やあ、いらっしゃい。
今夜はあの有名な『グリム童話』から紹介しよう。
最近、『本当は残酷なグリム童話』等の書籍が刊行され、話の裏に潜む恐怖にスポットが当てられるようになったが、表に見える残酷さにばかり注目され話題にされるのは、著者の思惑に反するのではないかと自分は考えている。
グリム兄弟、特に兄の『ヤーコプ・グリム』が目指したのは、あくまでドイツに伝わる土俗話――後年、蒐集した中には、フランスの土俗話もかなり雑じってるとの指摘が有ったが――を、出来る限り伝承されているままに蒐集する事。
時に残酷な表現が目に付こうとも、氏は『有りの侭』に拘ったのだ。
正確に言うと『グリム童話』は、ただの『童話』ではない。
正しくは『ドイツの子供と家庭の為の童話』であり、ドイツの家庭で親と子供が話し合い伝えて行くようにと、兄弟が世に送り出したドイツ伝承話集だ。
しかし1812年初版が出た当時から、蒐集された話の中に残酷な物が雑じっていて怪しからんと、かなりの批判が有ったと聞く。
出版を世話した『アヒム・フォン・アルニム』は、読んだ親達から批判を受け、「どうして、こんな子供向けでない話を、『子供と家庭の為の童話集』と言うような本に入れたのか?」と、兄弟に意見したそうだ。
それに対してヤーコプ・グリムは、1813年1/28付の手紙で、こう述べたと伝わっている。
「子供は、昔から家庭の一員です。
全体としての家庭から子供を切り離して、1つの部屋に閉じ込める様な事は、してはいけません。
そもそもこれらの『子供の為のメルヘン』は、子供の為に考え出され、作り出された物でしょうか?
私はそうは思いません。
私達に啓示され、私達が受継いで来た教えや指図は、老いも若きも受容れる事が出来ます。」
「子供に酷い話を聞かせると、子供が真似て悪い事をする恐れが有ると言うなら、子供の目に目隠しをして、悪い真似をしそうな物は何も見えないように、1日中見張って居るより他無いでしょう。
でも、そんな心配は要りません。
子供の人間的なセンスが、そんな猿真似をさせる訳が有りません。」
現実世界には、暗く、辛く、恐い事が沢山転がっている。
創作世界でどんなに残酷な表現を見せても、現実有った凄惨な事件の前では色褪せてしまう。
目を覆う様な辛く恐ろしいものに、蓋をして見えないようにして…そんな育て方で、果して子供は現実の苦難に陥った時、乗り越える事が出来るだろうか?
今夜話す物語は、グリム兄弟のそんな思惑を心に置いて、聞いて頂ければ幸いに思う。
西フリースラントに在る、フラーネカーと言う町で、或る時子供達が遊んでいました。
5、6歳の男の子と女の子達でした。
その内、1人の男の子が肉屋になり、もう1人の男の子がコックになり、また別の男の子が豚になるという事になりました。
女の子は、1人がコックになり、もう1人がコックの手伝いをやる事になりました。
手伝いは、ソーセージが作れるように、豚の血を器に受ける事になりました。
さて肉屋は、打ち合せた通り、豚に寄って行き、その子を引き倒して、喉を切り開きました。
するとコックの手伝いが、血を器に受けました。
丁度その時通り掛った市の参事会員が、この酷い有様を見て、肉屋の子を、その場から市長の家へ連れて行きました。
市長は参事会員を直ぐに全員呼び集めました。
どうしたら良いか、皆で知恵を絞りましたが、良い考えは浮びませんでした。
というのは、子供が無邪気な気持ちでやった、という事が解っていたからです。
中に賢い年寄が居て、良い案を出しました。
「裁判長は、片方の手に真っ赤な林檎を持ち、もう一方の手に金貨を持ちなさい。
それから子供を呼んで、両手を一緒に、その子の方に差し出して御覧。
林檎を取ったら無罪とするが、金貨を取ったら死刑にするというのは、どうだろう。」
その通りやってみると、子供はニコニコしながら林檎を取ったので、無罪と認められ、何の罪も受けませんでした。
初版に載せられていた、この『子供達がごっこをした話』は、しかし世論に抗い切れなかったのか、第2版では残念ながら削られている。
近年議論されてる少年法にも生かせそうな、示唆に富んだ良い話だと思うのだがね。
子供は確かに純粋だが、純粋故の残酷さを持ち合わせてもいるのだから。
今夜の話はこれでお終い。
…それでは23本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…
……有難う……どうか気を付けて帰ってくれ給え。
いいかい?……くれぐれも……
……後ろは絶対に振り返らないようにね…。
『完訳 グリム童話集(ヤーコプ・グリム、ヴィルヘルム・グリム、編著 岩波文庫、刊)』より。
