瀬戸際の暇人

今年も偶に更新します(汗)

本日ワクチン接種1回目

2021年07月31日 23時29分30秒 | ただいまおかえり(雑記)
本日、予約したかかりつけ医の所で、新型コロナワクチンを接種して来ました。
接種後の副反応を心配してましたが、現在ばっちり出ています!!
嘔吐等、深刻な症状は出ていないのですが、倦怠感·発熱と共に接種した左腕が痺れた様に上げ難い、そのせいでトイレでGパンを上げ下げする時に困ってます。(汗)
これから接種する人、当日はノースリーブ&ミニスカ素足で過ごす事をお奨め致します。
さながら昭和のバブリー姉ちゃんの様なコーデで!!
殿方はサーファールックで臨めば良いと思うぞ!!――大丈夫!今なら五輪の応援スタイルに思われる筈!
 
写真は夏の雲と荒川都電…気分が悪い時は綺麗な風景に癒やされよう。
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最近、デジタルお絵描きにはまってます、その2

2021年07月25日 23時11分21秒 | 漫画&アニメ
まだまだ続くスマホお絵描き熱。(汗)
多分、好き作品のキャラを一周するまでは止まらない気が…小山田いく作品とか高橋留美子作品とか竹本泉作品とか尾田栄一郎作品とか、クリィミーマミとかミンキーモモとかバイファムとかマジカルエミとかママ4とかダーティペアとかパトレイバーとか……ぶっちゃけ過去に描いた見出し絵全て描き直したいとか考えてる。(汗)
どうか暫く生暖かい目で見守ってください。
 
今回、何となく「すくらっぷブック」の理美ちゃん特集になってしまった。
見出し絵は4巻「生声伝説」で、恋人の市野のお化け怖いを矯正する為、雪女の格好をした理美ちゃん。
他2枚は、5巻「フィルム奪取作戦」での市野との新婚さんごっこの一コマ(手元にコミックス無い為、格好は適当ですm(_ _)m)に、基本スタイルの理美ちゃんです。
世間は別の小山田さんの話題で持ち切りですが、自分的には「小山田」ったら(故)小山田いく先生一人です。

…しかし少しペースを落とさんと指が痛い。
このまま指で色塗り続けてたら、指紋磨り減るかも。(汗)
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桜橋~神田川を下る旅~その20

2021年07月24日 16時57分45秒 | 旅の覚書
前回「桜橋~神田川を下る旅~その19」に引き続き、今回は上流から数えて130番目の小石川橋~135番目の聖橋までの区間を採り上げたいと思います。
尚、撮影日は主に一年前の2020年3月末頃です…この始め方もそろそろ飽きたなぁ。(汗)

源流から数えて130番目の橋…「小石川橋」
橋名の由来は付近の旧地名との事、嘗ては「小石川」と呼ばれる川が流れていたそうです。
上流から数えて117番目の江戸川橋から、ずーーーっと頭上に被さってた首都高速5号池袋線と、漸くここで縁が切れます。
いや~すっっきりしたぁ~~~!!
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、小石川橋上より上流側を向いた風景…川の右側で口を開けてるのは、水道橋分水路の吐口です。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、小石川橋上より下流側を向いた風景…前の船は、千代田区・文京区・台東区の不燃ゴミを収集する船です。
船着き場が在る場所は「千代田区清掃事務所三崎町中継所」と呼ばれ、集めた不燃ゴミを「中央防波堤外側埋立処分場」へ水路を使い運ぶのだそうです。
水運を選ぶ理由は、陸からトラックで運ぶより、CO2排出量を抑えられるからとの事、エコな精神素晴らしい。
下流側の写真を見ると、右折する流れが確認出来るでしょう?…ここは神田川の分流、「日本橋川」の起点です。
神田川より分岐した日本橋川は、日本橋・江戸橋等を通過した後、永代橋付近で隅田川と合流します。
更にこの辺り、江戸時代には「小石川門」が在ったとの事で、案内看板が立ってました。(立っているのは上流側)

「小石川門跡…江戸城外郭門の一つである小石川門は、1636(寛永13)年、岡山藩(現在の岡山県)藩主、池田光政によって築造されました。
 明治維新後、枡形石垣は1872(明治5)年に取り壊され、その石材を利用して1877(明治10)年に日本橋川下流の常盤橋の石橋が建造されました。
 江戸時代の橋は門と共に架けられ、城門撤去と共に木橋が架け直されました。
 1895(明治28)年に甲武鉄道飯田町駅が近くに出来ると、橋も修繕されました。
 この橋は関東大震災で被災し、1927(昭和2)年に鋼橋に架け替えられましたが、老朽化の為2012(平成24)年に改修されました。」(←案内看板より抜粋)

…明治政府は江戸幕府に関わる建物一切合切取り壊してしまったからな~、残してれば今頃貴重な文化財になってたものを勿体無い。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真が日本橋川の起点、その後ろには総武線・中央線の鉄橋が架かってます。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、日本橋川の最初に架かる「三崎橋」を、神田川の上流向いて撮影したものです。
三崎橋と小石川橋は、上から観ると直角になるような位置に架かっています。


源流から数えて131番目の橋…「後楽橋」
旧「後楽園球場&遊園地」こと現「東京ドームシティ」前に架かる橋。
しかし橋名の由来は球場でも遊園地でもなく、前回紹介した「小石川後楽園」の方です。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、後楽橋上より上流側を向いた風景…前方見える船は、上で紹介したゴミ収集船です。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、後楽橋上より下流側を向いた風景…目の前に架かる橋は次に紹介する後楽園ブリッジ、写真で判る通り後楽橋とは極近い距離間で架かります。

 
源流から数えて132番目の橋…「後楽園ブリッジ」
東京ドームシティの施設橋で、JR「水道橋」駅西口と東京ドームシティを繋ぐ目的から架けられた物です。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、東京ドームシティに背を向け、後楽園ブリッジ上から見たJR「水道橋」駅西口。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、後楽園ブリッジ上より上流側を向いた風景…隣に架かる後楽橋の後方に見えるのは首都高速道。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、後楽園ブリッジ上より下流側を向いた風景…枝垂桜が1本だけ咲いてました。
車両も渡る後楽橋とは違い、後楽園ブリッジは歩行者専用、信号を待たずに東京ドームシティへ行けるのが有難い。
だから東京ドームを目指す歩行者の大半は、こちらの方の橋を渡ります。

☆後楽園ブリッジ~水道橋間(JR水道橋駅裏)に在る立ち寄りスポット…「三崎稲荷神社
JR「水道橋」駅東口側、駅舎の裏にひっそり佇んでる神社です。
御祭神が須佐之男神始め日本神話に登場する神々な事を考えると、かなり古くから祀られていたのでしょう。
江戸時代は「清めの稲荷」と呼ばれ、参勤交代で訪れた諸大名が、旅の安全を祈願して行き帰りに参拝したとの由来から、現在まで旅行客に信仰されてるそうです。
 
面白いなと思ったのが、PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)写真の「百度石」。
古い慣習として知られる「お百度踏み」に纏わる石なのだそう。
「古来より度重ねて祈る事により、願い事の成就を祈る信仰が在りました。
 参詣の往復の起点として参道の入口に立てられた物です。
 本来は百日間に渡り参詣するもので、『百日詣』と云われてましたが、今日では一日で百度参詣する意味に変わりました。
 その際、数を間違えないよう、予めこより箸を百用意して、祈願する度に置いてくのが一般的な参詣方法です。」(←境内の案内書きより)
百日もちんたら詣でられるか!しんどいのは一日で御免だぜ!!――そんな江戸っ子の短気な性分から、一日で百度詣でる形式に変わったに違いない。(笑)


源流から数えて133番目の橋…「水道橋」
ここまで来ると川幅がかなり広がる。
JR「水道橋」駅東口方面に架かり、橋上で白山通りと外堀通りが交差する為、車も人も往来が活発です。
凝った親柱のデザインから、特別な橋である事を察せるかと…実はこの橋の付近で、江戸時代に神田川の上に懸けられた、神田上水の水を渡す為の水道橋跡が発見されたのだそう。
「神田上水懸樋(かんだじょうすいかけひ)」と呼ばれ、木や石で造られてたとか…木製の水道橋ってのが、当時腕の良い大工が揃ってた江戸の町らしいなと感じた。
そんな水道の歴史的発見から、この橋は「水道橋」と名付けられたそうな。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、水道橋上より上流側を向いた風景…右側、水路の切れ込みと共に階段が在るの確認出来るでしょうか?
江戸時代、ここは「小石川大下水」なる下水道の出口になってたそうで、現在は災害時用の船着場として整備されてるんだとか。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、水道橋上より下流側を向いた風景…橋の欄干には神田上水懸樋のイメージ絵がデザインとして組み込まれています。
明らかにスマホで撮った写真と解りますね——済みません、今回の写真の一部は、今年の春に撮影しました。(汗)
それはさて置き、水道橋下流側下には「お茶の水分水路呑口」が在るのですが、撮影し忘れました。(汗)
ここから下流方面、川沿いに歩ける道が無くなり、川に近付いての撮影が難しくなります。

☆水道橋側の立ち寄りスポット…「お茶の水分水路の事業記念碑」と「神田上水懸樋跡の碑」

水道橋の下流側は川沿いに公園が造られていて、神田川に纏わる記念碑が2つ、点々と鎮座しています。
 
↑こちらが「お茶の水分水路の事業記念碑」、隣には神田川分水路の案内図が在ります。

↑少し坂を登った所に「神田上水懸樋跡の碑」、対岸を中央・総武線が走り、良い撮影スポットになってます。
撮影スポットと言えば、水道橋から次のお茶の水橋間は結構な登り坂で、歩く毎に見晴らしが良くなっていきます。
坂の頂上から川を見下ろしての眺めは、さながら「谷」の様です。
春は坂道に沿って桜が咲き、更なる絶景が広がります。(写真は2018、2019年の記事をご参照ください;)
上流から歩いた場合、神田川沿いに続く桜並木は、この坂道でラスト、ここが第六にして最後のお花見コースです。

☆水道橋~お茶の水橋間の立ち寄りスポット…「御茶ノ水坂」
水道橋から順天堂医院が建つ辺りまで続く坂に付けられた地名です。
 
「この神田川の外堀工事は元和年間(1615ー1626)に行われた。
 それ以前に、ここに在った高林寺(現向丘二丁目)の境内に湧き水が在り、『お茶の水』として将軍に献上した事から、『お茶の水』の地名が起こった。
 『御府内備考』によれば『御茶之水』は『聖堂の西に在り、この井名水にして御茶の水に召し上げられしと…』とある。
 この坂は神田川(仙台堀)に沿って、お茶の水の上の坂で『お茶の水坂』と言う。
 坂の下の神田川に、嘗て神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治34(1901)年に取り外された。」(←案内書きより抜粋)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、御茶ノ水坂の上より上流側を向いて撮った神田川——まるで谷を流れる川の如き眺めでしょう?

