瀬戸際の暇人

今年も偶に更新します(汗)

ミスドコレクション100

2021年08月30日 21時02分55秒 | ミスド
今月27日よりミスド秋限定ドーナツ「さつまいもド」が発売されました!!
8月だから未だ夏だろって!?――いやいや!立秋越えたら暦上はもう秋です!
ちなみに今年の十五夜は9月21日(火)ですってよ!
ミスド渾身の薩摩芋風味ドーナツ「さつまいもド」を食べなきゃ秋が越せないって人も少なくない筈!
十五夜は別名「芋名月」、お月見のお共に「さつまいもド」を頂くのも風流というもの。
マクドの月見バーガー??――あれは芋が入ってないからあきまへん!!(マクド派の方済みません)
以下、今年発売される「さつまいもド」バリエーション。↓

 
↑「さつまいもド:蜜いも(テイクアウト140円/イートイン143円)」
薩摩芋をイメージしたホクホク&しっとりドーナツにシロップを染み込ませ、まるで「蜜芋」の様な食感のドーナツに仕上げました。(←ミスド公式の紹介文を引用)
…今年初めて「さつまいもド」に仲間入りした商品。
ドーナツ生地にシロップを染み込ませる事で、蜜芋の風味に近付けています。
聞けば単純な工夫ですが、これが実に美味しかった!
薩摩芋をイメージしてホクホク感を再現したという生地は、一方で芋の如くボロボロ崩れて喉が詰まり易いのが難点だった。
それがシロップを染み込ませた事で舌触りがしっとり滑らか、喉越しも優しくなり難点が解消されたのですよ!
シロップも程良い甘さでしつこくない、これは是非来秋以降も続けて販売して頂きたい!


↑「さつまいもド:蜜いもバター風味(テイクアウト151円/イートイン154円)」
薩摩芋をイメージしたホクホク&しっとりドーナツにシロップを染み込ませ、塩バター風味フィリングを載せオーブンで焼き上げました。(←ミスド公式の紹介文を引用)
…上のシロップ染み込ませた蜜芋生地に、塩バター風味フィリングをメロンパンの如く被せて焼いたドーナツ。
これも美味しかった!
塩バター風味フィリングの甘さが若干強めだけど、隠し味の塩が甘味をマイルドにしている。
メロンパン好きなら一番にお勧めしたいドーナツです。

——これより下3品は去年に続いての販売となります。


↑「さつまいもド:紫いも(テイクアウト140円/イートイン143円)」
薩摩芋をイメージしたホクホク&しっとり食感のドーナツ生地に、紫芋風味のグレーズをコーティングして黒胡麻をトッピングしました。(←ミスド公式の紹介文を引用)
…紫芋らしい見た目がお洒落で可愛いドーナツです。
紫芋風味のグレーズがパリパリ剥がれ易いのが難点。


↑「さつまいもド:大学いも(テイクアウト140円/イートイン143円)」
薩摩芋をイメージしたホクホク&しっとり食感のドーナツ生地に、大学芋風味のソースをコーティングして黒胡麻をトッピングしました。(←ミスド公式の紹介文を引用)
…シロップを中に染み込ませるのではなく、外側にかけて仕上げたドーナツ。
「蜜いも」ドーナツ同様、しっとりしてて美味しいのですが、手がベタ付くのが玉に瑕です。


↑「さつまいもド:スイートポテト(テイクアウト151円/イートイン154円)」
薩摩芋をイメージしたホクホク&しっとり食感のドーナツ生地に、スイートポテトクリームを載せ、黒胡麻をトッピングし、オーブンで香ばしく焼き上げました。(←ミスド公式の紹介文を引用)
…スイートポテトクリームが載ってて、さながらモンブランみたいな見た目。
スイートポテトクリームの甘さは控え目、甘党ならチョコソースをプラスしても良いかもしれない。(私は御免だが、友人はそうやって何時も食べるらしい)

3品とも黒胡麻が風味・香り付けの点で、地味に良いアクセントになってます。
尚、見た目は若干悪くなるけど、「さつまいもド」は10~20秒程レンジで温めて食べると、焼き芋風味になってお勧め。
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いまだ浮上せず

2021年08月29日 16時17分14秒 | ただいまおかえり(雑記)
ワクチン接種2回目を受けた後、暫く副反応でダウンしてる間に、嘗て無いほど自ブログに大勢お客様が来られていた様でびっくりドッキリ。
結構前に『渾身の一記事』なるgooブログの企画に応募したんだけど、公式さんのトップでそれを紹介して頂いた為に、千客万来モードになってたらしい…済みません、応募した本人すっかりその事忘れてました。
一日限定とはいえ、全gooブログ中7位にランクインなんて、この先2度と無いだろう。(短ェ春だったな~)
ご紹介くださったgooブログさん有難う御座います、良い冥土の土産が出来ました。
リアクションボタン押してくださった皆様も有難う御座います。
この通り現在は更新休みがちだったもので、少し背中を押して頂いた気分になりました。
…しかし紹介して頂いてgooブログさんに文句付けるのは失礼だが、よりによってトップ頁にオタク絵貼り出してる時に紹介しなくてもな~~~と思わなくもない。(汗)
お客様の殆どは該当の過去記事のみ閲覧してバックするとは思うが、その中の数人が好奇心から画像一覧等を御覧にならない事を願おう。(汗)
そもそも「渾身の一記事」とか言って、自分の場合まともに他人様に紹介出来る記事が他に無かったという事情が…素直に最近書いた「渾身の一記事」を挙げるなら、「あにめぞん感想」のどれかになります——でも恥ずかしくて応募出来ない。
表に出たくても出れない、時代遅れの昭和アニオタは辛いぜ。

