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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

能登半島地震から一週間①ー様々な「想定外」だったけれど…

2024年01月08日 22時31分42秒 | 社会(世の中の出来事)
 2024年1月1日、よりによって元旦に起きた「能登半島地震」から、一週間経った。1月8日夜8時時点で、ネット上では、死者168人、安否不明323人と報道されている。能登半島では2020年12月以来群発地震が起きていたが、この地域には火山はなく地震の原因は「流体の上昇」などと言われていた。2023年5月5日に、マグニチュード6.5、最大震度6強の地震が起きたのを覚えている人も多いだろう。しかし、結局今回の大地震はやはり「断層が動いた」ことで起きたらしい。マグニチュード7.6とされている。

 「マグニチュード7.6」と言われてもよく判らないかもしれないが、これは非常に大きな地震である。もちろん東日本大震災のマグニチュード9.0という超巨大地震とは比べられない。だけど、阪神淡路大震災(1995年)はM7.3、新潟県中越地震(2004年)はM6.8、熊本地震(本震、2016年)M7.3なので、今回の方が大きいのである。一番被害を受けた(と思われる)輪島珠洲(すず)が震度7じゃなかったので、震度7を記録した(原発がある)志賀(しか)町が一番揺れたように思ったけれど、壊れ方を見ると輪島などでの震度7があったかもしれない。震度計が正確に動いていたかという問題がある。

 同じことは津波にも言える。大津波警報が出て、数メートルに及ぶ巨大津波が来ると恐怖を感じたが(2011年のことが思い出されて)、その割に大きな津波にならなかった印象があるのではないか。もちろん大きな津波が来て被害はあったし、行方不明者も出ている。テレビを聞いて逃げたという報道もあるので、今までの経験が生かされたのも間違いない。ただ日本海の対岸でも相当の津波があったので(韓国で80㎝らしい)、震源間近の能登北部で津波が1~2メートルのはずがない。それは地震による地面自体の隆起があった影響があったのだと思う。輪島や珠洲は2メートル程度、最高では4メートルも隆起したというから、地面が高くなっただけ事前予報ほどの高さの津波にならなかったと思われる。(珠洲の津波計は壊れたという。)
(津波)
 これだけのマグニチュードの地震が近いところで起きたのだから、家屋倒壊の被害が一番多いのも当然だ。阪神大震災型の地震である。その後耐震基準が変更されたわけだが、それ以後に建築された家でも倒壊があると言われる。詳しくは今後の調査が待たれるが、今までの地震、特に去年5月の地震でダメージを受けていた影響が大きいと思う。一部損壊では自治体からの補助がなく、また高齢化進行地域で経済的問題もあるし、建設業界の人手不足もあって、修理をしないまま正月を迎えた家が多いという事情があったらしい。しかも正月真っ只中で、帰省中の家族が集まったりしていたのである。
(倒壊した家屋)
 帰省中や旅行中の人がいて、避難所は受け入れ予想を大きく超えた人数を受け入れたとされる。そのため備蓄した食料や水が早めに不足してしまった。今後は大雪も予想されるので、仮設住宅建設などが進む段階ではないだろう。むしろ寒い避難所で感染症が広がり、高齢者に多くの犠牲が出る可能性もある。ここは大胆に「二次避難」を進めるしかないと思う。過去に伊豆大島や三宅島、あるいは原発事故で避難したときのように、大規模な住民避難を行った方がよいのではないか。これは政府も考えているようだけど、他県でもよいし、条件が出来てくれば石川県内の温泉旅館などを大々的に借り上げることも検討するべきだ。

 特に山間部の集落が孤立し、まだ情報が不明なところもあるらしい。輪島市長も道路が寸断されて市役所へ行けたのは3日だったという。さらに通信網も不通で、携帯電話が通じないという。電気が停まればテレビやパソコンも見られない。スマホの充電もいずれ切れる。日本の自然的、社会的条件から、このような高齢者が残る山間集落が大きな被害を受ける災害は、今後もっと増えるだろう。ここは「ドローン」の出番だと思うんだけど、何故無いんだろうか。「空飛ぶ車」なんか要らないから、水や食料を運べるドローンを開発することは日本に必要だろう。軍事費を増やすより、そういう開発に予算を掛けて欲しいと思う。

 今回は様々な「想定外」が重なって、予想以上に多くの被害が起きている。阪神や熊本以上の規模の地震なんだから、大災害が起きることは当然だが、その後の対応には不十分なことも多いのではないか。津波警報など「東日本大震災」の教訓が生かされた点もあるが、全体的には問題点が多いような気がする。それらの問題点は今後も考えて行きたい。

 ところで、僕は特に救助などのスキルがある人以外は、普通の生活を送っていればよいと思っている。救援や復興は税金でやるのに、皆が自粛していたら税収が減るばかり。「ふるさと納税」は以前何回か書いたように、制度自体がおかしくて反対。返礼品も用意出来ないだろうし。それに自分が住んでる自治体の福祉や教育に必要なお金を被災地に回すという発想そのものが理解出来ない。「善意」でやるのなら、幾つもある募金に送ればよい。
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「大津波警報」から始まった2024年

2024年01月01日 22時21分31秒 | 社会(世の中の出来事)
 2023年12月31日、大みそかの日に何を書こうかと思って、結局何も書かず、紅白歌合戦も見ず、音楽を聞きながら本を読んでいた。それで「ガザ」も「ウクライナ」もその後の総括・展望を書かずに終わってしまった。まあ、僕は自分の頭をクリアーにするために書いてるんで、自分が何かを書いても世界を動かすわけじゃないから、また後で書いてもいいだろう。

 大みそか、元日と今年は家で過ごしたが、「相続事務」や「母の部屋の片付け」をしていた。サッカー日本代表戦(タイとの練習試合)のテレビを点けながら、その後は「笑点」から「充電バイク旅」か「芸能人格付けチェック」か、まあ、たまには民放テレビをハシゴしながら過ごそうかと思っていた。そうしたら、16時10分頃に石川県能登地方沖合で大地震が起き、その後「大津波警報」が発令された。それで全テレビ局の番組が地震・津波関連に替わることになった。

 今回は「震度7」が観測され、これは7回目のことだという。阪神淡路大震災で初めて震度7が適用され、新潟県中越地震東日本大震災熊本地震(2度)、北海道胆振地震、そして今回の能登地震である。そして「大津波警報」となると、2011年を思い出してしまうが、当時は正式にはこの名前の警報はなかった。2013年から大津波警報が正式に使われるようになったという。つまり、今日初めて発令されたのである。だからテレビ、ラジオなど放送局は今回が頑張りどころなのである。

 せっかく用意した正月特番をさしおいて、ずっと報道特別番組を放送している。休んでいた報道関係者も呼ばれたことだろう。もっともテレビ東京の充電バイク旅は早めにやっていた。それでいいのかというと、それでいいのである。先々週に石川県に行ってきたばかりで、石川県にはテレ東系列のテレビ局がないことを知っているのだ。だから一生懸命緊急特番をやっても、現地では見られないのである。旅番組は地方局にも売れているみたいだけど、やはり関東ローカル色が強いのである。
(倒壊した家)
 現時点(21時半過ぎ)では大津波警報は津波警報に切り替わり、それもあってか民放局は通常の番組に戻りつつある。被害の全容は判明していない。当然のこととして津波からの避難が優先され、倒壊家屋などの情報が伝わりにくい。ただ道路が寸断されていたり、また輪島市では大きな火事が起こっているようだから、大きな被害が起きていても不思議ではない。北陸、上越新幹線などが不通となり、石川県の空港も使えないらしい。能登半島では最近地震が頻発していたから、この地域で大地震が起きたことは意外じゃない。ただ正月早々というのは驚いた。地球には暮れも正月もないからやむを得ないんだけど。
 
 今回の報道の特徴として、英語での呼びかけもあり、「外国人にも声を掛けて避難を」と言っていた。金沢方面は今外国人観光客が多いことは、僕もちょっと前に実見している。また内外問わず能登半島を訪れていた観光客も多かったと思う。時節柄、帰省中の人も多いだろう。新幹線などは乗客を乗せたまま停まっているようだ。時間が経てばスマホの充電も切れてしまう。ある程度食料を持って乗るようにするべきなんだなと思う。
(輪島市の火災)
 いつ地震が起きても不思議じゃない国だと判っていても、普段はなかなか意識しないものだ。地震のニュースを見るたびに、「原子力発電所」の状況が報道される。いつも原発が多い地方で地震が起きる印象があるが、今回こそまさに原発地帯のど真ん中で起きた。震度7を記録した志賀町には、志賀原発がある。異常はないということだが、同じようなニュースを繰り返すたびに原発廃止が必要だなと思う。地図を見れば、東京も震度2か3ぐらい揺れたらしいが、自分は全く気付かなかった。
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深まる孤立と分断ーコロナ禍3年の総括④

2023年06月23日 22時52分58秒 | 社会(世の中の出来事)
 コロナ禍3年の総括も、キリ無いから今回で一端終わりたい。医学的な検証はずいぶん残されていると思う。ウイルスの発生経過もまだ完全に解明されたとは言えないだろう。中国・武漢で動物(コウモリ?)から伝染した可能性が高いとされるが、自由に検証できない。中国のコロナ対応も謎が多かった。各国で死者数には違いがあったが、それは政策の違いか、それとも医学的な問題か、あるいは社会的な違いによるものか。当初はいろんな説(BCG仮説など)が出たが、結局どうだったのだろうか。

 医学的な問題も重要だが、社会的にどう対応したのかはもっと大切なのではないか。世界的なパンデミックは今までは一世代に一回経験するかどうかの大災厄だった。しかし、世界各国の往来が盛んになって、今後はもっと起こりやすくなる可能性がある。しかし、その記憶をきちんと検証して後世に伝えようという動きは少ない。むしろもう忘れたいというのが世界のホンネか。それも判らないではない。戻ってきた経済活況に乗り遅れないことが多くの人の関心になっている。

