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瀬戸際の暇人

今年も偶に更新します(汗)

異界百物語 ―第25話―

2006年08月31日 21時16分46秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。

今夜で8月もお終い。

約1ヵ月間お付合い頂き、感謝しているよ。


最後に紹介するのは、信じられないかもしれないが、歴史上実際に居た人物の話だ。

血の描写が苦手な人は、この先聞かれない方が良い…本当に気分を悪くしてしまうだろうからね。


――人物の名は、『エリザベート・バートリ』。


スロヴァキアの首都、ブラチスラヴァから車で北東に向い、30分程行った所に現存するチェイテ城の、かつての女城主だ。



1560年、エリザベートは、ハプスブルク王国に繋がるハンガリー屈指の名門、バートリ家に生れた。

莫大な財産に広大な領土だけでなく、類稀なる美貌を具えていたエリザベートは、少女期を何不自由無く思いのままに過した。


しかし15歳(14歳という説も有り)の時、古い軍人の家柄である、ナダスディ家のフェレンツ伯に嫁いだ事から、人生の転機を迎える。

華やかな社交生活から切り離され、人里離れた寂しいチェイテ城に引篭もるだけの生活を強いられたのだ。

軍人の夫は、トルコとの戦いに駆り出され、滅多に帰って来ない。


極端に孤独で退屈な生活の中、彼女の唯一の楽しみは、鏡の前に何時間も座り、自分が持ってるドレスや宝石を、次々と身に着けてみる事だけだったそうだ。


もっと人から注目されたい…

もっと人から賞賛されたい…


しかし、彼女自身は、人を愛した事は無かった。

幼い頃から美貌の姫君として甘やかされていた彼女には、人を愛し関わる術が解らなかったのだ。

解らない彼女は、ひたすら自分の美貌だけに縋り、磨き続けた。

それだけが、彼女が人から注目を受ける為の、唯一の術に思えたからだろう。


しかし、その自慢の美貌も、子供を4人産んだ辺りから崩れ始める。

肌に染みや皺が現れ、めっきり衰えが目立ち始めたのだ。

焦った彼女は、怪し気な妖術使いから薬草を買い取り、用いてみたりしたが、大した効果は出ない。


忍び寄る老いの『影』に、彼女は怯えた。


或る日の朝、何時もの様に侍女に鏡の前で髪を梳かせていた彼女は、新入りの侍女の不器用な手付きに、思わずカッとなって頬を平手打ちした。

すると嵌めていた指輪が引っ掛ったのか、娘の肌から迸った血が、彼女の手に飛び散った。


何気無く、それを見詰る。


……気のせいか、血の付いた箇所が、他の所より滑々して来た様な気がする。


藁にも縋りたい思いだったエリザベートは、それに飛び付いた。

そう……若い娘の血……これこそが若返りの特効薬だったのだ!(実際、「血には回春作用を持っている」という迷信が、今でも見られる)


急いで浴槽が部屋に運ばれ、1人の娘が後ろ手に縛られ、連れて来られた。

そして無理矢理、浴槽の中に引入れられる。

忠実な下男のフィツコが娘の腕をきつく縛り上げ、女中のドルコが剃刀で娘の体のあちこちに切傷を付ける。

浴槽の中でのたうつ娘の全身から、血の雨が飛び散った。


血が最後まで抜かれたのを確認し、下男は娘の死体を毛布に包んで運び去った。


血でいっぱいに満たされた浴槽の中、エリザベートはゆったりと身を沈める。

掌で掬った血を体中に降り掛けながら、彼女は然も満足そうに笑ったのだと云う…


この時以来、女中達は若い娘を求めて、村々を彷徨い歩くようになった。

城に行けばこれまでの貧乏とは掛離れた天国の様な生活が待っていると言う宣伝を信じて(或る意味、天国に行ける訳では有るが…)、娘達は嬉々として城の門を潜ったが、一旦城中に入れば、もう生きて帰れる望みは無かった。

最初は確かに丁重に扱われ、衣服も食事も豊富に与えられるが、その後は体中穴だらけにされ、有らん限りの血を絞り取られるという、身の毛のよだつ拷問が待っていたのだ。


或る時は『鉄の処女』なる、魔女狩りの際に開発された処刑道具を用い、血を絞り取った。

これは等身大の人形で、観音開きに割られた中には、無数の針が埋め込まれている。

中に閉じ込められた娘は、この針で全身刺され、苦悶の末に殺された。


或る時は大きな鉄製の鳥篭に閉じ込め、血を絞り取った。

人間がやっとしゃがんで入れるくらいの篭に、嫌がる娘を無理矢理押し込める。

滑車を使って宙に吊り上げ、ユラユラと揺らす。

そうすると、篭の内側に生えた無数の針が、娘の体を惨く切り刻む。

流れた血は、底に開いた穴から、真下の浴槽の中、裸で待つエリザベートの上に、雨の様に降り注いだ。


城の地下に在る土牢には、何時も何人かの娘達が繋がれ、市場に出す家畜の様に、栄養豊かな食物を与えられていた。

エリザベートは、娘達が健康で、肥れば肥る程、血をふんだんに提供し、美容上の効果が高まると信じ込んでいたのだ。


若さを得る為だけでなく、彼女は娘達への拷問を、日々の快楽として行っていた。

若い娘を拷問に掛ける事で、憂さを晴らしていたのだろう。


或る娘は、梨を1個盗んだ罪から、炎天下、裸にされ庭の大木に縛り付けられ、全身に蜜を塗られて、蜂や蝿の餌食にされた。

或る娘は、外出から帰った彼女の靴を脱がせる際、不手際をやってしまった罪で、捕えられスカートを捲られ、真っ赤に熱した焼きごてを足に押付けられた。

ジュッと言う音と共に、肉の焼ける臭いが部屋中に広がり、娘は大きく飛び跳ね悲鳴を上げる。

尚もコチコチに干からびた足に焼きごてを押付けながら、彼女は陶然として言ったという。


「ほうら、お前にも綺麗な靴を作ってやったわ!
 真っ赤な靴底まで付いてるじゃないの!」


また或る娘は、彼女の散歩に連れ出され、冬の湖畔で裸にされた。

凍て付く風に晒され、全身は紫に染まり、娘は寒さと痛みで泣き叫ぶが、左右から従者に抑え付けられて、身動きが出来ない。

下男が湖の氷を壊し、汲み上げた冷水を、ゆっくりと杓で娘の肌に注ぎ掛ける。

いっそ焼ける様な感覚に娘はのたうつが、零下何十度の気温の中で、水は忽ち凍り付く。

氷像が出来上がると、暖かな毛皮に包まったエリザベートが馬車から降り、その周囲をくるりと1回りする。

像に未だ命が残っている事に気付くと、彼女は如何にも愉快そうに笑い転げたという。


或る日、城に着いたばかりの娘達を集めて、豪華な宴を開いたりもした。

農夫の娘達は垢だらけの体を洗われ、髪を梳かされ、綺麗なドレスを着せられた。

通された大広間には燭台に火が灯され、テーブルの上には銀食器や硝子器がずらりと並んでいた。

壁には豪奢な錦のタペストリー。

初めて目にする贅沢な光景に、娘達はおっかなびっくり席に着く。

女主人エリザベートが、豪奢なビロードのドレスで着飾り現れる。

宴が始まり、次々と御馳走が運ばれて来る。


暫くして…ドアが開き、下男フィツコと侍女ヨーが、剣を掲げ現れた。

テーブルの上の蝋燭の芯を、剣で順繰りに斬って行く。

これも宴の趣向だろうかと思い、娘達は黙って見守る。


全ての火が消され、広間は闇と静寂に包まれた。


――次の瞬間、広間の何処かで、悲鳴が上る。


うろたえた娘達がガタガタと椅子を引いて立ち上り、俄かに広間はざわめき立つ。


「席を離れてはいけない!
 自分の席を離れてはいけない!」


下男と下女は、そう叱り付けながら、闇の中、娘の首を手探りで捕まえる。

そうして、手早く娘達の首を撥ねて行った…


……広間に再び静寂が戻った頃、燭台に火が灯される。


床に転がった血濡れの首と、首の無い胴体。


地獄図絵の様な光景を眺めつつ、エリザベートはその夜の御馳走を平らげたという。


こうして日々快楽殺人に明け暮れていた彼女だが、次第に生贄の娘を手に入れる事が難しくなって来た。

如何にエリザベートが幾つも城を持っているとはいえ、短期間に集められて城に上って行った何百人の娘達は、一体どうなったのか?