それはさて置き、新型コロナワクチン接種2回目の副反応は、聞きしに勝るしんどさでした。
夜に39度以上の高熱出るわ悪寒が走るわ体中痛むわ摂取した方の半身が麻痺したみたいに動かないわリンパ腺腫れるわ…これもうインフルエンザの症状並じゃん!!
これから接種予定の方を脅かす様で申し訳無いっすが、1回目の症状が軽い人ほど2回目は用心した方が良いと思います。
女性の方が症状重く出易いのは、やはり身体が男性より小さいからだろうな~と。
それでもワクチン接種はした方が良いと言える。
新型コロナに感染したら、諸々の症状に加え、呼吸困難になる程の咳が待っていると思えば…現段階でワクチン接種の他に対策無いんだから仕方ない。
自分の免疫力だけでデルタ株に立ち向かうのはきっついぞ~。
勿論、来年承認予定の国産ワクチンに期待する向きも居られるだろう。
私も接種3回目の必要有なら、次は国産ワクチンを希望したい。(汗)
けどそれよりワクチン1回も接種出来ない国の人達を優先して欲しい、でないと本当のところ常に変異し続けるコロナウイルスの脅威から逃れる事なんて無理じゃないかと。

写真は最近の猛暑日に見掛けた、簾の陰に避難してる野良猫。
野良猫も裸足で逃げ出す日本の酷暑の風景。(元から野良猫は裸足であるが)

明日はミスドの新作紹介記事、そして今月末には何とか「あにめぞん」記事を更新したい!
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最近、デジタルお絵描きにはまってます、その4

2021年08月11日 21時15分23秒 | 漫画&アニメ
まだまだ続くデジタルお絵描きシリーズ。
デジタルだと画材買う必要無いのが良いね!
それとスマホ使ってだから、勤務日でも休憩時間中にささっと描ける(塗れる)のが良い。
デメリットはスマホ使用する場合、大判イラストっつか、凝った絵は描き難い点かな…上手い人ならそんなデメリットも感じさせず仕上げちゃうんだろうけど。
取り敢えずクリィミーマミは後3枚描いて、感想ページの絵と取っ替える積もりです。
正直見るに耐えないんで…。(この絵も納得いく出来とは言えないっすが――マミの衣装違ってるし――けど以前のよりはマシなんで;)
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東京五輪の閉会式観てます。

2021年08月08日 21時32分10秒 | ただいまおかえり(雑記)
今回の五輪開催の件で、色々ご意見有るでしょうが、私は観戦出来た事嬉しく思いました。
連日のゴタゴタの中で粛々と準備を進め、実行した方々全てを労いたい。
選手の方々もお疲れ様!!…日本選手の頑張りが無けりゃ、批判はもっと強まったろう。
暗いニュースが続く中で、久し振りに明るい気持ちになりました。

続いてパラリンピック有るけど、オリンピックはお終いという事で、ラムちゃんからお別れの挨拶です。(アナログ絵に見えるでしょうが、デジタルです)
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最近、デジタルお絵描きにはまってます、その3

2021年08月07日 19時32分42秒 | 漫画&アニメ
今夜は旧七夕…田舎では今も8月7日に七夕やります。
そういうわけで七夕をモチーフにラムちゃん描いてみた。
実は元案は数年前に友人に出した年賀状だったり。(汗)
当時、友人の一人から「正月より七夕のイメージだね」と言われまして、ふとそれを思い出し、今回七夕絵に焼き直してみたのです。
改めて描いたら、成る程、七夕にも転用可能だ。(笑)
上は牽牛座なのですが、スペース足りず切れました。(汗)

早く世界が平和になりますように、星に願いましょう。
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桜橋~神田川を下る旅~その22

2021年08月03日 23時54分14秒 | 旅の覚書
前回「桜橋~神田川を下る旅~その21」に引き続き、今回は上流から数えて140番目の美倉橋~143番目の柳橋までの区間を採り上げたいと思います。
尚、撮影日は一年前の2020年3月末頃です。
夏まで引っ張って来た春の桜の記事も今回で最終回!…何とか秋が来るまでに終わらせられた~!(汗)

源流から数えて140番目の橋…「美倉橋」
昔この付近に三つの倉が在った為、「三倉橋」と呼ばれていたのが、転じて「美倉橋」に変わったとか。
現在、名前の由来である三つの倉をイメージした公衆トイレが、この橋の上流側袂に建っています。
更に橋の三方の袂に児童遊園が造られており、周辺は明るく開放的な雰囲気です。
上流側のガス管はユリカモメ達にとっての「止まり木」、晴れた日など大抵数十羽留まってる光景を目にします。
しかし2020年春に訪れた際はまるで夏みたいな陽気で、直射日光が強過ぎたせいか一羽も見掛けませんでした。
その為、別の日に再度撮影しに行ったのです。
 

 
↑同じ美倉橋上より上流側を向いた風景なのに、ガス管にユリカモメが留まってるのと留まってない写真が混じってるのは、そういう理由です。

↑美倉橋上より下流側を向いた風景…一筋の小川が流れを集めて下って行く内に、こんなに大きく育ちました!