☆水道橋~お茶の水橋間の立ち寄りスポット…文京区立「元町公園
御茶ノ水坂を歩いてる途中、道路向うにイタリア・ルネサンス様式の公園が在り、気になったので寄ってみました。
 

 
HPによると、大正12年に発生した関東大震災を機に、震災からの復興のシンボルとして造られた公園の1つらしい。
都内にはこの様な震災復興公園が合わせて55箇所在るんだそうな。
 

 
訪れた頃は八重桜が満開でした。
ちなみに先に紹介した「御茶ノ水坂」についての案内看板は、この公園前に立っています。


源流から数えて134番目の橋…「お茶の水橋」
JR「御茶ノ水」駅前に架かる大きな橋です。
その後ろに堂々と構えるビルは「東京医科歯科大学医学部附属病院」…左には「順天堂大学医学部附属順天堂医院」も建っています。
この2トップ大学病院を中心に、周辺には医療関係の企業、更には学校の施設が集中しており、アカデミックな雰囲気を醸しております。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、お茶の水橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、お茶の水橋上より下流側を向いた風景…現在JR「御茶ノ水」駅が工事中につき、下流部周辺はこの有り様、美しい橋脚で知られる聖橋も望めません。
予定では来年完成予定だとか…でも元は2020年3月末に完成予定って話だったし、また延長する可能性も考えられる。(汗)

☆お茶の水橋側の立ち寄りスポット…「順天堂大学医学部附属順天堂医院
名前を聞いた事が無い人は国内で少ないだろう、有名な大学病院。
上流から歩いて来た場合、「お茶の水橋」に差し掛かる手前、先に紹介した元町公園の次に出合います。
 
広大な敷地と大きな建物に圧倒され見逃しがちですが、病院前の一角には「濟生學舎(さいせいがくしゃ)発祥の地」の碑がひっそりと在ります。(PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真)

「明治9(1876)年4月9日に、本郷元町一丁目66番地に長谷川泰(1842ー1912)によって『濟生學舎』が開校された。
 長谷川泰は佐倉順天堂2代目堂主・佐藤尚中に学び、ついで西洋医学所頭取・松本良順に学んだ。
 佐藤尚中が順天堂より大学東校(東大医学部の前身)の初代校長(大学大博士)として赴任した際、小助教として佐藤尚中を支えた。
 後に校長心得となるが、明治8年、長崎医学校校長に赴任するも、3ヵ月後に長崎医学校が廃止となり帰京した。
 佐藤尚中の座右の銘『濟生(広く民の病苦を済う』の志を継いで、医術開業試験の受験教育を目指す学徒の為に佐藤尚中の支援を受け『濟生學舎』を創設した。
 ここに全国から多数の医師志望者が集まり、その多くが隣接する順天堂で通学生となって臨床教育を受けた。
 明治12年冬、火災により濟生學舎の校舎を焼失し、この地の一角に移転。
 その後、発展した濟生學舎は明治15年に湯島四丁目8番地(現在のガーデンパレスの地)に移り、本格的な校舎を建設し、明治19年に薬学部、附属蘇門病院を付設して『東京医学専門学校』と称した。
 濟生學舎は隆盛の一途を辿ったが、明治36(1903)年8月31日、長谷川泰は廃校を告知して28年間の歴史を閉じた。
 その間、21,000人余の学生が学び、9,600人余の医師を輩出した。
 濟生學舎が我が国の近代医学黎明期の医学教育、地域医療に果たした役割は極めて大きなものであった。」

…成る程、嘗てここに在った「濟生學舎」の志の下、御茶ノ水に医学教育施設が集まった訳だ。

↑順天堂大学医学部、本郷キャンパス正面入口前の校舎、「順天堂大学10号館」。
貴族の館の様な外観だが、差し詰めここは現代の濟生學舎と言えるだろうか?

☆お茶の水橋側の立ち寄りスポット…「東京医科歯科大学医学部附属病院

御茶ノ水を代表するもう1つの大病院。
日夜新型コロナ患者の治療に追われてるとのニュースで、名前を聞いた事有る人は多いでしょう。
一方の順天堂大病院の方は、比較的最近まで、患者受け入れを断ってたらしい…当時、両医院間の温度差凄かったろうな~と想像。
ばったり昼休憩中に外で出くわした時は、大きな声で陰口言い合ってたんじゃあ?――などと下種な勘繰り。(笑)
それはさて置き、御茶ノ水と言えば、有名な老舗レストランが在る。
「元祖レイズンウィッチ」の店と言えば、昭和生まれの東京人は「ああ!」と頷く事でしょう。

☆お茶の水橋~聖橋側の立ち寄りスポット…「御茶ノ水 小川軒
お茶の水橋が架かる外堀通りより坂を登り、本郷通りを神田明神&湯島聖堂へ向かう途中に建つ、懐かしの昭和の洋食が頂ける老舗レストラン。
現在は新型コロナの影響により、1階のカフェのみ営業で、しかも日曜はお休み、平日も16時台には閉めちゃうらしいですが、営業続けています。
  

 

 
↑カジュアルな雰囲気の1階カフェ、「元祖レイズンウィッチ」はこちらで販売しとります。
カスタードプリンが懐かしい味で美味しかった。
如何にも手作り焼きプリンって感じ、焦がしカラメルの甘苦さも堪らない。
 

  

 

 
↑こちらは地下階のレストランで頂いたランチコース…本来はこちらがメインなのですが、新型コロナ流行の影響で止む無く以下略。
御爺ちゃん2人が丁寧な手仕事で作り上げる洋食といった感じ、ソースに到るまで手作りで、料理人の真心が伝わりました。
刻み玉葱入り醤油ベースのソース、とっても美味しかったです。
自分は御飯を注文したので知らないけど、パンを選んだ友人曰く、パンもドイツ風にしっかりした噛み応えで、非常に美味しかったらしい。
サラダにポタージュスープにメインのハンバーグにデザートのオレンジババロア、どれもこれもメッチャ美味しかった!!
コロナ禍が収束したらまた行きたい。
何気に食器がお洒落で、聞いたらジノリを使ってるとの事。
御茶ノ水で長らく愛されてる訳が理解出来ます。
 
↑そしてこちらが噂の「御茶ノ水小川軒レイズンウイッチ」。
洋酒に漬け込んだレイズンを、店の自慢のクリームと共に、サクサクのサブレ―クッキーで挟んだ洋菓子。
前に食べたのはアーモンドスライスが載ってなかった事が気になり、ネットで調べてみたらこんな記事がヒットしました。
代官山・目黒・御茶ノ水に在る小川軒は、実の3兄弟が各々営業しており、店独自のレイズンウイッチを製造しているらしい。
だから使う素材が違ってて、味が微妙に違うのですねー。
ちなみに鎌倉に在る小川軒は、3兄弟の遠い親戚が営業してるそうです。
 
↑こちらは以前、高島屋デパートで購入したレストラン代官山小川軒のレイズンウイッチ、アーモンドスライスが載ってないのに注目。
ちなみに六花亭のマルセイバターサンドを始め、そっくりなお菓子が全国津々浦々に在りますが、あれらはぶっちゃけパクリです。
マルセイバターサンド製造開始時の六花亭の社長曰く、「うちならもっと美味しいお菓子に作れる!!」と正々堂々豪語したとのエピソードを何処ぞで読んだ覚えが(笑)…好みは人それぞれでしょうが、私は小川軒の元祖レイズンウイッチの方が、洋酒の風味が効いてて好きです。
しかし見た目そっくりな菓子なのに、材料が少し違うだけで製造を許されるとは、特許権なんて有って無い様なものと思わなくもない。


源流から数えて135番目の橋…「聖橋」 
上流から歩いて来た場合、文京区と千代田区間に架かる橋としては、最後に当たる橋になります。
紹介し忘れてましたが(汗)、128番目の船河原橋~聖橋までは、文京区と千代田区間に架かってます。
(上流から歩いた場合)橋の左手には神田明神と湯島聖堂、右手にはニコライ堂(東京復活大聖堂)と、周辺には和中洋の宗教建築が建ち並びます。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、聖橋上より上流側を向いた風景…しかし去年春に訪れた時は、残念ながら工事により、橋からの眺めは望めませんでした。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、聖橋上より下流側を向いた風景…こちらからも辛うじて湯島聖堂の屋根が観えるのみ。(悔)
工事中でなきゃ、中央線と総武線と丸ノ内線が行き交う点で、鉄道ファン的にも絶好の撮影スポット——詳しくは2018、2019年の記事を御覧ください。(汗)
併せて、史跡「湯島聖堂」について書いた2019年に上げた記事もご覧ください。
神田川に架かる橋の中で最も美しいと謳われる、白いアーチ橋「聖橋」の外観すら、未だ完全には観た事無いんですよね~自分。
一刻も早く工事が終わる事を祈ってます。

☆聖橋側の立ち寄りスポット…「一口太田姫神社元宮」
上流から歩いて来た場合、橋の右手に一本の大樹が立ってるのが見えます。
 
JR御茶ノ水駅と地下鉄新御茶ノ水駅に挟まれた交差点の角、淡路坂の手前です。
嘗てはここに稲荷神社が建っていたとの事、現在は境内に立っていた御神木だけが跡地に残されています。
尚、現在の社は駿河台の方に移転致しました。

「一口(いもあらい)である太田姫神社は江戸城外濠(神田川)を作るにあたり伊達家と徳川家が神田山を開削した時、江戸城の結界また鬼門の護り神として旧江戸城(現皇居)よりこの地に移された。
 昭和6(1931)年、総武線開通に伴い、現在の駿河台下に移る。
 尚、鐡道(『甲武線』中央線の前身)は濠の中に在り、開通時、天皇家との間に濠幅を減じない、中で商業を営まない、環境を守るとの約束が有る。(明治期鐡道史より)
 この木は椋(むく)の樹、落葉高木、花は緑、実は濃紫」(←御神木の案内書きより)
 
室町時代、重い天然痘を患った太田道灌の娘が、京都の一口神社に祈願すると快癒したとの謂れから、病気平癒の御利益有な事で知られています。
今こそ求められる御利益!!――そんな時代の空気を読んだ様に、御神木に風邪咳封じの御守りが吊り下がってました。(笑)

☆聖橋~昌平橋側の立ち寄りスポット…「江戸総鎮守 神田明神
御存じ、今も昔も江戸庶民から絶大な人気を集める神社。
以前も訪ねたのですが、桜の名所という事で、この年も訪ねました。
 
☆神田明神側の立ち寄りスポット…甘酒屋「三河屋綾部商店
参拝前に訪ねた老舗の甘酒屋。
大鳥居を潜り抜けた先、隨神門の手前に建っています。
 
大鳥居横の「天野屋」さんの方が、時代がかってる外観から老舗っぽく見えますが、実はこちらの三河屋さんの方が古く、昔は宮内庁御用達にも選ばれた実績を持ってるんだとか。
…済みません、自分も見掛けで判断して、前回は天野屋さんの方に寄りました。(汗)
 
