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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

それで結局「日本人の民度」は高いのか、低いのか

2021年05月13日 22時40分05秒 | 社会(世の中の出来事)
 茨城県で2019年に起きた殺人事件で埼玉県在住の男が5月7日に逮捕された。僕はその事件、あるいは容疑者については報道以上のことを知らないし、現在捜査中なので何も書く気はない。ところが、たまたま同じ市に容疑者と同姓の会社や議員がいて、全然無関係なのに関係者だと決めつけるデマが拡散されているという。そんな話は今までにも何度か聞いた。

 最近ではキャンプ場で行方不明になった女の子の家族に関するデマ。あるいは2019年に起きた常磐道あおり運転事件の「同乗女性」のデマ。これは大きく報道され、裁判も起こされ、デマをSNSで拡散して人に賠償が命じられた。何も知らないのに憶測でネット上に書き込めば、刑事上、民事上の責任が生じる。そんなことは常識だし、なんで同じことを繰り返す人がいるのか判らない。これらを見ると、果たして「日本人の民度」は大丈夫なのかという気になってくる。
(デマに賠償命令)
 「日本人の民度」と言えば、昨年の麻生副首相発言が思い起こされる。「日本人は民度が高いから、コロナの死者が欧米より低いという見解を述べた。「『おたくとうちの国とは国民の民度のレベルが違うんだ』って言ってやると、みんな絶句して黙る」んだそうだ。これに関しては当時「麻生『民度』発言と『オンライン申請』不備問題」を書いた。(2020.6.6)今の日本の感染状況を見て、麻生氏は何か思うところがあるだろうか。「緊急事態宣言」を出しては解除し、再び感染増が起きては再宣言する。これは民度が低いのか。

 麻生氏と言えば、先頃「マスクはいつまでやるの?」と記者を問い詰めるかのように「逆質問」するという出来事があった(3月19日)。記者は反撃しないのかと思ったけれど、慣れてしまったのか、「こういう人」には腫れ物に触るように接するということにしてるのかもしれない。しかし、「日本国のナンバー2」が判らないことを、何で民間人が判るのか。麻生副首相こそが国民に伝えるべき立場でないか。一体どうなってるんだろう?
(麻生氏のマスク発言)
 現在の日本では「英国型変異株」が広まっている。では、それは何故日本に入り込んだのだろうか。外国から来た人は「2週間の自主隔離」をすることになっている。それがかなりの割合で守られていないという話をニュースでやっていた。連絡が付かなくなる人、公共交通機関を使って移動する人などが一定程度いるんだと思う。じゃあ、強制的に隔離すればといっても、人手も予算もない。だから、ある程度国民の良識に任せるしかない。しかし、現にこれだけ広がってしまった以上、外国から持ち込んだ人がいたということだろう。

 持続化給付金の詐欺も2億円に達するという。大学生もいれば、競馬の騎手などがまとまって申請した例もある。自分でやってるわけじゃない。誰か指南役がいて、上納金がある。言われたとおりやって、貰えるものは貰おうと「軽い気持ち」でやってしまったという人が多いようだ。これは本人も悪いだろうが、「間違ったことにノーと言う」ことを教えられていないという問題でもある。「おかしいと思ったことに声を挙げる」というのは人生で最も大切なことの一つだ。しかし、日本では「自分だけガマンして黙っている」ことを親も教師も生き方で伝えてしまうことが多い。
(持続化給付金詐欺)
 もちろん「民度」が高いとか低いとかいう発想自体に問題がある。民族だけでなく、それぞれの「地域」「家族」などにそれぞれの「文化」がある。ある一律の基準を作って、高い低いと評価することは出来ない。しかし、それでも社会を構成するメンバーとして、人に求められることがある。ゴミは捨てない、並んでる列に割り込まない、お店や公共交通機関など多くの人が利用する場所では他の客に配慮する、などなど。しかし、最近はこれが心配なことが増えている。実感としてそんな気もする。それを「民度」というならば、日本の民度は低くなっているのかもしれない。まあ、あまり他人のことも言えないかもしれないけど。
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岩隈久志投手の引退に寄せて

2020年10月24日 22時51分56秒 | 社会(世の中の出来事)
 プロ野球の岩隈久志投手が今シーズン限りでの引退を発表した。39歳である。そう言えば、ここ数年名前を聞かなかったけど、最後は読売ジャイアンツにいたのか。シアトル・マリナーズ時代最後の2017年以来、4年間勝ち星がなかった2016年は16勝12敗だったから、急に活躍できなくなったのだ。前から時々肩を痛めて活躍できない年があった。日本に戻ってからは一回も一軍の登板がなかった。春先に肩を脱臼していたと言うし、やむを得ない引退だろう。
(2018年1月にブルペンで投げた時)
 岩隈投手は忘れてはならない「運命」の人だと思うが、ちょっと印象が薄れているかもしれない。楽天で活躍したが、岩隈が2012年に大リーグに移籍した後で、2013年に田中将大投手が24勝0敗の不滅の大記録を樹立し、リーグ優勝、日本シリーズも制覇した。田中将大の活躍が岩隈を上書きした感もある。また大リーグで所属したマリナーズも、日本人選手ではまずイチローであり、投手でも新人王を獲得した佐々木主浩がいた。近鉄出身の大リーガーとしても、野茂英雄が最初に思い浮かぶ。だから岩隈の印象が薄まってしまったように思う。

 岩隈投手は東京の堀越高校出身で、甲子園出場経験はないものの、1999年度のドラフト会議で近鉄バファローズから5位で指名された。2001年に初出場したが、ウィキペディアを見ると1点リードの8回裏から登板、同点に追いつかれるも、延長10回に中村紀洋の満塁ホームランなどで17対12で近鉄が勝利。これが岩隈の初勝利だという。すごい試合だな。2002年から先発ローテーション入りし、2003年は15勝と球団最多勝利。2004年には初の開幕投手を務め、15勝2敗最多勝利を挙げ、ベストナインに選ばれた。若い時代は「なにわのプリンス」と呼ばれて人気があり、ウチの妻なんかもスポーツニュースで見ると「岩隈クン」なんて呼んでた。
(2004年6月の対西武戦) 
 そして2004年が近鉄最後の年となったわけである。近鉄バファローズという球団自体が消滅してしまった。近鉄球団の経営不振からオリックスとの合併問題が起こり、そこから1リーグ制への移行を唱える声も出てきた。それに反対する選手会が初のストライキを決行し、新規参入希望企業も現れた。それがライブドア楽天だった。細かな経過は省略するが、結局楽天が認められ東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生する。そして近鉄所属選手の「選手分配ドラフト」が行われた。オリックスは岩隈を希望したが、結局は本人の希望を入れて楽天へトレードされた。

 この岩隈の選択は非常に重要な意味があった。実際には義父が楽天コーチに就任したという事情もあったようだが、「選手の希望を尊重する」という労使の「申し合わせ」を基に自己の意思を貫いた。1年目の楽天は選手層が薄く38勝97敗1分(最下位)に終わり、岩隈も9勝15敗だった。岩隈がいなかったら、もっと悲惨な成績に終わっていただろう。選手会がストまでして守った2リーグ制も「やはりダメだったか」「所詮ストなんかしても意味ない」などという風潮を呼んだだろう。読売の渡辺恒雄氏の威光が強まり政治的な影響もあったかもしれない。

 2005年の開幕投手、つまり楽天初の先発投手は岩隈だった。そして楽天初の勝利投手も岩隈だった。2006,2007年はケガで不振だったが、2008年は21勝4敗と好成績を挙げ、最多勝利、最優秀勝率とともに、沢村賞に輝いた。2009年の第1回WBCでも活躍し、リーグ戦でも13勝6敗で初の2位、クライマックスシリーズ選出に貢献した。2010年は10勝9敗だったが、シーズンオフにポスティングシステムでの大リーグ挑戦を表明したが、結局交渉がまとまらず残留が決まった。
(2011年の開幕戦)
 その結果、2011年3月11日を東北地方の球団で迎えることになった。チームはオープン戦で関西にいたが、本拠地の球場は使えなくなった。大震災によって2011年のプロ野球開幕は遅れ、初の本拠地開幕戦も出来なくなった。そして4月12日に千葉で行われた開幕戦で、岩隈が5年連続の開幕投手を務めて勝利投手となった。5月に負傷して一年を通した活躍は出来なかったが、この震災後の開幕戦勝利は覚えている人も多いのではないか。

 この年が楽天最後の年となり、2012年からはシアトル・マリナーズに移籍した。以後の勝利数を見ておくと、9勝5敗、14勝6敗、15勝9敗、9勝5敗、16勝12敗、0勝2敗となっている。計63勝39敗、大リーグ通算防御率3.42となっている。まあ大活躍ではなかったかもしれなかったが、それなりの成績は残している。そして何より、2015年8月12日、オリオールズ戦でノーヒットノーランを達成したのである。日本人投手も数多くなったが、他には野茂が2回達成しただけの記録である。
(大リーグでノーヒットノーラン)
 近鉄から楽天へ。そして東日本大震災後の開幕戦勝利。(本人もこれを思い出として挙げていた。)WBCでの活躍。大リーグでのノーヒットノーラン。節目節目にずいぶん記憶すべき活躍をしてきた選手だった。何より「なにわのプリンス」「杜の貴公子」と言われ、投球モーションもカッコよかった。記憶に留めたい選手だった。今後の第二の人生も期待して活躍を祈りたいと思う。
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「旅館の食事は多すぎるか」問題