☆美倉橋~左衛門橋間に在る立ち寄りスポット…「清水扇稲荷神社
迂回路として選んだ柳原通りの途中、角に隠れる様に建っていました。

千代田区観光サイトの記事によると、祭神は宇賀霊尊——日本神話に登場する「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」ですな。
古来は穀物神として祀られ、中世以降は福の神、お稲荷さんに呼び方が変わり、農民や町民・商人から広く信仰を集めた神様です。
元は相模国鎌倉の「扇か谷
」に社殿を構えていたのが、応仁二年戌子(1466年)の八月の大洪水で社殿が破損した為、武州豊嶋郡清水村の「太郎兵衛」所有の地内に仮遷座する事になったらしい。
以降この神祠は「清水扇稲荷大明神」の名で呼ばれる様になったとか。
現在の真新しい社殿を見る限り、比較的近年にリニューアルしたと思われます。

 
源流から数えて141番目の橋…「左衛門橋」
橋名は江戸時代に荷揚げの河岸として知られた「左衛門河岸」が由来だそう。
美倉橋と同じく橋の両袂には樹木が植えられ、特に下流側は児童向けの遊具を設置した小公園が設けられています。
美倉橋とこの左衛門橋までは両岸とも千代田区、これより先の下流に架かる橋は台東区と中央区の境に架かります。
上流側と下流側、同じ橋の上なのに、観える景色がガラリと違ってて興味深い。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、左衛門橋上より上流側を向いた風景…この写真だと違いが解り難いでしょうが(汗)、
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、左衛門橋上より下流側を向いた風景…上流側に一つも無い屋形船が、この橋の下流側より道路を埋める車の如く係留されてるという。
上流側は船が係留されていないのは、千代田区の条例で禁止されている為だとか。
つまり左衛門橋の上流側までは千代田区管轄で、下流側から先は中央区、或いは台東区の管轄ではないかと。
橋の下流側に在った案内看板によると、江戸時代この付近には関東郡代の役宅が建てられてたらしい。

「江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した、関東郡代の役宅が在った場所です。
 関東郡代は、天正十八(1590)年、徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の次男忠治が、寛永十九(1642)年に関東諸代官の統括などを命じられた事により事実上始まるとされます。
 元禄年間(1688~1704年)には『関東郡代』と言う名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。
 その役宅は、初め江戸城の常盤橋門内に在りましたが、明暦の大火(1657年)による焼失後、この地に移り、『馬喰町郡代屋敷』と称されました。
 寛政四(1792)年に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねる事となり、この地に居住しました。
 文化三(1806)年に関東郡代制が廃止され、更に屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、『馬喰町御用屋敷』と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く『郡代屋敷』と呼んでいました。」(←現地案内書きより)

…世襲制の高級官僚とは時代劇なら悪役間違い無の配役(笑)、現に途中で罪を罰され失脚してるし。
つっても失脚した伊奈忠尊さんを検索してみたら、仕事しない無能ではなく、「在任中に関東水害の対策や江戸打毀し騒動を収拾、窮民救済、米穀払底対策に敏腕を振るい、心学の普及などで活躍」した有能な方だったもよう。
しかし「養子忠善の出奔による家事不行届その他の理由で罷免」されたそうな…己の罪ではなく、お家のゴタゴタ&養子の罪の責を背負って辞めさせられたとは気の毒な。(涙)
この機会に名前と墓の場所覚えといて、機会が有ったら墓参りにでも行こう。 


源流から数えて142番目の橋…「浅草橋」
都営地下鉄&JR総武線の駅名に使われてる事情から、橋名の知名度は非常に高いと思われ。
名前の由来は江戸城「浅草御門」に由来するそう…上流側に設けられた台東区立「浅草橋公園」には、「江戸城浅草見附跡」が在ります。
側に立ってた案内看板によると、浅草観音への道筋に当たる事から「浅草御門」が築かれ、警護役が詰めてた場所は「浅草見附」と呼ばれたそうです。
寛永十三(1636)年、ここに初めて橋が架けられた時は、浅草御門前に在った事から「浅草御門橋」と呼ばれてたそう。
その名前が時を経てく内に縮められて、「浅草橋」に変わったらしい。
…「江戸城浅草見附跡」は寄るのを忘れ、写真を撮り損なったのですが(汗)、同じく上流側に在る江戸城所縁スポット、「出土した江戸時代の石垣石」は観て来ました。

☆浅草橋側の立ち寄りスポット…「出土した江戸時代の石垣石」
上流から下った場合、柳原通りを歩いて行き、浅草橋に到る前の開智日本橋学園中学・高等学校前に、案内書きと共に置かれています。

