していた日本人女性には残った人もあった。戦前戦中は「内鮮一体」と称して、日本本国と朝鮮は同等であると宣伝されていた。(しかし「朝鮮」を「鮮」と下の語で略するところにもう差別心がある。「朝廷」の「朝」を避けたと言われている。)日本国内で差別視されていた朝鮮人に嫁ぐことは、日本の実家と縁を切る決心が必要だった。

 朝鮮の有力一家は男子を日本の大学に進学させることも多く、日本人女性と知り合う場合もあった。この劇の主人公風見千賀(石村みか)はそのケースである。朝鮮の名家に嫁ぐ意思で結婚したから、出征した夫を待ち続けることになる。一方、そこに転がり込む松尾ユキ(桑原裕子)は貧しい労働者と一緒になり、親に勘当されて朝鮮に来た。だから戻るに戻れないのである。日本人女性にも明確な階層差があった。

 「弱い国」の女性が「強い国」の男性と結婚することはよくある。占領期に米軍人と結婚した日本女性、経済発展した日本で農村男性の結婚相手を求めた「フィリピン人妻」など。一方、支配民族の男の通念は、「強い国」の女性は「強い国」の男に嫁ぐべきだというものだ。「自分たちの女」が被支配者に取られるのが許せないのである。朝鮮人留学生と結婚した主人公は、要するにオバマ前米国大統領の母親と同じケースだが、時代的、民族的にはるかに厳しい境遇にあった。

 しかし民族差別や女性の生き方といった大きなテーマをじっくり考える余裕もない。日本敗戦、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の建国、「6・25」(朝鮮戦争)という時代の流れが次々と登場人物に選択を迫る。朝鮮戦争が「北」の侵攻だったことは今や自明のこととして語られている。北の軍隊に対してキリスト教会を装い「堤岩里を忘れたか」と言って助かる。1919年の三一独立戦争時に日本軍に虐殺された教会があった場所である。こうしてキリスト教に基づく助け合いの集まりとなっていき、日本からも韓国からも忘れられた日本人女性たちの集う場となった。

 舞台はシンプルなセットで進行し、時には椅子に座って体験を語るというスタイルもある。それぞれの負っている運命があまりにも大きなもので、どうも話が拡散してしまう感じもした。それにしても野心的なテーマを取り上げたと思うが、これは現実の慶州ナザレ園とは少し違うんじゃないかと思った。このように国家を告発する存在としてあったわけではないだろう。それにしても無謀な戦争さえなければ、ここまでの悲劇は起こらない。何度でも言って行かないといけないことだと思う。
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渡辺えり脚本・演出「肉の海」を見る

2018年06月09日 18時25分41秒 | 演劇
 5月は落語と浪曲に行ったのでお芝居を見る余裕がなかった。6月は続けて見る予定だが、まずは「おふぃす3〇〇」(さんじゅうまる)の「肉の海」を下北沢・本多劇場で見た(17日まで)。渡辺えりの新作で、脚本・演出・出演を兼ねて、歌もたくさん歌っている。出演メンバーは青木さやか尾美としのりベンガル三田和代など何だろうという感じのキャストが並んでいる。しかし、それより上田岳弘の「塔と重力」を原作として「純文学の新鋭とタッグを組み!」とうたわれた作品だ。

 「超音楽劇」とあるように素晴らしい歌がいっぱいある一種のミュージカルで、それだけでも見る価値がある。ストーリー的にはよく判らないというか、幾重にも入り組んだ「入れ子構造」に目くるめく体験をする。痛切な悲しみを抱えた「吾等の運命」に思いをいたしながら、1995年からの現代史を再構成する壮大な作品世界に魅せられられていった。阪神大震災を中心にしながら、東日本大震災から第二次世界大戦、中東のテロへまで想像の翼が広がってゆく。