↑そういう反省から、今回はこちらに寄って、甘酒を頂きました。
天野屋さんも美味しかったけど、こちらの甘酒も優しい甘さで美味しいです。
サービス的には三河屋さんの方が上に感じました。
はっきり言って店の外観で損しています、何でビルにしちゃったんでしょうかね~?
テイクアウト用に、濃縮甘酒の他、酒まんじゅう等を売っていて、川下りの途中でなきゃ買いたかったです。

↓寄り道済ませた所で、神田明神に参拝…普通、参拝後に寄り道だろうに、罰当たりお許し頂きたい。(汗)
 

 
↑感染症予防対策と言う事で、柄杓は撤去されてました。
何処の神社も今は手水が使えず、場所を持て余した結果、起こったのが花手水ブームだそうで…災いを転じて福と為す良いアイディアだと思う。
 


↑御祭神は大黒様、戎様、将門様の他、銭形平次も祀られ、碑が建てられています。
寛永通宝をデザインした碑が洒落てる、隣には平次の子分の八五郎の碑も建てられてたり。
何でも御座れのノリの良さが、江戸っ子に長年愛されてる理由でしょうなぁ。

☆神田明神裏の立ち寄りスポット…「宮本公園」
神社を何度も訪ねていながら、去年初めて気が付いたのですが(汗)、神社の裏手から径続きで、公園に入れる様になってます。
普通の児童公園なのですが、一角に古民家が在って、目を惹きます。
 


↑宮本公園内、遠藤家旧店舗(→http://chiyoda.main.jp/seisiga/kobetsu/endokekt.html)
「千代田区有形文化財指定の『遠藤家旧店舗・住宅主屋』は、昭和2(1927)年に日本橋川沿いの神田区鎌倉町(現在の千代田区内神田一丁目)に材木商の遠藤達蔵氏によって建造された古民家です。
 江戸時代から引き継がれた商家の建築様式により、屋久杉や秋田杉などの銘木や良材を使い、『江戸黒』と呼ばれた黒漆喰の外壁や新しい銅板などの建築材料を取り入れて建築されました。
 昭和48(1973)年に府中市に移築・保存されていましたが、平成21(2009)年に千代田区外神田二丁目16番地先の宮本公園内に帰ってきました。」(←紹介サイトの案内文引用)

見ての通り、絵になる建物…こんな古民家が、神社裏の公園に残ってたんですね~。
また、神田明神側の看板には、旧地名の案内が記載されていました。
「旧湯島(昭和40年までの町名)…『和名抄』に、武蔵国豊島郡湯島郷とあり、また由之万(ゆしま)ともある。
 また、『北国紀行』に由井島とある。
 『文政町方書上』には、湯島の名称はむかし温泉が湧いたからとあるが、これは疑問である。
 不忍池は海であったから、湯島は島の様であった事は考えられる。
 旧湯島1丁目から6丁目までは、中山道の御堂筋として古くから開けた古町である。
 古町(こちょう)とは寛永年間(1624~1644)までに開けた町で、新年には将軍に目通り等の特典が与えられた。
 旧2丁目には湯島聖堂(現存)、隣の旧3丁目には昌平黌(昌平坂学問所)が在った。
 明治になると、師範学校、高等師範学校が置かれ、ここは近代教育の発祥の地となった。」

…歴史深い町、御茶ノ水には見所いっぱい、全て観て廻るとなると時間を取られますが、散歩するには大変楽しい場所です。

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ワンピースの日!!

2021年07月23日 00時05分01秒 | ワンピース
昨日は「ワンピースの日」だったそうで…記念イラストちょーっと間に合わんかったけど、上げさせて貰う。(汗)
そして祝!!24周年ーー!!
…いや〜私にしては珍しく男キャラ描いたね。(笑)
2年後のルフィは胸の傷を晒す様に上着はだけてるんですが、私の絵でワイルドさなんて欠片も出せる自信無いんで、敢えて上着をしっかり閉じたという。(汗)
時間が有ったら両脇にナミとロビンを侍らせ、両頬にキスマークを描きたかった…いや何となくルフィ、ハーレム似合いそうなんで。
ちなみに私が描いたこのイラスト、Googleさんにはドラゴンボールと認識されてしまいました——似てるかぁぁ!?(汗)
諸星あたる顔だなとは思ったけど…私が描く男キャラは一律「あたる」顔になる。(汗)
それはさて置き、今後も行け行けワンピース!!

↑おまけでチビナミさん。
このブログにも書いてるけど、私がワンピースに嵌まった切っ掛けは、ナミさんの過去エピが載ってる9巻を読んだ事でした。
最後、張り詰めた心からの「ルフィ…助けて…!!」のシーンは泣ける。
もう完全に「七人の侍」オマージュの、「六人の侍」でしたわ。
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最近、デジタルお絵描きにはまってます。

2021年07月18日 23時46分23秒 | 漫画&アニメ
最近スマホでお絵描きするのにはまってるのですよ。
この年になって、漸く「レイヤー」を理解しまして(笑)…そしたら沸々とオタクの血が騒いで、好きだったアニメや漫画キャラの絵を描き散らす毎日。
 
最初は買って来たタッチペン使って色塗りしてたんすが、指の方が圧倒的に塗り易い事に気付いて以来、ひたすら指で塗り塗りしてます。
そのせいでスマホ画面汚れるわ、指が痛くなるわ(汗)…でも止められない。
 
もし暫く反応無い時は、裏でお絵描きしてると思ってください。
ちなみに最後のキャラは、小山田いく先生作の漫画「すくらっぷブック」に登場する、カナちゃん。
知らない方は検索♪検索ぅ〜♪
最初は両目出してたんだけど、3巻途中より髪で片目を隠すキャラに固まりまして…初期の両目出てるバージョン好きだったのにな〜と思って描いてみた。
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ミスドコレクション99

2021年07月16日 22時27分17秒 | ミスド
この夏「氷コーヒー」に仲間が増えました!!
凍らせた珈琲に冷たいミルクを注いだ「氷コーヒー」は、ミスドで長年人気の定番ドリンク。
氷が融けてく毎に珈琲の苦味が増し、アイスコーヒーが完成するという仕組み。
時間を置いても珈琲が薄まらず、寧ろ濃くなるのがメリット、店で長時間寛ぐお客様に、お勧めのドリンクです。
初販売は1995年…当初は珈琲氷が入ったグラスに、瓶に入った牛乳を自分で注ぐというスタイルだった。(→https://www.misterdonut.jp/museum/donut/y1995.html)
飲み方としては最初のスタイルの方が趣き有ったな~、戻す気は無いのだろうか?
今は一律、台湾風パッケージだから…正直、氷コーヒーで台湾風パッケージは、イメージに合わない気がする。
でも蓋する機械導入したからには、活用したいんだろうな。
それはさて置き、今年の夏、氷コーヒーに2種類の味のバージョンが追加されました。
エスプレッソコーヒーで使用するソースを利用とは考えたなと。(笑)


↑「ダブル氷コーヒー・カフェモカ(テイクアウト486円/イートイン495円)」
氷にしたほろ苦いコーヒーが2倍に!氷コーヒーと相性の良いチョコレートソースでアレンジ、ミルクでゆっくり溶かしながらどうぞ。(←ミスドHPの説明文を引用)


↑「ダブル氷コーヒー・キャラメル(テイクアウト486円/イートイン495円)」
氷にしたほろ苦いコーヒーが2倍に!氷コーヒーと相性の良いキャラメルソースでアレンジ、ミルクでゆっくり溶かしながらどうぞ。(←ミスドHPの説明文を引用)

…どちらも珈琲の苦味・香りに負けて、ソースの味と香りがあまり感じられない…特にキャラメルの方が。
氷状の珈琲は苦味も香りも物凄く凝縮されているから、通常のソースの量では負けてしまうんだと思う。
そもそもアイスだと舌が冷たさで麻痺して味に鈍くなるから…今の倍、いや3倍ソースを入れた方が良いかもしれない。
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桜橋~神田川を下る旅~その19

2021年07月11日 18時40分54秒 | 旅の覚書
春の神田川下りもそろそろ終盤、予定通りなら今回含めて後3回で終わるでしょう。
そういうわけで、もう暫くお付き合いください。(汗)
では前回「桜橋~神田川を下る旅~その18」に引き続き、今回は上流から数えて118番目の華水橋~129番目の船河原橋までの区間を採り上げたいと思います。
尚、撮影日は一年前の2020年3月末頃です。

源流から数えて118番目の橋…「華水橋」
読みは「はなみずばし」だそうです…漢字だと綺麗なイメージなのに、平仮名だと汚く聞えるのは何故?(笑)
前の江戸川橋から上に載っかった首都高速5号池袋線は、この先130番目の小石川橋まで背後霊の如く離れません。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、華水橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、華水橋上より下流側を向いた風景。
ぶっちゃけ118番目の華水橋~128番目の隆慶橋まで、あまり変化が無い風景が続きますので、この区間はサクサク参ります。

☆華水橋~掃部橋間に在る立ち寄りスポット…目白通りローソン江戸川橋駅前店側「稲荷神社」

…って書いた側から寄り道して申し訳無い。(汗)
目白通り方面へ橋を渡った先、メトロ江戸川橋駅側に建つローソンの前に、小さな稲荷神社が在って気になったもので…元は神田川の側に建ってたものを、首都高速道を敷く時に移転させたんじゃないでしょうか?
川の側に稲荷神社は付き物、この先も頻繁に出会う事になります。


源流から数えて119番目の橋…「掃部橋」
「かもんばし」と読みます、一発で読めた人は素晴らしい。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、掃部橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、掃部橋上より下流側を向いた風景。
…そもそも何故、川の上に首都高速道を敷いたのかっつうと、用地がそこしか無かったからです。
地下に敷くとなれば費用も時間もかかる、この先東京は人口が爆発して道路の渋滞待った無、スピード第一を求められた結果、現在の風景が生まれたわけです。
よく前回東京五輪の負の遺産説が囁かれますが、それ以前から計画は在った様です。
ただ初期の計画は、現在の様な河川や公有地の上を通過するものではなかったのも事実らしい。
そろそろ首都高速道も架け替えの時期を迎えるので、今度こそ地下に埋める計画を進めるかもしれない。
日本橋も昔の姿に戻す計画が立った事だし。


源流から数えて120番目の橋…「古川橋」
華水橋~次の石切橋までは架け替え時期が同じらしく、カラーリングが白で統一されています。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、古川橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、古川橋上より下流側を向いた風景。
橋の周囲は新旧の建物が共存しており、都市再開発が進んでいるのを実感する。
両岸とも文京区なのは、この古川橋まで…次の石切橋~128番目の隆慶橋までは、文京区と新宿区の境に架かります。


源流から数えて121番目の橋…「石切橋」
江戸時代、この橋の周辺に石工達が住んでいた事から名付けられたとの事。
昔は付近で最も幅が広く大きい橋だった為に、「江戸川大橋」と呼ばれていたと、近くに立つ案内看板に書いてありました。
神田川なのに何故「江戸川」かは前回書いた通り…神田川の中流域は昭和40年位まで「江戸川」と呼ばれていたからです。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、石切橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、石切橋上より下流側を向いた風景。