 今日(6月23日)の新聞によると、22年度の税収は過去最高を更新し、70兆円台に届くかもしれないという。企業業績は(一部を除き)完全に復調し、さらに円安やインフレを受けて見かけ上の利益が大きくなっている。財政難が続く日本のことだから、税収が多くなるのは取りあえず良いことだろう。だが同時に同じ日の新聞に、若者の自殺数を分析すると、コロナ禍において女性の自殺が顕著に多くなったという研究実績も報道されている。企業は好調でも、この間厳しい環境に置かれた人たちもいた。
(コロナ禍の自殺者)
 誤解なきように言っておくと、自殺者を性別で見ると男性の方が圧倒的に多い。それは男性の方が自殺に追い込まれやすい社会的環境があるということだ。(また「自殺」にも体力が要るという問題も大きいだろう。)しかし、男性に関してはコロナ前後で自殺に関する有意な差はなかったとされる。一方、女性の場合コロナ禍において自殺に有意な差があり、増えたのである。それは何故だろうか。想像するに、もともと経済的に大変な女性(低所得のシングルマザーなど)が多く、それらの人を支えていた外食業や観光業などにコロナの影響が強く表れたということではないか。
(G7の中で高い日本の自殺率)
 もともと日本は先進国の中で自殺率が高い。それは社会的なセーフティネットが整備されていないということだろう。この間の新自由主義的政策の積み重ねによって、人々は競争に追いやられてきた。それを当たり前と受けとめ、困難があっても「自己責任」とする風潮が強い。若い世代ほど、そのような自己責任感を内面化してしまっていて、追いつめられた人が多いのではないか。それが大きな問題となることなく、社会の中では隠されている。外食アルバイトがなくなって、大学を中途退学に追い込まれた学生も多くいたはずだ。若い世代のコロナ禍の影響はむしろ今後大きな負の問題になっていく可能性がある。
(コロナ禍の精神的影響)
 多分どこの町でも、この3年間につぶれてしまった店があると思う。いろんな理由があるだろうが、僕の町でも2019年秋に新規開店したピザ屋が2020年中に閉店してしまった。多分借金があったと思うし、もう持ちこたえられなかったのだろう。一度夫婦で食べにいったことがあったが、その店主はどうなったんだろうか。2020年には東京五輪があるはずだったから、一念発起して借金で店や民泊施設などを開いた人もたくさんあっただろう。事業に運不運は付きものだが、まさかパンデミックとは誰も予想しなかったし、それに備えた保険もなかったに違いない。

 コロナ禍が終わったことになり、外国人観光客も戻ってきた。株価の日経平均もバブル後最高値を記録している。そういうニュースばかり報じられるが、その裏で経済的困窮に見舞われた人々が多数いるだろう。もちろんそれ以前から貧富の差はあったし、それを完全に無くすことは不可能だ。だがコロナ禍に「何か」がぶつかった世代があるだろう。もう少しで大学を卒業出来たはずなのに、最後に学費を払えなくなった。夢だった店を開いた途端に休業を余儀なくされた。外食のバイトで食いつなぎながら、音楽や演劇などで成功を追いかけてきたが、もう限界と諦めた。そして、父や母をコロナで突然失って、まだ心の整理が付かない…。

 きめ細かな福祉のセーフティネットが今こそ必要だ。多くの企業は好業績なんだから、全員ではない。だが国民の中に「見えない分断」があり、孤立が深まっていると思う。スマホ代が払えなくなれば、SNSにSOSを出せない。新聞を取ってなければ、投書も出来ない。しかし、そういう人がきっと多くいると思って、マスコミや行政関係者が問題意識を研ぎ澄ますことを望んでいる。
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「エビデンスなき政治」の完成ーコロナ禍3年の総括③

2023年06月22日 22時46分04秒 | 社会(世の中の出来事)
 この3年間に及んだ「新型コロナウイルス」によるパンデミックに世界各国はいかに対処したのか。今後世界的に検証が進められるだろう。日本の対応はどうだったのか、今の段階で考えておきたい。それぞれの社会に合ったやり方で進められたわけで、現段階で善し悪しを論じるには裏付けとなるデータが不足していると思われる。日本は確かに死者数は少なかったと思うが、コロナ対策と社会経済的な影響の得失をどのように判断するか、自分にはまだはっきりした答えはない。

 当初はずっと安倍元首相尾身茂氏(新型コロナウイルス感染症対策分科会長)が並んで記者会見していた。尾身氏の属した組織は、いろいろと変化していて僕もよく認識していない。時々「それは尾身さんから」と首相が振っていたが、はっきり言ってどこが「政治」で、どこが「医学」なのか、聞いていて判らなかった。当初は政府がどういう対策を打ち出すか、かなりの緊張感を持ってテレビで見ていた記憶があるが、そのうち段々と「たいしたことは言わない」と悟って、ちゃんと見なくなった。

 今でも僕が腑に落ちない気持ちを持っているのは、2020年2月27日に突然安倍首相(当時)が全国の学校に一斉休校を要請したことである。当時の感染状況は次第に深刻化しつつあったものの、まだ感染者が一人もいない県も多かった。また、離島や山間部など都市部との交流が非常に少なく、感染者が多発するとは考えられない地域も休校することになった。(まあ、そういうところで感染が起きると、医療機関も少ないわけだが。)そして、これが一番問題だと思うのだが、首相は「何よりも大切な子どもたちの命のため」などと理由付けしたことである。

 当時すでに諸外国のデータから、未成年世代の重症者は非常に稀であることは知られていた。そして、そもそもインフルエンザなどの「休校」とは「社会全体への影響を少なくする」ために行われる。その後オミクロン株の流行時に良くあったことだが、子どもたちの間で感染が広がり、そこから親世代にも広がっていった。さらに高齢世代に広がると大変なので、「休校」措置で子どもたちの流行をそこで止めるというのが本来の趣旨である。その目的を知ってか知らずか、安倍氏は「子どもたちの命」を保護するためとして、子どもの生命に危機が迫っているかのように国民をミスリードしたと思う。

 当時も批判したけれど、今思っても腹立たしい気持ちになる。もう年度末が迫っていたのだから、テストなどを最小限に絞って実施し、年度末の学校行事(遠足や球技大会など)を中止すれば済んだ。卒業式、入学式もマスク着用で実施出来たのである。今になれば、そのことは誰でも理解出来るだろう。国のやるべきことは、「国歌斉唱は省略」と通知するぐらいだろう。後は各教委と学校で判断に委ねれば良いのである。一生に一度の行事を奪ったのは、政府の大きな過ちだったと思う。

 そのころから、政治の世界で「エビデンス」という言葉をよく聞くようになった。"evidence" (証拠)から派生した日本語なんだという。どうもこの言葉に違和感があったのだが、やはり通常の使い方ではないようだ。「科学的根拠」と言うのが定義になるだろう。もっとも医学、特に疫学の世界では使われていた言葉らしく、エビデンスの信頼度の5レベルというのがあるようだ。見てもなんだか理解不能なんだけど。
(エビデンスの信頼度)
 そこから考えてみると、日本は「エビデンスなき政治」になっているということが今回のコロナ禍でよく判った。「科学的根拠」を政治に利用している。役立つときだけ、学者を利用する。決まった結論に箔を付けるためだけに、「学者」が必要になる。そのような「科学への蔑視」を象徴したのが、菅内閣による「学術会議会員任命拒否」問題だった。理由を聞かれても、菅氏も後任の岸田氏も何も答えない。「総合的、俯瞰的」と訳の判らない呪文を唱え続けるだけだった。時期から見て、この問題は安倍内閣時代から杉田和博官房副長官主導で進められていて、当時の菅官房長官、岸田政調会長も了解していたんだと今は考えている。

 そういう「科学の政治的利用」、「エビデンスの無視」は、もちろん以前から存在した。しかし、コロナ禍で人々はまざまざとその実態を見たのである。だが何となく、安倍内閣、菅内閣が終わったことで、この問題も消え去ったかの感じだ。しかし、実は岸田内閣で、むしろ「完成した」と言うべきだ。防衛費増、少子化対策…何を聞かれても財源を答えない。入管法、マイナカード問題なども、何を聞かれてもちゃんと応答しない。それでいて、多数の力で法律だけ通してしまう。そういう日本政治の完成形が「コロナ禍」を通して見えたのである。
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「超過死亡」の理由を考えるーコロナ禍3年の総括②

2023年06月21日 22時39分49秒 | 社会(世の中の出来事)
 「コロナ禍」で何が起こったのか。病気の問題だから、まず死者数がどうなっていたかを見てみたい。日本では「少子高齢化」が進行しているといつも言われている。じゃあ、何人ぐらい生まれて、何人ぐらい死ぬのか、数を答えよと言われてもすぐには出て来ない人が多いだろう。コロナ禍前からという意味で、2016年から見ておきたい。
死者数合計             (出生数
2016年  1,308,158人        (977,242人)
2017年  1,340,567人        (946,146人)
2018年  1,362,470人        (918,400人)
2019年  1,381,093人        (865,239人)
2020年  1,372,755人        (840,835人)
2021年  1,439,856人        (811,622人)
2022年  1,582,033人        (770,747人

 2016年から見たのは、それまでは死者は120万人台、出生は100万人台だったからである。2007年からずっと死者数が出生数を上回っている(人口自然減)が、近年はその差が30万、40万、50万と増え続け、ついに2022年には出生数は死者数の半分以下になった。これは完全に「非常事態」というしかない。ずっと続いてきた傾向だが、それにしても2022年は異常である。それをもたらしたものが「コロナ禍」だと考えられる。