便りの無いのを心配し、娘達の親が会いに行っても、見え透いた言い訳をして追い返す。

広がる不穏な噂に、付近の農夫達は、娘を手放す事を嫌がるようになった。

遠い村々にまで手を伸ばし、見付るだけの娘を掻き集めたが、それにも限りが有る。


そして、努力の甲斐無く、老いは変らずに彼女の体を蝕んで行く。

髪は白くなり、小皺は増え、肌は弛み…


それでも彼女は、麻薬患者の様に血を求めて、若い娘を狩り続けた。


そしてついに、彼女の犯行の噂は、国の中枢部にまで達する。


教区の神父の告発が切っ掛けだった。


この神父の前任者は、時折エリザベートの従者に呼び出され、深夜の埋葬を手伝わされていた。

城に着くと、庭の隅に土饅頭が出来てい、手に鍬を持った従者達が、闇の中に立っている。

神父は命じられるまま、土饅頭に祈りを唱えた。


従者は言う。


「この娘達は疫病で死んだので、村に騒ぎを起したくないから、内緒にしてくれ」


前任の神父は命じられた通り、自分が死ぬまで黙っていた。


しかし、心の内では不審に感じていたのだろう。

密かに埋葬された人物、日時、場所を、彼は全て記録していた。

そして彼の死後、後任に就いた神父が残されたそれを読み、教区監督に訴え出た事から、彼女の悪事が露見した。


捜査が極秘裏に進められる。

身も凍る様な事実が次々と判明する。


農夫の娘だけでなく、下級貴族の娘達にまで手が及び出すと、中枢部も捨て置く訳に行かなくなった。


1610年12月末日、大宮中伯、州知事、神父は、多数の兵士を率い、雪と氷に閉ざされたチェイテ城へ乗り込んだ。


捕えられたエリザベートは、辛うじて城と財産の没収は免れ、自城にて終身刑に処される事になった。


下男フィツコを始め拷問の従犯者達は、ビッシュの処刑場にて手足の指を1本づつ引抜かれ、生きたまま火炙りにされる極刑に処せられたが、バートリ家というハンガリー1の名門貴族の出を極刑に処す事は、如何に国王の権限を用いたとしても、行使出来なかったのだ。


彼女は愛用の鏡1つのみ所持を許され、厚い漆喰で塗り固められた寝室に幽閉された。

壁には水と食物を入れる為の覗き窓と、小さな明り取りが開けられているだけだった。

そして城の四方には、本来なら死刑になる筈だった人間が此処に生きてる事を示す為、絞首台が立てられた。


1日に1度だけ、覗き窓から牢番の手で、水と食物が差し入れられた。

牢番は彼女に話掛けるのを禁じられていた為、無言で差し入れる。


それから約3年半後の1614年8/21――彼女は寝室内で、栄養失調の末に亡くなった。


享年54歳……排泄物に塗れた肉体は痩せ細り、かつての美貌は見る影も無くなっていたそうだ。


死後、彼女は恐ろしい女吸血鬼として、この地の伝説となった。

彼女をモデルにして、小説が書かれたり、映画も製作された。


しかし、実像の前では、どれも軽く凌駕されてしまう。




彼女が何の為に殺戮に耽り続けたのか?

彼女で無い自分には、皆目見当が付かない。


1つ解るとすれば……


孤独に閉籠り、

退屈を持余す人間は、

碌な事をしない、


…………という事だろうか。



…今夜の話はこれでお終い。


さぁ…それでは25本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…


……有難う……



これにて本年の百物語会は終了だ。

改めて今夜までお付合い頂いた事に、礼を述べよう。

また来年の8/7迄……残った75本の蝋燭と共に、この小部屋で貴殿をお待ちして居るからね。


人の恐怖は……例えるなら『影』の様な物。

足下にぴたりと貼り付き、振り切ろうとも逃げ切れず。


見ぬように過すも、

連れ合いと諦めるも、

全ては貴殿の選択次第。


『影』を見据える勇気が出たならば……来年もまた来られるがいいだろう。


それでは、道中気を付けて、帰ってくれ給え。


いいかい?……くれぐれも……


……恐い話をした後は、絶対に後ろを振り返らないようにね…。



『ワールド・ミステリー・ツアー13 ⑥東欧篇(第3章 桐生操、著 同朋舎、刊)』より。
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異界百物語 ―第24話―

2006年08月30日 20時42分28秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。

昨夜はヨーロッパの伝承話を紹介したが、今夜は日本の伝承話を紹介しよう。


昨夜の話と負けず劣らず残酷な話なので、苦手な方は止めておいた方が良い…特に妊婦さんにはお勧め出来ない。


何処の国の伝承話にも、残酷な物が多く見受けられるが、これは実際にそういった残酷な事件が在った為だろう。


北陸地方に伝わる昔話だ――



昔、或る所に殿さんが在った。

殿さんの嫁様というのが、それはもう口では言われん程美しかったがや。

所がこの嫁様、美しいけれど、1度も笑った事が無い。

殿さんは、どうか1ぺん、可愛い嫁様の笑顔が見たい、声な聞きたいと思った。


「わしの嫁様を笑わした者には褒美を取らすぞ!」


そう言って国中にお触れを出した。


嫁様を笑わせようと、国中のおどけ者がやって来た。

おかしな話や身振りをして見せたが、それでも嫁様は笑わんがやと。


或る時、1人の孕み女が、うっかり殿さんの行列を横切った。


「無礼者、手討ちじゃ!」


殿さんは喚いた。

家来は孕み女を捕え、縄を掛けて屋敷に連れて行った。


「ごめんなして!
 ごめんなして!」


庭に引き出された孕み女は、泣いて謝った。

殿さんの横に嫁様も座って、この哀れな孕み女を見下ろしていた。


「何とぞ、腹の子の為に御慈悲を……!」


孕み女は美しい嫁様に向って、祈る様に頭を摺り寄せ頼んだ。

嫁様は冷やかな美しい顔を背けると、早く斬れと言わんばかりに殿さんを見た。


「早う斬れ!」


殿さんは家来に顎をしゃくった。


孕み女は台の上に乗せられた。

家来は泣き叫ぶ孕み女の腹を目掛け、一刀の下に斬った。

腹はざっくり裂け、中の赤子が飛び出した。


――そん時だった。


ふいに、嫁様が美しい声で笑った。

止め処も無く、喉を鳴らし、ころころ笑った。

その顔の可愛さといったら、口で言われん程やった。


「笑った!
 笑った!」


殿さんは膝を叩いて叫んだ。

3年の間、1度も笑った事の無い嫁様が、とうとう笑ったのだから、殿さんは有頂天になった。


それからというもの、殿さんは嫁様の笑顔が見たくて、どうもこうもならんようになった。

家来に命じ、道を通る孕み女を捕まえて来させては、嫁様の見ている前で、有無をも言わさず腹を断ち裂いた。

その度に嫁様は、目をじっと離さず、美しい声で高く笑ったやがと。


その内殿さんは、孕み女の腹を裂く事に取り憑かれてしもた。

そうせんでは1日も居られんようになり、狂った様に孕み女の腹を裂いた。

国中の孕み女は、殿さんが恐ろしゅうて、うかうか外へも歩けんようになった。

そこで外を歩く時は、袖無しを拵えて、お腹の大きいのを隠し、逃げるように歩いたがやと。



……殿さんも恐いが、嫁様はもっと恐ろしい。
人殺しを前に微笑んで居られるなぞ、とても人間とは思えないよ。

淡々とした調子と、あやふやな落ちから、妙にリアリティを感じられるが、もしも事実起きた話だとしたら……この地での出生数は異常に減少、後年田畑を耕す人間が居なくなって、国は寂れただろうね…。



今夜の話はこれでお終い。


…それでは24本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…


……有難う……どうか気を付けて帰ってくれ給え。


いいかい?……くれぐれも……


……後ろは絶対に振り返らないようにね…。



『日本の民話10 ―残酷の悲劇― (松谷みよ子、瀬川拓男、清水真弓、大島広志、編著 角川書店、刊)』より。
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異界百物語 ―第23話―

2006年08月29日 20時03分50秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。

今夜はあの有名な『グリム童話』から紹介しよう。


最近、『本当は残酷なグリム童話』等の書籍が刊行され、話の裏に潜む恐怖にスポットが当てられるようになったが、表に見える残酷さにばかり注目され話題にされるのは、著者の思惑に反するのではないかと自分は考えている。


グリム兄弟、特に兄の『ヤーコプ・グリム』が目指したのは、あくまでドイツに伝わる土俗話――後年、蒐集した中には、フランスの土俗話もかなり雑じってるとの指摘が有ったが――を、出来る限り伝承されているままに蒐集する事。

時に残酷な表現が目に付こうとも、氏は『有りの侭』に拘ったのだ。


正確に言うと『グリム童話』は、ただの『童話』ではない。


正しくは『ドイツの子供と家庭の為の童話』であり、ドイツの家庭で親と子供が話し合い伝えて行くようにと、兄弟が世に送り出したドイツ伝承話集だ。


しかし1812年初版が出た当時から、蒐集された話の中に残酷な物が雑じっていて怪しからんと、かなりの批判が有ったと聞く。

出版を世話した『アヒム・フォン・アルニム』は、読んだ親達から批判を受け、「どうして、こんな子供向けでない話を、『子供と家庭の為の童話集』と言うような本に入れたのか?」と、兄弟に意見したそうだ。

それに対してヤーコプ・グリムは、1813年1/28付の手紙で、こう述べたと伝わっている。


「子供は、昔から家庭の一員です。
 全体としての家庭から子供を切り離して、1つの部屋に閉じ込める様な事は、してはいけません。
 
 そもそもこれらの『子供の為のメルヘン』は、子供の為に考え出され、作り出された物でしょうか?
 
 私はそうは思いません。
 私達に啓示され、私達が受継いで来た教えや指図は、老いも若きも受容れる事が出来ます。」

「子供に酷い話を聞かせると、子供が真似て悪い事をする恐れが有ると言うなら、子供の目に目隠しをして、悪い真似をしそうな物は何も見えないように、1日中見張って居るより他無いでしょう。
 
 でも、そんな心配は要りません。
 子供の人間的なセンスが、そんな猿真似をさせる訳が有りません。」


現実世界には、暗く、辛く、恐い事が沢山転がっている。

創作世界でどんなに残酷な表現を見せても、現実有った凄惨な事件の前では色褪せてしまう。


目を覆う様な辛く恐ろしいものに、蓋をして見えないようにして…そんな育て方で、果して子供は現実の苦難に陥った時、乗り越える事が出来るだろうか?