 原作の上田岳弘(1979~)は2015年に「私の恋人」で三島由紀夫賞を受けた新進作家である。この時の対抗馬は又吉直樹「火花」だった。その後も「異郷の友人」で芥川賞と野間文芸新人賞の候補、「塔と重力」で野間新人文学賞候補、芸術選奨新人賞と作品は少ないながら注目されている。渡辺えり(1955~)は「私の恋人」を読んで、自分と似ていると取材で語り、その記事を読んだ上田が渡辺の公演を見に行く。公演後のアフタートークで二人が出てきたが、タルコフスキーの映画(特に「惑星ソラリス」)や宮沢賢治が好きだとか、共通点が多いと語った。
 (渡辺えり)
 そんな感じは見ていればよく伝わってくる。「肉の海」という言葉も、そんな生者も死者も存在する「もう一つの脳内世界」というイメージだと思う。確かに年齢を重ねてくると、脳内には過去の方がむしろ生き生きと存在していて、死者でさえ脳内によみがえってくる。「1995年」は、1月17日に阪神淡路大震災が起こり、3月20日には地下鉄でサリン事件が起きた。1995年1月17日、倒れてきた建物に閉じ込められ、そのまま二度と会えなくなってしまった。そんな人が出てくるが、「日本人全員がそれから囚われたままだ」という「恐るべき真実」をこの劇は暗示している。

 冒頭は「不思議の国のアリス」で、その後売れない雑貨屋の主人兼精神科医である「ベンガル」とその家族の物語になる。しかし、ほぼ全員のキャストが一人で二役、三役をやっていて、筋書きをきちんと書くことが難しい。舞台下手(左側)にアコーディオンやパーカッションなどのミュージシャンが常時存在して、歌のシーンでは演奏している。2017年1月には高校生だった「美希子」が出てくる高校生の場面もある。ベンガルが二度と会えない娘のセーラー服を着て踊る「名場面」もある。美希子の祖母である「三田和代」は震災を超えて、戦時下の思い出に生きている。あまりにも複雑で入り組んでいるので、どうもなんだかよく判らないけど、歌の力もあって心に響く。

 何が真実で何がウソなのか。誰が生きていて、誰が死んでいるのか。それすらよく判らない感じだが、脳内世界とはそういうもんだろう。僕は90年代後半の「歴史教科書」「性教育」へのバッシングに対して、1995年の阪神大震災、オウム真理教事件で日本が完全に変わってしまったと感じた。2001年の同時多発テロで「世界が変わる」前に、日本が世界に先んじて「フェイク」な世界に入って行ったと思う。そのような「フェイクな世界」にずっと自分が閉じ込められていると感じて生きている。それが「肉の海」から感じたことだけど、それは一つの感じ方に過ぎない。

 重層的、祝祭的な演劇は好きだから、この演劇は面白かった。渡辺えりが「演劇は大変だけど、世界で一番楽しい」というのがよく判る。(ホンの仕上がりは5日前だったという。)上田岳弘は「疲れそう」と言ったけど、頭を疲れさせ体を疲れさせるのがいいんじゃないとすぐに渡辺えりが返した。そういう元気があふれてる。僕は渡辺えり「劇団3〇〇」の本多劇場デビュー「ゲゲゲのげ」を見ている。今回が40周年記念公演で感慨がある。40周年記念の「4000円」席が後ろの方にある。そこで見てたけど、全体が見渡せて良かった。

 大林映画で懐かしい尾美としのりも頑張っていたけど、何といっても三田和代がすごい。渡辺えりは高校時代に山形県で「オンディーヌ」を見て感激した、その人と共演してると感慨深く語っていた。また「美希子」役の屋比久知奈(やびく・ともな、1994~)の素晴らしさにも圧倒された。沖縄出身で琉球大学の授業でやったミュージカルで注目され、2016年の『集まれ!ミュージカルのど自慢』で最優秀賞を受けた。その後ディズニーのアニメ「モアナと伝説の海」のモアナ役の吹き替えに抜てきされた。2017年4月に大学を卒業して、今後「タイタニック」や「レ・ミゼラブル」への出演も決まってる。要注目の屋比久知奈の堂々たる初舞台。もしかしたら、この芝居は渡辺えりの40周年記念であるとともに、屋比久知奈の初舞台で記憶されるかもしれない。
 (屋比久知奈)
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淡谷のり子と「Sing a Song」

2018年03月26日 21時35分42秒 | 演劇
 戦前から戦後にかけての大人気歌手だった淡谷のり子の戦時中を描く「Sing a Song」という劇を25日に見た。トム・プロジェクトのプロデュースで、もともと2月に本多劇場で公演された。その後全国を周った後で、葛飾区のかめありリリオホールで最終公演があった。そっちの方が家に近いから、そこで見ることにした。劇では「三上あい子」となってるけど、「ブルースの女王」と呼ばれ「別れのブルース」が大ヒットしたというんだから、淡谷のり子そのものである。