 実は2021年、2022年に関しては「超過死亡」があったとされている。この超過死亡というのは難しい概念なのだが、かいつまんで言うと統計的に推測される死者数より実際の死者が過大になる事象である。日本で一番出生数が多かったベビーブーマー(団塊の世代)が70代半ばを迎えて、今後も毎年のように死者数が多くなる。誰が死ぬのか、病気にせよ事故や自殺、殺人などもあるわけだから、完全な予測は不可能である。だが統計学的におおよその推計が出来るのである。それを有意に大きく上回る死者が出た場合を「超過死亡」とする。インフルエンザの流行によるものが多いが、2011年には東日本大震災で死者数が例年を大きく上回った。
(超過死亡)
 その「超過死亡」はどのくらいあったのか。厚労省の推計によれば、2022年には11万3千人とされている。問題はそれは何によって起きたかである。その問題を考える前に、まず「総コロナ死者数」を見ておきたい。公式的な死者数は厚労省のサイトによれば、2020年からの総死者数は「74,694 人」である。これは2023年5月9日現在のもので、5類変更を受けて厚労省の統計はそれ以後更新されていない。以下に厚労省サイトのスクリーンショット画像を載せておく。(何故か加工出来ない。)この数字は、多すぎるとか少なすぎるとかの意見もあるが、日本政府の公式的な統計では7万5千人弱の死者が出たのである。
(コロナ感染症の死者)
 「超過死亡」の理由については、おおよそ以下のような推測がなされていると思う。
コロナ死者数が少なく数えられていて、超過分の大部分は実はコロナ死者である
流行期に医療の逼迫がおき、コロナ以外の病気で、救急車が来ない、入院出来ないなどで死者が増大した
③(一部意見だが)2021年から超過死亡が生じたのは、ワクチン接種に原因がある
高齢者の外出自粛、通院控えが長期化することで、病気を悪化させたり老衰が進んだ人が多く出た

 一番最初に提示した例年の死者数を見て欲しいが、2020年は実は死者数が減っていた。これはコロナ死者が実は隠されていて、本来はもっと多いという憶測を否定するデータである。もちろん、統計に出て来ない隠れコロナ死者もいるとは思う。しかし、原則的にコロナが疑われた死者は、死亡後でも検査が行われたと思う。一番大変な時はそうもいかなかったかもしれないが、それでも死亡診断書には何か書くわけで、死亡者が肺炎を疑がわれる場合はPCR検査をしたはずだ。

 また③のワクチン説も、2020年の過少死亡を説明出来ない。ワクチンがなかった時期は、高齢化を反映して死者が増えるはずである。全く被害者のいないワクチンは歴史上ないので、コロナのワクチンも当然ワクチン被害は出ているはずである。現在なかなか認定されないが、証明が難しいということだろう。種痘やポリオワクチンでも被害は出ていたので、今回もあると考えて対処しなければならない。ただ、そのワクチン禍で10万人を超える死者が出たというのは、妄想に近いだろう。死亡診断書に死因を書くわけで、ある程度はあったかもしれないがワクチン主因説は無理筋だと考える。

 そうなると「医療逼迫説」と「長期の自粛によるフレイル(衰弱)説」になる。前者はある程度あったに違いない。ただ、2020年の過小死亡は「自粛生活」によると理解されている。他の感染症にかからず、また転倒も少なくなるなどで、かえってコロナ禍1年目は高齢者の死者が減ったのである。しかし、それも3年続くとどうだろう。子どもや孫にも会えない、旅行も行けない、地域の行事もなくなったというのが、1年目は緊張感で乗り切れたとしても、次第に精神的にも肉体的にも衰弱していったと推測出来る。しかも、異常があったらすぐに受診していたのが、医療逼迫や外出自粛で医者にかからない。そういうことの積み重ねで死者が増大した。現時点ではその要因が大きいと考えている。
(死者数の推移)(死因)
 なお、この間の死者数の推移を表わすグラフを示しておきたい。さらに死因の円グラフも。新型コロナウイルスの流行にも関わらず、日本では死因に変化はなかった。人はガン、心臓疾患、老衰で死ぬのである。
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2022年ワールドカップ・カタール大会

2022年12月20日 23時05分23秒 | 社会(世の中の出来事)
 ワールドカップ・カタール大会アルゼンチンの優勝で終わった。正直、今回のワールドカップは見てるような、見流しているような感覚だった。決勝戦は前半だけ見て寝てしまった。前日の3位決定戦、クロアチア・モロッコ戦を見ていて、もう十分満足というか、翌日も深夜に全部見るのは無理だった。前半だけなら、アルゼンチンの完勝である。2点入ったというだけでなく、シュートもコーナーキックもフランスはゼロだった。日本代表もそうだったように、フランスもこのままでは終わらないとは思ったけれど、PK戦までもつれるとは予測出来なかったのである。
(優勝したアルゼンチン)
 アルゼンチンは何しろリーグ戦初戦で、サウジアラビアに負けるという大波乱スタートだった。その後、メキシコとポーランドに勝ってCグループを1位で突破したものの、優勝まで行けるのかは疑問もあった。今回リーグ戦を3戦全勝、勝点9で突破したチームは一つもなかった。だが、2勝1分けの勝点7で突破したチームは2つあった。オランダイングランドである。またフランスブラジルも好調そうに見えた。それが終わってみれば、結局はメッシのための大会のような終わり方になった。メッシのPKを見ると、やはりものすごい技能だと感嘆するしかない。

 今回は日本時間で深夜の試合が多かった。グループリーグ最終戦の日本・スペイン戦は、朝4時から。あるいは準決勝アルゼンチン・クロアチア戦フランス・モロッコ戦も朝4時からで、これではとても見てられない。しかし、今は基本的には外出を控えて、病院からの電話に備えているので、深夜12時からの試合なら頑張って見られないこともない。だから3位決定戦と決勝戦は見ようかなと思ったわけである。今回は日本チームがドイツ、スペインを破ってグループ1位で突破したことで、日本国内では大きく盛り上がった。ここでは日本代表のことは書かない。監督の選手選出や起用法には、基本的には口を出す気はないし。

 見ていてやはり凄いなと思うのは、フランスのエムバペ。フランス語表記はMbappéだから、「ムバペ」で良いと思うのだが、昔のカメルーン出身の「エムボマ」(Mboma)以来、発音しやすいように「エ」を入れる慣習になってしまった。それぞれの国に独自の表記法があって構わないと思うけど、これだけ国際化した時代にアフリカではよくある「ン」「ム」で始まる名前を日本人も発音できた方がいいんじゃないか。それはともかく、前回10代で初出場して4得点をあげてヤング・プレーヤー賞を獲得したのは僕の記憶に鮮烈に残っている。今回は決勝戦で何とハットトリック、全部で8得点で得点王となった。PK戦敗退の準優勝では不満だろうけど、まだまだ次や次の次でも大活躍しそうである。
(エムバペのシュート)
 チームとしてはモロッコが素晴らしかった。アフリカ代表初のベスト4。(アジア代表では2002年日韓大会の韓国がベスト4に進んだ。)しかし、「ブラック・アフリカ」のチーム、今回はセネガル、ガーナ、カメルーン(今までに出たナイジェリアやコートジボワール)などとはかなり趣が違う気がする。フランスなど海外生まれのモロッコ選手を集め、ヨーロッパのチームと遜色のないような試合運びに見えた。元日本代表監督のハリルホジッチを直前に解任して、ヨーロッパで活躍した元選手のレグラギ(モロッコ、フランスの二重国籍)に変えたのが、どう出るかと言われていたが、完全に功を奏した。
(モロッコ代表)
 モロッコはリーグ戦では最終カナダ戦の1失点、トーナメントでもスペイン、ポルトガルにも得点を許さなかった堅守が凄い。ゴールキーパーのブヌは名前を覚えた。さすがに疲れたか、準決勝のフランス、3位決定戦のクロアチアにはそれぞれ2失点をしたけど、7試合で5失点だから立派なものである。(アルゼンチンは7試合で8失点。フランスも7試合で8失点である。)ウィキペディアを見ると、モロッコは女子チームにも力を入れていて、2部まであるプロ女子リーグがあるのは、世界でモロッコだけだと出ている。イスラム圏では珍しいことで、2023年の女子ワールドカップ(オーストラリア、ニュージーランド共催)でも、アフリカの2位で出場する。注目しておきたい。
(ブラジルのリシャルリソン)
 なお、一番凄かったシュートはブラジルのリシャルリソンだったと思う。特にセルビア戦の最初の得点、オーバーヘッドシュートを打てるのがやはりブラジルということだ。開催国カタールは地元の利と、じっくり自国リーグ所属選手で練習したことから、台風の目になるかと思った。何しろ前回のアジアチャンピオンなのである。しかし、日本、韓国、オーストラリアが16強進出という中で、カタール代表はわずか1得点で3連敗。歯が立たなかったわけだが、やはりヨーロッパの本場で活躍する経験がないとダメなんだろう。それが現実というものだ。

 なお、前回「ワールドカップ16強、死刑があるのは日本だけ」という記事を書いたけど、今回は日本アメリカだけである。モロッコは制度としてあるけど執行停止中。韓国も同様で、「事実上の廃止国」扱いされる。セネガルは死刑廃止国。ヨーロッパ、南米は全部廃止国で、カナダ、メキシコも廃止している。ところで前回はロシア開催だった。カタール開催でイスラム圏が変わるきっかけになればなどという甘い予測をすることは不可能だ。ロシアでさえ、多くの観客を世界から受け入れながら、今ではあんな感じになってしまったのだから。
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名前の読み方統制に反対ー「キラキラネーム」論議より、戸籍廃止を!

