実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

楢葉の涙  実戦教師塾通信五百八号

2016-08-12 11:28:15 | 福島からの報告
 楢葉の涙
     ~仲村トオルの暑中見舞い~


 1 韋駄天の心意気

 体操内村チームの予選がとんでもないことになってること、そして、イチロー三千本を気にしながら、私は7日(日)早朝、楢葉に向かった。
 仲村トオルが福島に来たのは、2011年の夏のことだ。お願いしたのでもなんでもない。かつての教え子たちが、私の被災地支援に立ち会いたいと申し出て来た。彼らが「一緒に行ってみないか」と仲村トオルを誘ったのだ。その時の様子を、5年前にここで報告した(六十四号)。ブログをアップすると私の元へ、
「客寄せパンダか?」
「教え子だから呼べるもんね」
等の、しょうもないたくさんの中傷(ちゅうしょう)が届いた。バカは死んでも治らないとか、有名人も大変だなと思った。
 その後仲村トオルは、何度も福島いわきの仮設住宅に、味噌・醤油を寄せ、あるいはチョコレートを、自分の手で直接配った。
「少しでも皆さんのお役に立てているなら」
といつも言った。
 しかし、今回は違った。私がお願いした。
「来て欲しい」
と。事情があって詳細を書けないが仕方ない。しかし、このブログの熱心な/丹念に読んでいる人なら、いくぶん想像がつくかもしれない。
「オマエの応援を必要としている人がいる」
と、私はお願いした。いや、SOSではないかとさえ思える。秋でも年明けでもいいと私は言ったが、事情を察してと思う、早期の実現となった。あとで聞けば、『家売るオンナ』の収録を終えての、そしてまた他にも、大変な段取りがあったようだ。

 2 「起きなさい!」
 「みちの駅よつくら」が集合場所だった。仲村トオルと仲間たち、そして私がそこで合流し楢葉に到着したのは11時だった。渡部さんの玄関先に立つ私に、
「いつもお世話になってます」
と、にこやかに出てきた奥さんは、私の後ろに立っている人影を見て、飛び上がった。
「お父さんが(「来る」って)言ってたけど、そんなこと信じられなくって……!」
震える手で握ったタオルが拭(ふ)くのは、汗ではなく、なんと涙だった。
「起きなさい、大変だよ!」
部活に出かける前、仮眠中だった息子をお母さん(奥さん)はたたき起こすのだった。畑が広がる辺り一帯に、お母さんの声が響いた。
 写真撮影が始まった。しかし、お母さんのカメラを持つ手の震えがまだ止まらない。私がシャッターを押す。おばあちゃんは、畑仕事から上がってくる。目を覚ました息子も、
「撮影いいですか」
と、出て来る。バドミントン部所属とは、前に書いたと思う。

 3 原発事故の傷跡
 渡部家を離れ、案内してもらったのは、他のみんなが知ることのない木戸ダム/第二原発周辺/農家だった。

ダムの上から。水面からえも言われぬ風が吹いてくる。結局、木戸ダムから送られる水を、町民はまだ飲めずにいる。くみ上げる水に放射能は「不検出」である。しかし、ダムの底に蓄積された泥からは、とてつもなく高い線量が出ている。住民が安心して飲めるはずがない。泥を取り除いて欲しいという住民の願いは、まだかなえられていない。

第二原発のすぐ足元。波打ち際まで原発の施設が見える。第二原発はよく危機を脱したものだ、と感じないわけには行かない。津波の傷跡がまだ生々しい。


 続いて自宅の母屋へ。サイロの前に渡部さんと仲村トオル。
牛舎の前で、御夫婦とスリーショット。

 これは感動ものの母屋のお風呂。

湯加減の声をかけながら、お風呂の右手から薪(まき)を足せる。
「薪の火は、優しいお湯にするんですよ」
お母さんが説明する。古き時代のいい名残(なごり)。
「でも、その薪も燃やせないし」
今年でお風呂も母屋も解体する。
「燃やせないというのは……薪が汚染されてということですか?」
仲村トオルが反応する。お母さんがうなずく。