2020年08月21日 22時43分53秒 | 社会(世の中の出来事)
 今日も出掛けるはずが暑すぎて巣ごもり。いろんな書き残しテーマがあるが、同じようなのは飽きるので「旅館の食事は多すぎるのか」という問題を考えてみたい。これは「Go To トラベルキャンペーン」で少し上の旅館に行ったら、夕食が多すぎたというツイッターの投稿が話題を呼んでいるという話だ。「廃棄前提では」といった記述も論議になった。という話なんだけど、僕はネット上のあれこれをちゃんと追ってるわけではなく、むしろ民放テレビのニュースで見た。
(「多かった」という話題の画像)
 僕は「夕食料理の多さ」にはそんなにこだわっていない。旅館の食事に関しては他に言いたいことがあって、そっちを書きたいのである。しかし、一応「料理量問題」について結論を先に書いておくと、「やっぱり少し多いことが多い」と思う。しかし、それが気になるなら、もっと安いプランなどがあるので、そっちにすればいいのである。ただし、旅館によっては「オーシャンヴューの部屋」が高くて、せっかくだから海が見たいと思って部屋を選ぶと、料理も多すぎるというようなことがある。部屋と料理は別々に選べるプランにして欲しいなと思う。

 今回は「多すぎる」と話題になったが、これが逆に「結構高いプランだったけど、料理が少なかった」という投稿だったらどうだっただろう。全国的な話題にはならないだろうが、その旅館の口コミサイトに書き込まれたらダメージになる。普段は「腹八分目」を心がけていても、非日常の旅行では「美味しいものをいっぱい食べたい」人の方が多い。世の中には酒を飲まない人も多いから、そういう人に合わせて料理の量を設定したら、少し多いぐらいになる。要するにそういうことだと思う。「少し多いかな」と感じる人もいるだろうが「廃棄前提」ではないだろう。

 投稿写真ではビールを飲んでいるようだから、その分食事が多く感じられたんだと思う。僕も旅館でお酒を飲むこともあるが、腹一杯になって最後の「ご飯」を頼まないことがある。そこで調節するのである。基本の料理は好き嫌いが多少あるとしても、大体は腹に収まるレベルの量だと思う。写真で見る限り、まあ値段相応かなと思うので、プランを間違ったのかなと思う。ただし、それは最近の話で、一昔前は確かに「ただ量が多いだけ」みたいな旅館が結構あった。夕方から並べてあった刺身や焼き魚にウンザリという宿も多かった。今は温かい料理を一品ずつ持ってくる宿が多くなり、それと同時に量も常識的なものになってきた。

 それより問題なのは「栄養の偏り」や「似たような料理ばかり」ということだ。刺身に天ぷら、ステーキやしゃぶしゃぶ、陶板焼きなど出てくるものが似ている。山の秘湯でマグロの刺身や海老天がいるのか。肉料理も、どこへ行っても「○○牛」があるのがフシギである。肉も魚もいるだろうが、野菜が特に昔はほとんどなかった。温泉へ行って不健康になるのでは困る。最近は評価が高い宿では、栄養バランスもかなり考えられていて昔ほどではない。それでももっともっと「地場産野菜料理」を研究して欲しいなと思う。

 僕の家で「コリンシアンの愚」と呼んでいることがある。礼文島北部の「プチホテル コリンシアン」という素晴らしい宿がある。利尻岳に登った後で、隣の礼文島に寄った。本当に美しい島だったけれど、疲れているから早く宿に入って、ついポテトチップスを食べてしまった。何があるか判らないから、旅行中には少しお菓子を持ち歩くのである。そこでお腹がかなりいっぱいになってしまったのだが、その日の夕食は人生で一番美味しい焼きガニを食べた。他にも美味しい魚、美味しいサラダが山のように出て、何でついポテトチップスなんか直前に食べたのか、大いに後悔した。今に至るまで、我が家では語り継いで、同じ愚を繰り返さないようにしているわけだ。

 料理が美味しいと評判の宿へ行く時は「昼食を食べ過ぎない」「夕食前にお菓子を食べ過ぎない」(お茶請けの菓子は温泉に入る前に血糖値を上げる意味があるので食べる)「お酒は飲み過ぎない」といった工夫がいると思う。そうじゃないともったいない。ただ、どうしても日本料理が中心なので、出るものが似てくる。今では天ぷらやステーキも珍しくないから、あまり意外感が感じられない。「地のもの」を中心に、いかに美味しくて珍しいものを提供するか。家では「洋食」「中華」のおかずもご飯のおかずとして普通に食べている。「折衷料理」でいいと思う。
(四万温泉積善館の食事)
 僕が今まで一番美味しいと思ったのは、和食では群馬県の四万温泉にある積善館だ。ここはお風呂も全国ベスト級だが、料理も本当に美味しかった。今も美味しいと思う。本格的な懐石料理は一品ずつ持ってくるしかない。そういう宿はいいけど、そこまでは行かず大体の料理は最初から並んでいることが多い。その場合、最後にご飯と味噌汁が出ることになると、その時にはおかずが残っていない。漬物いくつかで白米を食べるのか。一番美味しい料理をおかずにご飯を食べたいが、最初にお酒を飲んでると料理がつまみで終わってしまう。そういう宿でも、要求すれば最初にご飯と味噌汁を持ってきてくれる。飲んでるときでも、ご飯がある方が安心できる。

 もう一つが「朝食問題」だが、もう長くなるから止める。朝食は以前に比べて圧倒的に改善された。20世紀の間は、ずいぶんレベルの低い朝食が多かった。今は和風旅館でも美味しい和風スイーツが出たりするし、旅館の料理はずいぶん進化していると思っている。それでも基本は似ているので飽きてくることはある。クラシックホテルで洋食を食べる街中のホテルにルームチャージで泊まって外に食べに行くなど、国内旅行もいろんなパターンで工夫した方がいい。僕もずいぶん旅行してないけど、秋にはどこかに行きたいもんだ。
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「世界同時鎖国」で国家復権?ー「ポストコロナ」世界考②

2020年06月13日 20時30分18秒 | 社会(世の中の出来事)
 ちょっと前まで、東京を初め全国には外国人観光客があふれていた。政府は外国人観光客を増やす政策を取っていたし、「爆買い」という言葉もあった。京都や鎌倉では観光客が増えすぎて困っているという話もあった。浅草の仲見世通りを見る限り、確かに大幅に増えていたようだが、新型コロナウイルス感染拡大で全く消え去った。日本からも出国できなくなり、外国からも入国できなくなった。日本だけではなく、世界各国で往来が停まってしまった。朝日新聞の別冊「GLOVE」5月版では「世界同時鎖国」と特集を名付けた。そんなことが起きると思っていた人は誰もいないだろう。
(「GLOVE」表紙)
 それどころか、「マスク」が「戦略物資」になってしまった。日本では人件費が高い「ものづくり」を外国に移転し続けてきた。だから外国が輸出をストップすると、多くの物が国内で払底してしまう。やがて国内生産も始まったし、中国の感染状況が落ち着けば輸入も再開されたようだが、一時は「マスク」品切れが大問題だった。ヒトだけでなく、モノであっても、予想できない危機に陥ると、結局は「国境」で閉ざされてしまうのか。世界の感染状況も「国ごと」に発表される。情報をまとめる権限が国家ごとになっているからだ。現代の世界は、やはり「国民国家」で成り立っているのだ。

 「プレコロナ世界」では、むしろ「国家の地位低下」が取り沙汰されていた。欧米各国ではどこも指導者の支持率低下が見られ、右派の伸張が著しかった。右派は「ナショナリズム」を主張するが、それは国家への信認を意味しない。むしろ移民の受け入れを進める「現代国家」に敵意を示し、現存の国家機構解体を主張することが多い。右派は国家ではなく、「民族」「信仰」に価値を見出す。「人権」をベースにして、国籍を問わない福祉政策を行う「現代国家」は「敵」なのである。