 もっとも淡谷のり子と言っても、僕の世代でも名前ぐらいしか知らない。1907年に生まれて、1999年に亡くなるが、晩年になってもテレビで毒舌が有名だった。そういう「元気なおばあちゃん」キャラでは知ってるけど、戦時中のことなどほとんど知らない。反戦平和の意識を強く持っていたことは有名だったけど、戦時中にしぼってドラマ化したのがこの劇である。
 (淡谷のり子)
 日中戦争が激しくなり、「ぜいたくは敵だ」の時代になってくる。ジャズやシャンソンなど外国の歌も歌うなと言われる。そんな時代に三谷あい子は、化粧をしてドレスを着て舞台に立ち続ける。ドレスが私の戦闘服であり、モンペで歌っても客が喜ばないと言い放つ。禁止された「別れのブルース」も歌ってしまい、憲兵隊に呼びつけられる。そこでお国のために活動せよと言われ、戦地慰問を命じられるが、三谷あい子は無償で(軍からお金を受け取らずに)行うと主張した。

 そんなあい子が戦地をめぐりながら何を見て、何を感じたか。はるばるとセレベス島のマカッサルまで行くと、豪快な長内司令官は兵隊のために何でも歌ってくれという。付き添う憲兵は反対するが…。そして昭和20年、もう戦局が悪化した中で、どうしてもまた行って欲しいと頼まれる。長内のたっての望みで訪れたのは、鹿児島の特攻基地だった。ここはどうしても、泣けてしまう。あんな愚劣な作戦を命じられた若者たちを前に三谷は何を歌うのか。

 三谷あい子のあり方はほぼ淡谷のり子の実話らしい。ウィキペディアを見ると、英米の捕虜がいるところに行ったときは日本兵に背を向けて、英語で歌ったと書いてあるから、並の人にはできないことだろう。始末書で済めばそれでいい。そう割り切って、自分の歌を歌い続けた。人を死に追いやる歌は歌じゃない。私は軍歌は歌わない。堂々とそう言い切って、恋愛の歌を歌った。こういう「骨のある人物」がいまこそ必要なんじゃないか。

 三上あい子役は戸田恵子。声量豊かでいいんだけど、再演の機会があればもっと淡谷のり子っぽくなるかもしれない。マネージャー役が大和田獏、長内司令官役の鳥山昌克が熱演だった。作は劇団チョコレートケーキの古川健、演出は日澤雄介。さらに練り上げた再演を期待。
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鄭義信「赤道の下のマクベス」を見る

2018年03月14日 23時17分04秒 | 演劇
 新国立劇場でやっている鄭義信(チョン・ウィシン)作・演出の「赤道の下のマクベス」を見た。25日まで。最近冬の間は前売券を買わないので(数年前にチケットがあるからと具合悪いのに無理して見に行って長引かせてしまった)、お芝居を見るのも久しぶり。一番の感想は、シネコンの座席に比べて、新国立の座席はお尻が痛くなるなあということだ。

 この作品は、朝鮮人戦犯問題を扱っている。はっきり言って、僕はテーマへの関心で見た。シンガポールのチャンギー刑務所に、6人の戦犯が収容されている。3人が日本人3人が朝鮮人で皆死刑判決を受けている。他に看守の英国人が3人いて、合計9人の男だけが舞台に出ている。奥に死刑台があり、左右に3つづつの独房がある舞台美術は見事だ。演技も素晴らしいんだけど、長くなるから以下ではテーマに関する問題にしぼって書くことにしたい。

 この問題は非常に重たい。舞台ではバカ騒ぎ的なシーンもあるが、そこにも当然死の影が射している。テーマ的にやむを得ないが、死刑執行のシーンまであって、さすがにどうかと思った。僕は暗くて重いストーリイは嫌いじゃないんだけど、前半を見終わった時は、この劇を紹介するのはやめようかなとも思ってしまった。多くの人に問題を知ってもらいたいけれど、それにしてもと思ったぐらいだ。でも終了後に若い観客の感想をたまたま聞いてしまった。春休みに入ったからか、大学生ぐらいの観客も多かった。それはいいんだけど、「6人いるんだから、3人の看守を襲っちゃうのかと思ってた」と大声でしゃべっている。いくら何でも、そりゃあないだろ。