2022年05月19日 22時30分02秒 | 社会(世の中の出来事)
 5月17日に法制審議会がいわゆる「キラキラネーム」も認められるという試案を発表した。その例示が興味深いから、何となく「キラキラネームの是非」に話題が集まってしまったが、何で法律に関して議論する法制審議会がそんな議論をしているんだろうか。それは「戸籍の名前に読み仮名を付けるための法改正」を検討しているというのである。いやあ、それは知らなかった。

 そんな法改正は本当に必要なんだろうか。「行政手続きのデジタル化のため、読み仮名を記載するための法改正に向けた中間試案」なんだそうだ。今まで名前の読み方なんて、親が決めればそれで良かった。時には幾つもの読み方が出来る名前もあったが、本人が自分で読み方を変えて良かった。親は「訓読み」のつもりで付けたが、本人が「音読み」にする場合は多い。作家の安部公房の本名は「きみふさ」だそうだが、作家としては普通「コーボー」と呼んでいた。そういう例は多いだろう。

 今回例示されたのは、山田大空(やまだ・すかい)や山田光宙(やまだ・ぴかちゅう)は「認められる可能性が高い」。一方で山田太郎てつわん・あとむ)や山田(やまだ・ひくし)は「認められない可能性が高い」という判断だった。しかし、こんなことを大真面目に議論する必要があるんだろうか。山田高と書いて「ひくし」という読みが認められないのは、漢字の問題じゃないだろう。親が子どもに「ひくい」という名前を付けて良いわけがない。それと同時に、「光宙」(ぴかちゅう)という名前も論外ではないのか。どういう親なのかと学校でからかわれるだけだ。

 そういう名前は次第に増えてきた。自分の経験では80年代の生徒にはほとんど見なかったが、21世紀になると相当多くなってきたように思う。例示は出来ないが、えっ、そう読ませるのという名前が結構あった。読めないのも困るが、まあ読み方を覚えれば大丈夫ではある。問題はちょっと書けないような難しい漢字や字と読みが釣り合ってない名前である。昔売れた本の名前で言えば「親の顔が見たい」と思ったこともあるが、別に保護者と会っても普通である。何で付けるのか不明だが(聞くわけにも行かない)、子どもの方も困っている場合だけではなく喜んでいる人もいる。検索すると、さらにとんでもない名前を集めた画像もあった。

 上の画像を見ると、「姫奈」(ぴいな)、「姫星」(きてぃ)とかどうなんだ。「希空」(のあ)、「夢希」(ないき)とか、言われなければ誰も読めない。何十年も経って、病院で名前を呼ばれる日が来ると思ってないんだろう。「愛保」(らぶほ)に至っては、本当にこんな名前があったら、いじめられるに決まってる。一体、親は子どもがいずれは老人になると思ってないんだろうか。自分の子どもなんだから、芸能人やアーティストなんかにはならず、地道に働いて生きて行くのである。それにふさわしい名前を付けてあげないと困ってしまうだろう。

 ところで、このキラキラネーム問題に気を取られると、そのきっかけである「戸籍のデジタル化」という大問題を忘れてしまう。戸籍を問題にする前に、そもそも「誰がデジタル化の作業をするのか」という問題がある。ただでさえ日本の公務員は少ないので、市町村の正職員がやる余裕があるはずがない。これは間違いなく「外部委託」になるのである。戸籍という「個人情報の宝庫」「差別の温床」をデジタルデータにする作業を、非正規公務員どころか、委託会社のさらに子会社のアルバイト作業員が手掛けるになるに決まっている。情報の漏洩が起こらないとは思えない。

 それに「戸籍」とは、家族を単位にして国民を把握するシステムである。行政のデジタル化を進める時には、「個人単位の識別番号」が必須になる。日本では何故か「マイナンバーカード」の取得を政府が呼びかけているが、カードなんかなくても、個人番号はとっくに割り振られている。それで良いのである。戸籍情報をデジタル化しても、役立たない。「デジタル化」とは「国民を個人単位で把握する」システムなのであって、それがイヤで「日本は家族を中心にした伝統国家」などと言いたいんならば、デジタル化なんか止めてしまえば良い。世界のデジタル後進国を自ら誇れば良いのである。

 僕はデジタル化の問題とは別にして、そもそも戸籍制度は不要だという立場である。世界を見れば、韓国はすでに2008年に廃止されたという。今や中国と台湾にのみ残っていると言われる。世界の大部分の国では戸籍などないのである。それでやっていけるんだから、何かあるときに「住民票」と「戸籍抄本」(または戸籍謄本)が必要なんていう面倒は要らないのである。戸籍廃止こそ行政改革になるのである。廃止まですぐに行かずとも、「名前の読み方を届け出る」なんて愚の骨頂は今すぐ止めた方がいい。
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岩波ホールの閉館を聞くーずっと見てきた世界中の映画

2022年01月11日 22時51分54秒 | 社会(世の中の出来事)
 東京・神保町交差点の岩波神保町ビル10階の「岩波ホール」が閉館するという。朝日新聞のウェブニュースには「ミニシアターの先駆けで、半世紀以上の歴史を持つ「岩波ホール」(東京都千代田区)が7月29日に閉館する。同ホールが11日、公式サイトで発表した。「新型コロナの影響による急激な経営環境の変化を受け、劇場の運営が困難と判断いたしました」という。」と出ている。その公式サイトには先ほどから何度かトライしているが接続できていない。驚いて見ている人がいっぱいいるんだろう。
(岩波ホール)
 岩波ホールと言えば、今では映画館という印象が強いが、もともと1968年に作られた時は多目的だった。1974年から川喜多かしこ高野悦子による「エキプ・ド・シネマ」という組織が作られ、映画上映を始めた。一番最初はインドのサタジット・レイ監督「大河のうた」だった。これは1965年にATGで公開された「大地のうた」の続編である。僕は前編を見てないのに続編から見るのもどうかと思って、その最初の上映は行ってない。その後、3作目の「大樹のうた」を合わせて三部作をまとめて上映したので、その時に見た覚えがある。僕が初めて岩波ホールで見たのは、2作目のエジプト映画「王家の谷」である。
(岩波ホール壁面には今までの上映映画のチラシが)
 その時は僕は浪人生だったが、お茶の水の予備校に行っていたから岩波ホールは行きやすい。(ちなみにアテネ・フランセ文化ホールはもっと行きやすい。予備校をサボってアート映画を見たりしていた。)そして「エキプ・ド・シネマ」の会員になってしまった。それ以来、2年ごとの更新をマメに続けてきたから、僕は第1期からの連続会員なのである。会員になっている映画館も多かったが、映画館以外も含めて減らしてきた。しかし、何となく岩波ホールは継続してしまう。最近はそんなに行ってないんだけど。

 岩波ホールの絶頂期は、1978年から1980年だろう。1978年公開のヴィスコンティ「家族の肖像」は大ヒットし、ベストワンになった。1979年のギリシャのテオ・アンゲロプロス監督「旅芸人の記録」もベストワン。2位には「木靴の樹」(エルマンノ・オルミ)が入った。他にも「女の叫び」「奇跡」「プロビデンス」とキネ旬ベストテンの半数が岩波ホール上映作品だった。1980年の「ルードヴィヒ神々の黄昏」(ヴィスコンティ)が2位。ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の「大理石の男」が4位である。

 イタリアのルキノ・ヴィスコンティはここからブームになった。ワイダ監督の作品はほぼ岩波ホールで公開され、単なる映画を越えてポーランドの民主化の声を伝えた。その中でも作品的には僕は「旅芸人の記録」に一番驚いたものだ。何しろ4時間を越える作品だから、当時の状況では他では上映出来なかったと思う。その後、アンゲロプロス作品はシャンテ・シネなどで公開されるようになった。つまり岩波ホールでヨーロッパの最新アート映画に触れた観客が育っていたのである。
(旅芸人の記録)
 それが80年代以後の「ミニシアター・ブーム」と言われたものだろう。シネマライズ渋谷など代表的なミニシアターも閉館してしまい、「元祖」の岩波ホールもなくなってしまう。しかし、今では世界で評価された映画は大体他でも上映出来るようになった。岩波ホールのラインナップはむしろおとなしくなってしまって、最近は「良心作」に偏っていたと思う。それに椅子が小さいからつらい。僕は劇場、寄席などに行くたび書いているが、大手シネコンのゆっくり座れる椅子に比べると、背もたれが小さい岩波ホールはつらいのである。最近ではチリのドキュメンタリー映画の巨匠パトリシオ・グスマンの映画を昨秋に見に行ったが、なかなかつらいものがあった。今から全面改修するわけにもいかないのだろう。
(高野悦子さん)
 岩波ホールにとって、支配人だった高野悦子さんの持っていた意味が大きい。高野さんが亡くなったのは、2013年のことだった。つい昨日のことのように思っていたら、ずいぶん前だったのに驚いた。当時「追悼・高野悦子」を書いた。映画の名前などは、そっちでいっぱい書いた。重なることも多いから、もう止めることにする。そこで書いたけれど、岩波ホールの上映作品の製作国を世界地図に塗っていけば、地図が大体埋まってしまう。知られざる国々の映画を上映してくれた功績は大きい。

 もう一つ、その時に書かなかったけれど、東京国際映画祭と連動して「国際女性映画祭」を長く続けた。これは岩波ホールというより、高野さん個人の功績と言うべきで、岩波以外で上映した時もあったと思う。しかし、女性監督の作品、あるいは女性、高齢者の映画をたくさん上映したことも忘れられない。1月末からはジョージア映画祭が開催される。ジョージア(昔のグルジア)の映画を見たことがないという人はこの機会に見ておいた方がいい。二度と他ではやらないと思われる。まだ7月末まであるから、何回か行きたい。岩波ホールで映画を見て、新刊・古書を探して、カレーを食べて帰るというライフスタイルが消えるかと思うと残念。
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横綱白鵬の引退に寄せて

2021年10月01日 23時07分35秒 | 社会(世の中の出来事)
 2007年7月場所から大相撲の横綱を務めていた白鵬が引退した。秋場所終了翌日の月曜日に「引退の意向」と大きく報道されたが、正式に引退して年寄「間垣」の襲名が承認されたのは9月30日である。そして10月1日に記者会見が行われた。僕は白鵬が特に好きなわけでもないけれど、間違いなく「不世出の横綱」である。最近は批判的な論調がいっぱいあふれているが、バランスを失していると思う。それは単に相撲だけの問題ではない。

 僕はスポーツ中継をよく見ていて、でも特にどこかのチームのファンだとか言うわけでもない。面白いもの、すごいものを見たいだけである。相撲の話は前にも書いたことがあるが、子どもの頃はプロ野球と大相撲しかなかったからファンだった。その後見たり見なかったりして今に至るが、まあ見てる方なんだと思う。白鵬が強かったから、そんなにファンだったわけではない。僕は弱い方を応援したくなるから、強すぎると関心が薄れるのである。それは相撲に限らずすべてのスポーツに言えるし、政治やアートなどでも同じである。