今夜話す物語は、グリム兄弟のそんな思惑を心に置いて、聞いて頂ければ幸いに思う。



西フリースラントに在る、フラーネカーと言う町で、或る時子供達が遊んでいました。

5、6歳の男の子と女の子達でした。

その内、1人の男の子が肉屋になり、もう1人の男の子がコックになり、また別の男の子が豚になるという事になりました。

女の子は、1人がコックになり、もう1人がコックの手伝いをやる事になりました。

手伝いは、ソーセージが作れるように、豚の血を器に受ける事になりました。


さて肉屋は、打ち合せた通り、豚に寄って行き、その子を引き倒して、喉を切り開きました。

するとコックの手伝いが、血を器に受けました。


丁度その時通り掛った市の参事会員が、この酷い有様を見て、肉屋の子を、その場から市長の家へ連れて行きました。

市長は参事会員を直ぐに全員呼び集めました。


どうしたら良いか、皆で知恵を絞りましたが、良い考えは浮びませんでした。

というのは、子供が無邪気な気持ちでやった、という事が解っていたからです。


中に賢い年寄が居て、良い案を出しました。


「裁判長は、片方の手に真っ赤な林檎を持ち、もう一方の手に金貨を持ちなさい。

 それから子供を呼んで、両手を一緒に、その子の方に差し出して御覧。
 
 林檎を取ったら無罪とするが、金貨を取ったら死刑にするというのは、どうだろう。」


その通りやってみると、子供はニコニコしながら林檎を取ったので、無罪と認められ、何の罪も受けませんでした。



初版に載せられていた、この『子供達がごっこをした話』は、しかし世論に抗い切れなかったのか、第2版では残念ながら削られている。


近年議論されてる少年法にも生かせそうな、示唆に富んだ良い話だと思うのだがね。

子供は確かに純粋だが、純粋故の残酷さを持ち合わせてもいるのだから。


今夜の話はこれでお終い。


…それでは23本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…


……有難う……どうか気を付けて帰ってくれ給え。


いいかい?……くれぐれも……


……後ろは絶対に振り返らないようにね…。



『完訳 グリム童話集(ヤーコプ・グリム、ヴィルヘルム・グリム、編著 岩波文庫、刊)』より。
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異界百物語 ―第22話―

2006年08月28日 19時27分01秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。

8月最終の週に突入。

蝉時雨に夏の終りの寂寥感を感じる、今日この頃だね。


今夜お話しするのは、恐い話と言うより、悲しい話と言えるだろう。

長野県の、つつじに由来する伝説だ。



信州、小県(ちいさがた)の山口村に、昔、1人の美しい娘が居た。

或る年の祭の晩の事、ふとした事から、松代の若者と知合って、行末を契った。

しかし、祭が終ってみれば松代は山また山の向うで、契り交した事も夢の中の出来事の様であった。

娘は1日の畑仕事が終って家の者が寝静まると、こっそり家を抜け出し、夜空に黒く連なる山並みを眺めては立ち尽すようになった。


「ああ、おらの体ごと、あの山の向うに投げ出してぇ…。」


娘は火照る頬を両手に挟んで、ほっと息を吐いた。


「山ぁ越えて、行きてぇ…。」


そう思い詰めると、娘はもう、居ても立ってもいられなかった。


と、その時、ちらちらと小さな火が1つ、山を越えて行くのが見えた。


「誰か……山を越えて松代に行く。
 おらだって行けねぇ筈はねぇ、行くだ…!」


娘はぐいぐいと何かに引寄せられる様に歩き出した。


その夜更け、松代の若者は、ほとほとと戸を叩く音に驚かされた。

戸を開けてみると、そこには山口の娘が立っていた。

荒々しく、息を弾ませ、目からはきらきらと強い光を弾き出して、娘が立っている。


――その夜から毎晩、娘は松代へ通うようになった。


戸を叩く音に若者がそっと戸を開ける。

すると、娘は握り締めた両手を差し出して、ぱっと開いた。


そこには、熱い搗き立ての餅が、1握りづつ載っている…。


若者が餅を取ると、娘は漸くほっとした様に、息を吐いて、部屋に上って来る。


「この餅はどうして?」


若者は熱い餅を頬張りながら尋ねた。

しかし娘は、もう1つの餅を頬張りながら、目で笑うだけで、1度も答えようとはしなかった。


或る嵐の晩だった。


今夜はまさか来ないだろうと寝入っていた若者は、戸を叩く音に目を覚ました。


――戸を開けた前には、長い髪も、着ている物も、ずっくりと濡らした娘が立っていた。


その目からは何時も以上に強い光が弾き出され、ぱっと開いた両手に握り締められていた餅は、何時も以上にずっと熱かった。


若者は、ふと、恐ろしくなった。


「お前、この頃げそげそ痩せたなぁ。
 顔も真っ蒼だし、まぁず、何かに取憑かれた様だねか。」


仲間の若者達に、そう言われた事が思い出された。


女の身で、太郎山、鏡台山、妻女山、幾つも幾つも在る山を越えて、毎夜通える筈が無ぇ。

まぁず、これは魔性のもんではねぇか。


そう思うと、若者は娘が不気味に思えて来た。

その夜、初めて若者は、差し出された餅を、口に入れなかった。


それから――若者は娘が、次第に厭わしくなって来た。

娘は冷淡になって行く若者の心が、不審でならなかった。


この山さえ無かったら…

この山さえ無かったら…!


娘は声を上げて泣きたい思いに駆られながら、尚山を越えて通い、通う日が重なる毎に、若者の娘に対する厭わしさは募って行った。


或る夜、娘はとうとう若者に、どうして餅を食べてくれないのかと問い詰めた。


「前にはあんなに、美味い美味いと食べてくんなしたのに…!」


若者は苦し気に、この頃心に思っている事を、娘に話して聞かせた。


「おら……お前は魔性のもんではないかと思うようになった。」


若者は最後に、ぼそっと言った。


娘は泣いた。

泣いて言った。


「おら、家を出る時、1握りづつ餅米掴んで出ます!
 そうして、お前の事を思いながら、餅米を握り締め、山を越え、山を越えて走って来ます!

 せば…掌の米は餅になっていますに…!

 おら、魔性のもんではねぇ!
 お前を思う心だけが、山を越えさせてくれるだけですに!
 
 信じておくんなんし…!」


けれども、若者の疑いは晴れなかった。

日に日に蒼褪め、痩せて行く自分を見ると、何時かはこの魔性の物に取殺されてしまうに違いないと思い詰めた。


そしてとうとう、娘を殺してしまおうと心に決めて、家を出た。


若者は月の光を踏んで、山道を登って行った。

娘が必ず通る太郎山から大峰の道に、『刀の刃』と呼ばれる難所が在る。

若者はそこで娘を待ち伏せようと思ったのだった。


真夜中の山道は不気味な静けさが垂れ込め、月の光は刃の様に鋭く明暗を分けて輝き、得体の知れぬ獣の叫びが時折木霊する。


「この道を女1人で走るとは……いよいよ魔性のもんと決まった!」


谷底を見下ろして……若者はぞっと体を震わせた。


若者は崖に身を潜め、娘を待った。


どのくらい経ったか…小さな影が現れた。


髪を振り乱し、両手をしっかと握り締め…それは確かに、山口の娘であった。


風の様に走って来る。


若者は娘を一旦やり過ごすと、躍り出て、絶壁の上から深さも知れぬ谷底へ、娘を突落した。


哀れな娘の血が滴ったのか――


――以来、この山々には、真っ赤なツツジが咲乱れるようになったという。




執念で人は、化物に変化し。

恐怖で人は、化物を生出す。


そんな人の心中にこそ、異界の扉は存在するのかもしれない…

 
今夜の話はこれでお終い。


…それでは22本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…


……有難う……どうか気を付けて帰ってくれ給え。


いいかい?……くれぐれも……


……後ろは絶対に振り返らないようにね…。



『日本の民話10 ―残酷の悲劇― (松谷みよ子、瀬川拓男、清水真弓、大島広志、編著 角川書店、刊)』より。
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異界百物語 ―第21話―

2006年08月27日 21時38分00秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。

8月最後の日曜日、家族で遠出した人も多いだろう。

暑い中、混雑に巻き込まれて、汗をたっぷり流されたのではないかな?

そんな貴殿に、一服の清涼剤をお届けしよう。


今夜お話しするのは、小泉八雲の『破約』……脅かす訳じゃないが、氏が著した作品中で、最も恐い話に思える。
恐がりな方は、この先、極力お聴きにならない方が良いだろう……



「私、死ぬのは厭いませぬ」と臨終の妻が言った。

「今、ただ1つだけ、気に懸かる事が有ります。
 私の代りに、何方がこの家に来られるのか、知りたいのです。」

「ねえ、お前」と、悲嘆に暮れて、夫は答えた。

「誰もお前の代り等、この家に入れはしないよ。
 私は、決して再婚等はしないから。」

こう述べた時、夫は本心から話したのであった。

死に掛けている妻を愛していたからである。

「武士の信義に懸けて?」と妻は、弱々微笑みながら尋ねた。

「武士の信義に懸けてもだよ」と夫は、蒼白くやつれた顔を撫でてやりながら答えた。

「では、貴方」と妻は言った。

「私を、お庭の中に埋めて下さいますね。

 ――宜しいでしょう?