「この石が出土した場所は、ここから西へ約50~60m先へ行った所になります。
 そこは、江戸時代を通じて神田川に沿った『柳原土手』と言う土手でした。
 神田川は江戸城の防御の為の堀の役割も果たし、浅草橋の南側には、江戸城の最も北東を護る浅草橋御門と呼ばれる城門が在り、この一帯は江戸城内でも重要な位置に当たります。
 この石は、平成19年12月から平成20年5月にかけて行われた発掘調査において、地下1m程で発見されました。
 伊豆半島辺りから運ばれて来た安山岩質の石です。
 こうした石が6段前後、高さ3~4mに数十個積まれた状態で見付かりました。
 これは江戸城の防御を固める石垣です。
 土手の南側を補強する意味も有ったかもしれません。
 土手の形に沿って東西に長く築かれていました。
 今回の発掘調査で、初めてここに石垣が築かれていた事が判った新発見の資料で、正にこの一帯が江戸城の一角を成していた事が解る貴重な出土遺物です。
   — 開智日本橋学園中学・高等学校 —」
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、浅草橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、浅草橋上より下流側を向いた風景。
…上流側、下流側とも、屋形船が密集しています。
いつもは日が傾く頃に屋形船が出航して川面はもぬけの殻になるのですが、御存じの通り2020年初めに屋形船内で起きた新型コロナのクラスターの影響により、客がめっきり居なくなって営業停止する船が相次いだのです。
その後起きた豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号でのクラスター騒ぎと相まって、船その物に危険なイメージを世間から抱かれたのが痛かった。
真実は人が密集して換気の悪い場所が危険なんであって、船が危険な訳じゃないのにね…晴れた日に屋形船で数人、窓を開放して川辺の景色を眺めるツアーだったら、寧ろ危険は少ないだろうと思う。

浅草橋~柳橋間のみ、川沿いの遊歩道が復活します。
歩けば海から吹く潮風の匂いに川の終着を実感するでしょう。

☆浅草橋~柳橋間に在る立ち寄りスポット…「初音森神社
遊歩道から外れますが、付近のパワースポットを幾つか紹介——1カ所目は柳橋方向へ歩く途中の、両国郵便局通りに面したビルの中に在る稲荷神社です。
「馬喰町・横山町・東日本橋の鎮守、初音森神社は、元弘2(1332)年、藤原大納言師賢公が東国に配流の時、初音の森に参篭し、その草庵に稲荷大明神を勧請し白峯宮と共に奉斎したのが創祀であると云われる。
 初音之里に住んでいた源兵衛の幼児が重傷で命も危なかった時、母が初音森の神祠に七日の願をかけた。
 満願の夜、一人の女性が現れて病児に乳を与える夢を見た母が目を覚ますと、病児は女性の後を追い嬉々として声を上げ、病気は忽ち良くなったと人々が伝え聞き、願をかけて皆御利益を得た。
 そして里人の信仰するところとなり、氏神と敬われたと伝えられる。」(←神社のHPより抜粋)
 

 
↑2階外宮に鎮座するお稲荷さん…丸っこくて可愛い親子狐像ですね。(笑)

☆浅草橋~柳橋間に在る立ち寄りスポット…「篠塚稲荷神社
こちらは対岸の、柳橋篠塚通り途中の角に在る神社です。
 
「当社の創起年代は詳らかではないが、古記に『大川辺に高き丘在り篠生い茂り里人ここに稲荷神を祀る』とあれば、悠久の昔より奉斎し奉りあり。
 正平年間(室町南北朝時代の1346~1370年間)新田義貞の家臣、篠塚伊賀守重廣、主家再興の祈請をなし、来国光の刃を神前に捧げ、社傍に庵を結びて出家し、日夜参篭怠うす(参籠=祈願の為籠る事、恐らくは籠って祈願怠らずという意味かと)為に、いつしか『篠塚稲荷大明神』と尊称するに至った。
 延宝九(1681)年三月、神社別当僧たる伊賀守子孫に、醍醐寺三宝院御門跡より、『篠塚山玉蔵院宗林寺』の称号を賜り、元禄六(1693)年二月、本多紀伊守殿寺社奉行の折には、御府内古跡地と定められたが、明治初(1868)年、神佛分離の際、玉蔵院は廃せられた。
 古来より商売繁盛、火防(ひよけ)神として、厚く尊崇奉る。」(←御社側に記された社歴より)
…江戸時代、道を歩けば即突き当たるほど、数多くの稲荷神社が建っていたとの事。
明治時代にかなり御社の数を減らされたものの、ひっそりと鳥居だけが残されたり、隠れキリシタンの如く物陰に小さな御社が設けられてたり、目立たなくなっただけで信仰は土地に残されてる例が多いです。
特に商人が多い町での信仰は篤い…また本来農耕神だった由来から、水場に多く見られるんだとか。

 
源流から数えて143番目の橋…「柳橋」
神田川最下流に架かる橋——遂に辿り着きました!!
爽やかな緑色をした、独特な形状のアーチ橋です。
側に立ってた案内看板によると、関東大震災からの復興のシンボルとして架けた橋梁という事で、中央区民文化財に指定されてるそうです。

「柳橋は神田川が墨田区に流入する河口部に位置する第一橋梁です。
 その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、不便なので元禄十(1697)年に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌十一年に完成しました。
 その頃の柳橋辺りは隅田川の船遊び客の船宿が多く、『柳橋川へ蒲団をほうり込み』と川柳に見られる様な賑わい振りでした。
 明治二十(1887)年に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二(1923)年の関東大震災で落ちてしまいました。
 復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて、各々デザインを変化させる工夫をしています。
 柳橋はドイツ、ライン川の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和四(1929)年に完成しました。
 現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成三(1991)年に整備し、平成十一(1999)年に区民有形文化財に登録されています。」(←現地案内看板より)