 白鵬は近年休場が多くなって批判も受けてきた。数年前から「東京五輪まで頑張る」と言っていた。2018年に亡くなった父ジグジドゥ・ムンフバトは1964年の東京五輪に出場していた。モンゴル相撲の大選手だった父は、レスリングのモンゴル代表として5回のオリンピックに出場し、1968年のメキシコ五輪では銀メダルを獲得した。だから「2020年の東京五輪」を横綱として迎えたいというのを目標にしたわけである。しかし、東京五輪は一年延期されてしまった。2021年の7月場所に全勝優勝したのを見て、白鵬はもうすぐ引退だと思った。

 優勝45回(2位は大鵬32回)、横綱在位84場所(2位は北の湖63場所)、横綱勝利899勝(2位は北の湖670勝)、通算勝利1187勝(2位は魁皇1047勝)、年間勝利数86勝(2回、2位は朝青龍84勝)などなど、記録はもう誰も抜けない大記録ばかりである。一年に6場所しかないんだから、在位記録を抜くためには14年以上横綱じゃないといけない。(白鵬の時代には八百長問題とコロナ禍で2回の本場所中止があった。)

 忘れてはいけないのは「一人横綱」が長かったことである。朝青龍が引退(させられた)後の2010年3月場所から、日馬富士が横綱に昇進した2012年9月場所まで、15場所が一人横綱だった。3月11日生まれの白鵬が「宿命」と語った東日本大震災の時、(ちょうど八百長問題で3月場所は中止だった)横綱は一人だった。その後白鵬は被災地を訪れ土俵入りなどを行った。八百長と大震災という大相撲の危機を白鵬が横綱として迎えたのである。相撲ファンのみならず、モンゴルから来た青年が横綱でいたことを覚えていて欲しいと思う。(なお一人横綱は朝青龍の21場所が最長記録。白鵬は日馬富士、稀勢の里、鶴竜が先に引退して最後も2場所一人横綱。)
(稀勢の里に敗れて連勝が63で止まった)
 白鵬が横綱に昇進したとき、モンゴルの先輩横綱朝青龍(あさしょうりゅう)の「変格相撲」に対し、本格的な四つ相撲の白鵬に期待する声が高かった。最後は「荒々しい」とか「粗暴」とか批判される「張り手」「かちあげ」が多くなったけれど、それは剛速球投手が年齢を重ねて変化球で生き延びるようなものだろう。白鵬が一番強かった時代は双葉山の「後の先」を現代に蘇らせたような本格的な「横綱相撲」だった。菅内閣の支持率を見れば判るように、人の心は移ろいやすい。皆忘れてしまったのだろうか。
(万歳三唱を観客に求めた白鵬)
 白鵬が最後に「万歳三唱」「手拍子」などを観客に求めたのは、僕もどうかと思う。しかし、NHKが優勝力士のインタビューを土俵下で行うようになったことにも問題がある。観客を前にすれば盛り上げたいと思うのも判らないではない。審判に文句を付けるような態度も確かに頂けないが、これは見ていて僕は白鵬が一言言いたくなるのも無理はないと思った。全体的に白鵬を批判する人は「日本の伝統」を「わきまえない」という感じで批判している。つまり森喜朗五輪組織委会長の「わきまえない女」のモンゴル版である。

 そういう人に限って「相撲は単なるスポーツではない」と言う。「相撲は神事」などというのだが、そんなのいつの時代の話だろう。どんなものにも時代的な制約はあるが、江戸時代以来相撲はむしろ「興行」だったと言うべきだろう。だから八百長なども起きる。そういうんじゃいけないと「相撲はプロスポーツ」だと改革してきたんだから、勝つために反則以外の技を駆使するのは当然ではないのか。白鵬は天性の資質に努力と研究を重ねて自分の地位を作った。白鵬を越える若い力士が出て来なかったから批判されるほどの長く横綱を保った。

 毎日テレビでは大谷翔平がベーブ・ルースを抜くかと大報道を繰り広げている。日本人は大谷が大リーグの記録を更新することを望んでいるらしいが、アメリカ人にしてみれば複雑な思いもあるだろう。日本人が「国技」と呼ぶ大相撲もすっかり外国人が活躍するようになっている。それでやむを得ないと僕は思うのだが、「日本の伝統をわきまえろ」的な圧力が外国出身者には掛かってくる。そういう日本社会の姿が見えてくる。様々な問題で「わきまえろ」という声が聞こえてくるのが日本だなあと思う。
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「ルッキズム」と女子選手、須崎優衣と女子バスケー東京五輪を振り返る⑤

2021年08月14日 21時02分08秒 | 社会(世の中の出来事)
 東京五輪をめぐる諸問題を考えるとき、「ルッキズム」(Lookism)の問題を落とせない。「ルッキズム」とは、「見た目差別」「外見至上主義」のことで、特に女性が就職試験で容貌重視で落とされたりする差別である。女子スポーツ選手の場合、成績以上に外見で有名になった選手が昔からいた。女子選手にのみ「芸術的」な演技を求める競技もある。「アーティスティック・スイミング」「新体操」は女子しかない種目である。(それが認められるのは、「水泳」「体操」という競技の一種目だからだ。)また今回初めて知ったが、体操の「床運動」も女子にだけ伴奏音楽がある。

 マスコミで報じられるときも、男子選手には「豪快さ」や「頭脳」が評価される。豪快に「一本勝ち」し、豪快に「ホームラン」を放ち、「沈着冷静」で「優れた戦略」が賞賛される。一方女子選手は「優美」に勝つことが求められる。もっともそれだけでは勝てないわけだが、「闘志むき出し」で立ち向かうことよりも、立ち居振る舞いにも気を配って「試合終了後の笑顔がステキ」だったりすることが報道される。そういうジェンダーバイアスがスポーツをめぐっても存在するわけである。
(開会式で旗手を務めた須崎優衣と八村塁)
 今回記事を書くために何人かの女性選手を検索してみたら、「○○ かわいい」という検索ワードが頻出するのに驚いた。まず容姿でもてはやす人々の目がある。ほぼすべての女性メダリストがそうなんだけど、中でも八村塁とともに開会式で旗手を務めたレスリングの須崎優衣選手は八村との身長差も注目されたのか、「かわいい」が一番最初に出て来る。それをどう考えればいいんだろうか。他人がどう思うかは自由と言うしかないんだろうか。須崎優衣女子レスリング48キロ級で、全試合で相手選手に1ポイントも許さずに「テクニカルフォール勝ち」(相手に10点差を付ける)の圧勝だった。それこそ一番の注目じゃないかと思うけど。
 
 その須崎優衣は東京五輪の代表権をめぐってし烈な争いがあった。そう言えばそんなニュースを聞いた記憶があるが、覚えていなかった。柔道男子66キロ級の阿部一二三丸山城志郞との24分に及ぶ壮絶な代表権争いはよく覚えているんだけど。そもそも女子48キロ級にはリオ五輪金メダルの登坂絵莉(とうさか・えり)がいた。そして7最年長の入江ゆきもいて、日本選手権は世界選手権より大変と言われていた。2019年世界選手権代表争いでは入江ゆきが勝ったため、入江が世界選手権でメダルを取れば五輪内定だった。しかし、世界選手権で入江が準々決勝で中国の孫亜楠に敗れてしまい、代表権争いはまだ続くことになった。
(代表権争いに勝った須崎優衣と負けた入江ゆき)
 2019年12月の日本選手権で、須崎優衣は準決勝で登坂に勝ち、決勝で入江に2対1で勝った。その上で2021年4月の五輪アジア予選で勝って出場権を確保して、代表に決定したのである。五輪決勝は入江を世界選手権で破った孫亜楠だった。このようにギリギリで代表権を得た選手がなぜ旗手に選ばれたんだろうか。開会式からすぐ試合が始まる競技ではなく後半開始から競技で選ぶんだろうが、初めての五輪(須崎は22歳で、早稲田大学在学中)選手を選び、試合でも活躍したんだから精神力もすごいんだろう。

 当初から日本選手がメダル有力候補だった柔道やレスリングと違って、事前には全く予想されていなかったメダルもある。世界的には陸上100m決勝のイタリアのヤコブスなどもそうだろう。(NHKの中継放送では何故かずっとジェイコブスと発音してたけど。)日本ではフェンシング男子エペ団体(金メダル)など、競技そのものを知らなかった。そんな中でも女子バスケットボール銀メダルはかつてない快挙だろうと思う。もっとも僕はバスケは特に関心もなくて、今回も特に熱心に見ていたわけでもない。ベスト8になって準々決勝のベルギー戦は夕方からだったから少し見たけど、リードされてたから負けなんだろうと思って最後は見なかった。そうしたら修了16秒前に町田瑠唯選手のスリーポイントシュートが決まって、86対85の1点差で日本が逆転勝利。
(日本の女子バスケチーム)
 その町田瑠唯選手を検索すると「かわいい」が出て来るのである。女子サッカーの岩渕真奈選手と似ているという話題もあった。そういう話がネットで話題だったけれど、町田選手は準決勝のフランス戦でオリンピック1試合個人アシスト新記録の18アシストを記録した。そのフランス戦は見ていたんだけど、バスケで日本が決勝に進出する日があるんだと思ってしまった。決勝のアメリカ戦は負けたとはいえ、「90対75」は大善戦ではないだろうか。町田選手は身長が162㎝と出ている。バスケ選手として世界で活躍するには異例に低いんだろう。それでも町田選手は今大会の「オールスター・ファイブ」に選出されている。

 今回の女子バスケチームでは、馬瓜(まうり)エブリンオコエ桃仁花(モニカ)のような外国系日本選手も活躍した。まさにこれからの日本を象徴するようなチームだ。小柄であっても動きで相手に勝り、スリーポイントシュートで得点を重ねる。米中のような超大国の間で生きていくしかない日本にとって、単にスポーツに止まらないロールモデルのような気もしてくる。そのぐらいの快挙だと思う。

