瀬戸際の暇人

今年も偶に更新します(汗)

異界百物語 ―第20話―

2006年08月26日 20時59分30秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。

此処数日、関東では通り雨が続いているね。

秋の気配を空に感じる今日この頃だよ。


さて今夜お話しするのは、怪奇事件とはいえど、心霊関わりではない。

時代はパリ万博が開かれた頃――



1889年5月、エッフェル塔が建設された年の事だ。
世界万国博が開催されたパリには、世界中から大勢の見物客が集まって来て、大変活気付いていた。

そんな或る日、1人の裕福なイギリス女性とその娘が、インドからの船でマルセイユに着き、マルセイユから汽車でパリに向った。

2人はパリの駅からタクシーで、ホテル・○○○ンに乗り付けた。

しかし急に思い立った旅行だったので、彼女達は前もってホテルの部屋を予約していなかった。

折悪しく、万国博見物に世界中から集まった客達で、パリのホテルは何処も客室が無かった。

2人がタクシーで乗り付けたホテル・○○○ンも、3階に1人部屋が1室空いてるだけである。

2人は困り果てたが、「1人部屋でも、兎に角泊れるだけ幸いだ」と考え、泊る事にした。


2人はフロントで宿帳に記帳してから、豪華なインテリアで飾られた342号室に案内された。

赤ビロードのカーテン、淡い薔薇色の壁紙、ゴブラン織のソファ、マホガニーのテーブル等、全てが一流ホテルの名に恥じない、豪奢な造りだった。

如何に1人部屋でも、これならゆっくり出来そうだと、娘が一息入れた途端、母親が――


――急に気分が悪いと言って、ソファの上に崩折れた。


長旅の疲労かもしれないと思ったが、あまり酷い苦しみ方だったので、娘は母親をベッドに寝かせ、フロントに降りて支配人に至急、医者の往診をお願いしたいと言った。

娘はフランス語が話せないので、支配人は片言の英語で応対した。

それでも何とか話は通じて、間も無く医者が駆け付けた。

医者は342号室に案内されて、苦しんでいる母親を診察し、おろおろしている娘に、片言の英語で「何処からの御旅行ですか?」と尋ねた。

娘が「インドからです」と答えると、医者は支配人の耳元で、何やらフランス語でひそひそ話し始めた。

2人の暗い顔に、娘は不安でいっぱいになり、我慢出来なくなって、「先生、母の容態は如何でしょう?」と英語で医者に問い掛けた。

「決して良いとは申せませんな」と医者は片言の英語で答え、今、此処にこの病気に効く薬を持ち合せていないのだと言った。

その薬が有れば、もしかしたら母親は命を取り留めるかもしれない。

しかし何時病状が急変するやも知れず、医者の私は、病人を後に残して行く事は出来ない……。


「じゃあ私が、その薬を頂きに参りますわ!」


娘が急き込んでそう言うと、医者は自分の妻に宛てて手紙を書き出した。

娘はその手紙を持って、医者の乗って来た馬車で直ぐに出発した。


馬車の歩みは鈍く、娘は母親の病状を思うと、いてもたっても居られなかった。

一刻を争うという事態なのに、しかし御者は、そんな娘の苛立ちを思い遣ろうともしない。

漸く医者の邸に着くと、娘は馬車から飛び降り、急いで医者の妻に手紙を差し出した。

此処でもまた、苛々する程待たされた。

かなりの時間が経った後、医者の妻は奥から出て来て、薬を渡してくれた。

引っ手繰る様にして受け取ると、お礼もそこそこに娘は馬車に飛び乗る。

しかし相変らず、馬車は来た時同様、のろのろと走り続ける。


「もっと早く走って頂けませんか!
 母の病状が一刻をも争うんです!」


娘が英語で必死にそう言っても、御者は言葉が通じないらしく、一向に急ごうとはしない。

そんな訳で、それ程遠い距離でも無かったのに、往復するのに4時間も掛かってしまった。


ホテルに着くなり、馬車から飛び降りた娘は、ホテルのフロントに突進した。


「如何でしょうか!?
 母の具合は!?」


娘が息せき切って尋ねると、どういう訳か支配人は、きょとんとした顔で彼女を見た。


「お母様とは、それは一体……?」


娘は度肝を抜かれた思いで――


「あら!さっき342号室で倒れて、お医者様を呼んで頂いた母の事ですわ!
 それで私は、お医者様に言われて、薬を取りに行ったんではないですか!
 貴方だって、その場にいらしたでしょう!?」


