瀬戸際の暇人

今年も偶に更新します(汗)

異界百物語 ―第5話―

2006年08月11日 21時07分17秒 | 百物語
やぁ、いらっしゃい…今夜も待っていたよ。

さぁさ席に着いて、早速始めようじゃないか。


今夜はあの『怪談』で有名な、小泉八雲の著した書物からの話だ。

1度くらい耳にした事が有るかもしれないね。



伯耆の国の黒坂村の近くに、『幽霊滝』と呼ばれる滝が在る。

どうして、そう呼ばれるのか、私は知らない。

滝壺の近くに、氏神を祀った小さな社が在って、土地の人達は、それを滝大明神と名付けている。

この社の前に、木で拵えた小さな賽銭箱が有る。

この賽銭箱について、1つの物語が有る。


大変寒い或る晩の事、黒坂の或る麻取場に雇われている女房や娘達が、1日の仕事を済ませた後、麻取部屋の大きな火鉢の周りに集まって、怪談に打ち興じていた。

彼此十余も話が出た時には、もう大概の者は、何となく気味が悪くなっていた。

すると1人の娘が、そのぞくぞくする様な恐さから湧く快感を、一層強める積りで、「今夜、これから幽霊滝まで、たった1人で行ってみたらどう?」と大声で言い出した。

この思い付きを聞いて、皆わっと声を上げたが、その後直ぐ、上擦った声で、どっと笑い出した。

……「今日、私が取った麻を、行った人にすっかりあげるよ」と、一座の内の1人が、ふざける様に言った。

すると、「私もあげるよ」と、他の1人が言った。

「私も」と、また1人が言った。

「皆、賛成」と、更に他の1人が、きっぱりと言い放った。

……すると、麻取りの女達の中から、安本お勝と言う、大工の女房が立ち上った。

お勝は、2歳になる1人息子を、暖かそうにねんねこに包んで、背中に寝かし付けていた。

「ねえ、皆さん」と、お勝は言った。

「本当にあんた方が、今日取った麻をすっかり私にくれるんなら、これから幽霊滝に行って来るよ」

お勝のこの申し出を聞くと、一座の者達は、驚いた様な、蔑む様な声を出したが、お勝が幾度も繰返して言うので、とうとう皆、それを本気に取上げた。

麻取りの女達は、もしお勝が幽霊滝に行くようなら、今日取った分の麻はお勝にやると、一人一人、次々に言った。

「でも、お勝さんが本当に幽霊滝に行ったかどうか、皆にどうして判るのさ?」と、甲高い声で、誰かが尋ねた。

「そりゃね、氏神様のお賽銭箱を、持って来て貰うんだよ。それが何よりの証拠になるからね」と、麻取りの女達から、御婆さんと呼ばれている年取った女が答えた。

「持って来るよ」と、お勝は大声で言った。

そして、眠った子をおぶったまま、通りへ飛び出した。


その夜は酷く寒かったが、晴れていた。

お勝は、人通りの無い往来を、急いで歩いて行った。

身を切る様な寒さに、どの家も表戸を堅く閉めていた。

やがて、村から出て、お勝は、街道をひた走りに走って行った。

両側共凍て付いた稲田で、ひっそりと静まり返り、星明りが射しているだけだった。

30分程、広々とした街道を辿ってから、崖の下で曲っている狭い道へ折れた。

先に行くにつれて、道は益々暗く、益々凸凹が酷くなったが、お勝は良く勝手を心得ていた。

間も無く、滝の微かな響きが聞えて来た。

それから、更に2、3分ばかりも歩くと、道は広まって峡谷となり、微かな響きが、急に轟々鳴り渡る轟きに変った。

そして、目の前の、一面の暗闇の内に、滝の細長く垂れた水明りが、ぼおっと浮き出して見えた。

小さな社もぼんやり見え、賽銭箱も目に止った。

お勝は前に飛び出して、手を差し伸ばした。


……「おい、お勝さん」と、水の砕ける音を圧して、突然、警告する様な声が呼び掛けた。


お勝は、恐ろしさに気も遠くなる思いで、その場に立ち竦んだ。

「おい、お勝さん」と、再びその声が響き渡ったが、今度は前よりも一層、脅す様な語気を帯びていた。

しかし、お勝は本当に大胆な女だった。

直ぐ様気を取り直すと、賽銭箱を引っ掴んで駈出した。

もう別に、脅し付ける声も聞えなければ、姿も見えず、兎も角も街道まで辿り着いた。

此処で、お勝はちょっと足を止めて、ほっと息を吐いた。

それから、しっかりした足取りで、ひた走りに走り続けた。

こうして、とうとう黒坂村に着くと、麻取場の戸を激しく叩いた。

お勝が息を喘ぎながら、賽銭箱を手に持って、入って来た時、女房や娘達は、どんなに声を上げて、驚いた事か!

皆息を殺して、お勝の話を聞いた。

そして、幽霊滝の中から、何者かが2度までも自分の名を呼んだと言う話を、お勝がした時には、皆同情する様に、金切声を上げた。

……まあ、なんという女だろう。

本当に度胸の据わったお勝さんだ。

麻を貰うだけの値打は有るよ。

……その時、御婆さんが大声で言った。

「でも、さぞや坊やは寒かったろう。さあ、この火の側へ連れて来なさいよ」

「もうお腹が空いたろう」と、母親は言った。

「直ぐにお乳をやらなくちゃ」

「可哀想に、お勝さん」と、御婆さんは、子供を包んだねんねこの紐を解く手伝いをしてやりながら言った。

「おや、背中がぐっしょり濡れてるよ」

それから、御婆さんは、しわがれ声で喚いた。

「あらっ!血が……」

解いたねんねこの中から、床の上に落ちた物は、血に塗れた一括りの、赤ん坊の着物だった。

その着物からは、2本のごく小さな鳶色の足と手とが、ぬっと出ているばかりだった。


子供の頭は、もぎ取られていた……




今と違って闇が濃かった頃…人々は自然物全てに神が宿ると考えていた。

山峡深くは『聖域』と捉え、決して足を踏み入れないようにして気を付けていた…

……そんな時代の話だ。


…今夜の話はこれでお終い。


さぁ…それでは5本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…


……有難う……また次の夜の訪問を、楽しみにしているよ。

道中気を付けて帰ってくれ給え。


いいかい?……くれぐれも……


……後ろは振り返らないようにね…。



『怪談・奇談(小泉八雲ことラフカディオ・ハーン、著 角川文庫、刊)』より。
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