↑この辺り最近になって川沿いの歩道の幅が拡がりました!
以前は歩道の幅が極狭で、道路をビュンビュン行き交う車が怖くて、歩き辛かったのです。
願わくば船河原橋まで川沿いの歩道を開通させ、道の幅を拡げてくれ。


源流から数えて122番目の橋…「西江戸川橋」
橋名の由来は、西江戸川町と牛込五軒町との間に架かっていたから…だとして牛込五軒町どこ行った??
この橋から124番目の中之橋まで、欄干が色違いでカラフル。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、西江戸川橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、西江戸川橋上より下流側を向いた風景。
首都高速道の対岸を見ると、綺麗に整備されてて、新しい街といった印象が持てます。
残った古い建物も、近日、再開発が予定されてるんだろうなと。


源流から数えて123番目の橋…「小桜橋」
嘗てここに桜並木が在った事を伝える橋名、実は今も橋の袂にちょびっとだけ桜が植えられています。(2018、2019年記事の写真を参照)
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、小桜橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、小桜橋上より下流側を向いた風景。
橋名に合わせ、欄干が桜色に塗られています。(下の写真を参照してください)


源流から数えて124番目の橋…「中之橋」
江戸時代に石切橋と隆慶橋の間に架けられた事から、「中の橋」との意味で、この名前で呼ばれる様になったとか。
橋の袂には、大手印刷会社で知られる「株式会社トッパングラフィックコミュニケーションズ小石川事業所」のビルが建っています。
現在の「トッパン」は印刷業の他にも業種を拡げてますが、凸版印刷100周年記念事業の一環で、本社ビル内に国内の印刷の歴史を展示する「印刷博物館」を併設しています。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、中之橋上より上流側を向いた風景…上の写真で前方に架かる小桜橋の色が解るかと…ちなみに中之橋の欄干は緑色に塗られています。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、中之橋上より下流側を向いた風景…そして新白鳥橋の欄干は水色、上から観ると虹みたいで綺麗かも。


源流から数えて125番目の橋…「新白鳥橋」
橋の左側に歩道が敷かれてるものの、車の交通が優先されてる為、渡った後は対岸を歩くしか下流に向かう方法が有りません。
地形に合わせ、大きく回り込んで車道と繋がる構造になっています。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、新白鳥橋上より上流側を向いた風景…街路樹がまるで秋の様に紅葉しており綺麗。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、新白鳥橋上より下流側を向いた風景…上で書いた通り、下流側は車道なため立ち入れず、反対側の歩道からズームして撮るのが精一杯。(汗)


源流から数えて126番目の橋…「白鳥橋」
読みは「しらとり」橋です…知らなかった頃は「はくちょう」橋と読んでました。(汗)

↑白鳥橋上より上流側を向いた風景。
「この付近で神田川の流れは大きく曲がっていた為に、江戸時代には『大曲(おおまがり)』と呼ばれていました。
 明治19(1886)年にはここに『大曲橋』が架けられていましたが、その後架け替えられ、『白鳥橋』と言う名が付けられました。
 これは嘗てこの辺りに『白鳥池』と言う大きな池が在った事からと云われています。」←案内看板より抜粋。
現在も「大曲」と言う地名は残されています。
 
↑白鳥橋上流側で口を開けている「水道橋分水路」吞口。
網が邪魔して読み難いでしょうが、「水道橋分水路」と書いてありました。
検索したところ、「水道橋1号分水路」吞口だそう…ここから先、分水路の吞口が幾つも在って、ややこしい。

↑白鳥橋上より下流側を向いた風景…首都高速道が本格的に上を覆い、暗い雰囲気の通りが続きます。

 
源流から数えて127番目の橋…「新隆慶橋」
写真の橋名、「新」が見切れてしまった。(汗)
神田川に架かる中では最も若い橋、なんと平成生まれだそうです!
幅が広くて6車線も有る、川が目に入らなきゃ殆ど道路にしか見えません。
本郷側と神田川目白通りを直接繋げる目的から架橋されたとの事です。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、新隆慶橋上より上流側を向いた風景…橋下にまた口が開いてるのが見えます…ここもまた分水路の吞口か吐口なのでしょうが、調査不足で解りません。(汗)
ちなみに神田川には、高田馬場分水路、江戸川橋分水路、水道橋分水路、お茶の水分水路と、合わせて4つの分水路が在るそう。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、新隆慶橋上より下流側を向いた風景…写真の通り極めて近い距離間で次の橋が架かります。


源流から数えて128番目の橋…「隆慶橋」
前の新隆慶橋とは反対に、古びれ感半端無い橋…長年、高速道に覆われてた事から、痛むスピードが速まったもよう。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、隆慶橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、隆慶橋上より下流側を向いた風景。
江戸幕府二代将軍秀忠と三代将軍家光の書記として仕えた「大橋隆慶」が橋名の由来になってるそう。
歴史有る橋だから残してるのでしょう…しかしそれなら架け替えて綺麗にしてあげてと思う。
でも新隆慶橋が極近くに架かる現在、ここに橋を架ける必要性無という事で、耐久年数が限界を迎えたら無くしてしまうんだろうな…。
首都高速道の天井から解放された所で見えて来るのが飯田橋駅。

↑がしかし、その前に注目したいのが、隆慶橋~船河原橋間に存在する、「水道橋2号分水路吞口」。
この反対側には「江戸川橋分水路」の吐口が在るけど、その写真はまた後で。
尚、船河原橋が架かる地点は、外濠と神田川が交わる川の丁字路になってます。

☆船河原橋側の立ち寄りスポット…JR飯田橋駅東口前巨大歩道橋「ペデストリアンデッキ」
「ペデストリアンデッキ」とは、広場と横断歩道橋の両機能を併せ持ち、建物(この場合、飯田橋駅)と接続して建設された、歩行者の交通専用の高架建築物を指す言葉だそうです。(ウィキ参照)
飯田橋駅東口前の道路に覆い被さるオバケ歩道橋といった様相で、歩行者は地上を歩かず歩道橋の上を歩くルールになっとります。
歩道橋が架かる区間の地上を歩いてると、直ぐにお巡りさんから「上を通って!!」と注意されてしまうのだ。(汗)
「ペデストリアンデッキ」が出来たお蔭で、信号に待たされず駅に行けるのは良いけど、歩行者は何となく肩身の狭いエリアです。
どっちかっつうと、車が通り易い様に、邪魔な歩行者を上に誘導してる感じ受けるのよね~。
 

 
↑歩道の端に植えてある桜の1本が、歩道橋に届くまで育っていて、満開時の眺めは素晴らしいです。

↑「ペデストリアンデッキ」から眺めたJR飯田橋駅東口&駅のホーム。
で、「船河原橋」が何処に架かってるかと言うと——

 
源流から数えて129番目の橋…「船河原橋」
——JR飯田橋駅東口の右横、道路を挟んだ向う側に架かってるのですが、上流側に歩いて行く事は不可能です。
隆慶橋から直進するも途中で行き止まり、上流側は金網で封鎖されていて入れません。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真の通り、船河原橋の上流側はデッドスペースになっとります。↑
 
↑そもそも船河原橋が架かる地点は、飯田橋も加わっての三角関係を築いており、初めて訪れた人間は惑わされる事確実。
(この御方の記事をご参照ください→http://www.mport.info/kandagawa/bridges/k/funagawarabashi.html)
上の写真で解説すると、手前が船河原橋の一部で、後ろの外濠に架かる方が飯田橋になります。

↑全体像はこちら——Ⅴ字に分かれた船河原橋の間に、飯田橋が挟まれてるという構図で、良く見ると橋の欄干の色で区別が付く。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、船河原橋上より上流側を向いた風景…川の左側に口を開けてるのが、「江戸川橋分水路」の吐口です。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、船河原橋上より下流側を向いた風景です。


↑無事、船河原橋の写真を撮影出来た所で、下流へ向かう前に「小石川後楽園」へ寄りました。
世間的に後楽園=東京ドーム側の遊園地のイメージが強いですが、遊園地が出来る前からここには「後楽園」と呼ばれる名所が在り、それが地名となって今に至っています。

☆船河原橋~小石川橋間の立ち寄りスポット…「小石川後楽園
時代劇でお馴染み、水戸黄門様所縁の庭園です。
 
「小石川後楽園は、旧水戸徳川家の江戸上屋敷の後園で、林泉美に富む廻遊式築山、山水庭園である。
 江戸時代初め、徳川御三家の一つであった水戸家の祖、徳川頼房は、寛永六(1629)年、三代将軍家光から与えられたこの邸地に廻遊式庭園を築造した。
 二代目藩主の光圀も本園の築庭には力を注ぎ、当時、隣国『明』の遺臣(儒学者)で我が国に亡命していた朱舜水の意見を用い、今見る様な中国趣味豊かな手法を加味した。
 因みに『後楽園』の名は、光圀が舜水に命じて選んだもので、中国、北宋の范仲淹が著した『岳陽楼記』の中の一文『(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ』より『後楽園』と名付けた。
 その後も度々の改修や震災火災で、創築時代の壮観さこそ失われたものの、逐次手が加えられる等、幾多の時代の変遷を経て、現在に至っている。
 本園は、土の香漂う奥深い山地と、樹林に包まれた静寂な水面の中に各地の名所を写し、自然の美と人工の妙とを兼ね備えた庭園芸術の粋を見せている。
 また、園内には数々の園亭祠堂が在り、梅・桜・藤・花菖蒲など四季折々の花が豊富――ここの文章薄れて読めず(汗)――貴重な緑として、訪れる者に憩いの場を提供している。
 尚、当園は大正12年3月、国の史跡名勝地に、また昭和27年3月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定された。」(←場内の案内看板より抜粋)
特別史跡と特別名勝の重複指定を受けているのは、都立庭園では浜離宮恩賜庭園とここ小石川後楽園の二つだけ、全国でも京都市の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院、奈良県の平城京左京三条ニ坊宮跡、広島県の厳島、岩手県の毛越寺庭園、福井県の一乗谷朝倉氏庭園を合わせ9ヶ所だけだとの事。
また築地塀の石垣の一部は、江戸城鍛冶橋門北側外堀付近より発掘された江戸城外堀石垣を再利用し、園が造られた江戸時代初期の「打ち込みハギ」と呼ばれる石積みの技法で再現したそう。

↑「小石川後楽園」西門を潜った先の庭園入口。
入園料は一般の場合300円です。(シニア・団体割引、年パス有)
私が訪れた頃は一部修復工事しており、残念ながら園内の全てを廻る事は出来ませんでした。
有名な稲田とか観たかったのに…。
来年春、また桜が咲いた頃に訪れようと、今から考えています。
 
