前回「
桜橋~神田川を下る旅~その21」に引き続き、今回は上流から数えて140番目の美倉橋~143番目の柳橋までの区間を採り上げたいと思います。
尚、撮影日は
一年前の2020年3月末頃です。
夏まで引っ張って来た春の桜の記事も今回で最終回!…何とか秋が来るまでに終わらせられた~!(汗)
源流から数えて140番目の橋…「美倉橋」↗
昔この付近に三つの倉が在った為、「三倉橋」と呼ばれていたのが、転じて「美倉橋」に変わったとか。
現在、名前の由来である三つの倉をイメージした公衆トイレが、この橋の上流側袂に建っています。
更に橋の三方の袂に児童遊園が造られており、周辺は明るく開放的な雰囲気です。
上流側のガス管はユリカモメ達にとっての「止まり木」、晴れた日など大抵数十羽留まってる光景を目にします。
しかし2020年春に訪れた際はまるで夏みたいな陽気で、直射日光が強過ぎたせいか一羽も見掛けませんでした。
その為、別の日に再度撮影しに行ったのです。
↑同じ美倉橋上より上流側を向いた風景なのに、ガス管にユリカモメが留まってるのと留まってない写真が混じってるのは、そういう理由です。
↑美倉橋上より下流側を向いた風景…一筋の小川が流れを集めて下って行く内に、こんなに大きく育ちました!
☆美倉橋~左衛門橋間に在る立ち寄りスポット…「
清水扇稲荷神社」
迂回路として選んだ柳原通りの途中、角に隠れる様に建っていました。
千代田区観光サイトの記事によると、祭神は宇賀霊尊——日本神話に登場する「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」ですな。
古来は穀物神として祀られ、中世以降は福の神、お稲荷さんに呼び方が変わり、農民や町民・商人から広く信仰を集めた神様です。
元は相模国鎌倉の「扇か谷
」に社殿を構えていたのが、応仁二年戌子(1466年)の八月の大洪水で社殿が破損した為、武州豊嶋郡清水村の「太郎兵衛」所有の地内に仮遷座する事になったらしい。
以降この神祠は「清水扇稲荷大明神」の名で呼ばれる様になったとか。
現在の真新しい社殿を見る限り、比較的近年にリニューアルしたと思われます。
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源流から数えて141番目の橋…「左衛門橋」
橋名は江戸時代に荷揚げの河岸として知られた「左衛門河岸」が由来だそう。
美倉橋と同じく橋の両袂には樹木が植えられ、特に下流側は児童向けの遊具を設置した小公園が設けられています。
美倉橋とこの左衛門橋までは両岸とも千代田区、これより先の下流に架かる橋は台東区と中央区の境に架かります。
上流側と下流側、同じ橋の上なのに、観える景色がガラリと違ってて興味深い。
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、左衛門橋上より上流側を向いた風景…この写真だと違いが解り難いでしょうが(汗)、
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、左衛門橋上より下流側を向いた風景…上流側に一つも無い屋形船が、この橋の下流側より道路を埋める車の如く係留されてるという。
上流側は船が係留されていないのは、千代田区の条例で禁止されている為だとか。
つまり左衛門橋の上流側までは千代田区管轄で、下流側から先は中央区、或いは台東区の管轄ではないかと。
橋の下流側に在った案内看板によると、江戸時代この付近には関東郡代の役宅が建てられてたらしい。
「江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した、関東郡代の役宅が在った場所です。
関東郡代は、天正十八(1590)年、徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の次男忠治が、寛永十九(1642)年に関東諸代官の統括などを命じられた事により事実上始まるとされます。
元禄年間(1688~1704年)には『関東郡代』と言う名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。
その役宅は、初め江戸城の常盤橋門内に在りましたが、明暦の大火(1657年)による焼失後、この地に移り、『馬喰町郡代屋敷』と称されました。
寛政四(1792)年に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねる事となり、この地に居住しました。