↑案内看板と共に側に在った「復興記念碑」。
尚、橋名の由来は——
「この位置に初めて橋が架かったのは、元禄十一(1698)年の事で、『川口出口之橋』或いは近くに幕府の矢の倉が在った事から『矢の倉橋』と呼ばれていました。
 柳橋の由来については、
 1)矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、更に柳橋となる。
 2)柳原堤の末に在った事に由来する。
 3)橋の袂に柳の樹が在った事に由来する。
 この様に諸説有りますが、真説は不明です。
 明治維新後、柳橋は新橋と共に花街として東京を代表する様な場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる所であった様です。
 区では、平成三(1991)年度に、優美な形をしたこの橋を後世に伝える為、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで『かんざし』を飾り、歩道には御影石を貼って再生しました。
 また夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる『柳橋』の存在感をもたせました。
  橋梁の諸元…形式:タイド・アーチ橋 橋長:37.9m 有効幅員:11m(車道6m、歩道2.5m×2) 建設年次:昭和四(1929)年12月(復興局施行)」(←現地案内看板より)
 
「幾つかの町が整理統合され、昭和九(1934 )年に誕生した。
 旧『浅草柳橋』と言う町名の由来は、神田川の隅田川合流地点近くに『柳橋』と称する橋が在ったのに因んだ。
 柳橋の名は、江戸中期の頃から花街として人によく知られ、橋の畔には船宿が並んで賑わっていた。
 一頃は、料亭及び芸者衆も多く、隆盛を誇ったものである。」(←現地案内看板より)

↑柳橋上流側の袂に在る舟宿「小松屋」…江戸時代の雰囲気を醸した小料理屋です。
後ろの八重桜は、神田川沿いに咲く最下流の桜という事になるんではないかと。
 
↑柳橋上より上流側を向いた風景…屋根に留まるユリカモメ達が、新型コロナ流行の今、「閑古鳥」を表してる様で涙を誘います。
屋形船を経営している会社の内、クラスター発生の影響から潰れた所も在るでしょう。
新型コロナ流行さえ起きなければ、東京五輪を機に訪れた外国人客相手に商売繁盛、我が世の春を迎えていたでしょうに…収束したら政治家は屋形船で連夜どんちゃん騒ぎをして、イメージアップに努めて頂きたい。
マスコミは叩いても私が許す、田中角栄ばりにそうやって金を遣う事も、政治家や芸能人の役目だと考えてる。

↑柳橋上より下流側を向いた風景…目の前に海の如く広がるそこは隅田川。
井の頭公園より流れ出た神田川は、この隅田川と合流する事で、終着を迎えます。
写真に写る橋はかの有名な「両国橋」、渡った先の対岸には相撲で知られる「両国国技館」が在ります。

☆柳橋側の立ち寄りスポット…「両国稲荷神社」
最後に紹介するパワースポットは、両国郵便局通りの端、ビルの隙間に隠れる様に在る為、かなり見付け難いでしょう。

↑写真の通りビルの隙間の階段裏に、小さな御社が設けられてます。
付近に社記などの掲示が一切無い為、詳しい事は全くの不明。
ネットで検索したところ、両国稲荷神社について紹介している記事がヒットしましたので、お読み頂きたい。(→https://sanpo-nikki.com/shrine/ryougokuinarijinja/)
こちらの記事によると、昔は柳橋が架かる東日本橋エリアを、「両国」の名で呼んでいたそうで、神社名は旧町名の名残を伝えてるんだろうとの事…成る程と納得致しました。
言われてみれば今、「両国」は隅田川向うの対岸の町を指しますもんね。

☆柳橋下流側の立ち寄りスポット…「隅田川テラス
隅田川の堤防を補強する護岸基礎を親水施設として開放した場所で、約28㎞区間に渡り続くテラスです。
こちらも春は桜の花見の名所として知られてます。
 
↑テラスへの出入口は階段…直接対岸に渡れない点が若干不便ですが、だからって歩道橋造ったら川の景観悪くなるから、諦めて回り道するしかないね。
 
↑展望の良さは御覧の通り、東京スカイツリーに両国橋、対岸の首都高速道を眺めます。
夜は街の照明が瞬いて綺麗でしょうねぇ。
テラスを暫く歩けば、隅田川遊覧船が発着する「東京水辺ライン発着場」に着きます。
以前乗船した際の記事を上げていますので、宜しければ御覧ください。
ついでにスカイツリーに訪れた際の記事も併せてどうぞ。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、隅田川テラスより両国橋を望んだもの。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、隅田川テラスより柳橋を望んだもの。
 
↑隅田川テラスより、隅田川・総武線鉄橋・スカイツリーを望んだもの。
川下り終盤の道連れ総武線とは、ここでお別れです。

↑隅田川テラスに係留されてた警視庁巡視船。
付近に在る東京湾岸警察署隅田川水上派出所の船らしい。
川を使って逃げる犯人をこの船で追うんだろうか?…想像したら格好良い。
 


↑人が近付いても動じない、ふてぶてしい面構えのユリカモメ。
しかし隅田川にプカプカ浮かぶ姿は可愛かった。

…これにて2020年、神田川を下る旅のレポ、無事終了~!
ここまでお読み頂いた方、お疲れ様&有難う御座いましたー!!
尚、しつこい性質なんで、来年春も川下り記事を上げる予定——次は神田川支流の1本、妙正寺川だ!!