 ――あの向うの隅に2人で植えた梅の木の傍にね。

 私、ずっと前から、この事をお願いしたかったのですけれど、また御祝言でもなさるような事が有れば、そんな近くに墓が在るのは、お嫌だろうと思ったものですから。
 所が今、私の代りに、誰もお迎えなさらないと、約束して下さいました。

 ――それで、躊躇わずに、お願い申しても良いと思うのです。

 ……私を本当に、お庭に埋めて下さいますね。

 そうすれば、時々、お声も聞かれましょうし、春になれば、花も見られましょうから。」

「お前の望み通りにしてあげよう」と夫は答えた。

「しかし、今葬いの事なんか言うのは、止そうではないか。
 全く望みが無いという程、病気が重い訳ではないのだからね。」

「いいえ、駄目」と彼女は答えた。

「この朝の内に死にます。

 ……でも、お庭に埋めて下さいますわね?」

「良いとも」と夫は言った。

「2人で植えた梅の木陰にね。

 ――そして、立派な墓を建ててあげよう。」

「それから、小さな鈴を1つ下さいません?」

「鈴だって?」

「ええ。
 小さな鈴を1つ、棺の中へ入れて頂きたいのです。

 ――巡礼が持っているような小さな鈴ですよ。

 そうして頂けます?」

「では、小さな鈴をあげよう。

 ――それから、他に何でも欲しい物が有れば。」

「他に、欲しい物は御座いません」と妻は言った。

「ねえ貴方、貴方は何時も私に、大変優しくして下さいましたわね。
 で、今、私、幸福に死ねますわ。」

こう言って、妻は目を瞑って死んだ。

――疲れた子供が寝入る様に、安らかだった。

美しい死顔で、顔には微笑が浮んでいた。

妻は、庭の中の、生前好きだった木の陰に、埋められた。

そして、小さな鈴も、一緒に埋められた。

墓の上には、家の定紋の付いた立派な墓石が建てられ、それには「慈海院梅花照影大姉」という戒名が刻まれた。

しかし、妻が死んでから1年と経たぬ内に、侍の親戚や朋輩達が、しきりに再婚を勧め出した。

「あんたはまだ若い」と彼等は言った。

「それに1人息子で、子供も無い。
 妻を持つのは、侍の義務である。
 もし子供が無くて死んだら、誰が祖先を祭ったり、供え物をしたりするのか。」

幾度もこのような忠告を受けた末、侍はとうとう再婚を納得した。

花嫁は僅か17歳だった。

庭の中の墓に、無言の内に責められる思いはしたけれど、新しい妻を、心から愛する事が出来た。


結婚してから7日目迄は、若い妻の幸福を掻き乱す様な事は、何も起らなかったが、その日の夜、夫は城中に出仕せねばならぬ最初の晩の事、彼女は言い様の無い不安な気持ちになって、理由は解らないけれど、何となく恐ろしかった。

床に就いても、眠られなかった。

辺りの空気が妙に重苦しく、嵐の前に時折有る様な、何とも名状し難い重苦しさが漂っていた。

丑の刻の時分に、外の闇の中に、チリンチリンという鈴の音――巡礼の鈴の音が、聞えて来た。

それで花嫁は、こんな時刻に、武家屋敷を、何の巡礼が通るのかと、訝しく思った。

やがて、暫く途絶えた後、鈴はずっと近くで響いた。

明らかに巡礼は、家に近付いて来ているのであった。

――それにしても、どうして道も無い裏手から来るのであろうか。

……突然、犬が何時もと違った恐ろしい声で、鳴いたり吠えたりした。

そして花嫁は、夢の恐さに似た様な、恐ろしい気持ちに襲われた。

……その鈴の音は、確かに庭の中だった。

……花嫁は召使を起そうと思って、立ち上ろうとした。

しかし、起上がれなかった。

――身動きも出来なければ、声も出なかった。

……そして鈴の音は、段々近く、更にずっと近くなって来た。

――そして、ああ、その犬の吠え方といったら!

……やがて、忍び込む影の様に、1人の女が――どの戸も堅く閉ざされ、どの襖も動かないのに――1人の女が、経帷子を纏い、巡礼の鈴を持って、すっと部屋の中に、入って来た。

入って来た女には、目が無かった。

――死んでから、余程になるからである。

それに、乱れた髪の毛は、顔の辺りに降掛っていた。

そして、この女は、乱れた髪の間から、目も無いのに眺め、舌も無いのに物を言った。

「この家の中に、

 ――この家の中に居てはならぬ。

 此処では、まだ私が主婦なのだ。
 出て行っておくれ。
 だが、出て行く訳は、誰にも話してはならぬ。
 もしあの人に話したら、そなたを八つ裂きにしてしまうぞ!」

そう言って、幽霊は消えた。

花嫁は恐ろしさのあまり、気を失ってしまった。

そして、明け方迄、花嫁はそのままになっていた。


にも拘らず、麗かな日の光の中では、花嫁は自分が見たり聞いたりした事が、果して事実だったかどうか疑った。

それでも、戒められた事の記憶は、尚重く心に圧し掛かっていたので、幻の事は、夫にもその他の誰にも、思い切って話せなかった。

しかし、自分では、ただ嫌な夢を見て、その為に気持ちが悪くなったのだと、どうにか納得出来るようになった。

しかしながら、次の晩には、最早疑う事は出来なかった。

またもや丑の刻になると、犬が吠えたり、鳴いたりし始め、またしても鈴が鳴り響き、ゆっくりと庭の方から近付いて来た。

――またもや、これを聞き付けた花嫁は起上がって、声を立てようとしたが、駄目だった。

今度も、死人が部屋に入って来て、シュウシュウいう掠れ声で言った。

「出て行っておくれ。
 だが、何故出て行かねばならんか、誰にも話してはならぬ。
 たとい、そっとあの人に話しても、そなたを八つ裂きにしてしまうぞ!」

今度は、幽霊は、寝床の直ぐ傍までやって来て屈み込み、ぶつぶつ言って、顰め顔をした……

明くる朝、侍が城から帰ると、若い妻は、夫の前にひれ伏して嘆願した。

「お願いで御座います」と妻は言った。

「こんな事を申上げるのは、恩知らずで失礼で御座いますが、里に帰りとう御座います。
 直ぐに、里に帰りたいと存じます。」

「此処で、何か面白くない事でも有るのか」と、夫は心から驚いて尋ねた。

「わしの留守の間に、誰か辛く当りでもしたのか。」

「そんな事は御座いません――」と彼女は、啜り泣きながら答えた。

「こちらでは、何方も、この上無く優しくして下さいました。

 ……でも、このまま、貴方の妻になっては居られません。

 ――お別れせねばなりません……」

「お前」と、夫は酷く驚いて叫んだ。

「この家の内で、お前が面白くないという、何かの謂れが有るのは、真に心苦しい。
 だが、何故お前が出て行きたがるのか、想像さえ出来ないのだ。

 ――誰もお前に、辛く当りもしないのに。

 まさか、離縁して貰いたい、と言うのではないだろうね。」

若妻は身を震わせて、泣きながら答えた。

「離縁して下さらなければ、命が無くなります。」

夫は、暫くの間黙っていた。

――どうしてこんな思いもかけぬ事を言い出したのだろうかと、その訳を思い浮かべてみようとしたが、解らなかった。

そこで、何の感情も顔に出さずに答えた。

「お前の方に、何の落度も無いのに、今親元へ帰しては、誠に不都合な仕打ちの様に思われる。
 お前のそうした願いのしかとした訳――わしがその事を立派に弁明出来る様な理由を、話してくれるなら、離縁状も書けようが、しかし、お前の方に理由が無ければ――はっきりとした理由が無いのでは、離縁する訳には行かぬ。

 ――家の家名が、傷付けられないようにせねばならんからね。」

そこで、若妻は、話さねばならぬという気持ちになった。

そして、何もかも打ち明け、恐ろしさのあまり、こう付け加えて言った。

「貴方にお知らせした以上、あの人は私を殺します。

 ――きっと、私を殺します……」

勇敢な男で、幽霊等殆ど信ずる気になれなかったが、侍は、一時は酷く驚いた。

けれども、この事柄を簡単で自然に解決する方策が、直ぐ心に浮んで来た。

「ねえ、お前」と夫は言った。

「お前は今、大層神経が高ぶっているが、誰かに、つまらぬ話を聞かされたんだろう。
 ただ、この家で、悪い夢を見たからと言うだけで、離縁する訳には行かぬ。
 だが、わしの留守中に、そんな風に苦しめられていたのは、本当に気の毒だった。

 今晩もまた、わしは城に詰めていなければならんが、お前1人にしてはおかないよ。
 家来2人に言い付けて、お前の部屋を張り番させよう。
 そうすれば、お前も安心して眠れるだろう。
 2人とも立派な人だから、出来るだけ気を付けてくれるよ。」