文化三(1806)年に関東郡代制が廃止され、更に屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、『馬喰町御用屋敷』と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く『郡代屋敷』と呼んでいました。」(←現地案内書きより)
…世襲制の高級官僚とは時代劇なら悪役間違い無の配役(笑)、現に途中で罪を罰され失脚してるし。
つっても失脚した伊奈忠尊さんを検索してみたら、仕事しない無能ではなく、「在任中に関東水害の対策や江戸打毀し騒動を収拾、窮民救済、米穀払底対策に敏腕を振るい、心学の普及などで活躍」した有能な方だったもよう。
しかし「養子忠善の出奔による家事不行届その他の理由で罷免」されたそうな…己の罪ではなく、お家のゴタゴタ&養子の罪の責を背負って辞めさせられたとは気の毒な。(涙)
この機会に名前と墓の場所覚えといて、機会が有ったら墓参りにでも行こう。
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源流から数えて142番目の橋…「浅草橋」
都営地下鉄&JR総武線の駅名に使われてる事情から、橋名の知名度は非常に高いと思われ。
名前の由来は江戸城「浅草御門」に由来するそう…上流側に設けられた台東区立「浅草橋公園」には、「江戸城浅草見附跡」が在ります。
側に立ってた案内看板によると、浅草観音への道筋に当たる事から「浅草御門」が築かれ、警護役が詰めてた場所は「浅草見附」と呼ばれたそうです。
寛永十三(1636)年、ここに初めて橋が架けられた時は、浅草御門前に在った事から「浅草御門橋」と呼ばれてたそう。
その名前が時を経てく内に縮められて、「浅草橋」に変わったらしい。
…「江戸城浅草見附跡」は寄るのを忘れ、写真を撮り損なったのですが(汗)、同じく上流側に在る江戸城所縁スポット、「出土した江戸時代の石垣石」は観て来ました。
☆浅草橋側の立ち寄りスポット…「出土した江戸時代の石垣石」
上流から下った場合、柳原通りを歩いて行き、浅草橋に到る前の開智日本橋学園中学・高等学校前に、案内書きと共に置かれています。
「この石が出土した場所は、ここから西へ約50~60m先へ行った所になります。
そこは、江戸時代を通じて神田川に沿った『柳原土手』と言う土手でした。
神田川は江戸城の防御の為の堀の役割も果たし、浅草橋の南側には、江戸城の最も北東を護る浅草橋御門と呼ばれる城門が在り、この一帯は江戸城内でも重要な位置に当たります。
この石は、平成19年12月から平成20年5月にかけて行われた発掘調査において、地下1m程で発見されました。
伊豆半島辺りから運ばれて来た安山岩質の石です。
こうした石が6段前後、高さ3~4mに数十個積まれた状態で見付かりました。
これは江戸城の防御を固める石垣です。
土手の南側を補強する意味も有ったかもしれません。
土手の形に沿って東西に長く築かれていました。
今回の発掘調査で、初めてここに石垣が築かれていた事が判った新発見の資料で、正にこの一帯が江戸城の一角を成していた事が解る貴重な出土遺物です。
— 開智日本橋学園中学・高等学校 —」
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、浅草橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、浅草橋上より下流側を向いた風景。
…上流側、下流側とも、屋形船が密集しています。
いつもは日が傾く頃に屋形船が出航して川面はもぬけの殻になるのですが、御存じの通り2020年初めに屋形船内で起きた新型コロナのクラスターの影響により、客がめっきり居なくなって営業停止する船が相次いだのです。
その後起きた豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号でのクラスター騒ぎと相まって、船その物に危険なイメージを世間から抱かれたのが痛かった。
真実は人が密集して換気の悪い場所が危険なんであって、船が危険な訳じゃないのにね…晴れた日に屋形船で数人、窓を開放して川辺の景色を眺めるツアーだったら、寧ろ危険は少ないだろうと思う。
浅草橋~柳橋間のみ、川沿いの遊歩道が復活します。
歩けば海から吹く潮風の匂いに川の終着を実感するでしょう。
☆浅草橋~柳橋間に在る立ち寄りスポット…「
初音森神社」
遊歩道から外れますが、付近のパワースポットを幾つか紹介——1カ所目は柳橋方向へ歩く途中の、両国郵便局通りに面したビルの中に在る稲荷神社です。
「馬喰町・横山町・東日本橋の鎮守、初音森神社は、元弘2(1332)年、藤原大納言師賢公が東国に配流の時、初音の森に参篭し、その草庵に稲荷大明神を勧請し白峯宮と共に奉斎したのが創祀であると云われる。