【完】
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桜橋~神田川を下る旅~その21

2021年08月02日 00時40分16秒 | 旅の覚書
前回「桜橋~神田川を下る旅~その20」に引き続き、今回は上流から数えて136番目の昌平橋~139番目の和泉橋までの区間を採り上げたいと思います。
尚、撮影日は主に一年前の2020年3月末頃です(一部、今年撮影した写真も含みます;)。
で、前回「今回で終わり」とか言いましたが…済みません、後もう1回続けさせて頂きます。(汗)

 

 
源流から数えて136番目の橋…「昌平橋」
「昌平橋は、江戸城外堀(現在の神田川)に架かる橋の一つで、1624~1644年(寛永年間)に架けられたと伝えられています。
 橋際から駿河台に登ると一口(いもあらい)稲荷(現在の太田姫稲荷神社)が在り、一口(いもあらい)橋とも呼ばれました。
 他にも、相生橋と言う呼称も有りました。
 その後、1691(元禄4)年に湯島に孔子廟が設けられてからは、孔子誕生地の昌平郷に因んで『昌平(しょうへい)橋』と呼ばれるようになりました。
 少し下流に在った筋違(すじかい)門と共に、中山道・日光御成道(おなりみち)の主要道路として利用されており、橋の南側は『八つ小路(やつこうじ)』と呼ばれる広場として賑わいました。」

「御成道とは、徳川将軍が参詣等で通る道筋の事を言います。
 江戸時代、この場所には江戸城外郭門の一つ『筋違門』が在り、上野寛永寺の将軍家墓所への参詣と、日光東照宮への社参の際に、将軍は江戸城大手門から出て神田橋門を通り、この門を抜けて上野に向かいました。
 『筋違門』の名は、日本橋から出発して、本郷・板橋に向かう中山道と御成道が筋違に交差していた為です。
 門内には火除けの広小路が在り、八つの口に通じていた為、俗に『八つ小路』と呼ばれていました。」
                  ↑昌平橋側に立ってた案内看板より。

…現在の橋名は、前回紹介した聖橋の袂に建つ湯島聖堂内の孔子廟が由来になってるのですね。
重厚で精巧なデザインの親柱は、古くから主要道に架かる橋として利用されて来た歴史を暗示しています。
外堀通りと旧中山道が交わるこの場所は現在も交通の要、車両だけでなく複数の鉄道がこの橋の周囲を行き交います。
 


↑昌平橋上より上流側を向いた風景…中央線と総武線が——聖橋の方へ目を向けると地下鉄丸ノ内線が走る風景…コアな鉄道ファンになると、3本同時に写真に収める為、時刻表を元にシャッターチャンスを狙うのだそう。
鉄道ファンじゃない自分は、あっさり諦め、別々に収めました。

↑昌平橋上より下流側を向いた風景…右側の建物は旧万世橋駅の遺構。
 
↑下流側左岸に在る駐車場付近は、ユリカモメの休憩所になってました。(渡り鳥なんで、季節によっては観られない風景です)
…海に近付いてるのを実感する光景です。

↑昌平橋から次の万世橋まで、高架橋下に飲食店が続いており、食欲が刺激されます。
古い煉瓦造りがお洒落ですが、この造りは単なるデザインではなく、嘗ての旧駅の歴史に関わっています。
その話は下記にて——

 
源流から数えて137番目の橋…「万世橋」
これまた時代がかった重厚な親柱、背景にはそんな古式ゆかしい親柱のデザインにそぐわぬ近代的な秋葉原のメインストリート——最新のオタク文化を世界に発信するこの場所で、嘗て中央線の神田~御茶ノ水間に在った「萬世橋駅」の遺構が発見されました。
 
↑万世橋上より上流側を向いた風景…左側の煉瓦造りの古い建物が、嘗て中央線の神田~御茶ノ水間に在った、「萬世橋駅」の遺構です。
明治45(1912)年に開業し昭和18(1943)年に休業となった旧駅のホームや階段が、現万世橋付近の高架橋の中に一部発見されたのを機に、旧万世橋駅の遺構を「交通博物館」として再生したのです。

☆万世橋側の立ち寄りスポット…「旧万世橋駅(&マーチエキュート神田万世橋)」
施設の見所は、旧万世橋駅の開業時のホームを蘇らせた「2013プラットホーム」。
硝子で仕切られた展望カフェデッキに座り、中央線が両脇を行き交う様子を眺めれば、萬世橋駅が現代に蘇ったかの様に錯覚するでしょう。
現駅と旧駅の歴史が交差する浪漫溢れるスポット、SFと鉄道が好きな松本零士先生なら、作品を思い付いてくれるかもしれません。
 
…あいにく自分が訪れた日は、新型コロナ流行の影響で、交通博物館内を見学する事は叶わず、ライブラリー内の萬世橋駅周辺を再現したジオラマ模型のみ見学して来ました。
高架橋下に造られたショッピングストリート、「マーチエキュート神田万世橋」も覗いて来ましたが、こちらも新型コロナ流行の影響か、レストラン・バーが閉店してたりして、以前観た時より大分寂しい風景になってました。
閉店したフロアは無料で開放されてた為、周囲の風景を撮影するには有難かったですが。
 
↑万世橋上より下流側を向いた風景…次に架かる橋との間にはJR線鉄橋が架かります。
鉄橋を通る鉄道は、山手線、宇都宮線(東北本線)、高崎線、京浜東北線、北陸・上越・秋田・東北新幹線とバラエティー豊か、地図で線路を数えたら10線程有りました。