こうして、夫がひどく思い遣り深く、優しく言ってくれたので、新妻は恐がったのを恥しく思い、家に留まる事に決めた。


若い妻を任されて、家に留まった2人の家来は、勇敢で誠実な大男で、女や子供達の保護者として、経験の有る者達だった。

2人は、花嫁の気を引き立てようと思って、面白い話をして聞かせた。

花嫁は、長い間彼等と話したり、陽気な冗談に笑ったりして、恐い事等、殆ど忘れてしまった。

とうとう花嫁が横になって眠りに就くと、2人の武士は、その部屋の片隅の、屏風の後ろに座を占めて、碁を打ち始めた。

そして話も、花嫁の邪魔にならぬように、小声でした。

花嫁は幼児の様に眠った。

しかし、丑の刻になると、花嫁はまたもや、恐ろしさに呻き声を立てながら、目を覚ました。

――鈴の音が聞えたからである。

……それはもう近くに来ていた。

そして、段々近付いて来た。

花嫁は跳ね起きて、悲鳴を上げた。

しかし、部屋の中には、何1つ動く物は無かった。

――ただ死の様な沈黙だけで、

――沈黙は広がり、

――沈黙は深まるばかりだった。

――花嫁は武士の所へ飛んで行った。

彼等は碁盤の前に坐っていた。

――身動きもしないで、互いに、じっと目を据えて、見詰め合っていた。

花嫁は、大声で2人に呼掛けた。

2人を揺す振った。

が、彼等は凍り付いた様に動かなかった。


後で、2人の語る所によると、彼等は鈴の音を聞いた。

――花嫁の叫び声も聞いた。

――彼女が自分達を揺起そうとしたした事さえも、解っていた。

――にも拘らず、彼等は身動きも出来なければ、口も聞けなかった。

その瞬間から、聞く事も、見る事も出来なくなって、妖しい眠りに取り憑かれたのであった。


明け方になって、侍が花嫁の部屋に入ってみると、消えかかった灯火の光で、若妻の首の無い死体が、血溜りの中に横たわって居るのが、目に付いた。

2人の家来は、まだ打ち掛けの碁の前に坐ったまま、眠っていた。

主人の叫び声に、2人は跳ね起き、床の上の惨たらしい光景に、呆然と目を見張った……

首は何処にも見当らなかった。

――そして、その物凄い傷から見ると、それは斬り取られたものではなくて、もぎ取られた事が判った。

血の滴りは、その部屋から縁側の角まで続き、そこの雨戸は、引き剥がされた様になっていた。

3人は血の跡を辿って庭へ出た。

――一面の草地を越え――砂場を通って――周りに菖蒲を植えた池の岸に沿って行き、

――杉や竹の陰気な木陰の下へ出た。

そして、角を曲ると、ふいに、蝙蝠の様な声を立てる魔物と、面と向ってまともにぶつかった。

埋めて久しくなる女の姿で、墓の前に突っ立ち、

――一方の手には鈴を掴み、もう一方の手には、血の滴る首を掴んでいた。

……ほんの、暫くの間、3人は痺れた様に立ち竦んだ。

やがて、家来の1人が、念仏を唱えながら、刀を引き抜き、その姿目掛けて斬り付けた。

忽ち、それは地上に崩れ落ち、

――ぼろぼろの経帷子と骨と髪の毛との、空しい破片となった。

――そして、その残骸の中から、鈴が鳴りながら転がり出た。

しかし、肉の無い骨ばかりの右手は、手首から斬り落されながら、尚ものたうち、その指はまだ、血の滴る首を掴んで、黄色い蟹の鋏が落ちた果物を掴んで離さぬ様に、引き毟り、ずたずたにしていた……


「これは酷い話だ」と私は、この話をしてくれた友人に言った。

「その死人の復讐は、

 ――いやしくも復讐するのなら――男に向ってやるべきだったと思います。」

「男達は、そう考えるのですが」と彼は答えた。

「しかし、それは女の考え方ではありません……」

友人の言う事は、正しかった。



…最後の氏と友人との会話が、妙な説得力を持って響きく。

そういえば四谷怪談のお岩さんも、女の方から祟り殺していたね。

「前妻が死んでる旦那の元には、三回忌を過ぎるまでは嫁に行かぬ方が良い」と、私の田舎でも実しやかに話されていた。

旦那の居る前では化けて出ようとしない辺り、前妻の女心が透けて見えるようだね。

自分の醜い姿を、愛する人には見せたくなかったのだろう。

約束は安易にするものではない…そういう教訓を含んでいる様にも思えるね。

余談だがこの話を元にして、楳図かずお氏が『おみっちゃんが今夜もやってくる』と言う恐怖漫画を描いている。


今夜の話はこれでお終い。


…それでは21本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…


……有難う……どうか気を付けて帰ってくれ給え。


いいかい?……くれぐれも……


……後ろは絶対に振り返らないようにね…。


『怪談・奇談(小泉八雲、著 田中三千稔、訳 角川文庫、刊)』より。
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異界百物語 ―第20話―

2006年08月26日 20時59分30秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。

此処数日、関東では通り雨が続いているね。

秋の気配を空に感じる今日この頃だよ。


さて今夜お話しするのは、怪奇事件とはいえど、心霊関わりではない。

時代はパリ万博が開かれた頃――



1889年5月、エッフェル塔が建設された年の事だ。
世界万国博が開催されたパリには、世界中から大勢の見物客が集まって来て、大変活気付いていた。

そんな或る日、1人の裕福なイギリス女性とその娘が、インドからの船でマルセイユに着き、マルセイユから汽車でパリに向った。

2人はパリの駅からタクシーで、ホテル・○○○ンに乗り付けた。

しかし急に思い立った旅行だったので、彼女達は前もってホテルの部屋を予約していなかった。

折悪しく、万国博見物に世界中から集まった客達で、パリのホテルは何処も客室が無かった。

2人がタクシーで乗り付けたホテル・○○○ンも、3階に1人部屋が1室空いてるだけである。

2人は困り果てたが、「1人部屋でも、兎に角泊れるだけ幸いだ」と考え、泊る事にした。


2人はフロントで宿帳に記帳してから、豪華なインテリアで飾られた342号室に案内された。

赤ビロードのカーテン、淡い薔薇色の壁紙、ゴブラン織のソファ、マホガニーのテーブル等、全てが一流ホテルの名に恥じない、豪奢な造りだった。

如何に1人部屋でも、これならゆっくり出来そうだと、娘が一息入れた途端、母親が――


――急に気分が悪いと言って、ソファの上に崩折れた。


長旅の疲労かもしれないと思ったが、あまり酷い苦しみ方だったので、娘は母親をベッドに寝かせ、フロントに降りて支配人に至急、医者の往診をお願いしたいと言った。

娘はフランス語が話せないので、支配人は片言の英語で応対した。

それでも何とか話は通じて、間も無く医者が駆け付けた。

医者は342号室に案内されて、苦しんでいる母親を診察し、おろおろしている娘に、片言の英語で「何処からの御旅行ですか?」と尋ねた。

娘が「インドからです」と答えると、医者は支配人の耳元で、何やらフランス語でひそひそ話し始めた。

2人の暗い顔に、娘は不安でいっぱいになり、我慢出来なくなって、「先生、母の容態は如何でしょう?」と英語で医者に問い掛けた。

「決して良いとは申せませんな」と医者は片言の英語で答え、今、此処にこの病気に効く薬を持ち合せていないのだと言った。

その薬が有れば、もしかしたら母親は命を取り留めるかもしれない。

しかし何時病状が急変するやも知れず、医者の私は、病人を後に残して行く事は出来ない……。


「じゃあ私が、その薬を頂きに参りますわ!」


娘が急き込んでそう言うと、医者は自分の妻に宛てて手紙を書き出した。

娘はその手紙を持って、医者の乗って来た馬車で直ぐに出発した。


馬車の歩みは鈍く、娘は母親の病状を思うと、いてもたっても居られなかった。

一刻を争うという事態なのに、しかし御者は、そんな娘の苛立ちを思い遣ろうともしない。

漸く医者の邸に着くと、娘は馬車から飛び降り、急いで医者の妻に手紙を差し出した。

此処でもまた、苛々する程待たされた。

かなりの時間が経った後、医者の妻は奥から出て来て、薬を渡してくれた。

引っ手繰る様にして受け取ると、お礼もそこそこに娘は馬車に飛び乗る。

しかし相変らず、馬車は来た時同様、のろのろと走り続ける。


「もっと早く走って頂けませんか!
 母の病状が一刻をも争うんです!」


娘が英語で必死にそう言っても、御者は言葉が通じないらしく、一向に急ごうとはしない。

そんな訳で、それ程遠い距離でも無かったのに、往復するのに4時間も掛かってしまった。


ホテルに着くなり、馬車から飛び降りた娘は、ホテルのフロントに突進した。


「如何でしょうか!?
 母の具合は!?」


娘が息せき切って尋ねると、どういう訳か支配人は、きょとんとした顔で彼女を見た。


「お母様とは、それは一体……?」


娘は度肝を抜かれた思いで――


「あら!さっき342号室で倒れて、お医者様を呼んで頂いた母の事ですわ!
 それで私は、お医者様に言われて、薬を取りに行ったんではないですか!
 貴方だって、その場にいらしたでしょう!?」


「失礼ですが、私には何の話かさっぱり。
 お嬢さんは初めから、お1人で此処にいらっしゃいましたが……?」


娘はあまりの事に、顔から血の気が引く思いがした。


「良く思い出して下さいな!
 私は今朝早く、母と一緒に此処に来ました!
 …じゃ、宿帳を見せて下さいますか!?
 私と母の名前が記帳されている筈ですから!」


支配人は落ち着き払って宿帳を取り出し、その日の頁を開いて娘に差し出した。

娘は自分達の名前を必死に探したが、信じられない事に、母の名前は無く――


――そこには、彼女1人の名前だけが、書かれていた。


「如何です?
 お嬢様お1人の名前しか、記帳されてないで御座いましょう?」


支配人は平然と微笑した。


「………だって…だって…そんな筈は…!」


娘は狐に抓まれた様な思いで、暫くは声も無かったが、気を取り直して尚、こう言い募った。


「そんな筈は有りません!
 私は確かに母と一緒にこのホテルに着いて、宿帳にも母と一緒に記帳しましたわ!
 それから、私達は3階の342号室に案内されて……!」


娘は、思い出した様に、ハッと顔を輝かせた。


「そうだわ!その342号室に行けば判ります!
 母はそこで、確かに苦しみ、寝込んでいたんですから!」


娘の大変な剣幕に、支配人はあくまで冷静に答えた。


「342号室には数日前から、別のお客様が滞在しておられます。」

「兎に角!…連れて行って下さい!」


娘は声を荒げた。


「そこまで仰るのなら……幸い342号室のお客様は只今お留守にしていますから、特別にお部屋をお見せ致しましょう。」


娘の剣幕に気圧された支配人は、渋々とそう言って、娘を3階の342号室に連れて行った。


1歩入るなり、娘は自分の目を疑った。

さっき通された部屋の様子とは、全く異なっていたからである。


娘は呆然として、辺りをぐるりと見回した。


赤ビロードのカーテンも、淡い薔薇色の壁紙も、マホガニーのテーブルも、消えてしまっている。


無論、母の姿は、影も形も無い……


「これで御納得頂けましたか?
 失礼ながら、お嬢様は、何か思い違いをしていらっしゃるのでは…」


娘は訳も解らず、ただ涙を浮べて、途方に暮れた様子で立ち竦んでいた。


そして、藁にも縋る思いで、こう頼んだ。


「それでは…お医者様に会せて下さい!
 その方に会えば、全て解る筈だわ!」


支配人はうんざりしている様子だったが、仕方なくホテル付の医者だと言う男を、娘に引き合せた。


その男は、確かに先程母を診察した医者だった。


「覚えて居て下さいましてよね、私の事!
 ついさっき、私の母を診察して下さり、私に薬を取りに行く様、お命じになられたんですから!」


しかし医者は片言の英語で戸惑った様に、「お嬢様は、何か勘違いしていらっしゃるのでは……」と言うだけだった。


もう何が何だか解らない。

どうして良いかも解らない。

自分は何か悪い夢でも見ているのだろうか……?