初音之里に住んでいた源兵衛の幼児が重傷で命も危なかった時、母が初音森の神祠に七日の願をかけた。
満願の夜、一人の女性が現れて病児に乳を与える夢を見た母が目を覚ますと、病児は女性の後を追い嬉々として声を上げ、病気は忽ち良くなったと人々が伝え聞き、願をかけて皆御利益を得た。
そして里人の信仰するところとなり、氏神と敬われたと伝えられる。」(←神社のHPより抜粋)
↑2階外宮に鎮座するお稲荷さん…丸っこくて可愛い親子狐像ですね。(笑)
☆浅草橋~柳橋間に在る立ち寄りスポット…「
篠塚稲荷神社」
こちらは対岸の、柳橋篠塚通り途中の角に在る神社です。
「当社の創起年代は詳らかではないが、古記に『大川辺に高き丘在り篠生い茂り里人ここに稲荷神を祀る』とあれば、悠久の昔より奉斎し奉りあり。
正平年間(室町南北朝時代の1346~1370年間)新田義貞の家臣、篠塚伊賀守重廣、主家再興の祈請をなし、来国光の刃を神前に捧げ、社傍に庵を結びて出家し、日夜参篭怠うす(参籠=祈願の為籠る事、恐らくは籠って祈願怠らずという意味かと)為に、いつしか『篠塚稲荷大明神』と尊称するに至った。
延宝九(1681)年三月、神社別当僧たる伊賀守子孫に、醍醐寺三宝院御門跡より、『篠塚山玉蔵院宗林寺』の称号を賜り、元禄六(1693)年二月、本多紀伊守殿寺社奉行の折には、御府内古跡地と定められたが、明治初(1868)年、神佛分離の際、玉蔵院は廃せられた。
古来より商売繁盛、火防(ひよけ)神として、厚く尊崇奉る。」(←御社側に記された社歴より)
…江戸時代、道を歩けば即突き当たるほど、数多くの稲荷神社が建っていたとの事。
明治時代にかなり御社の数を減らされたものの、ひっそりと鳥居だけが残されたり、隠れキリシタンの如く物陰に小さな御社が設けられてたり、目立たなくなっただけで信仰は土地に残されてる例が多いです。
特に商人が多い町での信仰は篤い…また本来農耕神だった由来から、水場に多く見られるんだとか。
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源流から数えて143番目の橋…「柳橋」
神田川最下流に架かる橋——遂に辿り着きました!!
爽やかな緑色をした、独特な形状のアーチ橋です。
側に立ってた案内看板によると、関東大震災からの復興のシンボルとして架けた橋梁という事で、中央区民文化財に指定されてるそうです。
「柳橋は神田川が墨田区に流入する河口部に位置する第一橋梁です。
その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、不便なので元禄十(1697)年に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌十一年に完成しました。
その頃の柳橋辺りは隅田川の船遊び客の船宿が多く、『柳橋川へ蒲団をほうり込み』と川柳に見られる様な賑わい振りでした。
明治二十(1887)年に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二(1923)年の関東大震災で落ちてしまいました。
復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて、各々デザインを変化させる工夫をしています。
柳橋はドイツ、ライン川の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和四(1929)年に完成しました。
現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成三(1991)年に整備し、平成十一(1999)年に区民有形文化財に登録されています。」(←現地案内看板より)
↑案内看板と共に側に在った「復興記念碑」。
尚、橋名の由来は——
「この位置に初めて橋が架かったのは、元禄十一(1698)年の事で、『川口出口之橋』或いは近くに幕府の矢の倉が在った事から『矢の倉橋』と呼ばれていました。
柳橋の由来については、
1)矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、更に柳橋となる。
2)柳原堤の末に在った事に由来する。
3)橋の袂に柳の樹が在った事に由来する。
この様に諸説有りますが、真説は不明です。
明治維新後、柳橋は新橋と共に花街として東京を代表する様な場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる所であった様です。
