実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

2021読書特集 実戦教師塾通信七百六十八号

2021-08-06 11:45:41 | 思想/哲学

2021読書特集

 

 ☆初めに☆

毎年、読書特集の愛読ありがとうございます。この読書特集、新刊本の中に、いわゆるビンテージものがいつも混じってます。これは私の怠惰がなせるものだったり、読み返して改めて思いを強くしたりというのが原因です。

時間がある時、気が付くといつも本を読んでます。本はいいですね。先週の朝日の読書特集に、SNSも本も同じだという考えに対し、「SNSはどこか現実と同じ。本は違う」という文を見つけました。なるほどと思いました。

 

☆『愛されなくても別に』武田綾乃 2020年☆

芥川賞の『推し、燃ゆ』も読んだが、選考委員たちに現代若者へのコンプレックスめいたものを感じた。これが今の若者の「リアル」なのだと理解する、言うならば「必要」を、選考委員が思ったのではないか、ということだ。私にはこっちの小説の方がはるかにリアルだった。

映画『誰も知らない』のモデルとなった西巣鴨事件が起こったのは1988年。電気も水道も止められた家で、子どもだけが暮らしていた事件に、当時の人々は震撼とした。しかし今や、(母)親から置き去りにされた夜を過ごす子どもたちは、珍しくなくなってしまった。前も書いたが、子どものお迎えに来た母親が、ママ友に「今度の彼氏はね……」と、にこやかに話すシーンは、平気で目や耳に入って来るご時世なのだ。この物語の「家族」が特殊と言えるほど、日本は楽観できる状況にない。

「ねえ、早くごはん作って。ホットサンドが食べたい」「ハムとチーズに、キャベツもいれてね。あと、珈琲も飲みたい」「ねえ、まだ?」

これは年頃の娘が母親に催促してるのではない。新しい彼のため立派なバディを作ろうとジムに通い始め朝寝坊をしたキャミソール姿の母親が、3時間ほどしか寝てない娘(陽彩:ひいろ)に言う場面だ。陽彩は「自分のわがまま」で大学に入学したため、夜遅くまでコンビニでバイトをして学費をかせいでいる。このふたりの「家族」を中心に物語は進む。読者も推察する通り、この母親にアパートの家賃や生活費や、ましてジムの会費を払う金もその気もない。それらの金の恥ずかしい悲しい悔しい出所を、陽彩は知っている。それを陽彩から告げられた母親は少しうろたえる。陽彩は静かに言う。

「お母さんがそういう人だって知ってたよ。だって家族だもん」

信じがたいが、物語はハッピーエンドだ。バイト先の友達、渡辺直美のような(とは私が勝手に思った)「江永」とのタッグが生まれ、道が少しずつ開いていく。人はこんな風に弱くも強くもなれる、と物語は言っているかのようだ。

 

☆『アンソーシャルディスタンス』金原ひとみ 2021年☆

金原ひとみの作品というより、金原ひとみが「自身を持て余し気味」なんだと思う。それは時代や世界の最突端で、いつも震えているように見える。芥川賞の『蛇にピアス』は、気持ち悪くなって中途で読むのを降りた。しかしその後も、金原の作品に惹きつけられ続けている。本作品に登場する女は「彼氏を好きでも嫌いでもない」女であり、別な話は「嫌だ嫌だと言いつつ全てうまくやり繰りする彼氏&何とかうまくやろうとしても何も出来ない」女であり、そして「十歳以上年下の彼氏との歳の差を埋めようと、整形の悪無限スパイラルにはまる」キャリアである。それらの生まれ出る場所が、ギラギラした「どん欲」の種なのか、それとパラレルな「絶望」なのか分からないまま、女たちはそれぞれに逡巡・悶絶、そして猛進する。

第三話の「コンスキエンティア」のヒロインは、三人の男に翻弄(ほんろう)され続ける。若い男に抱かれた後、帰宅した彼女を待っていた夫は、嫌がる彼女をリビングで暴力的に身体を求め行き果てる。しかし彼女は、

「……嫌なセックスだったけれど、レイプではない。…………乗り気でないセックスを十把一絡げにレイプとすることは、セックスそのものの持つ意味を矮小化(わいしょうか)させてしまうし、……人間の意味を矮小化させてしまうことにも繋がる」

と思う。嫌で仕方ない夫とのセックスだが、彼女は夫の背中に爪を立てる。翻弄されているのは男たちでもあった。

東日本大震災、いや、福島原発事故に振り回される人々を書いた『持たざる者』は、苦しめば苦しむほど「わが身の醜さ」の姿ばかりが露出していた。本当は私たちがあの時、しっかり考えておかないといけなかったことが、あの作品には書かれていた。昔も今も、金原は「どん欲」と「絶望」の間をずっと行き来している。

 

☆『精神病院の起源』小俣和一郎 1998年☆

精神医療を批判する本ではない。でも本の帯にある通り、現在の精神医療の在り方を考えるものとなっている。洋の東西を問わず、治療というものには宗教、つまり神社仏閣が常に絡んでいる。以前、フーコーの『狂気の誕生』で触れたが、神代の昔から「水の力」は大きかった。日本における「水治療」の起源は、滝に打たれる修行であることは言うまでもない。これは「密教」に特有な修行だった。密教尊格・明王(みょうおう)のひとつ、不動明王をあやかった滝が「不動滝」とされているのも、そういう背景がある。この「水の力」の治癒は大きかったが、体力の衰退したものにとっては命を削るものでもあった。近代の精神医療においても、水によって気持ちを静める効果があることを理由に、患者が嫌がるのに「水を浴びせ続ける」治療として続けられた。