↑池の周囲に咲いてた枝垂桜。
最も古い樹は推定樹齢60年を越すのだそう。
他にソメイヨシノ等、園内には数種の桜が植えられています。

↑「西行堂跡…藩祖である頼房の時代に、御鞍打師「小野荘兵衛」作の西行法師の木像を安置した事から、『西行堂』と名付けられた。
 尚、この堂は戦災により焼失した。」(←案内看板より)
…焼失しちゃったのか~。
 

 
↑「竜田川」
百人一首にも詠まれる奈良の紅葉の名所、竜田川を再現した小川。
園内には他、京の都付近の名所や、中国の名所を再現したスポットが目白押し。
電車や飛行機が無い時代に生まれたブルジョアは、こうして憧れの名所を自分の家の庭に再現し、行った気分に浸ってたんでしょうね~。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は「駐歩泉」。
「九代斉昭が、西行堂側の流れを西行の和歌、『道のべに 清水流るる 柳陰 暫しとてこそ 立ち止まりつれ』に因み『駐歩泉』と命名し、自ら筆をとり碑を建てたもの。」(←案内看板より)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は「延段(のべだん)」。
「中国風の素朴な石畳で、切石と玉石を巧みに組み合わせたもの。」(←案内看板より)
 
↑「木曽川」
長野から始まり、岐阜・愛知・三重を経て伊勢湾に注ぐ大河を再現したもの。
…そう見えるかは貴方の想像力次第。(笑)
 
↑「内庭…水戸藩の書院の庭だった所で、昔は唐門を隔てて、大泉水のある『後園』と分かれていました。
 江戸時代は『うちの御庭』と呼ばれ、池を中心にした純日本式の庭園です。
 昔の姿をそのまま留めていると云われています。」(←案内看板より)
目の良い方は、樹間に工事トラックが停車してるのを見付ける事が出来るでしょう。(汗)
 
↑庭の樹木の隙間から覗く高層ビル…周辺は近代的な街並みに変わっており、上から見下ろすと、ここだけに広大な緑地が残されてるのが、良く解ります。
 
↑「白雲台跡…昼なお暗い木曽の山道を過ぎて渓流を渡りここに登ると、僅かに白雲が行き交うのが見えたという高台。
 遠くは妙義・榛名の山々、近くは赤城・築土の(神)社を望む事が出来た。」(←案内看板より)
…昔は周辺に高い建物なんて無かったから…現在はビルが立ちはだかり、足元には土嚢が積み重なってました。(工事中だったから)

↑「延段」より見下ろした池。
 
↑「蓬莱島…島は亀の形をしており、先端の大きな鏡石は庭師の徳大寺佐兵衛に因んで、『徳大寺石』と名付けられ、弁財天を祀った祠が在る。」(←案内看板より)
工事中という事で、蓬莱島に建つ弁財天を祀った祠には寄れず…嗚呼、心残り。↓
 
↑庭園の後ろに屋根だけ見せてる東京ドーム。

↓「大泉水…この庭園の中心的景観。
 蓬莱島と徳大寺石を配し、琵琶湖を表現した景色を造り出したもので、昔はこの池で舟遊びをしたとの記録が残っています。」(←案内看板より)
 

 

 

 

 
↑琵琶湖を表現して造られた池なのか…この池の周りを取り囲む様に桜が植えられてて、園内では最も艶やかな眺めでした。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、「一つ松」…近江の琵琶湖を模した大泉水に対し、琵琶湖の唐崎の一つ松に因んでいるとの事。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、「丸屋」…昔の田舎の侘びた茶屋の佇まいを再現した建物で、戦災で焼失したオリジナルを昭和に入って復元したとか。

↓「小廬山…一面オカメザサで覆われた円い築山。
 その姿形が、中国の景勝地『廬山』に似ている事から、江戸の儒学者、林羅山が名付けたもので、山頂より庭園を見下ろせます。」(←案内看板より)
 

 
↑案内看板の説明通り、園内で最も見晴らしの良い場所でした。

 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、「渡月橋」。
「大堰川に架かる低い土橋で、京都嵐山の『渡月橋』の名を取った」との事。(←案内看板より)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、「西湖の堤」。
「この石堤は中国の名勝地『西湖』を模して造られたもので、本園以後の大名庭園の『西湖の堤』の先駆けとなった。」(←案内看板より)
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、「屏風岩」。
屏風の様に真っ直ぐに屹立している事から、そう呼ばれているそう。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、「清水観音堂跡」。
「京都清水寺を写した観音堂が在ったが、大正十二年の関東大震災で焼失した。」(←案内看板より)
——清水寺まで再現したのか!!それは実際に観てみたかった!!

 

 
↑「大堰川…京都の嵐山の下を流れる大堰川に因んだもので――中略—―神田上水の水を暗渠により引き入れ、江戸時代には清き流れで、園景を引き立てていた。」(←案内看板より)
…これは何となくイメージが湧く、かなり雰囲気醸してる様に思う。

↑「通天橋…京都、東山東福寺の『通天橋』に倣い、大堰川の渓流に朱塗りの虹橋を架けた。」(←案内看板より)
橋下に工事してる人が写ってます。(汗)
秋になると周辺の楓が紅葉して、美しい眺めだそうです。

↓「涵徳(かんとく)亭…本園創築時代に造られた茅葺の茶室で、硝子紙をもって障子とした為、『硝子ノ(びーどろ)茶屋』と呼ばれていたのを、享保年間に林信篤が『涵徳亭』と名付けた。
 現在の建物は四代目で、昭和61年に再建した。」(←案内看板より)
 


↑この時代に玻璃(ハリガラス)障子紙を用いるとは、流石ハイカラで知られる黄門様!
 
↑邸の中はお休み処「涵徳亭(びいどろ茶寮)」なるカフェとして営業してます。
訪れた頃は新型コロナで騒いでいた為、寄らずに庭園を出て、隣の売店で買った餅菓子を頂きました。
 

 
↑売店「葵屋」で買った「花見団子」と「しあわせ満開餅(桜餅)」。
他に水戸黄門グッズとか売ってました。(笑)
 
↑カロリー摂取し元気を取り戻した所で、神田川下りを再開。
小石川橋を目指し、再び首都高速5号池袋線下の歩道を進みます。
高速道下を歩いてる間、隣を走る中央線が、硝子ビル越しに観えました。
上流から数えて137番目に架かる万世橋までは、中央・総武線が旅の道連れです。

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桜橋~神田川を下る旅~その18

2021年07月07日 17時41分06秒 | 旅の覚書
七夕に、天の川ではなく、神田川の話をするのも一興。(汗)
前回「桜橋~神田川を下る旅~その17」に引き続き、今回は上流から数えて113番目の豊橋~117番目の江戸川橋までの区間を採り上げたいと思います。
尚、撮影日は一年前の2020年3月末頃です。(一部今年の春撮影した写真も有;)
今回紹介する一帯は神田川下りの目玉、寄り道し捲りで、上げる写真も多い為、無駄な前置きは無しで参ります。


源流から数えて113番目の橋…「豊橋」
名前に豊島区の「豊」が入りますが、両岸とも新宿区に架かります。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、豊橋上より上流側を向いた風景、
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、豊橋上より下流側を向いた風景になります。
橋が架かる一帯の「目白台」は、江戸中期以降、旗本の邸地で、清水家や一橋家など、有力大名の下屋敷が存在しました。
中でも肥後細川家の敷地だった場所は、広大な庭園がそのまま公園に活かされた事で、嘗ての栄華の片鱗を今に伝えています。
肥後細川家…そうです、元首相の細川護熙さんの御実家です。
細川護熙さんは肥後細川家18代目に当たるお殿様なんだとか。

☆豊橋~駒塚橋間立ち寄りスポット…「肥後細川庭園
「細川家は室町幕府三管領の一つとして武門の誉れ高い家柄で、現在の細川家は藤孝(幽斎)を初代として戦国時代に始まりました。
 代々文武両道に優れた細川家は、三代当主細川忠利の時、肥後熊本五十四万石を与えられ、強力な外様大名として幕末に至りました。
 現在の永青文庫と肥後細川庭園、そして隣接する和敬塾の敷地は、幕末期から戦後まで、広大な細川家の屋敷でした。
 細川邸の前には、嘗て鶴・亀と呼ばれた松が在り、この辺りの旧町名『高田老松町』の由来ともなりました。
 江戸時代の切絵図には、二本の松の絵が描かれています。

 幕末の時代、熊本54万石の細川侯の下屋敷だった場所は、明治15年に細川家の本邸(現在の目白台運動公園敷地)となり、その後、東京都が買収して、昭和36年に『新江戸川公園』として開園、昭和50年になると文京区に移管され、平成29年3月に『肥後細川庭園』と名称を変更しました。
 園内には、細川家所縁の銘花『肥後六花』の内、肥後椿、肥後芍薬、肥後花菖蒲、肥後山茶花が植栽されています。」←園内看板より抜粋。
 
↑写真は肥後細川庭園正門と案内図。
園内は湧水等、目白台(関口台地)の自然景観を活かした造りの、池泉回遊式庭園になっています。
何が素晴らしいって入場無料な点、こんなに美しいお庭を只で観せてくださるなんて、流石お殿様太っ腹!
 
↑正門から入り、中門を抜けると、左に建っているのが、旧熊本藩細川家の学問所だったと云われる「松聲閣(しょうせいかく)」です。
入館の際は靴を脱いで入ります。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合、下)の写真は、「松聲閣」1階の窓より観た庭園。
建物は大正時代に改修を行い、一時期は細川家の住まいとして使用されてたとの事。
その後も使用勝手の変更から増改築が繰り返されたそうで、特徴的な車寄せも後から玄関に取り付けられたそうです。
平成26年度から開始した工事では、過去の写真や図面を参考に整備を行い、戦前の状況を留めている椿・菊・朝顔の間と横の階段は保存を第一に整備を行ない、可能な限り既存の木材を使用する為、伝統的な揚屋工法を用いたそう。
更に過去の写真から下見板張りを用いていた事が解ったため1階の外壁に採用、花菖蒲・芍薬の間の照明は既存のランプシェードを磨いて再利用、現在は製造されていない「歪み硝子」も既存品を利用し、平成28年1月にリニューアルオープンしたそうです。

各部屋には肥後六花に因んだ名前が付けられています。
「肥後六花」とは、江戸時代から品種改良を重ねて来た熊本独特の花で、肥後菊、肥後椿、肥後山茶花、肥後花菖蒲、肥後朝顔、肥後芍薬の6種類を指します。
細川家八代重賢(しげたか)公の時に、武士の嗜みとして始められたそうで、各々に「花連」と呼ぶ保存団体が在り、門外不出として現在に伝えられています。
熊本城竹の丸の肥後名花園では、折々のシーズンにこれらの花を楽しむ事が出来ます。

また、椿・菊・山茶花の部屋の床の間には、熊本県産のい草「龍鬢表(りゅうびんおもて)」を編んで拵えた畳を使用してるとの事。
「龍鬢表」は、い草の中でも太く長い良質な物を選んで天日干し→水漬け→天日干しの工程を繰り返して出来上がる黄金色のい草で、見た目の美しさに加え、経年の変色を防ぐ、先人の知恵だそうです。
椿の間では有料で呈茶サービスが受けられますが、コロナ禍の折、先ずは電話で確認した方が良いかもしれません。
 