今夜はあの有名な『グリム童話』から紹介しよう。
最近、『本当は残酷なグリム童話』等の書籍が刊行され、話の裏に潜む恐怖にスポットが当てられるようになったが、表に見える残酷さにばかり注目され話題にされるのは、著者の思惑に反するのではないかと自分は考えている。
グリム兄弟、特に兄の『ヤーコプ・グリム』が目指したのは、あくまでドイツに伝わる土俗話――後年、蒐集した中には、フランスの土俗話もかなり雑じってるとの指摘が有ったが――を、出来る限り伝承されているままに蒐集する事。
時に残酷な表現が目に付こうとも、氏は『有りの侭』に拘ったのだ。
正確に言うと『グリム童話』は、ただの『童話』ではない。
正しくは『ドイツの子供と家庭の為の童話』であり、ドイツの家庭で親と子供が話し合い伝えて行くようにと、兄弟が世に送り出したドイツ伝承話集だ。
しかし1812年初版が出た当時から、蒐集された話の中に残酷な物が雑じっていて怪しからんと、かなりの批判が有ったと聞く。
出版を世話した『アヒム・フォン・アルニム』は、読んだ親達から批判を受け、「どうして、こんな子供向けでない話を、『子供と家庭の為の童話集』と言うような本に入れたのか?」と、兄弟に意見したそうだ。
それに対してヤーコプ・グリムは、1813年1/28付の手紙で、こう述べたと伝わっている。
「子供は、昔から家庭の一員です。
全体としての家庭から子供を切り離して、1つの部屋に閉じ込める様な事は、してはいけません。
そもそもこれらの『子供の為のメルヘン』は、子供の為に考え出され、作り出された物でしょうか?
私はそうは思いません。
私達に啓示され、私達が受継いで来た教えや指図は、老いも若きも受容れる事が出来ます。」
「子供に酷い話を聞かせると、子供が真似て悪い事をする恐れが有ると言うなら、子供の目に目隠しをして、悪い真似をしそうな物は何も見えないように、1日中見張って居るより他無いでしょう。
でも、そんな心配は要りません。
子供の人間的なセンスが、そんな猿真似をさせる訳が有りません。」
現実世界には、暗く、辛く、恐い事が沢山転がっている。
創作世界でどんなに残酷な表現を見せても、現実有った凄惨な事件の前では色褪せてしまう。
目を覆う様な辛く恐ろしいものに、蓋をして見えないようにして…そんな育て方で、果して子供は現実の苦難に陥った時、乗り越える事が出来るだろうか?
今夜話す物語は、グリム兄弟のそんな思惑を心に置いて、聞いて頂ければ幸いに思う。
西フリースラントに在る、フラーネカーと言う町で、或る時子供達が遊んでいました。
5、6歳の男の子と女の子達でした。
その内、1人の男の子が肉屋になり、もう1人の男の子がコックになり、また別の男の子が豚になるという事になりました。
女の子は、1人がコックになり、もう1人がコックの手伝いをやる事になりました。
手伝いは、ソーセージが作れるように、豚の血を器に受ける事になりました。
さて肉屋は、打ち合せた通り、豚に寄って行き、その子を引き倒して、喉を切り開きました。
するとコックの手伝いが、血を器に受けました。
丁度その時通り掛った市の参事会員が、この酷い有様を見て、肉屋の子を、その場から市長の家へ連れて行きました。
市長は参事会員を直ぐに全員呼び集めました。
どうしたら良いか、皆で知恵を絞りましたが、良い考えは浮びませんでした。
というのは、子供が無邪気な気持ちでやった、という事が解っていたからです。
中に賢い年寄が居て、良い案を出しました。
「裁判長は、片方の手に真っ赤な林檎を持ち、もう一方の手に金貨を持ちなさい。
それから子供を呼んで、両手を一緒に、その子の方に差し出して御覧。
林檎を取ったら無罪とするが、金貨を取ったら死刑にするというのは、どうだろう。」
その通りやってみると、子供はニコニコしながら林檎を取ったので、無罪と認められ、何の罪も受けませんでした。
初版に載せられていた、この『子供達がごっこをした話』は、しかし世論に抗い切れなかったのか、第2版では残念ながら削られている。
近年議論されてる少年法にも生かせそうな、示唆に富んだ良い話だと思うのだがね。
子供は確かに純粋だが、純粋故の残酷さを持ち合わせてもいるのだから。
今夜の話はこれでお終い。
…それでは23本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…
……有難う……どうか気を付けて帰ってくれ給え。
いいかい?……くれぐれも……
……後ろは絶対に振り返らないようにね…。
『完訳 グリム童話集(ヤーコプ・グリム、ヴィルヘルム・グリム、編著 岩波文庫、刊)』より。