追詰められた娘は、パリのイギリス大使館に行って、助けを求めた。

その足で警察にも行って、母の失踪届けを出した。

大使館でも警察でも、人々は彼女の話を聞いて心から同情してくれたが、だからといって彼女の為に何かしてくれようとはしなかった。

挙句の果ては、娘は異常者扱いされ、イギリスに強制送還されて、精神病院に入れられてしまったという……


――後年、この事件の謎は、解き明かされた。

真相は下記の通り。


その日、ホテル・○○○ンに着いたばかりの母親が、急に苦しみ出して倒れた。

そして医者が診察した結果――


――娘の母親は恐ろしい伝染病である『ペスト』に罹っている事が判明したのである。


どうやらペストの発源地として有名なインドに行った事で、感染してしまったらしい。


医者からこれを聞いたホテルの支配人は、ショックで蒼くなった。

万国博の真っ最中に、パリでペスト患者が出た事が公に知れたら、大変な事態になってしまう。

下手をすれば、パリ中のレストランやホテルが営業停止に追込まれるだろう。

そうなったらパリ市民にとって死活問題だ。


窮地に立たされたホテルの支配人は、苦肉の策を取った。


医者と相談して、偽の手紙を娘に持たせ、薬を取りにやらせた。

前もって御者には、馬を出来るだけゆっくり走らせる様命じた。

そして娘が薬を取りに行ってる間、苦しみながら息を引き取った母親の遺体を他所に移し、市当局に赴いて一部始終を報告。

市からもペストの件は秘密厳守を命じられ、ホテルの全従業員に箝口令が敷かれた。

342号室には直ちに室内装飾屋が入り、娘が居ない間に室内をガラリと変えてしまったのだ。


当時ペストの死亡率は60~90%。

かつて14世紀後半には、ヨーロッパ全人口の1/4を死に至らせたという…

…それ故根強くヨーロッパ圏を覆っていた恐怖から生み出された、悲しい事件だった。



結構な数の書籍に『実話』として載っている話なのだが、正直なところ嘘臭く思わなくもない。
あまりに話が出来過ぎてやしないかとね。
何処かの国で、試着中に日本人が攫われて売られたというデマが、以前実しやかに伝えられていたが、それと似た都市伝説ではないだろうか?

舞台となったホテル・○○○ンは、今でもパリの老舗高級ホテルとして営業中だ。
ただ切っ掛けとなる事件が起り、噂が出来上がった可能性は有るかもしれない。

何は兎も角、外国に訪れた際は気を付けた方が良い。


今夜の話はこれでお終い。


…それでは20本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…


……有難う……どうか気を付けて帰ってくれ給え。


いいかい?……くれぐれも……


……後ろは絶対に振り返らないようにね…。


『ヨークシャーの幽霊屋敷 ―イギリス世にも恐ろしいお話―(桐生操 著、PHP研究所 刊)』より。
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異界百物語 ―第19話―

2006年08月25日 20時55分39秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。

8月も後1週間程で終るねえ。

今になって、宿題を片付けるのに必死な学生さんも多いだろう。

それとも開き直って、9月から勝負する人も居るだろうか?


今夜お話しするのは、私が幼い頃に読んだ記憶の有る怪談話だ。

…ただ、生憎正式なタイトルすら思い出せない。
何処の話かも覚えていない。
覚えているのは幽霊の名前が『トーレエッペ』と言う事だけ。

したがって今回は記憶だけを頼りに話す為、地名や人名等、細部はどうしても違ったものになる。
もしもオリジナルを御存知の人が居れば、どうかこちらに正しい筋を教えて頂きたい。




3人の仕立屋が、遠くの市まで連れ立って布を買いに行った時の話だ。

朝早くから行ったお陰で、上等な布を仕入れられたのは良かったが、帰る途中で日が暮れてしまい、止むを得ず通り掛った町で、宿を取る事にした。
1階の食堂で暖かい暖炉に当り夕飯を食べ終ると、漸く寛げた心地から、誰からともなく怪談でも話そうじゃないかという事になった。

所が十も話さぬ内に、話が尽きてしまった。

場が白けるのを嫌った1人が、食器を片付けに宿の娘が来たのを幸いに、何か恐い話を知っていないかと振ってみた。
聞かれた娘は、「最近この町の教会に、幽霊が出るって噂が有るわ」と話した。
それを聞いた3人は興味を持ち、娘にもっと詳しく話すようせがんだ。

「もう何年か前からだけど、町の古い教会に、幽霊が棲み付いてしまったんだって。
 幽霊は朝から晩まで、礼拝堂の隅っこに、じーーっと座ってるらしいの。
 町の人は皆怖がって、お祈りにも行かなくなっちゃって、教会はすっかり寂れてしまったわ。」

「へぇ、それは恐い」と、1人が相槌を打った。

しかし娘は「あら、私はちっとも恐くないわ!」と、強気に言い返した。

「そんな事言って…本当は恐いんだろう?」と、もう1人がからかう。

それでも娘は「恐くない」と言い張った。

十やそこらの娘が全く幽霊に怯えず平然と澄ましてる様は、何処か3人の癇に障った。
3人は、「1つ、この娘を恐がらせてやろう」と考えた。

そこで1人が、「所で幽霊とはどんな様子だろう?1回くらい会ってみたいものだ。」と言った。

もう1人が、「どうだい君?今からその教会に行って、此処に連れて来てくれないか?」と頼んだ。

更にもう1人が、「連れて来てくれたなら、俺達3人で1着づつ、君に上等な服を仕立ててあげるよ」と持掛けた。

てっきり怯えて泣くだろうと思ったのに、娘は気丈にも微笑んでこう言った。

「良いわ!
 今から行って、連れて来たげる!
 その代り、約束ちゃんと守ってね!」

さて、宿を出て真っ暗夜道を歩いて行くと、程無く古い教会の前に着いた。
幽霊が出るという噂のお陰で、辺りに人影は無く、不気味に静まり返っていた。

古びた石の扉を開けて、奥へと進んで行く。
礼拝堂の柱の陰…幽霊はそこに確かに、独り蹲っていた。

ボロ布を纏った骨だけの体。
目玉を失い落ち窪んだ眼孔。

一目見て身の毛のよだつ姿だったが、娘はまったく恐がらずに歩み寄ると、幽霊に向いこう言った。

「あんたに会いたがってる人達が居るの。
 今から一緒に来て頂戴!」

娘の言う事を理解してるのかいないのか、幽霊はただぼんやりと蹲ってるだけだったが、娘は頓着せずに彼をおぶって外へ連れ出した。


幽霊をおぶって戻った娘を見た3人は、恐怖のあまり絶叫した。
しかし娘は気に懸けず、おぶった幽霊を椅子に降ろすと、3人に向き合うよう座らせた。

「約束通り連れて来てあげたわ。
 今お茶を淹れるから、待っててね。」

全員にお茶を淹れようと、娘が台所の奥に引込む。
残された幽霊は無言で、じーーーっと3人を見詰た。

怯えた3人が、椅子を引いて後退る。
しかし何を考えてか、幽霊が腰掛けたまま前に出る。

にじり寄って来て、また、じーーーっと3人を見詰る。
窪んだ眼孔に、真っ暗な闇が広がっていた…。

ガタガタ震えながら、また3人が後退る。
また幽霊がにじり寄って来る。

そして、じーーーっと見詰る。

更に必死で3人が後退り、離れようとする。
しかし、それでも幽霊は追って来る。

離れても、離れても、じりじりと、じりじりと…

食堂を1周し終えた頃、堪りかねた3人が、娘に叫んだ。

「もう結構!充分、幽霊と親睦を交わした!」
「後生だから早く教会に連れて帰ってくれ!」
「連れ帰ってくれたなら、また3人で1着づつ、上等な服を仕立ててやるから!」


3人の哀願を承知した娘は、再び幽霊を背中におぶり、夜道を歩いて教会に連れて帰った。
そして元居た礼拝堂の隅に降ろそうとしたが……何故か幽霊は、娘の背中から降りようとしない。
骨が露になった腕を、首にぎゅっと巻き付けて来る。

「ちょっと……早く降りてよ。
 でないと私、家に帰れないわ。」

困惑する娘の耳元で、幽霊のしわがれ声が囁いた。

「……俺に降りて欲しければ……今から言う通りにしろ。
 
 町の外れに沼が在るだろう。
 今からそこへ行って、こう、3度叫ぶんだ。

 『ペールの娘、アンナ
  トーレエッペを許すかい』

 …約束しなければ、俺は絶対に降りない。」

「……解ったわ。
 あんたの言う通りにする。
 だから早く降りて頂戴。」

娘の言葉を聞いて、幽霊は漸く背中から降りた。

「約束を果すまで、俺はこの堂に座って待っている。
 果したら此処に戻って来て、どうなったか教えろ。
 …そうしたら、お礼に、お前に良い物をやろう。」

幽霊と約束を交わした娘は、直ぐ様、言われた通りに沼へ向った。


町から外れて暫くして…暗く鬱蒼とした繁みの中、小さな沼が見付った。
真っ黒な水面には、月が半分だけ浮んで、揺れている。

水面に向い、娘は大声で、3度叫んだ。

「ペールの娘、アンナ!
 トーレエッペを許すかい!