区では、平成三(1991)年度に、優美な形をしたこの橋を後世に伝える為、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで『かんざし』を飾り、歩道には御影石を貼って再生しました。
また夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる『柳橋』の存在感をもたせました。
橋梁の諸元…形式:タイド・アーチ橋 橋長:37.9m 有効幅員:11m(車道6m、歩道2.5m×2) 建設年次:昭和四(1929)年12月(復興局施行)」(←現地案内看板より)
「幾つかの町が整理統合され、昭和九(1934 )年に誕生した。
旧『浅草柳橋』と言う町名の由来は、神田川の隅田川合流地点近くに『柳橋』と称する橋が在ったのに因んだ。
柳橋の名は、江戸中期の頃から花街として人によく知られ、橋の畔には船宿が並んで賑わっていた。
一頃は、料亭及び芸者衆も多く、隆盛を誇ったものである。」(←現地案内看板より)
↑柳橋上流側の袂に在る舟宿「小松屋」…江戸時代の雰囲気を醸した小料理屋です。
後ろの八重桜は、神田川沿いに咲く最下流の桜という事になるんではないかと。
↑柳橋上より上流側を向いた風景…屋根に留まるユリカモメ達が、新型コロナ流行の今、「閑古鳥」を表してる様で涙を誘います。
屋形船を経営している会社の内、クラスター発生の影響から潰れた所も在るでしょう。
新型コロナ流行さえ起きなければ、東京五輪を機に訪れた外国人客相手に商売繁盛、我が世の春を迎えていたでしょうに…収束したら政治家は屋形船で連夜どんちゃん騒ぎをして、イメージアップに努めて頂きたい。
マスコミは叩いても私が許す、田中角栄ばりにそうやって金を遣う事も、政治家や芸能人の役目だと考えてる。
↑柳橋上より下流側を向いた風景…目の前に海の如く広がるそこは隅田川。
井の頭公園より流れ出た神田川は、この隅田川と合流する事で、終着を迎えます。
写真に写る橋はかの有名な「両国橋」、渡った先の対岸には相撲で知られる「両国国技館」が在ります。
☆柳橋側の立ち寄りスポット…「両国稲荷神社」
最後に紹介するパワースポットは、両国郵便局通りの端、ビルの隙間に隠れる様に在る為、かなり見付け難いでしょう。
↑写真の通りビルの隙間の階段裏に、小さな御社が設けられてます。
付近に社記などの掲示が一切無い為、詳しい事は全くの不明。
ネットで検索したところ、両国稲荷神社について紹介している記事がヒットしましたので、お読み頂きたい。(→https://sanpo-nikki.com/shrine/ryougokuinarijinja/)
こちらの記事によると、昔は柳橋が架かる東日本橋エリアを、「両国」の名で呼んでいたそうで、神社名は旧町名の名残を伝えてるんだろうとの事…成る程と納得致しました。
言われてみれば今、「両国」は隅田川向うの対岸の町を指しますもんね。
☆柳橋下流側の立ち寄りスポット…「
隅田川テラス」
隅田川の堤防を補強する護岸基礎を親水施設として開放した場所で、約28㎞区間に渡り続くテラスです。
こちらも春は桜の花見の名所として知られてます。
↑テラスへの出入口は階段…直接対岸に渡れない点が若干不便ですが、だからって歩道橋造ったら川の景観悪くなるから、諦めて回り道するしかないね。
↑展望の良さは御覧の通り、東京スカイツリーに両国橋、対岸の首都高速道を眺めます。
夜は街の照明が瞬いて綺麗でしょうねぇ。
テラスを暫く歩けば、隅田川遊覧船が発着する「
東京水辺ライン発着場」に着きます。
以前乗船した際の記事を上げていますので、宜しければ御覧ください。
ついでに
スカイツリーに訪れた際の記事も併せてどうぞ。
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、隅田川テラスより両国橋を望んだもの。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、隅田川テラスより柳橋を望んだもの。
↑隅田川テラスより、隅田川・総武線鉄橋・スカイツリーを望んだもの。
川下り終盤の道連れ総武線とは、ここでお別れです。
↑隅田川テラスに係留されてた警視庁巡視船。
付近に在る東京湾岸警察署隅田川水上派出所の船らしい。
川を使って逃げる犯人をこの船で追うんだろうか?…想像したら格好良い。
↑人が近付いても動じない、ふてぶてしい面構えのユリカモメ。
しかし隅田川にプカプカ浮かぶ姿は可愛かった。
…これにて2020年、神田川を下る旅のレポ、無事終了~!
ここまでお読み頂いた方、お疲れ様&有難う御座いましたー!!
尚、しつこい性質なんで、来年春も川下り記事を上げる予定——次は神田川支流の1本、妙正寺川だ!!
【完】