「失礼ですが、私には何の話かさっぱり。
 お嬢さんは初めから、お1人で此処にいらっしゃいましたが……?」


娘はあまりの事に、顔から血の気が引く思いがした。


「良く思い出して下さいな!
 私は今朝早く、母と一緒に此処に来ました!
 …じゃ、宿帳を見せて下さいますか!?
 私と母の名前が記帳されている筈ですから!」


支配人は落ち着き払って宿帳を取り出し、その日の頁を開いて娘に差し出した。

娘は自分達の名前を必死に探したが、信じられない事に、母の名前は無く――


――そこには、彼女1人の名前だけが、書かれていた。


「如何です?
 お嬢様お1人の名前しか、記帳されてないで御座いましょう?」


支配人は平然と微笑した。


「………だって…だって…そんな筈は…!」


娘は狐に抓まれた様な思いで、暫くは声も無かったが、気を取り直して尚、こう言い募った。


「そんな筈は有りません!
 私は確かに母と一緒にこのホテルに着いて、宿帳にも母と一緒に記帳しましたわ!
 それから、私達は3階の342号室に案内されて……!」


娘は、思い出した様に、ハッと顔を輝かせた。


「そうだわ!その342号室に行けば判ります!
 母はそこで、確かに苦しみ、寝込んでいたんですから!」


娘の大変な剣幕に、支配人はあくまで冷静に答えた。


「342号室には数日前から、別のお客様が滞在しておられます。」

「兎に角!…連れて行って下さい!」


娘は声を荒げた。


「そこまで仰るのなら……幸い342号室のお客様は只今お留守にしていますから、特別にお部屋をお見せ致しましょう。」


娘の剣幕に気圧された支配人は、渋々とそう言って、娘を3階の342号室に連れて行った。


1歩入るなり、娘は自分の目を疑った。

さっき通された部屋の様子とは、全く異なっていたからである。


娘は呆然として、辺りをぐるりと見回した。


赤ビロードのカーテンも、淡い薔薇色の壁紙も、マホガニーのテーブルも、消えてしまっている。


無論、母の姿は、影も形も無い……


「これで御納得頂けましたか?
 失礼ながら、お嬢様は、何か思い違いをしていらっしゃるのでは…」


娘は訳も解らず、ただ涙を浮べて、途方に暮れた様子で立ち竦んでいた。


そして、藁にも縋る思いで、こう頼んだ。


「それでは…お医者様に会せて下さい!
 その方に会えば、全て解る筈だわ!」


支配人はうんざりしている様子だったが、仕方なくホテル付の医者だと言う男を、娘に引き合せた。


その男は、確かに先程母を診察した医者だった。


「覚えて居て下さいましてよね、私の事!
 ついさっき、私の母を診察して下さり、私に薬を取りに行く様、お命じになられたんですから!」


しかし医者は片言の英語で戸惑った様に、「お嬢様は、何か勘違いしていらっしゃるのでは……」と言うだけだった。


もう何が何だか解らない。

どうして良いかも解らない。

自分は何か悪い夢でも見ているのだろうか……?


追詰められた娘は、パリのイギリス大使館に行って、助けを求めた。

その足で警察にも行って、母の失踪届けを出した。

大使館でも警察でも、人々は彼女の話を聞いて心から同情してくれたが、だからといって彼女の為に何かしてくれようとはしなかった。

挙句の果ては、娘は異常者扱いされ、イギリスに強制送還されて、精神病院に入れられてしまったという……


――後年、この事件の謎は、解き明かされた。

真相は下記の通り。


その日、ホテル・○○○ンに着いたばかりの母親が、急に苦しみ出して倒れた。

そして医者が診察した結果――


――娘の母親は恐ろしい伝染病である『ペスト』に罹っている事が判明したのである。


どうやらペストの発源地として有名なインドに行った事で、感染してしまったらしい。


医者からこれを聞いたホテルの支配人は、ショックで蒼くなった。

万国博の真っ最中に、パリでペスト患者が出た事が公に知れたら、大変な事態になってしまう。

下手をすれば、パリ中のレストランやホテルが営業停止に追込まれるだろう。

そうなったらパリ市民にとって死活問題だ。


窮地に立たされたホテルの支配人は、苦肉の策を取った。


医者と相談して、偽の手紙を娘に持たせ、薬を取りにやらせた。

前もって御者には、馬を出来るだけゆっくり走らせる様命じた。

そして娘が薬を取りに行ってる間、苦しみながら息を引き取った母親の遺体を他所に移し、市当局に赴いて一部始終を報告。

市からもペストの件は秘密厳守を命じられ、ホテルの全従業員に箝口令が敷かれた。

342号室には直ちに室内装飾屋が入り、娘が居ない間に室内をガラリと変えてしまったのだ。


当時ペストの死亡率は60~90%。

かつて14世紀後半には、ヨーロッパ全人口の1/4を死に至らせたという…

…それ故根強くヨーロッパ圏を覆っていた恐怖から生み出された、悲しい事件だった。



結構な数の書籍に『実話』として載っている話なのだが、正直なところ嘘臭く思わなくもない。
あまりに話が出来過ぎてやしないかとね。
何処かの国で、試着中に日本人が攫われて売られたというデマが、以前実しやかに伝えられていたが、それと似た都市伝説ではないだろうか?

舞台となったホテル・○○○ンは、今でもパリの老舗高級ホテルとして営業中だ。
ただ切っ掛けとなる事件が起り、噂が出来上がった可能性は有るかもしれない。

何は兎も角、外国に訪れた際は気を付けた方が良い。


今夜の話はこれでお終い。


…それでは20本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…


……有難う……どうか気を付けて帰ってくれ給え。


いいかい?……くれぐれも……


……後ろは絶対に振り返らないようにね…。


『ヨークシャーの幽霊屋敷 ―イギリス世にも恐ろしいお話―(桐生操 著、PHP研究所 刊)』より。
コメント (2)
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