 BC級戦犯とよく言われるが、日本の場合C級(人道犯罪)の訴追はなかったから、この劇でも全員B級戦犯(通常の戦争犯罪)である。ちょうど同じ時期に(2.24~3.10)に劇団民藝が木下順二「夏、南方のローマンス」を上演していた。この劇は2013年4月に上演されたときに見ているので今回は見なかった。その時に『「夏、南方のローマンス」とBC級戦犯問題』を書いた。BC級戦犯問題に関してはそこでも書いているが、植民地出身者の戦犯問題はそこでは取り上げていない。

 植民地(台湾、朝鮮)の出身者は、戦争末期になるまで「徴兵」がなかった。(志願兵制度は日中戦争初期に設けられた。当然のことだが、中国との戦争に朝鮮、台湾の青年を動員して兵器の訓練を施すことは、「逆効果の危険性」があった。)しかし、日本で人出不足が深刻化すると、「軍属」として捕虜収容所の下級職員などにたくさんの植民地出身者を使った。連合国は捕虜の虐待を重視したので、多くの朝鮮人、台湾人が戦犯として裁かれた。ウィキペディアの記述を見ると、朝鮮人148人、台湾人173人だった。その中には死刑となった者も多かった。

 BC級戦犯裁判では、通訳の不備、日本軍上官の偽証、連合国軍人や現地民衆の復讐心による不確実な証言など問題が多かった。捕虜虐待や民衆の虐殺などは現実にあったわけで、日本兵なら「日本の責任」としてやむを得ないと考えて自分で納得したものが多い。でも、なんで朝鮮人が日本の戦争犯罪を背負わなければならないのか。その不条理に耐えがたい思いをしただろうが、さらに戦後の朝鮮では「対日協力者」として家族も白眼視されることもあった。

 この劇では、「若くて泣いている李文平」「一度は釈放されたものの再び死刑判決を受けた金春吉」、そして「獄中で「マクベス」を読んでいる朴南星」と3人の朝鮮人が描かれる。題名にあるように、朴南星が劇の中心で、演劇が好きで獄中でも余興の芝居をしている。軍属の朝鮮人が文庫のシェイクスピアを読んでいるというのは、ちょっと無理がある。だが、マクベスを「補助線」に使って考えるというのが、この演劇の眼目だ。

 マクベスは夫人にそそのかされて、王を暗殺して自分が王になる。だけど、マクベス本人には責任がないのか。マクベスも自分なりに権力を握りたかったわけだろう。マクベスにも責任がある。自分らも、日本軍に使われて裁かれたが、自分でも死刑台への道を歩んでしまった。独立軍に入る道だってあったじゃないかというのは、当時の戦犯には無理がある。現時点での思考が当時のセリフとして語られるのには疑問があるが、非常に大事な問いだと思う。

 だけど「日本軍の責任をなぜ朝鮮人が負うのか」という大問題の前に、僕は目の前で展開される彼らを見ているともっと違う問題もあると思う。それは「冤罪」と「死刑」という問題である。戦争で多くの人が殺された。被害者側が敵国軍人の死刑を望むだろうことは理解できる。だから、死刑の前に戦争をなくさないといけない。でも戦争の後に、同じように国家が生命を奪う死刑を再考しないといけなかったじゃないか。演劇を離れて内容に関する話ばかり書いたけど、どうしてもテーマ的に楽しんでみるということができない。だけど、日本人として考えなければいけない問題だ。

 なお、この朝鮮人戦犯問題は今も続いている。有期刑で釈放された人に対しても、日本国家は軍人恩給などを一切払っていない。戦犯裁判では日本人として裁かれ、その後は外国人として排除された。そのような対応はヨーロッパ諸国ではなかった。とても恥ずかしいことだと思う。この問題を研究した本には、林博史「BC級戦犯」(岩波新書、2005)や内海愛子「朝鮮人BC級戦犯の記録」(1982、岩波現代文庫2015)などがある。どっちも読んだはずだが見つからなかった。
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