↑往時の佇まいを残す「松聲閣」2階廊下と「山茶花」の間。
古式ゆかしい建物ながら、2階に上がるエレベーターが設置されている事に驚きました。
流石は元お殿様のお住まいだった場所、訪れる客への配慮に心の余裕を感じます。
 
↑2階「山茶花」の続きの間と、「山茶花」から眺めた庭園。
「山茶花の間」は一般客用の展望所になっています。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、庭園から眺めた「松聲閣」です。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、「松聲閣」で販売してる「加勢以多(かせいた)」と言う細川家伝統の菓子です。
名前の由来は、ポルトガル語の「カイシャ・ダ・マルメラーダ(マルメロジャムの箱)」だそう。
餅粉で作ったおぼろ種でマルメロ羹(現在はカリンジャムを使用)を挟み、細川家の家紋「九曜の紋」を焼き付けて、幕府に献上もした細川家秘伝の伝統銘菓を復元したとの事。
さっくりした口当たりと仄かな甘酸っぱさが印象的と、チラシに紹介されてましたが、訪れた日は荷物になるのを嫌って買わなかったのです。
買えば良かったと、今は後悔してます。(汗)
 
↑西門前の休憩所と、中門。
 
↑PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、築山に建っていた「雪見灯籠」です。
 

 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、「永青文庫」へ続く階段です。
「細川家の第16代当主で肥後熊本藩主を務め、目白台出身の政治家でもある細川護立(もりたつ:1883~1970年)は、芸術に造詣が深く、細川家に伝わる文化財の散逸を防ぐ目的で『永青文庫』を設立しました。
 名称は初代藤孝の始祖から八代までの菩提寺である京都建仁寺塔頭永源庵の『永』と、藤孝の居城であった青龍寺城の『青』の二字を取って、護立侯が名付けました。
 国宝8点、重要文化財32点を含む美術工芸品や、歴史文書等の9万4千点を所蔵しており、昭和48年に博物館法による登録博物館となりました。
 また、平成22年1月には公益財団法人に移行して、現在に至っています。
 建物は旧細川侯爵家の家政所(事務所)として昭和初期に建設されたものです。
 『永青文庫』設立後は、細川家に伝来する歴史資料や、重要文化財を始めとする美術品の管理・保存・研究を行い、一般に公開しています——月曜休館。」←肥後細川庭園にて貰ったしおりより抜粋。
以前テレビで細川元首相が刀等を紹介してるのを観た事が有ります。
貴重な細川コレクション、時間が有れば鑑賞したかったのですが、この時は川下りを急いでたので見送りました。
コロナ禍が収束して、世界が平和になったら、改めて鑑賞しに訪れたいです。

↑来た階段を下りて、庭園に戻ります。
 
↑肥後細川庭園最大の見せ場「大池」。
 
↑大池に浮かぶ「中島」と、水面に影を映す桜。
春は庭園をより艷やかに魅せます。
 
↑高台に建つ十三の塔。
 
↑大池に注ぐ滝と、中池。
この滝の水が、ひょっとしたら湧水?
 
↑塀の側に築かれた小高い丘「築山」…登れば塀の外に続く桜並木と花見客を見下ろし、殿様気分を味わえます。
 
↑PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、大池と中池の堺に架かる「土橋」。

↑庭園を一周した後、南門から退出しました。
次の橋に向かいます――って、今回未だ二つ目の橋にも到達してない件。(汗)
 
↑豊橋~駒塚橋間に咲いてた桜と、次に架かる駒塚橋。
この橋が架かる辺りもまた、歴史的に重要なスポットが続きます。

 
源流から数えて114番目の橋…「駒塚橋」
(上流から歩いた場合)左岸に建ち並ぶ水神神社、関口芭蕉庵、椿山荘が、橋からの眺めに趣を添えています。
対して右岸は眺めこそ左岸に負けますが、新目白通りを挟んで建つリーガロイヤルホテル東京裏には、早稲田大学創立者である大隈重信所縁の大隈庭園が広がっています。
橋が架かる両岸に見所が並ぶ為、全て観て廻るとなると時間を相当取られますので、注意が必要です。(汗)
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、駒塚橋上より上流側を向いた風景…桜並木が途切れ、緑が続く辺りは、先に紹介した肥後細川庭園になります。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、駒塚橋上より下流側を向いた風景…和風の門構えは関口芭蕉庵、その後ろの大きな建造物はホテル椿山荘東京です。

☆駒塚橋側の立ち寄りスポット…関口「水神社
橋から見える白い鳥居がシンボルの、水神様を祀る神社です。
言い伝えによると、或る日、水神様が八幡宮社司の夢枕に立ち、「我水伯(水神)也、我をこの地に祀らば堰の守護神となり、村民をはじめ江戸町悉く安泰也」と告げた為、ここに祠を建て祀ったとか。
 

☆駒塚橋側の立ち寄りスポット…「胸突坂」
水神社の右に見える急坂です。
その名を呼ぶだけで胸が苦しくなりそう。(汗)
途中にちょっとした休憩スペースが設けられてるそうですが、見るからに恐ろしい坂にビビって、未だ登った事有りません…。
台地と言うか、坂の上から見下ろしたら、さながら崖に立ってる気分になるんじゃないかと。(汗)
 
胸突坂への登り口から下流方面へ歩いて行くと、関口芭蕉庵に突き当たりますが、その前に対岸の新目白通りに面したリーガロイヤルホテル東京を紹介致します。

☆駒塚橋側の立ち寄りスポット…「リーガロイヤルホテル東京

↑早稲田大学との土地信託方式により、同大学の敷地内に建設された高級ホテルです。
大学の中にホテルを建てちゃう早稲田大学の財力よ…ホテルの庭園を散歩してる積りが、気が付いたら大学の講堂前に出てるなんて、知らずに泊まった人は戸惑うに違いない。
 
↑こちらが新目白通りに面したホテル正門、アール・ヌーヴォー調のモダンなデザインになってます。
 
↑花見のシーズンという事で、ロビーの大花瓶には桜が活けてありました。
ロビーを突っ切り奥へ進むと、「大隈庭園」に出る裏口…もとい庭園の出入口に到ります。
江戸時代後期、彦根藩井伊家や高松藩松平家の下屋敷が在った場所を、明治維新後に大隈重信が入手、後に東京専門学校(現、早稲田大学)開設の為の用地に充てたとの事。
隣接する敷地内に本邸を建てた大隈重信は、1884(明治17)年、元々の大名庭園を和洋折衷式に改修。
1922(大正11)年に大隈重信が没した後、庭園は早稲田大学に寄付され、大隈会館の庭園として一般公開された。
…写真の案内板に記載されてる通り、一般公開は4月からという事で、あいにく私は庭園を観る事が出来ませんでした。
そもそもコロナ禍で、今年の春は開放されてなかった可能性も有る。
世の中が平和にならんと、お庭を散歩する事も出来ない…。

 
↑神田川に戻って、駒塚橋~大滝橋間遊歩道…写真は椿山荘の対岸に続く桜トンネルです。

↑下流を向いた場合の右岸桜並木は、一休橋に到る前に途切れます。
それまでの間、見事な桜トンネルを潜って歩くのも、また楽し…歩いた先には「カンパイ!ブルーイング」と言うクラフトビールの醸造所が在る。
1階ビアバーはコロナ禍の中でも逞しく営業を続けていた。(笑)

☆駒塚橋~大滝橋間の立ち寄りスポット…「関口芭蕉庵
下流を向いて左岸側、水神社の鳥居や胸突坂が在る通りに面した、古式ゆかしい和の建造物です。
「芭蕉庵」の名が示す通り、松尾芭蕉が神田川改修工事に参画した際、一時的に住んだ住居跡です。
 
「江戸前期の俳人松尾芭蕉(1644~1694)は、延宝五(1677)年~延宝八(1680)年まで、神田川改修工事に参画し、『龍隠庵』と呼ばれる庵(水番屋との説も有)に住んだと伝えられている。
 後に世人はこの庵を『関口芭蕉庵』と呼んだ。
 享保十一(1726)年、芭蕉の三十三回忌に当たり、芭蕉の木像を祀る芭蕉堂が建てられた。
 その後、芭蕉の門人である去来・其角・嵐雪・丈草の像も堂に安置された。
 芭蕉は、早稲田田圃を琵琶湖に見立て、その風光を愛したと云われている。
 そこで、寛延三(1750)年、宗瑞・馬光らの俳人が、芭蕉の真筆『五月雨にかくれぬものや瀬田の橋』の短冊を埋めて、墓とした。
 『さみだれ塚』と称されるこの場所は、芭蕉堂の近くに在る。
 芭蕉庵の建物は昭和十二(1937)年三月、近火で類焼したが、同年八月再建された。
 しかし昭和二十(1945)年五月の戦災で焼失した。
 敷地内には、芭蕉堂・さみだれ塚・朱楽菅江(江戸時代後期の戯作者、狂歌師:あけらかんこう)歌碑・伊藤松宇(明治~昭和初期に活躍した俳人・古俳書収集家)の句碑等が在り、往時を偲ぶ事が出来る。」←現地の案内板より抜粋。
ここも残念ながらコロナ禍により閉門してました…つうか2018、2019年に訪れた際もお休みしてた。(泣)
学生の頃、一度だけ入った事有ります。
中の庭園は小さいながらも起伏に富んでて、一周するだけでも結構ハードです。
しかし頂上からの見晴らしは誠に素晴らしい、春は特に川の流れの様に続く桜並木が圧巻。
…とは言え現在は入れないので、先に進みます。
 
↑この写真も駒塚橋~大滝橋間遊歩道にて撮影した物なのですが、芭蕉庵、椿山荘の建物が続くコースは、和の情緒たっぷりです。(ちなみに上流側を向いての撮影)
卒業式帰りの袴姿の女子学生が、更に和の雰囲気を盛り上げてくれました。

☆駒塚橋~大滝橋間の立ち寄りスポット…「ホテル椿山荘東京
「芭蕉庵」隣に門を構える、広大で歴史深い庭園が自慢のホテル。
ホテルが建つ敷地は、南北朝の頃から椿が自生する景勝地だったと伝えられ、江戸時代には久留里藩黒田家の下屋敷が建っていたとか。
明治時代になり、政治家の山縣有朋が、現在のホテル椿山荘東京に当たる土地を購入し、庭園・邸宅を造り「椿山荘」と命名したとの事。
1918(大正7)年、大坂の藤田財閥二代目当主藤田平太郎男爵がこれを譲り受け、東京での別邸とした。
1948(昭和23)年に藤田興業(現:DOWAホールディングス)の所有地となり、1952(昭和27)年より宴会場・結婚式場の営業を開始。
1955(昭和30)年、藤田興業の観光部門が分離し発足した藤田観光に、椿山荘の運営が移管された。
1992(平成4)年、宴会・ウェディング業だけでなくホテル業にも進出、国際的なホテルチェーンのフォーシーズンズ・ホテルズ&リゾーツと提携し、「フォーシーズンズホテル椿山荘東京」と名を改め開業。
2012(平成24)年にフォーシーズンズとの業務提携契約を終了した藤田観光は、翌年に総合宴会施設だった椿山荘もホテルと一体運営化、「ホテル椿山荘東京」と名を改め再スタートを切った。
——以上、ここまでウィキ参照。(汗)
神田川の花見シーズンの他、初夏の夜に庭園で開催する「蛍の夕べ」が評判ですが、最近もう1つ話題のイベントが出来ました。
人工的に雲海を発生させてのライトアップです!
「人工」と聞くと白ける気持ちになりますが(雲海だけに)、一度くらい体験したくも有ります。(笑)