 今回はベラルーシチマノウスカヤ選手(陸上競技)の亡命問題もあった。また柔道のイラン選手がイスラエル選手との対戦を忌避して棄権したケースもあった。2019年の柔道世界選手権でイスラエル選手との対戦を拒まなかったサイード・モラエイ選手は、その後イランを離れて東京五輪にはモンゴル国籍で参加した。決勝まで進出し、日本の永瀬貴規に敗れて銀メダルだった。いろいろな問題があるがこのぐらいで。
(チマノウスカヤ選手)(永瀬選手とモラエイ選手)
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鈴木雄介選手と「猛暑」問題ー東京五輪を振り返る④

2021年08月12日 22時44分19秒 | 社会(世の中の出来事)
 ちょっと東京五輪問題も飽きてきたけれど、もう少し書きたいことがあるから続けることにする。東京五輪にはもともと「金メダル30個が目標」と言っていたと思う。1年延期のうえ、コロナ禍が続いているから、直接の「数値目標」はなくなったと記憶するが、現実には27個に金メダルだったから「もう少し」だったことになる。もちろんメダル数とかノーベル賞受賞者数とか「数値目標」を作ること自体が間違っていると思うが、それはそれとしての話である。つまり、瀬戸大也桃田賢斗鈴木雄介が金メダルだったら、30個になったのである。

 えっ、前の二人はともかく、鈴木雄介って誰? という人も多いだろう。何の選手で東京五輪の成績はどうだったの? いや、鈴木雄介選手は東京五輪には出場しなかったのである。出来なかったというべきだが。多くの競技で、2019年に開かれた世界大会で「金メダルだったら五輪が内定」ということが多かった。瀬戸大也は韓国の光州で開かれた世界水泳で200mと400mのメドレーリレーでともに金メダルを獲得して、東京五輪内定第一号となった。一方、鈴木雄介はカタールのドーハで開かれた世界陸上で、50キロ競歩で優勝して五輪内定を得たのである。(ちなみに、20キロ競歩で優勝したのが、東京五輪銅メダルだった山西利和である。)

 鈴木雄介は現時点で20キロ競歩の世界記録保持者である。それまでも20キロ競歩で活躍してきたが、故障などが多く五輪や世界陸上ではなかなか活躍できなかった。世界陸上の選考会では4位に終わって20キロ競歩出場権を逃した。そこで50キロ競歩に種目変更して日本選手権に臨んだところ、日本記録を出して優勝、世界陸上でも優勝。そうして東京五輪に内定したわけだが、2021年になって代表を辞退することを発表した。理由はコンディション不調で、「酷暑の中で開催された同レース(ドーハ大会)以降、回復力の低下が著しかった」のだという。1988年生まれで33歳という年齢も回復を遅らせている原因かもしれない。
(鈴木選手がドーハ大会50キロ競歩で優勝)
 東京じゃなくてドーハの話である。しかし、今回の東京大会も猛暑だった。札幌に移した競歩とマラソンも例年にない高温だったという。東京大会に出たことによって、選手生命に影響するケースもあり得なくはないのである。男子マラソンでは106人中で30人が途中で棄権している。約3割が完走できなかった。終了時の気温は28度だったというが、湿度が72%だったことが過酷なレースになった理由だろう。女子マラソンでは15人50キロ競歩でも59人中10人の棄権者があった。男子マラソンで73位だった服部勇馬選手は、完走後に車いすで搬送され重い熱中症だった。完走したことを讃えるような論調もあったが、僕は服部選手は棄権するべきだったと思う。

 ところで2019年世界陸上ドーハ大会が開かれたカタールと言えば、2022年サッカー・ワールドカップの開催地である。ワールドカップは今まで(ヨーロッパ各国のリーグがシーズンオフの)6月から7月に行われていた。2002年の日韓大会もそうだし、2018年ロシア大会もそうである。ところがドーハでは6月から7月の平均最高気温が40度を超えるのである。ということで来年は11月21日から12月18日にかけて開催されると、散々もめた挙げ句に決まっている。ドーハの12月の平均気温を調べると、最高が24.1度、最低気温が15度になっている。もっとも意外なことに平均湿度は71%になっている。(ウィキペディアによる。)
(東京五輪で倒れ込む選手の姿)
 今年の東京はとにかく暑い。五輪終了後に少し収まった感じもあるが、それは32度ぐらいになったという意味。真夜中にトイレに起きてしまい、トイレが30度あって涼しく感じられるという倒錯的な状態だ。フィリピン沖の海水温が冬に高くなる「ラニーニャ現象」の年は夏が高温になるという。予報が当たった状況である。

 東京の天気を調べてみると、開会式があった7月23日前後数日と五輪終盤の8月4日から6日にかけて、東京の最高気温は34度を超えていた。最低気温も25度を超える日が多く、夜もクーラーが無ければ寝られない。では、他都市も調べてみよう。東京と招致を争ったイスタンブールは8月5日、6日頃の最高気温は32度、33度ぐらいだった。マドリードはもっと大変な状態で、今後の予報では16日の最高気温が41度になっている。5日、6日の最高気温は34度、35度で、今年に関する限り東京より暑いようだ。

 次の開催都市のパリは今年は低温状態で、8月5日、6日の最高気温は20度から25度あたりになっている。高温の年もあって、そんな報道を読んだことがあったと思う。7月、8月の最高気温は40度前後だが、平均すると最高気温は25度前後になっている。2028年開催のロサンゼルスも今年は低温で最高気温が20度ほどの日が続いている。今年が異例に低く、過去の最高気温は40度を超えているが、平均では25度以下である。2032年のオーストラリア・ブリスベーンも南半球だから当然のこととして、ここ数日の最高気温は20度前後になっている。こうしてみると、真夏の五輪は二度と無理だろうということにはならず、今後も夏開催が続く可能性が高い。

 ということで、意外なことに2020年五輪に関して言えば、イスタンブールやマドリードになっていても暑かった。パリ大会やロス大会では東京ほど猛暑になる可能性は低い。そういうことになるけれど、日本の場合は湿度が高いことが他国と大きく違う。慣れていないと適応が大変だろうし、適応するための事前キャンプが難しかった。その意味でアンフェアな面があったが、それでも日本選手ばかりが勝ったわけでも無い。

 しかし、7月8月の東京はスポーツに対して「理想的な環境」とはとても言えない。「復興五輪」とか「コロナに打ち勝った証」と言うのは、少なくとも「主観的な真実」だったかもしれないけれど、「夏の東京の気候は理想的」というのは「自覚的なウソ」だったに違いない。そういうウソから始まったから、後々のこともウソになってくる。マラソンを札幌にしても、多分暑くなるだろうと僕は思っていた。非科学的な発想だけど、言い出しっぺに問題があるから「呪われた五輪」になると思ってしまう。それにしても、ドーハ大会の鈴木選手のように、陸上、野球、サッカーなどの選手に今後負の影響が残る可能性を考えておくべきだ。
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シモーン・バイルスとメンタルヘルス問題ー東京五輪を振り返る③

2021年08月11日 22時52分44秒 | 社会(世の中の出来事)
 女子体操競技でリオ五輪4冠(団体、個人総合、跳馬、床運動)を獲得したシモーン・バイルス(Simone Arianne Biles)が、東京五輪の団体決勝途中で競技を中止して棄権した。陸上やバスケなどと違い、水泳や体操は伝統的にアフリカ系が少なかった。バイルスは厳しい生育環境(実母がドラッグの依存症のため、祖父と義祖母に育てられた)を乗り越えたアフリカ系選手として、アメリカで非常に人気があったという。今回アメリカでテレビの五輪視聴率が低迷した一因にも挙げられている。棄権の理由は「精神的なストレス」だった。
(東京五輪平均台のシモーン・バイルス)
 バイルスは世界体操で金メダルを25個獲得して、現在までの記録となっている。またローレウス世界スポーツ賞最優秀女子選手部門を2017,19,20年の3回受賞している。18年はセリーナ・ウィリアムズで、男子選手ではボルトジョコビッチフェデラーメッシなどが受賞している。日本選手では2019年に大坂なおみ年間最優秀成長選手賞を獲得しているが、最優秀賞を獲得した選手はいない。もっとも選出者が欧米偏重だと思うが、バイルスは超有名選手なのである。まあ僕も今調べて知ったことなんだけど、先に挙げた男子選手は名前ぐらい知ってるだろうが、バイルスは名前も知らないという人が多いのではないか。

 バイルスは大会が無観客だったことでモチベーションが低下したことを挙げていたが、それだけでなく期間中に叔母が亡くなっていた。しかし、そういうことだけでもないと思う。聖火の最終ランナーとなった大坂なおみも、全仏オープンの途中で「うつ」を告白して棄権した。今回は日本代表として出場したものの、3回戦で敗退した。猛暑だけが理由でもないだろう。個人的な理由もあるだろうが、バイルスも大坂も同じくアメリカを本拠に活躍しているアフリカ系選手だ。非常に強いストレスがかかり続けていることは想像出来る。途中棄権は非常に勇気ある行動だと思うが、それも彼女たちだからこそ出来たことなのだと思う。
(東京大会の大坂なおみ)
 バイルスは結局体操競技の最終日に個人の平均台にエントリーして、銅メダルを獲得した。その間、順天堂大学の体育館で非公開の練習を続けていたという。バイルスが棄権した女子個人総合では、結局アメリカのスニーサ・リーが金メダルを獲得した。このスニーサ・リー選手はモン(Hmong)族の出身として注目された。ミャンマー南部に住み分離運動もあるモン(Mon)族とは違う。リーのモン族は中国からインドシナ半島の山岳地帯に住み、特にラオスでフランス軍やアメリカ軍に協力した。そのため戦争後に迫害され、タイに逃げて難民として欧米に移住した人が多い。アメリカには30万程度のコミュニティがあるようだ。クリント・イーストウッドの映画「グラン・トリノ」に出て来るのがモン族である。
(スニーサ・リー選手)
 それはともかく、大坂なおみシモーン・バイルスは、今まであまり注目されてこなかった「スポーツ選手のメンタルヘルス」という問題を明るみに出した。そう言われてみれば、今までも実は多くのケースがあったのだと思う。しかし、スポーツ選手は肉体上のケガが絶えないから、今までは「体調の不良」と思われていたのではないか。本人も「精神的不調」を理由として公にするのはためらっただろう。団体球技や格闘技では常に厳しい代表争いがある。テニスや体操のような個人競技だからこそ、精神的不調を明かせたとも考えられる。