「明治5(1872)年に筋違見附が取り壊され、翌年にその石材を再利用して、筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋が完成した。
 この橋は、当時東京府知事の大久保忠寛が『萬世橋(よろずばし)』と命名したが、次第に『まんせいばし』という音読みが一般化した。
 更に明治29(1896)年に萬世橋東側に木橋を架けて馬車鉄道が開通する。
 明治36(1903)年に現在の位置に新しい萬世橋が架け直され、元萬世橋と名を変えた上流の眼鏡橋の方は後に撤去された。(勿体無い…)
 この新しい萬世橋は、路面電車が走るなど東京の名所となったが、大正12(1923)年の関東大震災で被災し、昭和5(1930)年に長さ26m、幅36m、石及びコンクリート混成のアーチ橋に架け替えられた。
 現在、神田川に架けられている橋の多くは、震災復興橋梁と呼ばれる大正年末から昭和初期に架けられた物で、各橋は地域性を踏まえたデザインで造られたと云う。
 トラスドアーチ橋の聖橋、鋼ラーメンゲルバー桁橋の御茶ノ水橋、ヒンジアーチ橋の和泉橋と美倉橋など、神田川に架かる震災復興橋梁は、様々な構造で造られ、親柱や欄干のデザインに特徴を見出せる。」(←万世橋側の案内看板より)

…神田川下流に架かる各橋が、それぞれ異なるデザインなのは、震災復興のシンボルとして建造されたからなのですね~。

 

 
源流から数えて138番目の橋…「神田ふれあい橋」
道の切れ込みからひっそりと続く歩行者専用橋です。
出入口を見落としがちなせいか、側の街灯に表示看板が吊り下がってる…それでも見落とす人が居そうな程、道の死角に隠れる様に在ります。
元は新幹線工事用の作業橋だったのを、新幹線開業前の1988年、一般に開放したのが始まりとか…これは新幹線東京駅乗り入れに反対していた神田地区の住人との交渉から、妥協策として導かれたらしい。
江戸町火消しの纏をモチーフにした親柱が洒落てる、実は左岸と右岸で親柱のデザインが違ってる事に、去年初めて気が付いたという。(汗)
 
↑橋の上流側は写真の通り新幹線の防音壁が築かれ風景が望めないので、PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の下流側を向いた風景のみ上げます。
右岸に見える柳森神社には、「秋葉原」の地名に纏わる神様が祀られています。

☆神田ふれあい橋側の立ち寄りスポット…「柳森神社
狭い社内に小さな境内社が肩を寄せ合う様に集合してる神社です。
明治時代の神社合祀政策に因るものかな?
 
↑「福寿神(徳川桂昌院殿)」——柳森神社内で最大の境内社、参拝時、緑色の桜(ウコン?)が咲いてて綺麗でした。

「江戸開府以来、年と共に諸制度も完備して、漸く泰平の世を迎えた五代将軍綱吉公の御代、将軍の御生母『桂昌院』様によって、江戸城内に『福寿稲荷』と称して創建された。
 桂昌院様は京都堀川の生まれ、八百屋の娘が春日局に見込まれて、三代将軍家光公の側室となり、五代将軍綱吉公の御生母となる。
 大奥の御女中衆は、他を抜いて(たぬき)玉の輿に乗った院の幸運にあやかりたいと挙って御狸様を崇拝したと云う。
 後世、元倉前甚内橋際、向柳原の御旗本、瓦林邸内に祠を移し祭祀される様になり、明治二年現在の柳森神社に合祀されました。
 開運、諸願成就の福寿神として、殊に近年は他を抜いて受験、勝運、出世運、金運向上等に御利益が有ると信奉されております。
 尚、当社において頒与する『おたぬきさん』と呼ばれる土製の親子狸の御守りは、素朴で、大変愛されております。」(←案内看板より)

↑後方、少し離れた所に建つ「おたぬきさん」の小社。
…なかなか可愛いじゃないか「おたぬきさん」!こんな愛嬌有る御守りなら、確かに人気を呼ぶだろう。

↑他に、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮を総本宮とする、海運業者や商人から信仰を集めた「金刀比羅神社」や、

↑広島県宮島厳島神社と神奈川県江の島の江島神社と所縁が在るかもしれない「水神厳島大明神・江島大明神」や、

↑江戸時代に火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰を集めた「秋葉大神」を祀る小社が建っています。
説明の必要無いでしょうが、こちらの「秋葉大神」様こそ、「秋葉原」の地名の由来になった神様です。

↑更に商人からの信仰を集めた明徳稲荷神社、

↑同じくお稲荷様が祀られてる幸神社も建っています。

↑更に更に境内の一角には、丸くて大き目な謎の石が、ゴロゴロ積まれていました。
案内看板によると、これらは「力石群」と呼ばれる、千代田区指定文化財だそうです。
「江戸時代には、若者達の間で、重量の有る石を持ち上げて力自慢を競う事が流行しました。
 明治時代の中頃から次第に衰退しましたが、大正時代になると再び盛り上がりを見せます。
 柳森神社の境内に在る力石の一群は、当時の力士で大関として名を上げた『神田川徳蔵』こと飯田徳蔵と、その一派が生前使った石の一部で、彼らの業績を記念し後世に伝える為に集められた物です。」
 