 ペールの娘、アンナ!
 トーレエッペを許すかい!

 ペールの娘、アンナ!
 トーレエッペを許すかい!」

3度目が言い終ると同時に、水面がユラユラと波打った。
白い煙がフワフワ立ち昇り……娘の前に、美しい女の像が、姿を現した。

金色の髪が、月と星の明りに反射して、濡れ光っている。

「…トーレエッペが本当に済まないと思っているのなら、彼を許すわ。」

女は娘にそう言うと、忽ち漆黒の闇の中、溶けて行った。


教会に戻った娘は、沼で起きた一部始終を、幽霊に伝えた。
幽霊はしわがれ声を響かせ、娘にこう話した。

「…俺はあいつと、結婚の約束をしていた。
 けど、約束を破って、他の女と結婚してしまった。
 それを悲しんだあいつは、沼に身を沈めて死んじまった…」

話しながら幽霊の体が、ぐずぐずと崩れて行った。

「約束を果してくれて有難う。
 お礼に、こちらも約束通り、良い物をやるから受取ってくれ。」

崩れて溶けて行く幽霊の体が、少しづつ金色に変化して行った。

そうして幽霊が消えた跡には――沢山の金貨が山になって積まれていた。


幽霊から貰った沢山の金貨と、仕立屋から貰った6着の上等な服のお陰で、娘は一生楽しく暮したそうだ。




…話を聞いた当時、「どうしてこの幽霊は、自分で謝りに行こうとしないのか?」と考えたものだ。
「謝罪は面と向ってするものだろう」とね。

もう1つの疑問は、「娘の親は一体何処で何をしているのか?」という事だ。
幼い娘が独りで宿を切り盛りしてるというのは、少し不自然さを感じなくもない。

とは言え、この恐い物知らずな女の子には好感が持てる。
持ち前の勇敢さで富を手に入れる筋は痛快で、気に入ったからこそ覚えていたのだろう。

 
今夜の話はこれでお終い。


…それでは19本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…


……有難う……どうか気を付けて帰ってくれ給え。


いいかい?……くれぐれも……


……後ろは絶対に振り返らないようにね…。




※09年11/22追記…或る方から情報を寄せて頂き、原典発見。
スウェーデンの昔話でタイトルは「幽霊を背負う娘」、幽霊の名前は正しくは「トーレ・イエッテ」。
筋は大体同じでも、多く違う箇所が有る事が判明しましたが、折角書いたので娘の名前を修正した以外は、このままにさせて頂きます。(汗)

(原典はこちら→http://hukumusume.com/douwa/betu/world/01/10.htm)
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異界百物語 ―第18話―

2006年08月24日 22時58分55秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。

すっかり遅くなってしまったね。

今夜は前置きも少なく参るとしようか。


今夜紹介するのは、小泉八雲の『常識』という話だ。



昔、京都に近い愛宕山の上に、黙想と経典の研究とに余念の無い、学識の深い和尚が在った。

この和尚が住まっている小さな寺は、どの村からも遠く離れていて、こんな淋しい所では、日常の生活に必要な物でも、人手を借りないでは、中々手に入れる事は出来なかったろう。

が、幾人もの信心深い村の人達が、毎月決まって、米や野菜等の食べ物を持って来て、和尚の暮しを助けてくれた。

このような善良な人達の中に、時折、この山へ獲物を探しに来る1人の猟師が居た。

或る日の事、この猟師が、1袋の米を持って寺に来た時、和尚は彼に向ってこう言った。


「ねえ、1つあんたに話が有るのだが、この前お目に掛かってから、此処に不思議な事が起りましてな。
 何でまた、わしみたような不束者の面前で、こんな事が起ったのか、しかと合点が行かんのだが、あんたも知っての通り、わしは幾年もの間、毎日黙想に耽り、お経を唱えて来ました。
 それで、今度わしに授かった事も、その様なお勤めで得た功徳のお陰かも知れんが、これは確かでない。

 しかし、普賢菩薩が象に召されて、夜な夜なこの寺へお見えになるのは、紛れも無い事です。

 ……あんた、今晩わしの所へお泊りなさい。
 そうすれば、仏様が拝めますぞ。」


「そんな尊い御姿が拝めますとは、まったく有難い事で御座います」と、猟師は答えて言った。


「喜んで泊めて頂き、御一緒に拝みましょう。」


それで、猟師は寺に泊った。

しかし、和尚がお勤めをしている間に、猟師は、今夜現れると言われた奇跡の事を考えて、そんな事が有り得るだろうかと、疑い始めた。

そして、考えれば考える程、不審の念は募るばかりだった。

この寺に小僧が居た。

そこで、猟師は折を見て、この少年に尋ねてみた。

「和尚さんのお話じゃ」と猟師は言った。


「何でも、普賢菩薩様が毎晩、この寺へ見えるそうだが、あんたも拝みなすったか。」


「ええ、もう6ぺんも、普賢菩薩様を恭しく拝みました」と小僧は答えた。

猟師は、小僧の誠実さを些かも疑わなかったけれど、この言葉は、却って彼の疑念を増すばかりだった。

しかしながら、小僧が見た物なら何にせよ、多分自分にも見られるだろうと思い返して、約束の御姿の現れる時刻を一心に待った。


真夜中少し前に、和尚は、普賢菩薩のお出ましを迎える用意をする刻限だと告げた。

小さな堂の戸は開け放され、和尚は東の方を向いて、入口の敷居にひれ伏した。

小僧はその左手に座り、そして猟師は、恭しく坊さんの後ろに座を占めた。

9月20日の夜だった。

――侘しい、暗い、そして酷く風の強い夜だった。

3人は、長い事、普賢菩薩のお出ましを待っていた。

すると漸く、白い1点の光が、星の様に東の方に現れた。

そしてこの光は、ずんずん近付いて来た。

――近付くにつれて、次第に大きくなり、山の斜面一面を、明るく照らした。

やがて、その光は、或る姿――6本の牙の有る雪の様に白い象に召された、清らかな御姿となった。

そして次の瞬間には、象は光り輝く菩薩を乗せて、寺の前に着き、此処で月光の山の様に、不思議にも物凄く聳え立った。

すると、和尚と小僧とはひれ伏したまま、普賢菩薩に向って、一心不乱に念仏を唱え出した。

所が、猟師は弓を手にして、突然2人の後ろに立ち上り、その弓をいっぱいに引き絞って、光り輝く菩薩目掛けて、ひゅっとばかり長い矢を放った。

すると、その矢は、菩薩の胸深く、羽根の所まで突き刺さった。

と、忽ちの内に、雷鳴の様な轟きと共に、白い光は消え去り、御姿は見えなくなった。

そして寺の前には、ただ風の吹き捲る暗闇が在るばかりだった。


「ああ情けない奴だ!」と和尚は、不面目と絶望の涙を浮べながら叫んだ。


「この見下げ果てた無法者!
 何をしたのだ――何をしでかしたのだ?」


けれども猟師は、和尚の非難を受けながらも、別に悔いたり怒ったりする様子も無かった。

やがて彼は、ごく穏やかにこう言い出した。


「和尚様、どうか御気を静めて、私の申す事を御聞き下さい。
 
 貴方様は、長い間、何時も変らず黙想に耽り、お経を読んで来られた功徳で、普賢菩薩が拝まれると、お考えになりました。
 ですが、もしそうでしたら、仏様は、貴方様にだけ拝まれる筈で、私は元より、小僧さんにも拝まれる訳は御座いません。

 私は無学な猟師で、殺生が家業です。

 所で、物の命を取る事は、仏様の忌まれる所です。
 それで、どうして、私等に普賢菩薩が拝めましょう?
 仏様は、私共の周りの何処にでも御出でなさるが、無学で至らない故、私共には拝まれないのだと、承っております。

 貴方様は、清らかなお暮しをなされている、学問の有る坊さんで居られますので、実際、仏様を拝まれるような悟りも、開かれましょう。
 ですが、暮しの為に生物を殺しているような者に、どうして仏様を拝む力が御座いましょう?
 所が、私もこの小僧さんも、貴方様が拝まれた物を、すっかり見る事が出来たので御座います。
 
 そこで、和尚様、今きっぱり申上げさして頂きますが、貴方様の御覧なされたのは、普賢菩薩ではなくて、貴方様を瞞そうとし、

 ――ことによると殺そうとした、化物に相違御座いません。

 どうか夜が明けるまで、心を落ち着けて下さいませ。
 そうしましたら、私の申上げた事が間違いで無い証拠を、お目に掛けましょう。」


日の出に、猟師と和尚とは、御姿が立っていた場所を調べて、血の薄い跡を見付けた。

その跡を辿って、数百歩離れた窪地まで行くと、そこに、猟師の矢に射抜かれた大きな狸の死骸が有った。


和尚は学問の有る信心深い人だったが、狸に易々と瞞されたのだった。

所が、猟師は無学で不信心な男だったが、しっかりした常識を持っていた。

そして、この生来の才知だけで、危ない迷妄を見抜くと共に、それを打ち壊す事が出来たのである。



此の世には、現代科学では解明する事の出来ない現象が、確かに存在するだろう。

人それを『不可思議現象』と呼ぶ。


しかし忘れてはいけない。


滅多に起きないからこそ、『不可思議現象』なのだという事を。


『オカルト』を利用して、人の足を掬おうとする輩が、此の世には沢山居る。

曰く、「信ずる者は、足掬われる」。

お互い……そうならない様、用心しようじゃないか。
 

今夜の話はこれでお終い。


…それでは18本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…


……有難う……夜も更けた事だし、何時もにも増して、気を付けて帰ってくれ給え。


いいかい?……くれぐれも……


……後ろは絶対に振り返らないようにね…。



『怪談・奇談(小泉八雲、著 田中三千稔、訳 角川文庫、刊)』より。
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異界百物語 ―第17話―

2006年08月23日 21時58分50秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。

毎日呪文の様に「暑い」と呟いていないかい?