 仕事でバリバリ働いていた人が、評価されて昇格したら「うつ」を発症するような事例は珍しくない。同じことはスポーツ選手にも言えるはずだ。常に注目され成果を期待される厳しい環境に置かれ続けたら、精神面で不調になりやすい。自分に出来るんだろうか、自分はたまたま勝ってしまっただけなのではないか、自分は周りの期待に応えられないんじゃないか。そう思い込んで落ち込むタイプは、当然スポーツ選手にもいるはずだ。周りは活躍してるんだから、肉体面だけでなく精神面も強いだろうと思い込んでいる。とても精神的な不調は言い出せないから、身体面で不調ということにする。そうすると早く治ってねと同情されて、ますます復帰への道が遠のく。

 実はそんなケースが今までも多かったんだと思う。思い浮かぶ例としては、東京五輪マラソン銅メダルの円谷幸吉である。周囲の期待に押しつぶされるようにして、1968年に自殺した。いろんな問題が指摘されてきたが、メンタルヘルスという視点が全くなかった時代の悲劇だと思う。恐らく今までにも何人も同じような悲劇があっただろう。円谷ほど有名選手じゃない場合は、単に成績が不振で引退したということにできる。スポーツに止まらず、文化・芸術面でも「成功した後の不調」は多く見られる。レベルは違っても、多分身近なところにも似た例は起こっているはずだ。考えさせられたシモーン・バイルスの問題提起だった。
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五輪のスケボー、年齢制限は必要か?ー東京五輪を振り返る②

2021年08月10日 22時50分15秒 | 社会(世の中の出来事)
 今回の五輪から「追加競技」というのが認められた。東京大会ではサーフィンスケートボードスポーツクライミング空手野球・ソフトボールだったが、パリ大会では最初の3つは実施されるが、後の2つは外れて、代わりにブレイクダンスが追加される。ますます「若者受けねらい」が明確になっている。

 この中のスケートボードでは若い日本選手が続々とメダルを獲得して驚かせた。真っ昼間にやってたから僕はナマでは見てないけど、後でニュースで見て競技がよく判らないのにも驚いた。テレビの「解説」も何だか有名になってしまって、「ゴン攻め」「鬼やばい」とか流行語大賞にノミネートされそうだ。

 ちょっと振り返ってみると、「ストリート」男子で堀米雄斗(22歳)が金、女子で西矢椛(にしや・もみじ、13歳)が金、中山楓奈(16歳)が銅、「パーク」女子で四十住さくら(よそずみ・さくら、19歳)が金、開心那(ひらき・ここな、12歳)が銀という好成績だった。堀米選手だって若いのに、12歳、13歳までいるから年長に見えてしまう。西矢選手の金メダルは、岩崎恭子を越えて日本の最年少記録である。
(西矢椛選手)
 他国のメダリストを見ても、ストリート女子銀のライッサ・レアウ(ブラジル)は13歳、パーク女子銅のスカイ・ブラウン(イギリス)も13歳である。ブラウン選手は英国人の父と日本人の母の間に生まれ、宮崎県で育ったという。今回英国の最年少メダリストとなった。プロサーファーでもあり、ナイキなど多くのスポンサーが付き、ユーチューバーとしても大人気だという話。これは朝日新聞の記事を読んで知ったことで、世界は僕には全く理解できなくなっている。スケボーのメダリスト全12人中、4人が中学生なのである。

 こういう若い五輪選手といえば、僕のような高齢世代にとっては1976年モントリオール五輪に登場したルーマニアの「白い妖精」、体操競技のナディア・コマネチを思い出す。当時はあり得なかった満点の「10.0」を連発し、個人総合と平均台、段違い平行棒で3つの金メダルを獲得した。その時わずか14歳だったことで世界を驚かせた。モスクワ五輪でも床運動と平均台で金メダルを獲得したが、1981年に引退。その後苦難の人生を送ることになるが、今はアメリカで体操コーチをしている。ところで、その後世界体操連盟は五輪参加規定を変更し、参加できるのは16歳からとなっている。
(ナディア・コマネチ)
 他にも年齢制限といえば、フィギュアスケートでは「五輪前年の6月30日までに15歳になっていること」という年齢規定がある。このため2006年のトリノ冬季五輪では、9月25日が誕生日の浅田真央が3ヶ月ほど足りなかったために出場できなかった。フィギュアスケートを見ていると、選手はジャンプ後の着地に失敗して転倒する場面をよく見る。あまりに若い時に五輪メダルを目指した過酷な練習を繰り返すことは若い心身に大きな負担になるということだろう。スポーツ選手はケガを避けられず、「スポーツは危険」なのだ。

 多分スポーツの中でも一番「危険」なのは、ボクシングだろう。このボクシングは五輪参加可能年齢を18歳からとしているとのことだ。今回の大会のボクシングで日本は金1,銅2個を獲得した。特に女子フェザー級で金メダルを獲得した入江聖奈(せな、20歳)選手は、そのファイトある戦いぶりと謙虚な人柄が注目を集めた。蛙マニアというのも面白いし、決勝の相手のネスティー・ペテシオ(フィリピン)を「大尊敬している」と語るインタビューも好感を持てた。ウィキペディアを見ると、今まで二人は勝ったり負けたりしてきた間柄だと判る。入江選手は鳥取県米子の出身で中学時代は陸上部で活躍し、米子西高校進学後からボクシングに専念したと出ている。
(入江聖奈選手)
 若いとは言え、高校生からならボクシングを始めてもいいだろう。サッカーでも今は若い時期はヘディング禁止という議論がある。ボクシングではどうあっても頭部への衝撃を避けられない。サッカーのヘディングも同じだろう。それを考えると、スケートボードも相当に危険なスポーツだと思う。今は何だかマスコミでも「自由なスポーツ」「国家を背負わず延び延びと若い世代が躍動している」などと持ち上げている。しかし、スカイ・ブラウン選手は昨年5月に大けがを負って、頭蓋骨や左手首を骨折し肺や胃に裂傷を負って命の危険もあったという。

 特にスケボーは学校と別に友人や家族と始めたり、街中でパフォーマンスすることも多いだろうから、もちろんヘルメットをしているとしても危険性は大きいと思う。恐らくパリだけでなくロス大会でも採用されると思うが、その頃には五輪参加には年齢制限を設けるという議論が出て来ると思う。「中学生で金メダル」を持ち上げるだけでは、マネして大けがをする若い世代が続出しかねない。学校に持ち込んで廊下で滑ったりする生徒が出ないといいんだけど。ケガする生徒が多くなる前からきちんと考えるべきではないか。
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「メダルラッシュ」の虚実、柔道の成功ー東京五輪を振り返る①

2021年08月09日 22時37分25秒 | 社会(世の中の出来事)
 東京オリンピックの会期が終わったので、いくつかの問題を振り返ってみたいと思う。どんどん忘れていくから、他のことをおいて東京五輪の話を何回か。今回はいろんな問題があった大会だったから、特にこれはどうかなと思う点を中心に考えてみたい。まずは日本のメダル数である。今回日本は金=27、銀=14、銅=17、計58個のメダルを獲得した。過去最高であり、これを抜くことはもうないだろう。何でかというと、2024年パリ大会では野球・ソフトボール、空手が実施されないから、すでに金メダルが3個減ることが決まっているのである。

 今回の東京五輪では、日本のメダル数が金メダルで米中に次ぐ第3位金銀銅の総メダル数ではROC(ロシア)、英国に次ぐ第5位だった。メダルの国別ランキングでは金で順位付けしているから日本は世界3位という印象になる。でも本当は総メダル数の方を見るべきだろう。本来は国ごとにメダル数を比べるのは五輪憲章に反する。しかし、全世界で実際は「国力」を測る数値のように使われている。だから、マスコミも大きく報じニッポンバンザイ的にあおる。確かに金メダル数世界3位は事実だから、それを素直に喜ぶべきなのか。

 しかし、素直じゃない身としては疑問がふつふつと湧いてくるのである。何故かといえば、「比較の対象が違っている」からである。リオ大会にソフトボールがあれば、やはり金メダルだったのではないだろうか。だからリオ大会と東京大会を単純に比べることに意味がないと思うのである。全部見ると面倒だから金メダルに限ることにするが、日本はリオで12個、ロンドンで7個だった。1964年東京と2004年アテネの16が過去最高だった。

 リオ大会では、競泳=2体操=2、レスリング=4(女子)、柔道=3(男子2,女子1)、バドミントンである。このうち、競泳は銀2,銅3を獲得、柔道は銀1,銅8を獲得した。ロンドン大会では柔道の金は松本薫の1個だけ、銀2,銅3だった。競泳は金はゼロだが、銀3,銅8だった。ロンドンの金は他に体操1,ボクシング1,レスリング4(女子3,男子1)だった。

 それでは今回の東京大会を見ると、前回実施されなかった独自競技としで野球・ソフトボール=金2空手=金1、銀1、銅1、スケートボード=金3、銀1,銅1、スポーツクライミング=銀1、銅1,サーフィン=銀1,銅2となっている。合計すると、金6、銀4、銅5も獲得している。それはもちろん立派なことだけど、リオと比べるんなら別扱いするべきではないか。また卓球の混合ダブルスも初の種目だし、女子レスリングも前回までの4階級から6階級に増えた。今回は重量級2つでメダルを逃していて、前回までと同じならやはり3つだった可能性が高い。

 今回の日本の金メダルが史上最高だったのは「日本が得意な種目を加えた」ことが大きい。これを大騒ぎするのは「粉飾決算」とまでは言わないけれど、日経平均の指定銘柄を勝手に入れ替えて株価が上がっている新興企業を組み入れて「株価が上昇した」と強弁するようなものではないか。もっともそれを差し引いても金メダル数は増えているのも確かだ。今回はフェンシング女子ボクシング卓球などで史上初の金を獲得した。