 ヨーロッパでは「EU」が機能しなかった。イギリスが脱退したばかりのEUで、統合の価値を示すことが出来なかったと思う。イタリアやスペインで爆発的に感染が増加したときにも、相互に援助することは難しかった。どの国も自国の状況に対応するだけで精一杯だったのである。自由に行き来できるはずだったのに、やはりヨーロッパでも国境を閉ざすことになった。肝心の時に役に立たないのでは、欧州統合も行き詰まるのか。そうでもないだろう。今後の加盟を望む国では、経済状態から加盟を諦めることは出来ない。EU内の大国も、米ロ中への対抗上「EU」を必要とする。だから今後も緩やかに「EU拡大」が進行するだろう。抜けられるのは、アメリカとの関係があるイギリスだけだ。
(問われるEU)
 結局「衛生政策」を実行するのは、「国家」しかないのである。ここでいう「国家」とは、「実効支配」を確保している「領域政権」である。リビアやイエメンでは統一政府がない状態が続いている。そうなるとウイルス感染状況も判らない。時々感染が広がっているという報道も見られるが。また、歴史的、政治的事情から多くの国から「国家」として承認されていない「台湾」は、「事実上の国家」としての信用力が増すことになった。21世紀は「国家を超えた世界」が実現するように言っていた人もいたが、やはり「国家」の枠内で人は生きていたのである。

 コロナ危機で生活が困窮した人をどう救うべきか。この問題に取りあえず答えを出せるのは、「国家」(および「地方政府」)だけだった。世界的組織は貴重だけど、人々を直接把握できない。NPOやヴォランティアも大切だが、全員を対象に出来ない。「特定給付金」とか「持続化給付金」などの「対策」(または「無策」)に関わるのも国家だけだ。国家を運営する「行政」は、選挙を通して国民が(タテマエ上は)成立させる。それはつまり我々は「国家」に包摂されていて、抜けられないということでもある。

 国家を超える規模を持つ「多国籍企業」、特に「GAFA」と呼ばれるアメリカの大企業の問題も考えないといけないんだけど、長くなるしテーマが拡散するので別に機会にしたい。今回の問題で僕が一番考えさせられたのは、やはりまだ「国民国家の時代」だったんだということである。インターネットだの、多国籍企業だの、何だか21世紀は国家を超えていたように思わないでもなかった。でもイザとなると、国境は閉ざされてしまうのである。
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監視社会か、連帯社会かー「ポストコロナ」世界考①

2020年06月12日 20時43分26秒 | 社会(世の中の出来事)
 何回か使ってそろそろ「新型コロナウイルス以後の世界」を考えたいと思う。「アフターコロナ」という言葉もあるようだが、ここでは「ポストコロナ」と呼びたい。パンデミックによって、世界は大きく変わった。いずれ元に戻ってしまうという人もいれば、不可逆的な変化をもたらすという人もいる。そう簡単に二者択一にはならないだろう。新たに現れて定着するものもあれば、いつの間にか元に戻るものもあるだろう。ウイルス危機を乗り越えられず、ひっそりと消え去ってしまうものも多いに違いない。

 「ポストコロナ」で検索すると、下の画像が見つかった。なんだろうと思ったら、立憲民主党だった。「ポストコロナ社会の理念」と銘打って、「支え合いの重要性」「自己責任論の限界」「再分配の必要性」と三つの論点をあげている。僕が今まで書いてきたこととつながる面が多い。反対する気は全然ないけど、というか方向性としては大賛成なんだけど、こういう方向に世界は変わるのだろうか。

 「三密」を避けろと言われたときに、もっと深く考えてみるべきだった。ウイルスはもともと動物から人間に感染したが、ウイルス自体は自分では動けない。中には蚊やネズミが媒介する感染症もあるが、新型コロナウイルスは人から人へしか感染が広がらない。「密」に接触してもウイルスが「自然発生」するわけじゃない。感染していない人どうしが濃密に接触しても、感染はしない。要するに「密」を避けろというのは、「誰が感染しているか判らない」から「人を見たら感染者と思え」ということだ。他人には誰が感染しているか判りようがないから、「全員と距離を取れ」ということである。

 2月頃から日本での感染例が報告され始めた。特に当初はクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号が大きく報道されていた。下船した客が千葉県のホテルに一時滞在していた時に、ホテル前の海岸に激励のメッセージを書く人が現れたことがあった。日本でも当初は「連帯」のムードが強かったのである。この世界的苦難を共に頑張って乗りきろうという気持ちがあふれていた。しかし、3月以後感染者数が増えていくと、次第に変わっていったように思う。増えたといっても、日本国内では欧米に比べて感染者も死者も少なかった。最近の抗体検査でも思った以上に感染者は少なかった。

 外国の感染爆発ニュースが大きく報道される日々に、日本では現実の感染者は少なかった。感染者が一番多い東京に住んでいても、身近なところに感染者がいた人はほとんどいなかった。自分も一人も知らない。もちろん報道された芸能人などは何人か知っているが、個人的な知り合いは誰もいない。この「感染者数が少なかったこと」が、「感染者や家族への差別視」を生んだ。ごく一部だからこそ、「感染者ではない証明」が難しい。ほとんどの人は感染していないにも関わらず、厳しい感染予防策を求められた。もちろん「誰が感染者か判らない」のは事実だから、皆が従わざるを得ない。

 「他人事」だったときと違って、「皆が感染者である可能性」が生まれたときに、「監視社会」が進む。感染者がごく一部であるからこそ、「監視」が厳しくなる。もしもっと多くの感染者、死者が出ていたら、社会の雰囲気は違っていただろう。「誰もに感染可能性がある」のだから、「寛容」な雰囲気が生まれたと思う。感染者が現実には少なかったことから、「不注意で感染し、周囲に感染を広げた責任がある」とみなされた。合理的な感染リスクを超えて、「逸脱」行動には激しいバッシングが寄せられたのだ。
(中国の「監視」システム)
 今は公的な施設では、入場に体温測定やマスク着用が必須になっている。学校では今まで当たり前に行われてきた多くの学習が出来なくなっている。今後もしばらくは「監視社会化」が進行すると思う。「感染リスクがある」と主張されると、反論は難しい。韓国の「K防疫」は「成功」とされたが、スマホアプリを駆使した「個人情報監視」と思える。日韓対立を背景にしてか、日本では「反安倍政権」的左派が評価し、「安倍支持」の右派が感情的に反発していた。

 今後日本でも「監視」技術整備が進むと、この「ねじれ」は解消されるのだろうか。僕には心配の方が多い。「異常時対応」が「常態化」して、「監視社会になれてしまう」のではないか。今では街に「防犯カメラ」(という名前の監視カメラ)にあることが当たり前になってしまったように。世界のどこでも「少数派排除」という問題はあると思う。だが特に日本では「集団同調圧力」が強い。

 今後の日本社会では、「感染リスク防止」の名の下に同じような行動が出来ない高齢者や障害者への排除、危険視が進むのは間違いないと思っている。もちろん、日本社会を「連帯」の方向に変えていくこと、「自己責任」から「支え合い」へという旗を高く掲げることは大切だ。今後も折に触れて発信したいと思うが、冷静に判断するならば今後の世界は「監視社会化」の方向ではないかと認識している。
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ゴーン事件考⑤まとめと展望

2020年01月14日 23時19分49秒 | 社会(世の中の出来事)
 「ゴーン事件」は被告の逃亡で裁判の行方はどうなるのだろうか。そもそも「ゴーン事件」とは何だったのだろうか。レバノンで行った「ゴーン会見」は日本では「新しいことは何もなかった」という評がほとんどだが、そういう理解でいいのだろうか。そんなことを最後に書いておきたい。

 会見に新味がなかったというのは、それ自体は正しいと思うが、それは「すでに事件の概要を知っていた」からだ。事件について書かれた文献の多くは日本語だから、世界の人は読めない。会見に出席したジャーナリストたちも、日産とルノーの問題は知っていたかもしれないが、日本の司法制度はほとんど知らなかっただろう。日本で逮捕されるということがどういうことか。それは有無を言わさず手錠を掛けて連行され、弁護人の同席もなく一日8時間にも及んで「自白」を迫られるという体験だった。

 いや8時間もやってない、弁護人とは面会できるとか、法務大臣が2回も反論(釈明?)の談話を出したこと自体、制度的な側面に関しては世界に知られたくないことが語られたということだ。ゴーン捜査の実情は知らないけれど、会見で語られた取り調べの実態はほぼ事実だと思う。違っていたとすれば、それはゴーンが要人として優遇されたということで、普通はもっとひどいだろう。日本では「代用監獄」(留置場)が存在するなど、刑事司法の国際水準からはほど遠い。「弁護人の同席」が国際レベルだろうが、「弁護人と面会」できるなどとヌケヌケと言っていて、恥ずかしいレベルというほかない。

 注目すべきは、1月8日にあった安倍首相の謎の発言だ。それは「日産のなかで片付けてもらいたかった」というものである。キャノンの御手洗会長との会食時に出た言葉だという。そもそもゴーン事件は、日産から司法取引で特捜部に持ち込まれたものだとされる。安倍首相発言を見ると、やはり日産内部で解決すべき問題を無理に刑事事件化したという側面があったのか。司法取引が認められてから、大きく注目される大事件はまだ手掛けていなかった。「司法取引」によって、ここまで大きな事件を摘発できるのか。それを検察当局が狙った側面は否定できないだろう。

