やあ、今夜も来てくれたね。
どうぞどうぞ、席はちゃぁんと用意してあるよ。
さあ、こちら……いっとう奥が、貴殿の席だ。
そう…そうやって壁に凭れて座った方が、背中に安心感が持てて良いだろう?
さてと……用意が整った所で、2話目を話すとしようか。
私には子供の頃から憧れてる幽霊屋敷が3軒有ってね。
1軒目は昨夜話した『ボーリィ牧師館』。
2軒目はアメリカ、シリコン・バレーに在る、『ウィンチェスターハウス』。
3軒目はイギリスに在る、『バークリー・スクエア50番地』。
今夜は2軒目の『ウィンチェスターハウス』を紹介しよう。
IT産業の中心地、シリコン・バレー。
ハイテク企業建ち並ぶ街の中、周囲から浮く様に建つ奇怪な屋敷、『ウィンチェスターハウス』。
あまりの奇怪さに、1974年、カリフォルニアから州の史跡に指定された程だ。
どの様に奇怪なのか?
…それを説明する前に先ず、かつてこの屋敷の女主人だった人物について、語った方が良いだろう。
その女主人の名前は、『サラ・ウィンチェスター』…新型ライフル銃の販売で莫大な財をなした、ウィンチェスターの妻だ。
1866年、オリヴァー・フィッシャー・ウィンチェスターという男が、新型ライフル『ウィンチェスター銃』の特許を手にし、売り捲った。
この新型銃は彼が発明した訳ではなかったが、製造販売権を持っていた事で、銃を売ってあがる利益は、悉くウィンチェスターの財産となった。
南北戦争から第一次世界大戦迄、ウィンチェスター銃は合衆国の軍隊に採用された公式銃であった為、彼と一家は当時の金で2千万ドルを軽く超える蓄えを拵えたそうだ。
さて、オリヴァーには『ウィリアム』という名の息子が居た。
商才が相当有った男らしく、『ウィチェスター銃』を世界的ヒット商品としたのは、この息子の手腕に因るらしい。
そのウィリアムが1862年9月に、父方の遠戚に当る『サラ・パーディー』という名の女性と結婚した。
小柄ではあるが美しい女性で、四か国語を自在に操り、音楽の才能にも溢れた、名門の令嬢だったらしい。
2人が結婚してから4年後、家業のライフル銃製造が大当りした事も有って、若い夫婦はコネティカット州で幸せな、しかし多忙な日々を送っていた。
所が、経済的大成功した身代りかと思える様な個人的不幸が、次々とサラや一家を襲った。
1866年に出産した女の子が、僅か1ヵ月で死んでしまい、1881年には夫のウィリアムも過労が祟り、肺結核を患って世を去ったのだ。
愛する家族と死に別れ……サラは悲しみの底へ突落された。
さて、彼女の生きた時代、19世紀のアメリカでは、心霊ブームが吹荒れていた。
降霊会があちこちで開催され、所謂『こっくりさん』等の方法で、死者との交信が頻繁に実験されていた。
夫を失って2年後…当時44歳になっていたサラも、ボストンで名の知れた霊媒を尋ね、死後の国に居る娘や夫の話を聞こうとした。
しかし、そこで思いもかけない『警告』を聞かされてしまう。
「ウィンチェスター夫人、貴女は西海岸へ行って、豪華で美しい家を建てねばなりません。
そして…その家の建築を決して止めてはなりません。
昼も夜も、建て続けなければいけないのです。
これをしなければ、貴女は直ぐに死ぬでしょう。」
入神状態の霊媒からそう言われて、サラはびっくりした。