↑神田川沿いの遊歩道に面した「冠木門」…コロナ禍の現在は閉めてるそうで残念です。
写真を撮影した去年春は、この門を潜って無料で庭園を散策する事が出来ました。
2019年までは桜のクッキーやパウンドケーキ等を門前で売ってて、お土産に購入する事も楽しみの一つだったのに…おのれ新型コロナめ!
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、庭の木立の奥にひっそりと佇む日本家屋を改築した、石焼料理専門レストラン「木春堂」。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、昭和の電力王と呼ばれた松永安左エ門が設計した茶室「長松亭」跡です。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、樹齢約500年の椎の樹木で、椿山荘の御神木との事。
根元の周囲は4m50cm、樹高は約20mに及ぶそうです。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は「中門」、ここを潜ると本格的に庭園が広がります。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は園内の散策道、庭園は小高い丘に広がる為、かなり起伏に富んでいます。(目白台なので)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は池の側に建ってた石塔…説明は下記に。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は「水車」。(観たら解るか;)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は「十三重の石塔」。
戦国時代の武将で茶人でもあった織田有楽(織田信長の弟)由縁の物と伝えられる層塔で、総高は4m76cm有るそう。
花崗岩製で、第一層に四方仏(弥陀・弥勒・釈迦・薬師)が彫刻されている。
他、庭園内には数種の層塔が混合しており、その一部は鎌倉期の様式を示しているのが特徴だとか。
 
↑園内に在る古井戸「古香井」。
古くから東京の名水に数えられた湧き水が現在も自噴する井戸で、秩父山系からの地下水が湧き出ているのだそう。
1923年の関東大震災の際、被災者用に開放されたと云う有難い井戸水は、ミネラル・カルシウムを豊富に含んだ弱アルカリ性の名水との事です。
井戸の周囲には紫色の小さい花が群生していて綺麗でした——ハナダイコン?
初夏は杜若や紫陽花が咲き乱れるスポットだそうです。
 
↑庭園に架かる朱橋——「弁慶橋」、又は「赤橋」と呼ばれるそうです。
元々「竹裏渓」と呼ばれ、孟宗竹林の裏に在った谷に清流が流れていた場所で、現在も清らかなせせらぎを保っているとの事。
椿山荘の案内によると、蛍の夕べはこの橋の周辺で行われる様です。
 
↑その「弁慶橋(赤橋)」の上で、袴姿の女子学生が記念撮影してました。
桜が咲く時季は卒業式シーズンでもあるので、袴姿の女子学生を頻繁に見掛けます。
写真を撮るこちらとしては、良い被写体になってくれて、大変有難いです。(笑)
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)は結婚式場前に広がる「幽翠池」、池の畔道を一本桜が立つ方へ歩いて行くと、五丈滝が見えて来ます。
 
↑クリスタルチャペル「ルミエール」奥の「五丈滝」。
「岩の段差と、苔生した岩肌が、水の流れに変化を付け、夏にはその風景と水音に涼を感じられます。
 五丈滝に背を向けると、幽翠池越しに庭園の緑、チャペルやホテル棟を一望出来、人気の撮影スポットとなっております。」←ホテルの案内より抜粋。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、チャペルの側に立つ一本桜。
薄桃色の花弁が観る者を華やいだ気持ちにさせてくれます。
 
↑その一本桜の前で結婚式の写真を撮影してました。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、クリスタルチャペル「ルミエール」。
和風庭園の中、チャペルが建つこの一角だけ洋風で、周囲から浮いています。
 
↑園内の小高い丘の上に建つ三重塔「圓通閣」——三重塔まで庭に在るなんて凄い!!最早何でも有りです!
「平安期の歌人として名高い参議・小野篁(おののたかむら)所縁の寺院、広島県賀茂郡の篁山竹林寺(たかむらさんちくりんじ)から、大正14(1925)年に目白の森に移築されました。
 平成22(2010)年に行われた移築後初の『平成の大改修』によって、従来、建築様式から室町時代末期の建立かとされていましたが、年輪年代測定法調査により、1420年頃(室町時代前期)の部材が使われている事が判明しました。
 ただ、平清盛が第1回目の修復をしたという言い伝えもあり、創建の謎は未だ明らかにされてはいません。
 この大改修の際に、本尊として『聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)』を奉安。
 臨済宗相国寺派・有馬頼底管長猊下による落慶ならびに入仏開眼法要を執り行い、『圓通閣(えんつうかく)』と名乗るところとなりました。」←ホテルの案内より抜粋。
ちなみに「圓通」とは圓通大士、観世音菩薩の異称で、「圓通閣」は観音堂を意味する言葉だそうです。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、「般若寺式石灯籠」。
「鎌倉後期の逸品で、江戸期の茶人や造園家の間では、『名物の灯籠』の一つとして人気を得ていた『般若寺式』の石灯籠です。
 その評判ゆえ、多くの模作が造られましたが、昭和53(1978)年、石造美術研究の権威・川勝正太郎博士により、『椿山荘(現・ホテル椿山荘東京)の灯籠が鎌倉期に作られた原作』であり、奈良県般若寺に現存するものはその写しであろうという調査結果が発表されています。」←ホテルの案内より抜粋。
…つまりホテル椿山荘東京としては、「うちに在る石灯籠が元祖で本物!!」と言いたいらしい。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は「丸形大水鉢」。
「元は京都府東山区粟田口から山科に通じる日ノ岡峠に在った物で、木食上人(もくじきしょうにん)・養阿正禅(ようあしょうぜん)が旅人の為に造ったと伝えられています。
 この水鉢は、荷車である牛車の轍が刻み込まれた貴重な敷石『車石』と共に保存されており、峠を越える人々が暫し牛車を停め、水鉢に溢れる清水で喉を潤した往時が偲ばれます。」←ホテルの案内より抜粋。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、「白玉稲荷神社」——庭に神社まで建ってるんです、ここ!!
「大正13(1924)年、京都下鴨神社にあった社殿を譲り受けて移築(平成元年に新社殿へ改修)、翌年に伏見稲荷明神から白玉稲荷を勧請して椿山荘の守護神としました。」←ホテルの案内より抜粋。
デパート屋上に鳥居が建ってる例とか偶に見掛けるけど、わざわざ京都下鴨神社に在った社殿を移築したってのが凄い。
戦前の財閥はやる事がビッグだぜ。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、神社が建つ高台からの見晴らし。
高台の周りには、往時の風景を偲ばせる様に、紅い椿の花が咲いてました。

↑蕎麦処の「無茶庵」…「庭園の一際静かな緑の中に佇む室町時代から受け継がれた隠れ家で、国産蕎麦の実から挽いた自家製蕎麦を、銘酒と東京食材と合わせてお楽しみ頂けます」とは、ホテル案内より。
——とまぁ、見所いっぱいの庭園ですので、一度訪れてみてください。
インスタ映え間違い無の写真が沢山撮影出来ますよ!

 
源流から数えて115番目の橋…「大滝橋」
…今回寄り道に費やす時間の方が長くて、目的を忘れてしまいがちですが、記事のテーマは神田川に架かる橋になります。(汗)
橋名は嘗てこの付近に在った「大洗堰」から。
「大洗堰」とは神田上水取り入れ口として築かれた堰で、ここで堰き止められた川の水は、江戸市民の喉を潤す水道に繋がれました。
その「大洗堰」から落ちる余水を滝に例えて、「大滝橋」と命名されたのだそう。
今風に言えばダムですね。
名が示すほど大きい滝ではなかったでしょうが、江戸の水の手として重要な場所だった事から、尊崇の念を篭めてそう呼んだのかもしれません。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、大滝橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、大滝橋上より下流側を向いた風景…右岸は途中から首都高速に覆われ、桜並木が途切れます。

☆大滝橋~一休橋間の立ち寄りスポット…文京区立「江戸川公園
「関口台地の南斜面の神田川沿いに、上流から数えて117番目の江戸川橋まで続く、東西に細長い公園です。
 西洋風の山小屋を模した時計搭のある四阿や、藤棚の屋根付きテラス等が在り、変化に富んだ景観となっています。
 テラスの先には石組みの池が在り、神田上水取り入れ口に使用されていた大洗堰を復原しています。(池の石組に、大洗堰の石柱を使用してます)」←文京区の案内文を引用してます。
…紹介し忘れたのですが、駒塚橋~江戸川橋までは、両岸とも文京区に架かります。
今回紹介した橋の中で新宿区管轄は豊橋だけです。
 
↑江戸川公園内の風景…川沿いの遊歩道がそのまま公園と一体化しています。
目白台(崖)の地形を活かし、高所に設置された滑り台は、子供達からの人気が非常に高いです。
例年なら花見客が通りの両脇にレジャーシートを敷き詰め、露店が建ち並ぶのですが、コロナ禍という事で今年は控え目でした…見なかったと書かない辺りがミソです。(笑)
 
↑公園内に造られた小川の様な池、この一角にプチ復原された大洗堰が在るらしいのですが、写真を撮り忘れました。(汗)
江戸川橋方面へ進んだ先には、藤棚の屋根付きテラス席が並んでいます。
…ところで神田川なのに、何故「江戸川」公園・「江戸川」橋名なのかって言うと、昔は神田川の大滝橋から飯田橋付近までの区間を「江戸川」と呼んでいたからです。
ちなみに源流から大洗堰付近までの上流部は「神田上水」、飯田橋より下流は「神田川」と区別して呼んでたそうな。

 
源流から数えて116番目の橋…「一休橋」
車は「この橋渡るべからず」の歩行者専用橋です。
真ん中通ろうとしても、車には幅が狭くて渡れません。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、一休橋上より上流側を向いた風景。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、一休橋上より下流側を向いた風景。
…片側は首都高速が覆い被さり、桜並木が途切れます。
以前はこの橋が架かる辺りで新目白通りを横断し突き当たった角に、貴重な古い漫画作品を閲覧出来る私設図書館が在りました。