 4 もう一度、お母さんの涙
 それから離れの家に戻った。いつもは渡部さんと息子だけが暮らす離れである。あとのみんなは、まだいわきの仮設住宅で暮らしている。

「エアコンがなくて……」
お母さんが申し訳なさそうに言う。しかし、海からの空気/風のせいで、ここでは暑さをしのげる。
 渡部さんの家族とは、私も初めて話す。渡部さんの話の言外(げんがい)に漂うものを知りたい、と私はかねがね思っていた。遠慮なく聞いてきた私を、渡部さんは一度も怒ったことがない。この日お母さん(奥さん)は、何度もタオルで顔をぬぐった。
 とりわけ激しかったのは、母屋で「牛たち」のことを聞いた時だった。ここに何度か書いたが、渡部さんは「酪農」を断念し、「和牛/畜産」に転向する予定だ。そのことを奥さん(お母さん)はどのように同意したのだろうか。
 和牛ならという条件で、ね、と言うなり、お母さんはタオルを手にしていた。暑く照らされた牛舎近くの地面に、お母さんの声が反射した。
「だって、あんな思いは二度としたくない……」
震える声で、残した牛たちのことを話すのだった。
「犬や猫とは違うから」
とは、初め私は、愛着の度合いを言っているのかと思ったが、きっとそうではない。牛を決して「殺す」ことのない酪農家は、牛に名前をつけ家族の一員のように育てる。被災者はみな、犬や猫も一緒に逃げた。しかし、渡部さんたちは「『大きな』牛と一緒に」逃げられなかった。お母さんは、この悲しみを言っている。

 去年の夏も、その前も私は何度も聞いた。見舞うたびにやせ衰(おとろ)えて行く牛の姿、警戒区域となった(2011年4月20日)あと、何頭かの牛は鍵を外して逃がしたことを、私は何度も聞いた。淡々と話す渡部さんだが、私はそれでも何度か声を失った。
 しかしこの日、お母さんの大粒の涙を見て、牛を飼う人たちの「喜び/誇り」を見たような気がした。原発事故によって、それらが奪われたのを目の当たりに見たように思った。

「もう帰っちゃうんですか……(仲村トオルを)置いてってください」
と「おねだり」するお母さんに、
「ホントは3時までの約束だぞ!」
と言って、渡部さんは4時の時計を指して、たしなめた。
「また来てください」
と言うお母さんに、渡部さんは、
「もう来るわけねえってば!」
と釘を刺す。
 仲村トオルは、東京から持ってきた数々の「暑中見舞い」を差し出して、
「また来ます」
と言った。


 ☆☆
ナカムラです。

昨夜は都内に入ってからの渋滞に少々苦戦しましたが
兎に角、行って良かった!

知らなかったことを知って、驚いたこともあって、
何か心の中でゆるくなっていたものが引き締まったような、
頭の中で散らかっていたものが集められたような感覚があります。
自分のためにも、
本当に行って良かった。
感謝です。

ナカムラトオル

とは、仲村トオルからの返信です。
 ついでながら、私がかねがね見たいと言っていた、教え子の愛車に会えました。全体を見せるのはまずいので、ごく一部。助手席でご満悦なのが私。運転席が見えなくてすみません。イギリス車は右ハンドルって知ってましたか?

ありがとう、仲村トオル! おかげでまた、皆さんが明日への力を感じている。

 ☆☆
内村君やった!
チーム内村もやった!
そしてイチローもやった!
感動をありがとうってありきたりのことしか言えないのが悔しいですけど、嬉しいですね。スポーツ新聞、三日連続で買っちゃいました。バンザ~イ!

   これは手賀沼花火大会

最新の画像もっと見る

コメントを投稿