理由を訊くと、「貴女の家族が売ったウィンチェスター銃で、何千何万の人が死にました。その償いは、貴女にしか出来ないからです。」――
――サラは、恐ろしさに凍りついた。
ウィンチェスター銃に撃ち殺された人々の呪いが、一族に掛かっている事実を知ったからだ。
1883年、彼女はコネティカット州ニューヘブンの豪邸を棄て、毎日千ドルにも上る特許収入と手持ちの莫大な財産を持って、カリフォルニア州サンノゼへ引越した。
敷地は161エーカー(1エーカーは約4047㎡)も在ったが、建物はたった8部屋しか無い農場…しかし、これから死ぬまで家を建て続けねばならない身にとっては、却って遣り甲斐の有る小さな家だった。
以後、サラは1922年に亡くなるまで、ほぼ30年に渡り、それこそ何かに取憑かれたかの如く、家を建て増しして行った。
建物に用いる材料は最高級品ばかり。
その上に、暖炉は47個、階段は40ヶ所、バスルーム13ヵ所を始め、沢山の台所や居間等を、『霊の指示』通りに意味無く造り続けた。
家族を亡くして以来、降霊術に凝り出したサラは、その内に自分でも霊と接触出来る様になったという事で、日々全てを霊からの警告通りにこなして行ったのだ。
霊の御告げは、奇怪な指令に満ち溢れていた。
挙げれば、「正面扉は俗人に一切使わせるな」という命令。
1903年にセオドア・ルーズベルト大統領がこの屋敷を訪れたそうだが、その時も脇の出入口を使わされたらしい。
…大統領で在りながら俗人扱いされたルーズベルト氏は、さぞや心中複雑だった事であろう。
サラは「人に顔を見せるな」とも指示され、常に顔をベールで隠していた。
或る時地下室で、ベールを取った彼女の顔を見てしまった職人達は、即刻解雇されてしまったという。
階段は13段、天井は13枚の板、シャンデリアの蝋燭は13灯という風に、『13』の数にも拘った。
シャワーはこの館に1つだけ、13番目のバスルームの、13枚目の窓に設置された。
鏡は屋敷中にたった2枚しか無かったり、階段一段の高さは僅か4.5㎝しか無かったり、上って行くと行き止まりの階段、開けると壁で塞がっている扉、落し穴、迷路、護符の装飾、毎晩1時と2時に鳴らす鐘等、悪霊が戸惑う様な仕掛を至る所に取り付けた。
この鐘…正確な時間に鳴らさないと悪霊に効かないという事で、鐘楼の近くに天文観測台を造り、クロノメーター(経線儀)で経度測定をしながら、毎日時刻を合わせていたらしい。
また、家具は全て上等で立派な物ばかりだが、趣味の悪い蜘蛛の巣柄等のデザインになっている。
これは彼女に友好的な霊を喜ばせる為の品物だったそうだ。
そして、サラが日々霊と会話していたという、『青い降霊室』。
此処は隠し戸と隠し通路が在る上に、壁と壁に挟まれた場所に在って、誰にも近付けないようなっていた。
彼女は此処に隠れ込み、霊を呼び出し、『お筆先』で霊告を書き留めていたそうだ。
霊から、明日の増築場所を指定する通信が有ったらしい。
増築に次ぐ増築に明け暮れていたサラの身に、1906年、とても恐ろしい事件が発生した。
『サンフランシスコ大地震』だ。
家が倒壊する事は無かったが、5階~7階の3階分だけが、屋根毎滑り落ちてしまった。
この地震で最大の被害を受けた部屋は、サラの寝室だった。
扉が壊れ、外へ出られなくなってしまったという。
彼女は壊れた寝室に幽閉され、数時間行方不明となった。
泣けど叫べど外へは声が届かない、完全防音構造にしてあったからだそうだ。