そんな貴殿の背筋を涼しくさせる様な話を、今夜もお聞かせしよう。


イギリスで妙にリアリティの有る伝説として、残されているものが有る。



12世紀の初め頃、ウルフ・ピット近くで、妖精の子供達を発見したという話が、『中世年代記』の中に記されているそうだ。


付近に住む農家の人達が、或る洞窟の入口で、驚いた様子でおどおどしながら座っている2人を見付けた。

男の子と女の子で、普通の人間と同じ大きさと姿をしていたが、2人とも頭から爪先まですっかり薄い緑色をしていた。

誰にも子供達の話す言葉は解らなかったし、子供達にも人々が話し掛ける言葉は解らなかったようだ。


そこで人々は2人の子供を、ワイクスに城の在る、サー・リチャード・ド・カーンと言う騎士の所へ連れて行った。

2人はとてもお腹が空いている様子だったが、パンにも肉にも手を触れず、激しく泣くばかりだった。

そこへ偶然城の中に、そら豆が大量に運び込まれた。

それを目にした子供達が欲しがってる様に思えたので、皮を剥いて中の豆を見せてやると、夢中でそれを食べ出した。


2人の内男の子は、悲しそうで弱々しく…暫く経った後、やつれて死んでしまった。


だが女の子の方は、人間の食べ物を食べるようになり、現地のアングロ・ノーマン語で話す事を習い、段々と皮膚の緑色も薄くなって、普通の人と同様に見えるまでになった。

女の子は洗礼を受け、成人すると結婚して家庭に落ち着いた。


落ち着いた所で、人々はどうやって彼女がこちらの国にやって来たか尋ねた。

彼女も自分の国について、色々と話した。


その話によると、彼等の住んでいた国は、『聖マーチンの国』と呼ばれ、人々は皆キリスト教信者なのだという。

その国には太陽や月は無いが、何時も夜明け前の薄明かりの様な、仄明るい光に包まれていたという。

その国全体と、そこに住んでいる生物も人間も、皆緑色をしているという。


或る日、女の子と男の子が家畜の群れを追っていた時、洞窟の入口まで来ると、素晴しい鐘の音が遠くから聞えて来た。

2人は初めて聞くその音色に誘われて、洞窟内を歩いて行く内、角を曲った所で突然太陽の光をいっぱいに受けた。

その眩しい光と急に吹いて来た風にぼう…っとなり、気を失って地面に倒れてしまった。


その後、2人の元に大きな声が届き、驚いて目を覚ました。

2人は逃げようとしたが、眩しい光の為に道が見えず、うろうろしている間に捕まってしまったという事であった。


初めの内はとても恐がったが、女の子は直ぐに人間達が親切である事に気付き、終いには自分の奇妙なやり方で、人間の生活の中に落ち着いたと伝えられている。



…実に不思議な話と言えよう。

もしこの2人がキリスト教信者の国から来たとしたら、それはこちらで言う所の妖精には当らなく感じるのだが。

しかし女の子の話を聞くと…どうにも私達とは違う世界から来たとしか思えない。

果して『聖マーチンの国』なんて場所が実在するのか?


リアリティ有る記録として残されているのが、奇妙に感じられてならない。

貴殿はこの話を、真実有った事と思えるだろうか…?


今夜の話はこれでお終い。


…それでは17本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…


……有難う……どうか今夜も気を付けて帰ってくれ給え。


いいかい?……くれぐれも……


……後ろは絶対に振り返らないようにね…。



『妖精Who,s Who(キャサリン・ブリッグズ、著 井村君江、訳 筑摩書房、刊)』より。
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異界百物語 ―第16話―

2006年08月22日 21時01分18秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。

8月も終盤だね。

私事だが、この週末に近所で大きな夏祭りが催される予定でね。

7月からこっち、町中至る所で踊りの練習が行われている。

威勢の良い祭囃子は、聴いてるだけでも楽しくなるもの。


今夜は愉快な悪戯好き妖精のお話を聞かせよう。

妖精の名前は『ヘッドリー・コウ』…ボギー・ビーストと呼ばれる種類で、イギリスのヘッドリー村に出没した事から、そう呼ばれているそうだ。



ヘッドリー村近くに、或る小さな貧しい老婆が住んでいた。

この老婆はひもじくなったり寒くなったりすると、近所の人達の走り使いとか、人の嫌がる仕事を代りにやっては生計を立てていて、貧しいながらも何時も明るく楽しく、毎日を歌って過していた。


或る午後の事、近所の人の為に買物を済ませた老婆は、すたすたと帰りを急いでいた。

その時、道の横の溝に、鉄のポットが落ちているのが目に入った。


「あれまぁ、こんな良い鉄のポットを、一体誰がこんな所に置いとくんだろうね。」


ポットの口に花でも挿して、花瓶代りに出来るかもしれないってのに…。


老婆は、そのポットの持主が近くに居るだろうかと思って、ぐるりと辺りを見回した。

誰も居ないのが判ると、そのポットを家に持ち帰ろうと思い、持上げてみたが、とても重かった。

蓋を取って中を覗いてみる。


――なんと口元までいっぱいに、金貨が入っていた!


「わぁ、たまげた!
 こんな運の良い事なんて、滅多に私にゃ起きないね!
 だけどこれは本当だわ。
 まったく私は運が良いね。
 これを家に持って帰りゃ、これから一生、女王様みたいに暮せるよ。」


鉄のポットは重くて持上らないので、取っ手の所にショールを結び、引き摺って道を歩いた。

歩きながら、このお金でどんな贅沢をしようかと、老婆はうきうきした気分で考えていた。


暫くして息が切れたので、老婆は立止って休んだ。

気持ちを奮い立たせる為に、身を屈めて宝物を眺める。


――そして、目を疑った。


鉄のポットや蓋、中身の金貨も、皆消えてしまい、その代りに大きな銀の棒が輝いていたのだった。


「銀だよ!
 まぁ、金よりも銀の方が安全かもしれないね。
 もし私が金貨を使っているのが解って御覧。
 御近所の連中は目を白黒させちまうよ。
 泥棒には四六時中うろうろされちまうだろうし…嫌だ嫌だ。
 そうさ、銀の棒を持ち帰って、シリングや6ペンスの小銭に換えといた方が、いざという時に具合が良いよ。」


老婆はショールを銀の棒に巻付けると、それを引き摺って歩き続けた。


段々銀の棒が上手い具合に引っ張れなくなって来たので、老婆は後ろを振り向いて見た。


――と、そこに有ったのは、大きくギザギザして錆びた鉄の塊だった。


驚いた老婆は、身を屈めて触ってみた。


「おやまぁ!
 おかしいね、私の目がどうかしてたんだろうか?
 確かにピカピカ眩しく光ってた銀だと思ったのに…錆びた鉄の塊だったって訳かい?
 まぁでもこの方がずっと良いよ…何より安全さ。」


老婆はこう独り言を呟いた。


「銀を買ったなんて誰かに見付けられて、訳を訊ねられたりしたら、困っちまうからね。
 この古くて大きな鉄の塊だって、かなりの良い値で売れて、ペニー銅貨がたんまり貰えると思うね。
 そうだ、私は本当に運が良いんだ。
 これまでだって、ずっと運が良かったけどね。」


こう言うと、老婆はまたスタスタと歩き続けた。


家近くの小道まで来て、老婆が角を曲ろうとして振り向いて見ると――


――ショールの端に縛り付けて有った物が、今度は大きな滑々した石に変っていた。


「あれあれ、たまげたね!
 結局はただの石だったなんて!
 でもね、この石は丁度私が欲しかった形と大きさだよ。
 庭の門がバタンと閉まらない様、後ろの所に置くのにぴったりだ。
 本当に、まったく私は運が良いわ。」


こう言うと老婆は歩き出し、庭の門を押し開けて、運んで来た石を中に入れ、ショールの結び目を解こうとして身を屈めた。


すると突然、その石が震えて動き出したかと思うと、下から4本のひょろ長い足が出て、片方の端から長くて細い尻尾が飛び出し、もう片方の端からは頭が飛び出し、そこから長い耳を2つ生やした。

そうして、老婆の周りを踊る様に飛跳ね、騒いだ。

老婆は暫くその様子を呆然と眺めていたが、急におかしくなり、一緒になって笑い出してしまった。


「おやまぁ、こんな年んなってヘッドリー・コウに会えて、しかもこんなに思い切ったお付合いが出来たなんて。
 まったく、今日の私は運が良いよ、間違い無くね!
 本当に凄いわ、得意な気分になっちゃうよ!」


こう言うと老婆は、まるで女王様の様に誇らし気に、自分の住む小屋へと帰って行った。



…逆『わらしべ長者』と言ったところか。

私はむしろ、この老婆が空恐ろしい。

何が起きても楽観主義というのは、底が知れない分、恐ろしく感じるものだ。


今夜の話はこれでお終い。


…それでは16本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…


……有難う……それでは今夜も気を付けて帰ってくれ給え。


いいかい?……くれぐれも……


……床に就くまで後ろは絶対に振り返らないようにね…。



『妖精Who,s Who(キャサリン・ブリッグズ、著 井村君江、訳 筑摩書房、刊)』より。
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