 しかし、それ以上に要するに柔道の金メダルが9個と過去最多だったことが大きい。リオ大会でメダル数12個中、金は3個だった。東京大会ではメダル数は同じ12個ながら、金9、銀2、銅1と圧倒的に金が多い。しかし、それでも銀の一つは今回から実施の混合団体だから、個人が獲得したメダル数は1個減っているのである。今回の東京五輪では柔道レスリングは期待通りに活躍したが、競泳バドミントンは事前に期待された結果にならなかった。別にメダルにこだわるということではなく、なぜ柔道はうまくいって競泳はうまくいかなかったのかを考えることが教育や企業経営などにも生かせると思う。

 ということで少しは競技の話を最後に。今回は柔道をずいぶん見た気がする。レスリングも見た。妻が卓球を見ていて、1ゲーム終わるごとにレスリングに変えては早く戻してといわれていた。どうも球技よりも格闘技の方が好きなのかもしれないと初めて自分で感じた。何でかというと、ほんのちょっとの油断ですべてが終わるという緊迫感が半端ないのである。それはスポーツ全部に言えるけれど、球技の場合相手がマッチポイントを迎えても、そこから連続ポイントを獲得して逆転することもある。しかし、柔道やレスリングでは「一本勝ち」というルールがあるから、一瞬の油断で大技を決められたら終わりである。

 柔道は4分間で決着しない場合、勝敗が決するまで戦い続ける「ゴールデンスコア」方式になる。リオ大会後の変更で、それまでの「有効」「効果」という小技による決着、それでも決着しない場合の審判による判定決着をなくして、「技あり」「一本」のみにして延々と戦うのである。さらに、消極的選手に出される「指導」を4回で反則負けからを「指導3回で反則負け」に変えた。とにかく積極的に攻めて技で決着しようという変更である。
 (新井千鶴、タイマゾワ、表彰式と準決勝)
 今回の五輪の中でももっとも凄まじかったのは、柔道女子70キロ級準決勝新井千鶴・タイマゾワ(ROC)戦だった。その結果、新井・タイマゾワ戦は延長しても全く決着せず、何と16分41秒という死闘を繰り広げたのである。しかも、決着したのは新井の絞め技だった。タイマゾワは「落ちた」(失神した)ことで一本負け敗戦となる壮絶な決着だった。「感動を貰える」なんてレベルを超越している。一人しか生き残れない格闘技のトーナメントの非情さをまざまざと感じた。「双方ともに金」が出来る高跳びがうらやましい。

 タイマゾワはそれまでの対戦で負傷していて、大きな絆創膏を額に貼りながら抵抗を続けた。最後の頃は明らかに体力的に新井優位になっていたが、凄まじいまでの頑張りで抵抗し続けた。結局寝技に持ち込まれて「締め」で決着。五輪で絞め技なんて今まであったのだろうか。それでも凄いと思うのは、3位決定戦でタイマゾワはクロアチアの選手に延長戦で勝って銅メダルを獲得したのである。一方新井千鶴もオーストリアのポレレスに技ありで4分間で勝って金メダルとなった。大野将平阿部一二三、詩兄妹、日本最初の金メダルとなった高藤直寿なども素晴らしい選手だと思ったけれど、何といっても新井千鶴選手のすごい戦いが思い出される。

 柔道の日本選手はナショナルトレーニングセンターでずっと合宿トレーニングを続けられ、時差も隔離も不要なのでアンフェアだという声もあった。そういう「地の利」もあったろうが、それだけではない。柔道の国際化に伴い、一時は日本のメダル数も落ちていた。1988年ソウル大会では金メダルが1個だった。(女子は公開競技で正式競技ではなかった。)ロンドン大会は先に見たように金は松本薫一個。今回テコンドーで韓国の金メダルがなかったというが、テコンドーが国際化する中で発祥国が低迷する段階なのだろう。日本柔道はルール改正もあって、技と練習量がより重要になった。それに合わせたトレーニングを続けてきたということだろう。柔道は開会式翌日から始まるから、他競技の日本選手にも影響を与える。柔道の「成功」が今回の東京五輪に大きな意味を持った。(他の競技も書く予定だったが、長くなったのでここで終わる。)
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映画「宮本から君へ」から君へー助成金不交付訴訟、勝訴から控訴審へ

2021年07月15日 22時50分07秒 | 社会(世の中の出来事)
 ちょっと前の話になるが、「宮本から君へ」訴訟の判決について書いておきたい。2019年の映画「宮本から君へ」(真利子哲也監督)は傑作だった。僕もここで「映画「宮本から君へ」、異様な熱量」(2019.10.12)を書いた。その年の僕のベストワンの映画である。しかし2019年3月に、登場人物の一人を演じたピエール瀧が麻薬取締法違反で逮捕され、その後有罪となった。公開前なので取り直すことも絶対に出来ないわきではなかったが、結局ピエール瀧出演シーンをそのままにして秋に公開されたわけである。

 ところで、その問題を理由にして、助成金交付を決めていた「日本芸術文化振興会」(芸文振)が不交付を決めた。それに対し映画製作会社スターサンズ決定の取り消しを求める行政訴訟を起こしたのである。その一審判決が2021年6月21日に出されたが、不交付は違法であり、「公益性」を理由にした判断は「裁量権を逸脱または乱用した処分だ」というものだった。しかし、この判決に対して芸文振は控訴したので、今後も東京高裁を舞台に裁判はまだ続く。非常に大切な問題だと思うので、ちょっと時間が経ってしまったが書いておきたい。
(勝訴判決を受けた記者会見)
 映画会社スターサンズは映画プロデューサーの河村光庸(かわむら・みつのぶ)が設立した設立した会社である。河村は当初は個性的な外国映画の配給で成功し、2010年代以後「かぞくのくに」「あゝ、荒野」「愛しのアイリーン」「新聞記者」などを作った。その後も「i-新聞記者ドキュメント-」「MOTHER マザー」を作り、今年には「ヤクザと家族 The Family」「茜色に焼かれる」がある。そしてもうすぐ菅首相を取り上げた「パンケーキを毒見する」が公開される。ちょっと他社が取り上げない重厚作品が多く、さらに安倍政権・菅政権に批判的な映画を堂々と製作している。「忖度なし」度ナンバーワンの会社なのである。2019年当時は安倍政権批判と受け取られる「新聞記者」が評判となっていたので、狙い撃ちされたという説まであるぐらいだ。
(映画「宮本から君へ」)
 「狙い撃ち」かどうかは僕の知るところではないが、確かにそんな風に考えたくもなる不自然な不交付だったと僕も思う。ピエール瀧が出ているのは間違いなく、有罪判決を受けたのも間違いない。だが、この映画を見て「国が薬物乱用に対し寛容である」というメッセージを受け取る人がいるだろうか。そんなトンチンカンな見方しか出来ない人間が文化行政を担っているのだろうか。ピエール瀧はこの映画では脇役であって、しかも悪役である。(単純な「悪役」ではないが。)ウィキペディアで配役を見ると、ピエール瀧は9番目になっている。ピエール瀧目当てでこの映画を見る人はまずいないし、麻薬事件を知っている人でも「こういう人は捕まるんだね」的な感想を持つに違いない。この映画を見て「麻薬をやってもいいいだ」と受け取る人がどこにいるのか。

 判決でも「主要なキャストではない」ことが取り消し理由になっている。僕にしても蒼井優池松壮亮が問題を起こしたというんだったら、ちょっと公開は難しいだろうと思う。多くの人は彼らを見たいわけで、その対象のスターが不祥事を起こしてはいけないと思う。助成金取り消しもやむなしかなと考える。厳しいけれども、主演スターにはそれだけの予算を背負っている責任があるだろう。だが「助演者」の場合はどうなんだろうか。ピエール瀧は助演であって「通行人」ではない。セリフもかなりある。しかし、会社システムで作っているわけじゃないんだから、製作会社は全キャスト、全スタッフの私生活に全責任を持たなければならないのだろうか
(訴訟提起時の記者会見)
 このやり方が認められたら、多くの芸術文化が成り立たない。映画には多額な製作費が必要なので、このような公的な助成金の意味は大きい。しかし、芸文振のホームページを見ると、単に映画だけでなく各分野に幅広く助成金が交付されていることが判る。(「令和3年度文化芸術振興費補助金による助成対象活動の決定について」参照。)地方のオーケストラや演劇活動には助成が不可欠になっていることが判るし、東京の主要劇団も助成を受けている。新宿梁山泊や劇団燐光群なんかも対象になっている。落語や能狂言なども同様である。そんな中で、もしメンバーの一人でも不祥事を起こしたら助成金がなくなるとしたら、その団体にとって大変なことだ。

 要するに薬物に手を出さなければ良いと思うかもしれないが、そうじゃない。「役所」が文化団体の「生殺与奪の権」を握っているという状況が問題なのである。そしてその役所には、国民が映画「宮本から君へ」を見ると「国が薬物乱用に寛容である」と思うと信じている人たちがいる。それが大変なことだと思うのである。しかし、芸文振側では「アンケート」を実施し、6割の人が「助成金を交付することは国が違法薬物使用を大目に見ているように感じる」という結果になったという「証拠」を出してきた。一審はこのアンケートに証拠価値を認めなかったが、裁判官にもトンチンカンは多いので控訴審でひっくり返る可能性はありうる。

 文化表現には「公益性に反する」ものもありうるだろう。そういうものも「表現の自由」の中にあると考える。しかし、完全に反公益的なものだったら、申請段階ではねられる。「宮本から君へ」は助成対象になったのだから、内容自体は問題ないのである。ただ出演俳優の一人が薬物事件を起こした。それは問題には違いないが、キャストを変えて取り直せなどと芸文振側が言うことはおかしい。まさに映画「宮本から君へ」を見れば判ることだ。これを見れば、「不正義は見過ごせない」とあくまでも闘うメッセージを受け取るはずだ。「薬物乱用」と正反対のメッセージを。そして製作会社も、まさに「宮本」のように闘った。それは『「宮本から君へ」から君へ』へというメッセージである。今後の控訴審を支援していかなければならない。
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