…これ以後、屋敷は4階以上高くなる事が無くなった。
『地下のワイン室事件』というのも有る。
或る時サラが地下室へ行くと、ワイン倉の壁に黒い手形がベットリと捺されていた。
この手形が彼女を恐ろしい形相で睨み付けていたらしい。
サラは、「もうワインを呑むな!」という霊からの警告と理解し、地下のワイン庫へ通じる入口を塗り込めてしまった。
地図が無ければ歩けない屋敷の中、一体彼女が何をしていたのか…外部の人間には想像すら付かなかった。
この巨大な160部屋の怪建築に住んでいたのは、サラと彼女の姪、そして13人の大工、10人のメイド、8人の庭師…合計して33人のみだった。
金銀財宝に溢れた豪邸であったにも関わらず、サラの生前中、泥棒に侵入されるという事件は1度も起きなかったそうだ。
しかし彼女はその財産を全て浪費する事無く、街に多くの寄付を行い、社会奉仕も忘れなかった。
夫の死因だった肺結核を治療するサナトリウムを、街に建造してまでいる。
安らかな死と、来世で愛する夫や娘に出会える事を、心から願っていたサラ…恐らく社会奉仕は、その願いを叶える為に積んでいた善行だったのではないかと言われている。
サラ・ウィンチェスターは1922年、82歳で亡くなった。
死ぬ日まで1日たりとも休まずに増築を続けた。
こうして、「20世紀で最も手の懸かった個人住宅」と言われる家が出来上がった。
現在この『ウィンチェスターハウス』では、内部を一巡する1時間ツアーを実施している。
ガイドツアーは基本的に毎日行われていて、床に貼り付けられた窓、天井にぶつかる階段、開けると壁になっているドア等、さながら忍者屋敷並の仕組を見学出来る。
カリフォルニアに遊びに来た際は、是非訪ねてみると良いだろう。
…人は死を恐れる。
この世に生を享けたからには、必ず免れられない運命と知りつつ、恐れる…。
それは、『見えない』からだ。
例えば貴殿は…背後が見えない事を、恐ろしく思わないかね?
背凭れが有ると…不思議と落ち着くだろう?
…今夜の話はこれでお終い。
さぁ…それでは2本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…
……有難う……また次の夜の御訪問を、楽しみにしているよ。
道中気を付けて帰ってくれ給え。
いいかい?……くれぐれも……
……後ろを振り返らないようにね…。
『荒俣宏の20世紀世界ミステリー遺産(集英社、刊)』より、記事抜粋。
どうぞどうぞ、席はちゃぁんと用意してあるよ。
さあ、こちら……いっとう奥が、貴殿の席だ。
そう…そうやって壁に凭れて座った方が、背中に安心感が持てて良いだろう?
さてと……用意が整った所で、2話目を話すとしようか。
私には子供の頃から憧れてる幽霊屋敷が3軒有ってね。
1軒目は昨夜話した『ボーリィ牧師館』。
2軒目はアメリカ、シリコン・バレーに在る、『ウィンチェスターハウス』。
3軒目はイギリスに在る、『バークリー・スクエア50番地』。
今夜は2軒目の『ウィンチェスターハウス』を紹介しよう。
IT産業の中心地、シリコン・バレー。
ハイテク企業建ち並ぶ街の中、周囲から浮く様に建つ奇怪な屋敷、『ウィンチェスターハウス』。
あまりの奇怪さに、1974年、カリフォルニアから州の史跡に指定された程だ。
どの様に奇怪なのか?