☆嘗て一休橋側に在ったスポット…明治大学「現代マンガ図書館
 
「神田生まれの(故)内記稔夫(ないきとしお)氏が1955年に開業した貸本屋『山吹文庫』の蔵書を基に、大衆文化を支えたマンガ本が散逸する事を惜しんだ氏により、1978年、日本のマンガ専門図書館として設立されました。
 氏は館長として私財を投じ図書館の運営と漫画蒐集に努め、1997年、その業績に対し朝日新聞社主催の第一回手塚治虫文化賞特別賞を受賞しました。
 2009年にコレクションを明治大学に寄贈、2010年に『明治大学現代マンガ図書館』となった後も館の運営に当たり、国際マンガ図書館の設立に向けた議論が続く中、2012年に亡くなりました。
 氏が50年以上に渡り収集した単行本や雑誌等、未整理を含めると凡そ27万点を保有、現在も雑誌を中心に収集を続けています。
 特に昭和30~40年代に発行された貸本マンガの蔵書は充実しており、第一線で活躍するマンガ家のデビュー作や初期作品が収録された本も所蔵、マンガ雑誌の栄枯盛衰や分岐、展開をトレースする事も可能です。
 併設の(故)米沢嘉博(国内最大同人イベント、通称『コミケ』2代目代表)記念図書館の14万冊と合わせて、日本最大級の蔵書をもって、大学の研究に寄与すると共に、一般利用者への閲覧を提供します。」←図書館HP案内文抜粋。
今でこそ漫画図書館は各地に設立されてますが、国内外で日本漫画の評価が高まるまでは、古い漫画を蒐集していて一般公開してる場所は、ここぐらいしか無かったのです。
子供の頃、早稲田鶴巻町に在るという情報だけで探し当てた思い出…スマホも携帯も無い時代だったから、人に訊き回って漸く辿り着いたっけ…今思い出すと漫画好きの執念が為せる業だったなと。(笑)
コロナ禍で長期休館しており行く末を気にしてましたが、今年の3/19に東京都千代田区の明治大学駿河台キャンパスに移転したそうです。
嗚呼…勤務エリアから遠ざかってしまった…でも早稲田時代のビルは古くて手狭で、蔵書を管理するのに限界が見えてたから、潮時だったかも。
今は無い場所紹介するのは無駄かと思いましたが、折角写真を撮っておいたので紹介させて頂きました。(汗)

 
↑一休橋~江戸川橋間、「江戸川公園」敷地内の様子…こちらが「西洋風の山小屋を模した時計搭の有る四阿(あずまや)」です。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の胸像は何方かと言うと、日本の薬学者・政治家・陸軍軍人(薬剤官)だった「大井玄洞」氏です。
「大井玄洞は当時、度々洪水を起こしていた江戸川(現神田川)を何とかしようと治水に尽力した。
 大正2(1913)年に護岸工事に着手、大正8(1919)年に完成させる。
 この治水事業の功績を称え、昭和3(1928)年、神田川沿いの江戸川公園に大井玄洞の銅像が建てられた。」←現地の案内看板より抜粋。
…そんな偉い人なら、ここに胸像が建てられるのにも納得ですね!

 
源流から数えて117番目の橋…「江戸川橋」
目白通りと新目白通りが交わる場所に架かる大きな橋です。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、江戸川橋上より上流側を向いた風景…上流から数えて108番目の高戸橋から始まった桜並木は、この江戸川橋で終点を迎えます。
これより下流、ここまで長く続く桜並木は在りません。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、江戸川橋下の「江戸川橋分水路」呑口——右2つのトンネルが分水路の吞口で、左は神田川本流になります。
 
↑江戸川橋側の「江戸川公園」出入口…最近リニューアル工事して、綺麗なトイレと子供向け遊具が設置された遊び場が完成しました。
 
↑PC画面で観て左側(スマホ画面の場合は上)の写真は、江戸川橋上より下流側を向いた風景…川沿いに桜並木が無くなるだけでなく、川に蓋をするよう首都高速が覆うので、眺めは悪くなります。
PC画面で観て右側(スマホ画面の場合は下)の写真は、江戸川橋下流側の下、左岸に開いた排水口です。
付近は水窪川及び弦巻川の合流地点で、豪雨が降った際は溢れた水が川に流れ込む様になっています。(普段は下水化されてる為、流れ込みません。)
弦巻川と水窪川は、それぞれJR池袋駅の西と東から流れ出し、護国寺から並行しつつ、江戸川橋が架かる辺りで、神田川と合流していました。(←本田創著:「失われた川を歩く—東京『暗渠』散歩」より抜粋)
現在は共に全区間暗渠になっており、流れを日の下で観る事は叶いません。
新宿区「早稲田鶴巻町」名の由来は「弦巻川」と云われてますが、川の流域外の町の名前に使われた理由は不明です。

…今回本当長くて済みません(汗)、次回に続きます。

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ミスドコレクション98

2021年07月04日 00時28分00秒 | ミスド
ミスドの7月の新作はダブルコラボ!!
焼き立てチーズタルトの専門店「BAKE」と、ザクザク食感が売りのシュークリーム&ソフトクリームの店「クロッカンシューザクザク 」との欲張りコラボです!
「クロッカンシューザクザク」はあいにく店が近くに無いので比較しようがないですが、「BAKE」のチーズタルトは好きでよく食べてるから比較出来ます。
「ベイクチーズタルトドーナツ」は「BAKE」に監修頼んだだけあり、チーズフィリングの味が本物とかなり近くて美味しい――ただ地のタルト台はミスドも潔く認めている通り(笑)、ミスド定番のオールドファッションドーナツです。
でもかなり美味しかった、カロリー物凄く高そうだけど、暫く嵌まってしまうかもしれない。
「クロッカンシュードーナツ」の方も油で揚げてる感薄くて、普通のシュークリームの様に食べ易かったです。
では、シリーズ各商品を紹介して行きましょう。

 
↑「ベイクチーズタルトドーナツ(テイクアウト237円/イートイン242円)」
人気のオールドファッション生地をタルト生地に見立て「BAKE」の看板商品チーズタルトを表現、ふんわりとしたチーズホイップを載せてオーブンで焼き上げました。(←ミスドの説明文を引用)
…受け皿が「BAKE」自慢のカリッと焼けたタルトではなく、ミスドのオールドファッション生地な為、時間が経つとチーズフィリングの水分が染み込み、しっとり致します。
しかもオールドファッションドーナツ…穴が開いてるから、中央からドロッと中身が出て来なくもないという。(汗)
それを避けるには、ミスドが奨めてる通り、冷蔵庫で暫く冷やしてから食べるのが良い。(冷凍した後、解凍して食べても良いかも)
ドーナツにチーズフィリングを注いで焼いたらしく、ドーナツとチーズフィリングの焦げの部分が何気に香ばしくて美味しい。


↑「ベイクチーズタルトドーナツ:ブルーベリー(テイクアウト237円/イートイン242円)」
人気のオールドファッション生地をタルト生地に見立てて「BAKE」のチーズタルトを表現、ふんわりとしたチーズホイップをのせてオーブンで焼き、仕上げにブルーベリージャムを載せました。(←ミスドの説明文を引用)
…上で紹介した「ベイクチーズタルトドーナツ」に、ブルーベリージャムを載せただけですが、ブルーベリージャムの酸っぱさが加わって、より美味しくなってます。
やはりチーズケーキとブルーベリーは最高に相性が良い!


「ベイクチーズホイップ(テイクアウト172円/イートイン176円)」
ミスタードーナツの定番イーストドーナツ生地に「BAKE」のチーズタルトをイメージしたチーズホイップ、更にホイップクリームを絞ったmisdo meetsならではのドーナツです。(←ミスドの説明文を引用)
…これは見た目的に流行りのマリトッツォを意識して作ったんだろうなと。(笑)
ふわふわのイーストドーナツの中に、チーズホイップとミスド自慢のエンゼルクリームが、溢れんばかりに挟まれています。
そもそも「マリトッツォ」が初めて日本に紹介された時、SNSで「ミスドのドーナツっぽい」との意見が出てた。
ミスド側でも「マリトッツォ」を見て、「これならうちで作れる!!」と制作意欲に火が点いたんだろうなぁ。(笑)
これも美味しかったけど、そんなにクリーム好きじゃない自分には、ちとしつこく感じられた。

 
↑「ザクザククロッカンシュードーナツ(テイクアウト194円/イートイン198円)」
「ZAKUZAKU」のクロッカンシューをシュードーナツで再現、アーモンドクランチをトッピングしてオーブンで焼いて香ばしさとザクザク食感をアップ、仕上げにカスタードクリームをサンドしました。(←ミスドの説明文を引用)
…フレンチクルーラー生地を利用して作ってるのでしょうが、油で揚げた感あまり無くて殆どシュークリームでした。
アーモンドクランチのザクザク具合も美味しかったです。


↑「ザクザククロッカンシュードーナツ:チョコ(テイクアウト194円/イートイン198円)」
「ZAKUZAKU」のクロッカンシューをシュードーナツで再現、グレーズを絡めて焼き上げたトッピングで香ばしさとザクザク食感を表現し、仕上げにホイップクリームとカスタードクリームをサンドしました。(←ミスドの説明文を引用)
…カスタードクリームの他、エンゼルクリームを詰めた事で、よりマイルドな風味に感じました。
チョコのトッピングもさり気無く効いてます。


↑「ザクザクポン・デ・リング(テイクアウト172円/イートイン176円)」
チョコレートをコーティングしたポン・デ・リング生地に、グレーズを絡めて焼き上げたトッピングを振りかけ、仕上げに「ZAKUZAKU」の商品をイメージした線がけをして、misdo meetsならではのドーナツに仕上げました。(←ミスドの説明文を引用)
…これはいつものミスドのポン・デ・リングですね。(笑)
コラボ商品って雰囲気は薄い…元がポン・デ・リングな分、安定した美味しさだけど。
コラボ終了間近に余り材料を使い切る為、棚に並ぶ頻度増えそうな予感がする。(笑)

今回のコラボ商品は全て冷やして食べると美味しいとの事。
暑い夏に向くシリーズです。
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本日7月3日!!

2021年07月03日 00時49分23秒 | ワンピース
7月3日は漫画「ONE PIECE」に登場する美人航海士、ナミさんのお誕生日なのです!!
ナミさん、ハッピーバースデー♪♪
お祝いなのに、ざざっと描いた落書きで済まして申し訳無い。(汗)
けど久々に描きました。
最近記事などで触れないけど、今でも変わらず好きです。
今はロングヘアーで、それもまたよろしいのですが、ショートヘア―の頃も懐かしくて、偶に読み直したりします。
…また髪切っても良いのよ?

そういや、「ONE PIECEキャラクター世界人気投票」なるものが開催されたとネットで知りまして――ナミさんって日本より世界の方が人気が高いんだ!!
なんか嬉しいような複雑な様な…しかしこの結果、何となく解ります。
ナミさんみたいな、自分の意見をはっきり言って、一途に夢を追ってて、それでいて現実的に物を考えてて、セクシーでやり手で頭が良くって、時に男を顎で使うタイプの女性って、日本の男性には敬遠されがちだけど、世界的には普通に憧れる対象なんだろうなと。
そういう、日本と世界で異性の好みの違いみたいなのが見えて、興味深い人気投票でした!
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