↑更に更に更に、境内の出入口側には、富士講所縁の石碑群も保存されてました。
こちらも同じく千代田区指定文化財だとの事。
「5つの石碑群は、柳森神社周辺に存在した富士講の名残を今日に伝える物です。
 富士講とは、富士山信仰を元に成立した民間信仰の一種で、江戸時代、特に町民や農民の間で流行しました。
 柳森神社は、1680(延宝8)年に駿河富士宮浅間神社から分祀した富士浅間神社を合殿・合祀した経緯から、富士講と深い関わりを持つ場所でした。
 『東都歳事記』には、天保年間(1830~1844年)頃の『富士参(富士浅間神社への参詣)』の例として柳森神社の事が採り上げられています。
 1930(昭和5)年には、境内に富士塚と呼ばれる、富士の溶岩石を積み上げて富士山に模した塚も築かれましたが、1960(昭和35)年に取り壊され現存していません。
 石碑群の銘文には、富士塚が築かれた時期に近い、大正や昭和の文字が在り、この頃に富士講を再興させようという動きが有った事が解ります。」
 
↑手水舎には浅間神社の札(?)が貼ってありました。
…総合するに、江戸時代のパワースポットを纏めてお祀りしたのが、「柳森神社」という事らしい。
そんな江戸庶民からの信仰を集めた神様達の御社に居付いてるのが、PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真のデブ猫——撮影出来なかったけど2018、2019年にも見掛けたので、本格的に居付いてるもよう。
休憩中のサラリーマンから餌を貰い可愛がられてるせいか、丸々と肥えていました。
「おたぬきさん」に因み、「おねこさん」とお呼びしよう。


源流から数えて139番目の橋…「和泉橋」
橋の上を昭和通りが走る大きな橋、昭和通りの上には首都高速が走っています。
今回紹介した昌平橋から和泉橋までは、両岸とも千代田区に架かります。

↑和泉橋上より上流側を向いた風景…写真、右岸には防災用の船着き場が整備されています。
ユリカモメが羽を休めてる光景をよく見掛けるのですが、残念ながら訪れた日は一羽も居ませんでした。
目線を奥に移すと、先に紹介した神田ふれあい橋と鉄道橋——タイミング良く東北新幹線が通過して行きました。
 
↑橋の下流側へ向かうには、歩道橋を使います。
 

 


↑歩道橋上から撮った橋の写真…高速道の振動が常に歩道橋を揺らすので、結構スリル有ります。
 
↑和泉橋下流側に植えられた桜(河津桜?)と、和泉橋上より下流側を向いた風景。
次の橋までは結構距離有るのを感じますね~。
おまけに下流域に入ると川に沿って歩く事が叶わず、迂回続きになるので疲れるのです。

↑…という訳で、次の美倉橋までは、「柳原通り」を歩いて向かいます。
この付近は側に立つ案内看板によると「既製服問屋街発祥の地」だそうです。

「江戸時代後期、昌平橋から浅草橋の間に在った柳原土手に沿って、古着を扱う床店(とこみせ=露店の意味)が設けられ、日本橋富沢町と共に、江戸市中の古着を扱うマーケットの一つとして知られました。
 明治維新後の1881(明治14)年、岩本町古着市場が開設され、東京の衣類産業の中心地となりました。
 日常衣類として洋服が普及し、一般の人々の需要の中心が既製服へ代わると、この地域でも既製服を扱う店舗が増加し、洋服の町へと変貌して行きました。」

「江戸時代、この界隈を流れる神田川の土手は、柳並木が在った事から『柳原土手』と呼ばれていました。
 (付近の町名の)岩本町周辺は、江戸城から見れば鬼門(東北方面)に当たります。
 柳森神社の社伝によれば、太田道灌が鬼門避けに稲荷を祀り、柳を植えたのが始まりと云われています。
 そんな柳原土手に沿った地域に最初に住んだのは、大名や旗本などの武士達でした。
 江戸時代の後半になると、商人や職人で町も栄え始めます。
 更に土手の周辺では、古着を扱う露店が集まる様になりました。
 その伝統は、明治維新後も引き継がれました。
 明治14(1881)年、現在の岩本町三丁目の一部から神田岩本町の一部にまたがる大市場が開設されます。
 『岩本町古着市場』と呼ばれたこの市場には、多い時には四百軒もの古着屋が軒を連ねていたと伝わっています。
 更に昭和に入ると、町内には4階建てのビルまで登場し、『和泉橋ダンスホール』が併設されました。
 この様に洒落て小粋な雰囲気を醸していた戦前の岩本町ですが、太平洋戦争末期には空襲によって跡形も無く焼き尽くされてしまいました。
 それでも戦後、この地は『服の町』として蘇ります。
 紳士服や婦人服の製造を手掛ける繊維メーカーが集まって来て、この町で作られた洋服が全国のデパートのショーウィンドゥを飾る様になりました。
 現在、数こそ減って来ましたが、岩本町三丁目を支え、町の礎を築いて来たのは、こうした繊維業者です。
 日本の繊維産業と共に発展して来た町、それが『岩本町三丁目』なのです。」
          ↑和泉橋下流側に立ってた案内看板より。

…何もかも跡形無く消し去る戦争は嫌だねえ…時期的に戦争に纏わる昔話は、読んでてしんみり致します。
それと柳森神社の社伝にさり気無く触れてますね。
始まりは「狸」より「狐」を主に信奉していた神社だったって事でしょうか?
現在でも柳森神社の前には柳が植えられていて趣き有ります。
古来、柳を解熱鎮痛薬として用いたのだとか…そこから鬼門封じに使われる様になったのかもしれません。

コメント
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