…それを説明する前に先ず、かつてこの屋敷の女主人だった人物について、語った方が良いだろう。
その女主人の名前は、『サラ・ウィンチェスター』…新型ライフル銃の販売で莫大な財をなした、ウィンチェスターの妻だ。
1866年、オリヴァー・フィッシャー・ウィンチェスターという男が、新型ライフル『ウィンチェスター銃』の特許を手にし、売り捲った。
この新型銃は彼が発明した訳ではなかったが、製造販売権を持っていた事で、銃を売ってあがる利益は、悉くウィンチェスターの財産となった。
南北戦争から第一次世界大戦迄、ウィンチェスター銃は合衆国の軍隊に採用された公式銃であった為、彼と一家は当時の金で2千万ドルを軽く超える蓄えを拵えたそうだ。
さて、オリヴァーには『ウィリアム』という名の息子が居た。
商才が相当有った男らしく、『ウィチェスター銃』を世界的ヒット商品としたのは、この息子の手腕に因るらしい。
そのウィリアムが1862年9月に、父方の遠戚に当る『サラ・パーディー』という名の女性と結婚した。
小柄ではあるが美しい女性で、四か国語を自在に操り、音楽の才能にも溢れた、名門の令嬢だったらしい。
2人が結婚してから4年後、家業のライフル銃製造が大当りした事も有って、若い夫婦はコネティカット州で幸せな、しかし多忙な日々を送っていた。
所が、経済的大成功した身代りかと思える様な個人的不幸が、次々とサラや一家を襲った。
1866年に出産した女の子が、僅か1ヵ月で死んでしまい、1881年には夫のウィリアムも過労が祟り、肺結核を患って世を去ったのだ。
愛する家族と死に別れ……サラは悲しみの底へ突落された。
さて、彼女の生きた時代、19世紀のアメリカでは、心霊ブームが吹荒れていた。
降霊会があちこちで開催され、所謂『こっくりさん』等の方法で、死者との交信が頻繁に実験されていた。
夫を失って2年後…当時44歳になっていたサラも、ボストンで名の知れた霊媒を尋ね、死後の国に居る娘や夫の話を聞こうとした。
しかし、そこで思いもかけない『警告』を聞かされてしまう。
「ウィンチェスター夫人、貴女は西海岸へ行って、豪華で美しい家を建てねばなりません。
そして…その家の建築を決して止めてはなりません。
昼も夜も、建て続けなければいけないのです。
これをしなければ、貴女は直ぐに死ぬでしょう。」
入神状態の霊媒からそう言われて、サラはびっくりした。
理由を訊くと、「貴女の家族が売ったウィンチェスター銃で、何千何万の人が死にました。その償いは、貴女にしか出来ないからです。」――
――サラは、恐ろしさに凍りついた。
ウィンチェスター銃に撃ち殺された人々の呪いが、一族に掛かっている事実を知ったからだ。
1883年、彼女はコネティカット州ニューヘブンの豪邸を棄て、毎日千ドルにも上る特許収入と手持ちの莫大な財産を持って、カリフォルニア州サンノゼへ引越した。
敷地は161エーカー(1エーカーは約4047㎡)も在ったが、建物はたった8部屋しか無い農場…しかし、これから死ぬまで家を建て続けねばならない身にとっては、却って遣り甲斐の有る小さな家だった。
以後、サラは1922年に亡くなるまで、ほぼ30年に渡り、それこそ何かに取憑かれたかの如く、家を建て増しして行った。
建物に用いる材料は最高級品ばかり。
その上に、暖炉は47個、階段は40ヶ所、バスルーム13ヵ所を始め、沢山の台所や居間等を、『霊の指示』通りに意味無く造り続けた。
家族を亡くして以来、降霊術に凝り出したサラは、その内に自分でも霊と接触出来る様になったという事で、日々全てを霊からの警告通りにこなして行ったのだ。
霊の御告げは、奇怪な指令に満ち溢れていた。
挙げれば、「正面扉は俗人に一切使わせるな」という命令。
1903年にセオドア・ルーズベルト大統領がこの屋敷を訪れたそうだが、その時も脇の出入口を使わされたらしい。
…大統領で在りながら俗人扱いされたルーズベルト氏は、さぞや心中複雑だった事であろう。
サラは「人に顔を見せるな」とも指示され、常に顔をベールで隠していた。
或る時地下室で、ベールを取った彼女の顔を見てしまった職人達は、即刻解雇されてしまったという。