 2回にわたって「金融商品取引法」で逮捕され、2回目の逮捕では10日間の勾留延長が認められなかった。その後、「特別背任」で再逮捕、保釈後にオマーンでの「特別背任」でまた逮捕された。数多くの書類を精査して、ようやく事件化できるものを見つけ出したということだろう。「特別背任」は重大ではあるけれど、日産=ルノーの経営を揺るがすようなものではなかった。会社が倒産して、調べてみたら長年にわたって不明朗な支出がなされていたと言った事件ではない。会社が破綻した場合だったら、悪質性を問われて実刑判決が出る可能性があるが、ゴーン事件では「執行猶予」が確実だ。

 日本政府はゴーンに2004年に藍綬褒章を贈っている。解任されたから、「再犯可能性はゼロ」である。それを考慮すると、有罪でも実刑は考えられない。とことん闘って無罪になったとしても、今後日本でゴーンを経営者として迎える企業はなかっただろう。だから、もう日本はゴーンにとって何の意味もない。この程度の事件で何年も家族に会えないなど、ゴーンからすれば常識外れの迫害だ。事実上、裁判前に無期懲役刑になったようなものだった。

 日本では「司法取引」を制度化したときに、「有罪答弁取引」は取り入れなかった。司法取引というのは、争いの片方には「不起訴」など有利な扱いをするわけだから、慎重な扱いが必要だ。相手の責任にして自分は罪を免れる冤罪が起こりやすい。だから、争いのもう片方の側にも「取引」の可能性を認める方が公平だと思う。この場合は、日産から入手した資料を開示して、「執行猶予付き有罪」を認めるように取引するわけである。もう日本にいても仕方ないんだから、さっさと終わらせるために受け入れた可能性はあると思う。

 まあ、それはともかく、今後レバノンから日本へ移送されることはない。引き渡しを求めるなら、順番はまず岡本公三の方が先だろう。誰だって言う人は自分で調べて欲しい。亡命を認めて今はレバノン国籍も取ったという岡本公三を保護している国が、元々国籍を所有しているゴーンを引き渡すわけがない。レバノンでは昨年来反政府デモが続いていて、ゴーンを擁護する人ばかりではないともいう。だが、だからこそレバノン政府に強い圧力を加えても、かえって日本に引き渡すことは出来ないだろう。

 何でもレバノンの面積は岐阜県程度だという。テレビ番組なのでは、日本を出ても今度は「レバノンという牢獄」を出られないなどと言ってる人がいる。日本の保守派はすぐに「」「家族」というくせに、ゴーンが自分の祖国に逃げ帰って家族に会いたいという気持ちが判らないのだろうか。僕はこの程度の事件で裁判がどうなろうとあまり関心はない。ゴーンが言ってる日本の司法制度批判に関しては、非常によく判ると思っている。逃げたヤツが何を言うかなどという八つ当たり的反応は間違っている。

 ゴーンの逃亡を批判できるとしたら、それは一緒に逮捕されたグレッグ・ケリーだけだろう。一体彼はどこで何を思っているのだろうか。自分を置き去りにして逃げたゴーンに怒っているんじゃないか。まあ、その程度の権力者にくっついていた自分の責任ではあるけれど。ケリー被告は逃げてないんだろうから、今後いつの日か裁判が待っている。特別背任は無関係で、金融商品取引法の従犯なんだから、今さら内容を争わず「すべてはゴーンの指示」とでも言って裁判は早期に終わるんじゃないか。そんな気がするが、ケリーの立場から見たら「ゴーン事件」はどう見えているんだろうか
(グレッグ・ケリー被告)
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ゴーン事件考④国策捜査編

2020年01月13日 22時51分47秒 | 社会(世の中の出来事)
 森法相宣わく、日本では「的確な証拠によって有罪判決が得られる高度の見込みのある場合に初めて起訴する」ということだから、カルロス・ゴーン被告は「有罪判決が得られる高度の見込み」があるわけである。しかし、有罪率は99%であり、わずかながらではあるが無罪判決の可能性もある。ただし、「被告・弁護側が無罪を証明すれば」である。森法相ツイッターで「潔白というのなら司法の場で無罪を証明すべきだ」と発言し、さすがに「証明」は「主張」に訂正したけれど、刑事裁判の実務感覚では「弁護側が無罪を証明しない限り、なかなか無罪にならない」というのが実感だと思う。

 弁護側の反証どころか、起訴状も不明なまま裁判は凍結されそうだ。だから、実際にどのような判決だったかは判りようもないんだけど、あえて言えばやはり「有罪の可能性が高い」のだと思う。それはこの事件の性格や経緯、あるいは日本の裁判の判決傾向を考えると、なかなか無罪判決は難しいだろうと考えるからだ。「有価証券報告書編」で書いたように、僕は今回の「事件」は形式犯であり、法律上も議論の余地があると思っている。しかし、それでも起訴しているわけだから、証拠上も法解釈上も文言上は有罪になり得るものがあるんだと思う。
(2019年4月、保釈時のゴーン被告)
 今回は検察側は日産側と「司法取引」をしていた。日産側が自ら書類を提出しているんだから、「有罪」証拠がないとおかしい。それは「形式上」のものかもしれないが、近年の裁判では「形式」さえ満たしていれば有罪が出ていることが多い。僕が思い出すのは、2004年に起こった「立川反戦ビラ配布事件」である。イラクへの自衛隊派遣に反対するビラを自衛隊官舎内で配布したというものである。3人が「住居侵入罪」で起訴され、1審で無罪ながら、2審で罰金20万、10万となり、最高裁で確定した。

 この事件の場合、そもそも階段や通路が「住居」かという問題もあるが、一応「立ち入り禁止」区域だったことは間違いない。だが商業チラシなどは自由に配布されていた。そっちは違法性を問わず、反戦ビラを取り締まるのは「表現の自由」に反するのではないか。1審では「住居侵入罪」の成立を認めながら、処罰するほどの違法性はない(可罰的違法性阻却)とした。これは僕には常識的な判断だと思うが、上級審で覆されてしまった。何人も他人が管理する場所で無断で政治的意見を表明する自由はないというのである。ちなみに被告たちは、75日間勾留されていた。

 そのような「何としてでも有罪」は、特に「国家的な重大事件」の場合に多く起きる印象がある。反戦ビラ事件は軽微な事件だが、イラクへの自衛隊派遣は国家的な大問題だった。経済事件や汚職事件などの場合は、「国策捜査」という言葉もある。鈴木宗男氏の事件に連座した外務省職員(当時)の佐藤優氏は、ほとんど犯罪を構成しないような事案で逮捕され、偽計業務妨害で懲役2年6ヶ月、執行猶予4年が確定した。執行猶予が付くレベルの事件でありながら、512日間勾留された。保釈後に出版した「国家の罠」では、検事が「国策捜査」と発言したと書かれている。

 「国策捜査」なんてものはないという意見もあるが、それはその通りだと思う。特捜部の事件がすべて政治が決定しているなんて言ったら、今「IR汚職」が捜査されている理由が判らない。だが「検察がメンツを賭けて有罪を求める」レベルなら、裁判所が「忖度」することはあると思う。裁判官が政権を気に掛けるとは思わない。だが「上級審の判断を気にする」のはあるだろう。自分たちが下した判断が最高裁で逆転するならば、「出世」に差し支えるだろう。それに裁判官と検事は人事交流がある。あり得ない感じだけど、「判検交流」はけっこう盛んである。同じ事件で担当替えはしないけれど、裁判官と検事は「国家秩序を守る」立場で共感しているのではないか。

 ゴーン事件は、国際的大企業で起きた事件で世界的な反響を呼んだ事件だ。「今さら無罪でした」では、日本の「国家的メンツ」はつぶれてしまう。それもあるだろうが、この事件は2016年に成立した刑訴法改正で実現した「司法取引」の適用第2例だった。刑事司法における司法取引そのものが争点になるだろう。弁護側は当然のこととして憲法違反を申し立てるだろう。司法取引そのものに対する憲法判断が問われる。そこで「違憲判断」をすれば、多くの裁判に影響を与える。そういう裁判になるんだから、2年、3年では決着しない。間違いなく10年は掛かる。そして恐らくは、形式的な根拠が整っているとして有罪が確定する。執行猶予レベルの事件だけど。そんな裁判に付き合いたくないと思ったとしても、そのこと自体は責められないような気がするんだけど。
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ゴーン事件考③日本の司法制度編

2020年01月11日 23時10分43秒 | 社会(世の中の出来事)
 カルロス・ゴーンはレバノンで「日本の司法制度は不正」と批判を繰り返している。その指摘をどう考えればいいんだろうか。よく裁判のニュースで「不当判決」と書いた紙を持った弁護人が出てくることがある。2019年に最高裁の「大崎事件再審の逆転棄却決定」は、ここでも批判したけれど、間違いなく「不当決定」だと考える。それは「正しくない」ものだから「不正決定」と言ってもいいはずだが、普通は「不当決定」と表現するだろう。「個別事件の判断の誤り」だから、日本の司法制度全体が「不正」であるという判断とは違う。「不正」というと賄賂でも貰って判断を変えたようなイメージになる。