摂関政治の登場する時代、宮廷貴族間の陰湿な政争が繰り広げられる。加えて、当時(いや、ついこの間まで、と言ってもいい)は皇室での近親婚が当然のように行われ、積み重ねられていた。皇族間に精神病事例が多かった理由とされる。冷泉(れいぜい)天皇妃の精神病治療を記念して建てた観音堂には「聖水」と呼ばれた湧き水が、今も京都の岩倉大雲寺にある。

個人的資質で発生する狐憑きなどの憑依(ひょうい)現象でなく、個人に訪れた強烈な出来事で発生する、心因性疾患に初めて気づいたのは、能の世阿弥(ぜあみ)だという。『風姿花伝』をそんな風に読めるのだ。この本を読むまで分からなかった。もちろんそれは「物狂(ものぐるひ)」の部分である。また江戸時代という話で、溜(ため)という行き場のない者を面倒見る施設があった。が設立したので「溜」と言われる。この施設で、(精神)病者・困窮者・行き倒れ・無宿者などを収容・治療することを、浅草・品川の町奉行が依頼する。それはが最底辺にいたということばかりではない、頭の解決能力と人格の高さが記録に残っている。

 

☆『みうらじゅんと宮藤官九郎の世界会議』2020年☆

ふたりの名前を見れば、読者がこの本を真面目に読もうがバカにしてかかろうが、肩透かしを食うことは大体見当がつくだろう。

「第一部 男と女について」の目次(小見出し)を見れば、男なら?誰もが気にし&誰に聞くことも出来ない切実かつ曖昧(あいまい)なカテゴリーへの挑戦を、本書は試みている。と一瞬だけ思う。

「モテる男はどんなセリフで美人を口説いているのか/セックスは女の人を何回イカせたら許してもらえるのか/チンコはデカイ方がいいのか? そうでもないのか?」等々。

「チンコは……」の冒頭は以下のように始まる。

みうら ……人としての器がもう少し大きかったら、こんなことにこだわったりしないんだろうけど、いまだに人間のスケールが小さい者は、男性器のほうの器の話になっちゃうのかねぇ。

  ないものねだりってことですね。

おっ、結構スタンダード&シリアスな展開になりそうだと思う。しかし、「見かけが大きくなる」(対談では実例が示されている)のと「大きい」のでは違うという、議論はシリアスながらも堂々巡りである。そして、ジョンレノンの恥じらいのない包茎等を論じたふたりは、新たなスタートラインについている。ふたりは、「無理な注文です/ちょうどいいって難しい/なるようにしかならない/おあつらえ向きってわけには行かない」等と言っている。しかしこの新たなスタートラインは、元とは違っている。「等身大の自分」に向き合うことになっている。かくも「等身大の自分」とは実に困難な代物だ、とも言えるのだ。

 

☆『科学資本のパラダイムシフト』矢野雅文 2021年☆

哺乳類が地上で優位な存在として君臨して来たわけは、狩りや攻撃など一回性のものに対するレパートリーが広いことによっている。例えば、自分の前に物が飛んできた時、それが石なのかボールなのかと判別する前に、よけるという行動を選択する「即興性」に優れているという。また、滝の音を聞かせるだけだと不安が発生するけれど、そこに滝の映像を重ねると「ノイズ」としての滝の音が消える。つまり、そこで環境に適応する経験をする。

これらは単に喜怒哀楽を示しているのではない。著者は、生命システムが置かれた環境で、生命システム自身が環境とも関係づけをしていることを意味しているという。簡単に言って、人はそうして生きてきた、ということだ。そこで不可欠な指針は、著者の言う「真・善・美」なのである。このことを忘れて「完璧な答」を信じて進めているのが、現在の「人工知能」だという。著者は副次的可能性をロボットに入力して解決すべき課題を与えたら、結局ロボットは動けなくなってしまった、という実験結果を紹介している。また、人工知能のプログラムは、功利主義の理念で作られている決定的欠陥がある。暴走したトロッコの事例を挙げている。線路の岐路ポイント先の右側には線路工夫が五人、左側にはひとりいるという課題を人工知能に与えた時、人工知能は功利的な判断しか出来ない。

「中央集中の主語制科学」ではない「自律分散の述語制科学」を著者は目指す。いまは「情報の在り方が世界の在り方を決めて」いるが、大切なのは「自己言及する情報生成」だという。藤井君が、コンピュータの出せなかった「手」を打ったのを思い出した次第である。

著者から、これからも学んでいきたいと思っている。

 

 ☆後記☆

明日は立秋。何が秋だよと毎年思いますね。でも、夕方の風がやっぱり違うと。

池江選手、メダルに届きませんでした。でも、あの人はいつも表彰台の上にいるように見えます。みんなに幸福を届けるキューピッドのようです。すごいですねぇ。

二週間後となりました。ドミノピザさんのご厚意による無料提供です。ワンピースでなく、一枚です! 宿題の方は大丈夫ですか?

点検しますよ~。

皆さん、お待ちしてま~す!

あ、それと。先週、土用のウナギ食べました。写真を撮ってないことに気が付いたのは半分ぐらい食べたあとで、残念、今年はうな重の写真を載せられません!


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