階段は13段、天井は13枚の板、シャンデリアの蝋燭は13灯という風に、『13』の数にも拘った。
シャワーはこの館に1つだけ、13番目のバスルームの、13枚目の窓に設置された。
鏡は屋敷中にたった2枚しか無かったり、階段一段の高さは僅か4.5㎝しか無かったり、上って行くと行き止まりの階段、開けると壁で塞がっている扉、落し穴、迷路、護符の装飾、毎晩1時と2時に鳴らす鐘等、悪霊が戸惑う様な仕掛を至る所に取り付けた。
この鐘…正確な時間に鳴らさないと悪霊に効かないという事で、鐘楼の近くに天文観測台を造り、クロノメーター(経線儀)で経度測定をしながら、毎日時刻を合わせていたらしい。
また、家具は全て上等で立派な物ばかりだが、趣味の悪い蜘蛛の巣柄等のデザインになっている。
これは彼女に友好的な霊を喜ばせる為の品物だったそうだ。
そして、サラが日々霊と会話していたという、『青い降霊室』。
此処は隠し戸と隠し通路が在る上に、壁と壁に挟まれた場所に在って、誰にも近付けないようなっていた。
彼女は此処に隠れ込み、霊を呼び出し、『お筆先』で霊告を書き留めていたそうだ。
霊から、明日の増築場所を指定する通信が有ったらしい。
増築に次ぐ増築に明け暮れていたサラの身に、1906年、とても恐ろしい事件が発生した。
『サンフランシスコ大地震』だ。
家が倒壊する事は無かったが、5階~7階の3階分だけが、屋根毎滑り落ちてしまった。
この地震で最大の被害を受けた部屋は、サラの寝室だった。
扉が壊れ、外へ出られなくなってしまったという。
彼女は壊れた寝室に幽閉され、数時間行方不明となった。
泣けど叫べど外へは声が届かない、完全防音構造にしてあったからだそうだ。
…これ以後、屋敷は4階以上高くなる事が無くなった。
『地下のワイン室事件』というのも有る。
或る時サラが地下室へ行くと、ワイン倉の壁に黒い手形がベットリと捺されていた。
この手形が彼女を恐ろしい形相で睨み付けていたらしい。
サラは、「もうワインを呑むな!」という霊からの警告と理解し、地下のワイン庫へ通じる入口を塗り込めてしまった。
地図が無ければ歩けない屋敷の中、一体彼女が何をしていたのか…外部の人間には想像すら付かなかった。
この巨大な160部屋の怪建築に住んでいたのは、サラと彼女の姪、そして13人の大工、10人のメイド、8人の庭師…合計して33人のみだった。
金銀財宝に溢れた豪邸であったにも関わらず、サラの生前中、泥棒に侵入されるという事件は1度も起きなかったそうだ。
しかし彼女はその財産を全て浪費する事無く、街に多くの寄付を行い、社会奉仕も忘れなかった。
夫の死因だった肺結核を治療するサナトリウムを、街に建造してまでいる。
安らかな死と、来世で愛する夫や娘に出会える事を、心から願っていたサラ…恐らく社会奉仕は、その願いを叶える為に積んでいた善行だったのではないかと言われている。
サラ・ウィンチェスターは1922年、82歳で亡くなった。
死ぬ日まで1日たりとも休まずに増築を続けた。
こうして、「20世紀で最も手の懸かった個人住宅」と言われる家が出来上がった。
現在この『ウィンチェスターハウス』では、内部を一巡する1時間ツアーを実施している。
ガイドツアーは基本的に毎日行われていて、床に貼り付けられた窓、天井にぶつかる階段、開けると壁になっているドア等、さながら忍者屋敷並の仕組を見学出来る。
カリフォルニアに遊びに来た際は、是非訪ねてみると良いだろう。
…人は死を恐れる。
この世に生を享けたからには、必ず免れられない運命と知りつつ、恐れる…。
それは、『見えない』からだ。
例えば貴殿は…背後が見えない事を、恐ろしく思わないかね?
背凭れが有ると…不思議と落ち着くだろう?
…今夜の話はこれでお終い。
さぁ…それでは2本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…
……有難う……また次の夜の御訪問を、楽しみにしているよ。
道中気を付けて帰ってくれ給え。
いいかい?……くれぐれも……
……後ろを振り返らないようにね…。
『荒俣宏の20世紀世界ミステリー遺産(集英社、刊)』より、記事抜粋。