 僕は今まで冤罪事件死刑制度についてたびたび書いてきた。日本は死刑制度を存置しているから、ヨーロッパ諸国は日本には容疑者を引き渡さない。世界では死刑廃止国の方が多いわけだから、そういう日本の司法制度を「不正」と表現することもありうる。しかし、司法制度に限らず、世界には様々なシステムがある。例えばアメリカの連邦最高裁だって、裁判官が終身で務めるというのも日本から見れば変である。でも「不当」とは言わないだろう。一党独裁の中国とは違うんだし、現実に弁護人の主張が通って無罪判決が出ることはそれほど珍しくはない。

 だから、日本の司法制度全体を不正なものだというのは言いすぎというものだ。このように、僕はつい先頃までは判断していた。ところが、よほど頭に血が上ったか、法務省や検察庁のゴーン事件への反応を見ると、どうもおかしなことが多すぎる。特にゴーン会見を受けて、森雅子法務大臣が2回も談話を出して法務省の主張を展開した。それを見て、僕は考えを変えざるを得なかった。日本の司法制度は不正なものだと言われてもやむを得ない

 森法相談話は法務省のホームページですぐ見られるが、一番問題だと思う部分を示しておきたい。
 「有罪率が99%であり,公平な判決を得ることができないとの批判がなされたが,我が国の検察においては,無実の人が訴訟負担の不利益を被ることなどを避けるため,的確な証拠によって有罪判決が得られる高度の見込みのある場合に初めて起訴するという運用が定着している。また,裁判官は,中立公平な立場から判断するものである。高い有罪率であることを根拠に公平な判決を得ることができないとの批判は当たらない。」

 法相の論理(法相のみならず、テレビニュースで解説している弁護士などは大体同じようなことを言ってる)では、「的確な証拠」があるもののみを起訴しているから、高い有罪率なんだという。ところで、カルロス・ゴーンはまさに起訴されている。よって論理的に、ゴーン被告に関する証拠は的確なものであり、「有罪判決が得られる高度の見込みがある」わけである。その確率は99%と明示されている。

 起訴されたんだから、カルロス・ゴーンは99%有罪なんだと法務行政のトップが世界に向かって明言しているのである。まさに「推定有罪」である。これが「不正な司法制度」でなくて何なのか。それなのに野党もマスコミも、この森談話を批判しない。国家主義的思考に染まっているんだろうし、もともと論理力が不足しているのかもしれない。お前は有罪だ、なぜなら起訴されているから、と明言する法務大臣がいる国では、誰だって裁判を受けたくないだろう。

 他にもおかしなことがいろいろあるが、逮捕するには令状主義が徹底されているなどと自賛している。別に当たり前のことで、どこか独裁国などと比べれば「人権保障」が出来ていると自慢しているんだから始末が悪い。そして、あろうことかキャロル夫人に対する逮捕状まで取ってしまった。「令状主義」は生きているが、こんな逮捕状を認める裁判官もいるのである。公判が始まる前の段階で「偽証罪」って、どうなってるんだろう。
(キャロル夫人に逮捕状)
 確かに「公判前の証人尋問」は例外的に可能である。(刑訴法226条)宣誓しているんだろうから、偽証は罪になるが、今回は「記憶にない」という証言だという。実は知ってたとしても、夫をかばっただけである。捜査に大きな影響を与えるものではなく、実際に何の不都合も起きなかった。だから誰も今までそんな証言がされていたことも知らないだろう。訴追するまでもなく「起訴猶予」レベルのものだ。今後キャロル夫人が夫の代弁者として振る舞うことを防ぐためなんだろうけど、「嫌がらせ」もここまで来ると、どうも焦りや腹いせという感じだ。
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ゴーン事件考②有価証券報告書編

2020年01月10日 22時30分27秒 | 社会(世の中の出来事)
 ゴーン元日産会長は、2018年11月19日に金融商品取引法違反容疑で東京地検特捜部に逮捕された。直接の容疑は「有価証券報告書の虚偽記載」である。自らの報酬を少なく見せかけるために、有価証券報告書に虚偽記載をさせた容疑である。同じ容疑で対象年度を変えて2回逮捕され、起訴された。過小記載は8年間で約91億円とされている。起訴内容に沿って、日産は有価証券報告書を訂正した。
(今までの虚偽記載事件)
 金融商品取引法違反は「懲役10年以下か、罰金一千万円以下」であり、それをもって重罪だとする人があるが、そんな重罰は極めて悪質なインサイダー取引とか長年の粉飾決算の場合だけだろう。今までの例に照らせば、確実に執行猶予が付く案件である。普通は会社トップが直接虚偽記載の実務を行うはずがなく、下からの捜査を積み上げてトップに迫るのが通常の方法だ。いきなりトップを逮捕したのは、言うまでもなく事前に日産と「司法取引」を行っていたからである。

 そこがゴーン側から「クーデター」と言われるところである。その詳細な内情は知らないけれど、当時の報道によれば、日産内部では捜査当局が金融取引取引法で逮捕したのは驚きだったと書かれていたと思う。つまり、これは「一種の形式犯」であり、本来は「特別背任」が本命だったはずだということだろう。結局、後に特別背任容疑で再々逮捕、再々々逮捕と繰り返された。僕は当時、この容疑が事実なら「投資家に影響を与える可能性」は大きいと思った。元々ゴーン会長の報酬が多すぎるという議論は度々あった。そして実際は倍も貰っていたのかと思ったわけである。

 ところで不思議なことに日産は有価証券報告書の中で、取締役の報酬部分だけを訂正して、財務諸表を訂正していない。それはこの「隠された報酬」は実は支払われていなかったからである。つまりゴーン側に不明朗な報酬が渡り、その支出を隠すために決算を粉飾するという悪質なものではなかったのである。その未払い部分は退任後に支払うという決まりだったという。なんだ、貰っていたのに隠していたのではなかったのである。退任後の追加報酬がどこまで正式に決定されていたか現時点では判らないが、仮に細かく取り決めてあったとしても、実際には支払われてない以上「報告書に書くべきかどうか」は法的に議論の余地があると思う。

 それ以上に問題だと思うのは、日産は自ら解任したゴーン元会長にこの約束した報酬を支払うんだろうか。もちろん支払わないだろう。今では会社側と対立関係にある人物に巨額の追加報酬を支払うというのは、到底株主の理解を得られない。しかし、有価証券報告書を訂正してしまった以上、届け出た通りの報酬額を支払う義務があるのではないか。結局は払わないと言うんだったら、前の報告書の報酬が正しかったことになり、再訂正をしないとおかしい。しかしながら、再訂正をして元通りにしてしまったら、「有価証券報告書の虚偽記載」というもの自体が存在しなくなる。

 僕にはどうも、そのような「背理」問題があると思うんだが、誰も何も言わないのはどうしてだろう。日産が「泥棒に追い銭」しない限り、形式的に犯罪が存在しなくなるような気がする。司法取引をして日産の内部資料を見られたはずの検察側が、このような「まだ貰ってない報酬」をもって「虚偽記載」として長期に拘束したわけである。ということは「本丸」であるはずの「特別背任」に関しても、弁護側の反証をよく聞かない限り検察側の主張を鵜呑みにするのは危険だということを示しているんじゃないだろうか。(なお「特別背任」事件の方は、関係証拠が完全に示されない限り、有罪無罪の判断は僕には無理だ。もしかしたら証拠を見ても無理かもしれない。)
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ゴーン事件考①日本脱出編

2020年01月09日 22時55分06秒 | 社会(世の中の出来事)
 日本で訴追され保釈中だったカルロス・ゴーン(Carlos Ghosn、1954.3.9~)元日産会長が、2019年末に日本から密かに出国していた。レバノンで声明を発表し、それが大晦日に突然報道されたわけである。このニュースにはさすがに驚いた。今までゴーン事件は一回も書いてない。真相は僕にはよく判らないし、あまり「現在進行形」の事件は書かないことにしている。(何十年もたった再審事件などは別。判決の論理がおかしいなと思った今市事件は例外である。)
(レバノンで会見を開いたゴーン氏)
 しかし、今回の展開で2020年春に始まるとされた裁判は通常の予定では進行しないことがはっきりした。だから僕の感じたことを忘れないうちに書き留めておきたいと思う。まず正直に言ってしまえば、「やるなあ」とでもいう感想。「無実なら裁判で訴えよ」なんてタテマエをいう人が多いが、さっさと逃げ出すという選択肢があったのか。まあお金があったからこそ出来ることで、そんなことは普通の人には出来ない。そうなんだけど、お金があればここまで日本政府をコケに出来るのか。ここまで日本政府をコケにした事件と言えば、1978年の成田空港管制塔占拠事件以来かもしれない。 

 アメリカのミステリー風に言うなら、「日本国対カルロス・ゴーン事件」となる。今回の出来事で判ったのは、思いがけなく「日本国」の立場にしか立てない人が多いことだ。カルロス・ゴーンは日本に来た時から、傲慢なやり方で好きではなかったが、刑事事件になった以上は「一市民」として公正な人権保障が認められなければならない。「保釈した裁判官が悪い」などと八つ当たりする人がいるが、この程度の事件でずっと保釈しないことはあり得ない。もし今まで勾留を続けていたとしたら、諸外国からの批判は今のようなレベルでは済まない。もっともっととんでもない大騒ぎになっていただろう。

 もう一つ、プライベートジェット機が出国するときの検査が甘かったのではないかと入国管理当局(法務省である)を非難する向きも多い。これは全くおかしい。飛行機に乗るときに厳しい検査があるのは何故だろうか。まずは「テロ、ハイジャック防止」である。それはプライベートジェットの場合、ほとんど関係ない。もともと雇い先の命じるまま、どこでも行ける飛行機なんだから。また日本への入国に際し、違法薬物、コピー商品などの持ち込みを禁じるのも検査の大きな目的だ。プライベートジェットを使うような大物でも、薬物を持ち込む人はいそうだから入国審査はそれなりに見てるんだろう。しかし、日本から持ち出す方はあまり検査する必要がないと考えても無理はない。

 なぜなら、プライベートジェットを優遇するというのが国策だったからである。東京新聞1月8日付の記事(こちら特報部)によれば、関空、成田、羽田、中部など主要な空港でプラーベート機専用ターミナルを設けたり、優先的に駐機できる場所を増やしてきたという。そのため、2018年には5719回の発着があり、2012年と比べて倍増した。国土交通省も「企業の経営者にとっても時間が有効活用され、わが国の国際競争力強化に資する」と推進してきた。(以上、東京新聞記事による。)

 検索してみると、経団連が2014年1月に発表した「日本経済の発展の道筋を確立する」という提言に以下の項目があるのが見つかった。別表5に「◦国際空港の容量拡大・稼働率向上等(発着枠の拡大、空港使用料の引き下げ、プライベートジェットへの対応強化等)」と明記されている。つまり、「日本を世界で一番企業が活躍できる国にする」という政権があって、それを後押しする財界の要望があった。そのような「アベノミクス」の一翼を担ったのが「プライベートジェット」優遇だったのである。

 その中で関空は首都圏に比べて、プライベートジェットの発着は少なかったという。従って、公務員削減策のもと、人手不足だっただろうことは推察できる。出国したとされる12月29日は、日本人にとっては年末の出国ラッシュだし、クリスマスから新年にかけては外国人観光客も多いだろう。折しも関西では山口組分裂に伴う抗争が激しくなりつつある。それに絡む出入国の監視の方が重要だろう。手薄なところを狙われたんだろうが、もとは国策で優遇していた以上、現場を責めるのは酷じゃないか。

 日産事件は無実を主張できるが、この「密出国」は間違いなく「有罪」に違いない。出入国管理及び難民認定法の25条違反で、71条によると「1年以下の懲役若しくは禁錮若しくは30万円以下の罰金」だから、それほど重くはない。しかし、僕が疑問なのは保釈後の検察の対応だ。検察側は「逃亡または証拠隠滅の恐れ」を理由に保釈に反対していた。それなら保釈後も「行動確認」を続けるだろう。人権上問題もあるかもしれないが、やるはずだ。数年前のパソコン遠隔操作事件では、保釈後も行動確認(尾行)を続け、まさに証拠隠滅しているところを逮捕した。

 今回はどうしていたんだろうか。してないはずはないと思うけど。警察官も公務員だから、年末には少し態勢が緩くなったのか。防犯カメラで追えるから、それに任せていたのか。それにしても関係者が何度も来日して、各空港を調べるなどしていたという。どうして事前につかめなかったのか。もしロシア関係者と接触し北海道から密出国するといったプランだったら、多分事前に判明したんじゃないだろうか。今回は協力者が元米軍関係者だったらしいから、日本警察にはアンタッチャブルな領域だったのかもしれない。そんな想像もしてしまう。僕は裁判所や入管ではなく検察の失敗だと思っている。
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イチロー惜別

2019年03月25日 22時48分03秒 | 社会(世の中の出来事)
 シアトル・マリナーズのイチロー選手が、21日の東京ドームでのアスレチックス戦の終了後に現役引退を発表した。深夜に記者会見をして、朝から様々なメディアで大々的に報道された。イチローは2018年5月3日にマリナーズと「スペシャルアシスタントアドバイザー(会長付特別補佐)」契約を結び、以後の試合は出場しなかった。事実上昨年で引退状態だなと思ったけど、日本でのメジャーリーグ開幕戦が決まっていたから、それが「引退興行」なんだろうと思った。でも試合後にすぐ引退を正式発表するとは予想外といえば予想外。アメリカでマイナー契約で続けるのかもと思っていた。
 (東京ドームのイチロー)
 スポーツ選手はある時点で引退が避けられない。最近も福原愛吉田沙保里松本薫、あるいは横綱稀勢の里とどんどん名前が思い浮かぶ。それなりに何か思うこともあるんだけど、イチローに関して記事を書くのは「イチローはナマで見ている」から。それはもちろんオリックス時代。95年か96年か、もうよく覚えてないけど、東京ドームの日本ハム戦。イチローはヒットを打たなかった。イチローのところに大フライも飛ばなかった。双眼鏡は持って行ったけど、全然よく見えない。でもまあ、見に行った記憶は鮮明にある。サービスの券かなんかあって、珍しく妻が見に行こうよと言った。イチローは首位打者を続けていて、すごい人が出てきたという感じだったのである。
 (オリックス時代のイチロー)
 1994年に「イチロー」という若い打者がヒットを量産し、注目を集めた。首位打者になって、趣味を聞かれて「盆栽」なんて答えるセンスに驚いた、1995年に阪神淡路大震災が起こり「がんばろう KOBE」を合い言葉にして、オリックスが優勝した。翌1996年も連覇し、日本シリーズでも優勝した。イチローは首位打者の他、打点、盗塁、最多安打、最高出塁率でタイトルを獲得した。オリックスはそれ以後優勝していないから、パリーグで21世紀に優勝してないただ一つのチームになっている。僕にとってイチローが一番印象的だったのは、この頃かもしれない。

 そもそも最初にビックリしたのは、鈴木一朗を「イチロー」という登録にしたことだ。その後、他にもプロ野球選手に名前登録が出てきたし(「鉄平」とか「サブロー」とか)、芸能人にも「小雪」とか「瑛太」とかの芸名が出て来た。今はあまり驚かないけど、最初に「イチロー」って聞いたときには、その語感はすごく新鮮だったのである。そして、2001年から大リーグに行った。僕もここまで大活躍するのは思ってなかった。僕はその前年から夜間定時制高校に転勤していた。勤務時間が昼から夜になって、家を出るのもお昼過ぎになった。そうすると時差の関係で、ちょうど西海岸のマリナーズ戦中になることが多い。(時差は16時間。)「本日のイチロー)をニュースで見て出勤するのが、僕の21世紀だった。

 もうここ数年、思うような実績が上がってない。このようにスッパリと辞めるのかどうかだけが判らなかった。記者会見は深夜だからナマでは見てないけど、ずいぶん深い言葉が多い。こういうタイプ、「職人」というか「変人」というか、そういう人が活躍したということが素晴らしい。「元選手イチロー」の今後も目が離せない。
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ボイジャー2号、太陽系を離脱

2018年11月28日 23時14分19秒 | 社会(世の中の出来事)
 2018年秋には様々な出来事があったけれど、一番驚いたのがボイジャー2号のニュースだった。NASAが10月6日にボイジャー2号が太陽系を離脱しつつあると発表したのである。これは一体どういうことなんだろうか。その時々の天文ニュースは見ていても、専門じゃないから普段は忘れてる。そんなに詳しくないけど、ネットで簡単に調べられる範囲で見てみた。いつもとちょっとジャンルが違うけど、すごく興味深かったのでぜひ書いておきたいと思う。
 (ボイジャー2号)
 ボイジャー計画(Voyager program、ボイジャーは「旅人」「航海者」といった意味)は20世紀後半に実施された太陽系の外惑星探査計画である。今もずっと飛び続けていたんだと感心した。ボイジャー1号は1977年9月5日、ボイジャー2号は1977年8月20日に打ち上げられた。1号の方が遅いけど、本来は同日の予定でシステム不良で遅れたという。何にしても40年以上も前のことだ。

 地球は一年かけて太陽を公転している(というか話は逆で、地球の公転周期を「一年」と呼ぶ)が、他の惑星の公転周期は異なっている。太陽に近いほど公転周期が短く、水星は87日、金星は224.7日である。太陽から離れるほど公転周期は遅れて行く。火星は1.88年、木星は11.86年、土星は29.53年、天王星は84.25年、海王星になると164.79年もかかる。

 だから普通は太陽系のあっちこっちにバラバラに各惑星があるわけだ。ところが1970年代後半から1980年代にかけて、175年に一度の「外惑星がほぼ並ぶ」周期が訪れた。それを利用して、外惑星をまとめて観測しようというのがボイジャー計画だったのである。そしてボイジャー1号は1979年3月5日に木星を通過し、1980年11月12日に土星を通過した。1号のミッションはそこで終わって、すでに2012年8月25日に太陽系を離脱している。
 (ボイジャー2号が撮った土星)
 ボイジャー2号は、1979年7月9日に木星を通過し、新しい衛星アドラステアを発見した。続いて1981年8月25日に土星を通過して土星大気の分析などを行った。本来は地球を出発した速度では木星程度しか到達できない。そこで「スイングバイ航法」を用いて天王星、海王星へと向かった。この「スイングバイ」(swing-by)は日本の小惑星探査機「はやぶさ2」でも使われた技術で、天体の運動と重力を利用して運動ベクトルを変更する。僕にはどうにも説明できないけど。
 (天王星に最接近したボイジャー2号)
 ボイジャー2号は1986年1月24日に天王星を通過し、天王星の新しい衛星を10個発見した。また磁場の存在を確認し、天王星の輪を観測したりした。続いて1989年8月25日に海王星に最接近した。海王星の衛星も新しく6個発見している。また輪が海王星を一周していることも確認した。ボイジャー2号は今のところ海王星まで到達した唯一の探査機である。当時大きく報道されたは思うけど、もう30年近く前である。写真は覚えていたけど探査機の名前も忘れていた。
 (ボイジャー2号の見た海王星)
 ところで海王星を通過してずいぶん経つわけだが、今まで太陽系にいたのか。「太陽系」とは何だろうか。昔は冥王星も惑星に数えていたけど、その後除外された。地球と太陽との平均距離をもとに「天文単位」(au)が定められている(149597870700m)。海王星は約30auで、冥王星は楕円軌道なので一番短い時は海王星より地球に近いぐらいだが、地球から29auから49auぐらい。その周りに「太陽圏」(ヘリオスフィア)と呼ぶ空間がある。太陽風の届く範囲で、120auぐらい。

 海王星探査後も30年近く飛び続けて、ボイジャー2号はその太陽圏のへりまで到達したわけである。太陽風の影響はなくなり、今後は星間物質を観測する。まだ通信は途絶えていないのである。ボイジャー1号も同様で、2号ともども2025年ぐらいまでは通信可能と言われている。今後も飛んでいくが、どこか特定の恒星を目指しているわけではない。しかし計算上は、29万8000年後にシリウスから約4光年まで接近すると言うんだから、何という壮大なロマンだろうか。ボイジャーには、もしかしたらということで「55の言語でのあいさつ」などを収録したレコードが搭載されている。いつまでも宇宙空間を孤独に飛び続けて、あるいは他の生命系によって解読される日は来るのだろうか。
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「感謝しかありません」の不思議

2018年09月22日 23時03分53秒 | 社会(世の中の出来事)
 「気になる言葉」というカテゴリーを作ってあるので、たまにはそれを書きたい。今年の夏に高校野球やアジア大会などを見ていて気になったことがある。インタビューで「応援してくれた方へ」と問われると、ほとんどの選手が「感謝しかありません」と言うのである。これは言葉の遣い方がおかしいと思うんだけど、どこがおかしいんだろうかと考えてみた。 

 「しかない」って言うのは、普通「足りない場合」に使う。
 自販機で缶コーヒーを買おうと思った。大体100円玉の1枚か2枚は財布にあるもんだけど、見たら50円玉1枚、10円玉2枚、後は5円玉1枚と1円玉3枚だった。つまり「78円しかなかった」。これが「しかない」の使用法だろう。つまり「足りない」のである。(まあ千円札でも買えるが。)

 その前に。そもそも「感謝」って、あったりなかったりするものなのかという問題がある。しかし、同じように「絶望しかない」「不安しかない」といった言い方もあって、理解可能である。これは「絶望の思いしかない」「不安の念しかない」の「思い」や「念」が省略されたものだろう。「感謝しかない」も、だから「感謝の気持ちしかない」っていうことなんだろう。それでも「しかない」のは「絶望」や「不安」のように、ネガティヴなケースの方がしっくりくるという問題がある。

 ところでこの言葉を検索してみると、ピョンチャン五輪で金メダルを獲得した羽生結弦選手の言葉が出てくる。インタビューで、「右足が頑張ってくれた。感謝しかない。」と語っている。僕が思うに、これにはあまり違和感がない。どうしてだろうか。羽生選手は前年秋のNHK杯の練習で転倒して大けがを負った。オリンピックは絶望かとまで言われた中、復帰戦になる五輪では痛み止めを打って競技に臨んだとか。だから「不足」が前提にあって、「(不安の念しかなかったけれど、)右足が頑張ってくれた(から、)感謝(の念)しかない」と判るから違和感がないんだと思う。

 ネガティヴじゃない言葉、「感動」とか「喜び」、「希望」なんかも「しかない」と言われることがある。でも「希望しかなかった」というと、その後に「実際は違った」となる場合に使うことが多い。ニューヨークに行くことになった。自由の女神も見たい。ブロードウェイでミュージカルも見たい。野球やバスケも見てみたい。などなど、そんな「希望しかなかった。」しかし実際に行ってみたら、言葉は通じないし、時差ボケは治らないし、体調も崩れてしまった…。そう続く時にふさわしい。

 一方、言葉も不安、飛行機も嫌い、食べ物にも困るかもと「不安しかなかった」場合は、実際に行ってみたら「案外何とかなるもんで、楽しく過ごせた」と続く。「しかない」のそんな使用法からすると、「感謝しかない」と言われると、なんだか「悪いケースを想像させる」。大きな試合で勝ったのではなく負けた場合、それも期待に大きく反して惨敗したような場合、「期待を裏切って負けてしまったけど、それでも私をずっと応援してくれて感謝しかない」となる。これなら判る。

 そのような「不足」を前提にした「しかない」が、今は「完全」の状態にも使われる。多分使っている方では、自分の心の中では「感謝の気持ち」がフルになっていて、余分な要素がない。そういう「感謝以外の気持ちがない」ということで、逆転した「不足」が存在する。だから、つい「しかない」を使う。そんな風に使われているうちに、言葉が変わっていくことはよくある。「感謝しかない」もその一例なんだろうが、もう一つ違った観点もあると思う。

 それは本来「感謝は言葉だけではおかしい」ということだ。誰かにお世話になって、感謝の意味でお礼に行く。その時は「つまらないもの」を持参するのが普通である。相手に笑って納めてもらえる(笑納)程度のものである。あまりに高額過ぎて、ワイロみたいになってはまずい。「つまらないもの」ならあげない方がいいはずだけど、もちろんそれは「謙遜」で、それなりに考えた「名店のお菓子」なんかが多い。引っ越し挨拶のように、タオル一枚じゃまずいだろう。菓子折り一つ持参して感謝の念を表わす。それが「常識」である。

 そのような「贈与」「互酬」の文化圏にあっては、本来「感謝」は「別のモノ」で表す必要がある。応援してくれた人には、お金やお土産ではなくても、「何か」を付ける方がいい。でもそれは不可能だから、「(本来はもっとお礼を渡すべきだけど)、感謝(しているという気持ち)の表明しか(いま渡せるものがない)」という意味も含まれているように思う。何にせよ、僕は「感謝の気持ちでいっぱいです」とでも言う方がいいなあと思う。
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メダリストの価値-ピョンチャン五輪をめぐって②

2018年02月26日 22時43分11秒 | 社会(世の中の出来事)
 オリンピックに出場するだけで、考えられないぐらい凄い。入賞するのは全世界で数人なんだからさらに凄い。その上に3人だけがメダルを授与される。一番が金メダル、次に銀メダル、そして銅メダル。スピードスケートで活躍した清水宏保がテレビでこんなことを言っていた。自分は三つの色のメダルを取ったけれど、金メダルはうれしい銀メダルは悔しい銅メダルはホッとする。なるほどなあと思わせる言葉だが、オリンピックを見ると「メダルの価値」を考えさせられる。 

 いやスポーツの価値はメダルの色だけでは測れない国ごとにメダル数を競うのもおかしいといえば、まったくその通りだと思う。特に国家としてメダル数の数値目標を作るのは止めて欲しい。でも、そんな僕だって入賞しただけの選手は名前を忘れてしまう。(報道も少ないから、「忘れる」前に「覚えていない」と言うべきか。)メダルを取って初めて名前を覚えているのである。それが現実だし、世界選手権じゃダメでやっぱり五輪メダリストに大きな意味がある

 五輪終盤に「4位」の結果になった競技があった。女子フィギュアスケートの宮原知子は、ケガを克服し自己ベストの美しい演技をしたんだけど、残念ながら4位だった。得点はソチ五輪だったら、2位のキム・ヨナを超えていた。(もっとも得点基準が変わっているので比較は意味がないというが。)でも、金のサギトワ、銀のメドヴェージェワは圧倒的だったし、銅のオズモンドも素人目でも宮原知子を上回っていたと思う。やっぱり「メダリストは凄い」んだと思った。同様にスノーボード・女子ビッグエアの岩渕麗楽ラージヒルの男子複合チームもメダリストとは差があったと思う。

 だから選手はメダルを取りたいと思うし、周りの人たちも取ってもらいたいと思う。「高梨沙羅は銅メダルだけど、取れてよかったなあ」と多くの人がホッとしたはずだ。そんな中で絶対的な金メダル候補として五輪に出場し、実際に取った人はとてつもなく凄いんだと思う。特に小平奈緒選手。競技だけでなく、人間としての素晴らしさに魅せられる。主将という重責を担いながらの金メダルもすごい。金メダル確定直後に、銀の韓国イ・サンファ選手に歩み寄った姿は感動的だった。

 小平奈緒は2010年のバンクーバー五輪で、田畑真紀、穂積雅子とともに女子パシュートで銀メダルを取っている。正直忘れていたけれど。2014年のソチ五輪では500mで5位、1000mで13位。年齢的に小平奈緒の選手生命はここで終わったのかなと思っていた。その後、オランダに留学し、また科学的トレーニングを積み重ね、30歳を過ぎて頂点に立つことになるとは…。人間はいつまでも諦めずに伸びてい行けるんだと示してくれた。彼女は信州大学教育学部卒で、女子初の大学卒メダリストだという。単にスケート界に止まらず日本を支えていく人になるんじゃないかと思う。

 こんな感じでみな書いていても長くなるから、後は簡単に。今回は「羽生結弦は五輪に間に合うか」というのが多くの人の最大関心事だった。ケガがありながら見事に連続金メダル、これぞ伝説が今作られたという演技に驚くしかない。スケートの高木姉妹も、五輪にまつわる姉妹の因縁、パシュートで今季絶好調の戦績、皆が知っている中でよく活躍できたものだと思う。高木美帆という選手も単にスケートを超えた大変な逸材だと思う。
 
 一方、入賞した選手を2人ほど。スケートは女子の活躍が目立つ中で、男子のメダルはなかった。バンクーバーの500mで、長島圭一郎が銀、加藤条治が銅を獲得したのが最後である。今回1000mと1500mで小田卓郎選手がどっちも5位、500mで山中大地選手が5位、加藤条治選手が6位に入賞した。山中選手は27歳、小田選手は25歳だから、小平選手のことを考えるとまだまだ活躍できる。でも名前知ってるかと言われると、そんな人いたっけ程度。顔を判る人はほとんどいないんじゃないか。僕も同じだから写真を下に載せておく。やはりメダルを取らないと、覚えてない。
  (先が小田卓郎、後が山中大地)
 ノーマルヒル複合個人で渡部暁斗選手が前回に続いて銀メダルを獲得した。金はドイツのフレンツェルで、前回ソチも金メダル。今回は団体も金、ラージヒル個人は銅という大選手である。渡部選手は最後に置いていかれるまで、交互に先頭を交代しながら悪条件のクロスカントリーを戦った。ずっと後ろに付くのではなく、「フェアに戦いたいたかった」ということだった。このように「フェア」という感覚が生きていた。パシュートやカーリングに見られたように、協力、団結などの心も生きていた。日本社会の中で忘れられている、もうなくなっちゃったのかと思うような価値がこのように脈々と生きていたということがうれしい。
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カーリングの魅力-ピョンチャン五輪をめぐって①

2018年02月25日 22時23分11秒 | 社会(世の中の出来事)
 韓国のピョンチャン(平昌)で行われていた冬季オリンピックが終わった。日本選手団は冬季五輪史上最多のメダルを獲得した。まあ昔の五輪にはなかった競技のメダルが多いけど。今回の五輪に関しては、政治とスポーツドーピング、あるいは冬季五輪のあり方など考えるべき問題が多い。また緊迫の度を高める朝鮮半島情勢を無視してピョンチャン五輪を語れない。だけど、それは後に回して、さらにスケートなどの話題も後に回して、まず「カーリング」(curling)について。

 今回、日本の女子チーム(LS北見)は、カーリング発祥の地イギリスを破って銅メダルを獲得した。僕も最後の頃はすっかりカーリングにはまっていた。「そだねー」はもう今年の流行語大賞確実。今回は男子も出てたから、毎日夜には男女どちらかの試合が放映されていた。試合時間が長いから、全部身を入れて見てたわけじゃない。でも見てるうちに競技内容がだんだん理解できてくる。戦術のねらいや狂いも判るようになると、この競技の深さを感じてきた。そして、やっぱり日本チームの「笑顔」、特にスキップ藤澤五月選手に魅せられてしまった。

 準決勝の韓国戦、明らかに韓国が優勢に試合を進めていた。前半戦は6対3で負けていたから、もう負けが濃厚だった。第6エンドで日本は1点を入れて、2点差。第7エンドの韓国は後攻だが、無得点として第8エンドも後攻を選ぶ。続く第8エンドで後攻の韓国は1点しか入れられなかった。第9エンドで後攻の日本は、ここで2点を入れる。かくして、7対6で韓国が一点勝って、第10エンドは後攻。さて、これで事実上日本の敗退は決まったわけである。

 この競技は後攻が圧倒的に有利。第1エンドに先攻か後攻かは、試合直前にストーンを投げて決める。以後、勝った方が次のエンドの先攻になる。先攻で始まったチームは、相手チームに最小の1点を取らせて、次は後攻に回りたい。後攻の時に2点以上取れれば逆転できる。後攻チームは2点以上取りたいけれど、それが無理そうな場合、あえて自分のストーンもはじき出して無得点にすることもある。そうすれば次のエンドの後攻は変わらないから。この「あえて1点を取らせる」とか「あえて無得点にする」とかいう作戦が面白いのである。

 だから韓国との準決勝で、1点負けていて最終の第10エンド、相手が後攻というのは普通は勝てない。オリンピックに出るほどの選手なんだから、できるだけ中心にストーンを置いて1点取る程度のことは楽勝だ。そして最後のストーン、韓国チームはみな勝利を確信してブラシを突き上げて歓喜していた。でもここで「眼鏡先輩(アンギョンソンベ)」ことキム・ウンジョンの投げたストーンが微妙に狂い、日本のストーンに当たり、クルクルと回転して日本のストーンが中心近くに滑る。

 この時の日本チーム皆の、何これ、ウソ、こんなことあるんだ、日本が1点だよ、という破顔一笑が素晴らしかった。どっちが勝つとか負けるとかを超越した「氷の神さまのいたずら」を楽しんでいた。もちろん、延長の第11エンドになったとしても、7対7の同点で日本が先攻なんだから、韓国は1点を入れればよく勝利目前。それは判っているんだけど、何が起こるか判らない面白さだ。

 それは3位決定戦の最後で再現された。今度は日本は1点勝って、第10エンドでイギリスは後攻である。つまり、1点入れれば同点になって延長だけど、その場合はイギリスが先攻になってしまう。それは圧倒的に不利だから、第10エンドに2点以上入れたい。そして入りそうなストーンの状態だった。だから2点取ろうというストーンが若干狂って、日本のストーンを中心に押し出してしまった。なんという偶然と言えるけど、そこまでの緊迫した展開で相手チームにはプレッシャーがあった。最後の最後まで精神的な戦いが繰り広げられていた。

 知的なゲームであるとともに、カーリングは「バランス系」のスポーツだと思う。もちろんあらゆるスポーツ、いや人間の活動すべてに、体の力をバランスよく筋肉から「道具」に伝えるという技がある。でも陸上競技やレスリングなど、体の力そのものを使って競うのが多くのスポーツだろう。一方、バランスよく力を伝えるタイプの競技もある。馬術が典型。体力そのものが衰えても、うまくバランスを取る力を発揮できれば活躍できるから、馬術やカーリングは高齢でも活躍する選手が多い。

 よく「氷上のチェス」と言われるけど、相手のストーンを利用したり、反発したりするところが違う。ストーンはチェスや将棋や囲碁のような「コマ」ではない。だから、氷上のビリヤードとか氷上のボーリングと言う方が近い感じがする。それでも、途中で氷をスウィープ(掃く)することで摩擦力をコントロールできるという違いがある。フィールド状態を選手がある程度変えられるなんて競技は他にはないと思う。その点でも、とても面白い。

 「おやつタイム」で食べていた「赤いサイロ」も大人気。北海道の「どさんこプラザ」はよく行くけど、これは食べたことないなあ。多分しばらくは買えるチャンスはなさそうだ。オホーツク沿岸の常呂(ところ)町の名前から、LS(ロコ・ソラーレ)の名前を付けた。(常呂っ子の意味。)今は内陸の北見市と合併してるけど、ここのホタテは絶品だ。「しんや」というメーカーの「ホタテ燻油づけ」はものすごく美味しい。貝柱を燻製して油に浸したもの。以前現地を旅行していて本社の売店で買って、うまさに驚いた。「赤いサイロ」はなくても、こっちはアンテナショップにおいてあると思う。
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