瀬戸際の暇人

今年も偶に更新します(汗)

異界百物語 ―第21話―

2006年08月27日 21時38分00秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。

8月最後の日曜日、家族で遠出した人も多いだろう。

暑い中、混雑に巻き込まれて、汗をたっぷり流されたのではないかな?

そんな貴殿に、一服の清涼剤をお届けしよう。


今夜お話しするのは、小泉八雲の『破約』……脅かす訳じゃないが、氏が著した作品中で、最も恐い話に思える。
恐がりな方は、この先、極力お聴きにならない方が良いだろう……



「私、死ぬのは厭いませぬ」と臨終の妻が言った。

「今、ただ1つだけ、気に懸かる事が有ります。
 私の代りに、何方がこの家に来られるのか、知りたいのです。」

「ねえ、お前」と、悲嘆に暮れて、夫は答えた。

「誰もお前の代り等、この家に入れはしないよ。
 私は、決して再婚等はしないから。」

こう述べた時、夫は本心から話したのであった。

死に掛けている妻を愛していたからである。

「武士の信義に懸けて?」と妻は、弱々微笑みながら尋ねた。

「武士の信義に懸けてもだよ」と夫は、蒼白くやつれた顔を撫でてやりながら答えた。

「では、貴方」と妻は言った。

「私を、お庭の中に埋めて下さいますね。

 ――宜しいでしょう?

 ――あの向うの隅に2人で植えた梅の木の傍にね。

 私、ずっと前から、この事をお願いしたかったのですけれど、また御祝言でもなさるような事が有れば、そんな近くに墓が在るのは、お嫌だろうと思ったものですから。
 所が今、私の代りに、誰もお迎えなさらないと、約束して下さいました。

 ――それで、躊躇わずに、お願い申しても良いと思うのです。

 ……私を本当に、お庭に埋めて下さいますね。

 そうすれば、時々、お声も聞かれましょうし、春になれば、花も見られましょうから。」

「お前の望み通りにしてあげよう」と夫は答えた。

「しかし、今葬いの事なんか言うのは、止そうではないか。
 全く望みが無いという程、病気が重い訳ではないのだからね。」

「いいえ、駄目」と彼女は答えた。

「この朝の内に死にます。

 ……でも、お庭に埋めて下さいますわね?」

「良いとも」と夫は言った。

「2人で植えた梅の木陰にね。

 ――そして、立派な墓を建ててあげよう。」

「それから、小さな鈴を1つ下さいません?」

「鈴だって?」

「ええ。
 小さな鈴を1つ、棺の中へ入れて頂きたいのです。

 ――巡礼が持っているような小さな鈴ですよ。

 そうして頂けます?」

「では、小さな鈴をあげよう。

 ――それから、他に何でも欲しい物が有れば。」

「他に、欲しい物は御座いません」と妻は言った。

「ねえ貴方、貴方は何時も私に、大変優しくして下さいましたわね。
 で、今、私、幸福に死ねますわ。」

こう言って、妻は目を瞑って死んだ。

――疲れた子供が寝入る様に、安らかだった。

美しい死顔で、顔には微笑が浮んでいた。

妻は、庭の中の、生前好きだった木の陰に、埋められた。

そして、小さな鈴も、一緒に埋められた。

墓の上には、家の定紋の付いた立派な墓石が建てられ、それには「慈海院梅花照影大姉」という戒名が刻まれた。

しかし、妻が死んでから1年と経たぬ内に、侍の親戚や朋輩達が、しきりに再婚を勧め出した。

「あんたはまだ若い」と彼等は言った。

「それに1人息子で、子供も無い。
 妻を持つのは、侍の義務である。
 もし子供が無くて死んだら、誰が祖先を祭ったり、供え物をしたりするのか。」

幾度もこのような忠告を受けた末、侍はとうとう再婚を納得した。

花嫁は僅か17歳だった。

庭の中の墓に、無言の内に責められる思いはしたけれど、新しい妻を、心から愛する事が出来た。


結婚してから7日目迄は、若い妻の幸福を掻き乱す様な事は、何も起らなかったが、その日の夜、夫は城中に出仕せねばならぬ最初の晩の事、彼女は言い様の無い不安な気持ちになって、理由は解らないけれど、何となく恐ろしかった。

床に就いても、眠られなかった。

辺りの空気が妙に重苦しく、嵐の前に時折有る様な、何とも名状し難い重苦しさが漂っていた。

丑の刻の時分に、外の闇の中に、チリンチリンという鈴の音――巡礼の鈴の音が、聞えて来た。

それで花嫁は、こんな時刻に、武家屋敷を、何の巡礼が通るのかと、訝しく思った。

やがて、暫く途絶えた後、鈴はずっと近くで響いた。

明らかに巡礼は、家に近付いて来ているのであった。

――それにしても、どうして道も無い裏手から来るのであろうか。

……突然、犬が何時もと違った恐ろしい声で、鳴いたり吠えたりした。

そして花嫁は、夢の恐さに似た様な、恐ろしい気持ちに襲われた。

……その鈴の音は、確かに庭の中だった。

……花嫁は召使を起そうと思って、立ち上ろうとした。

しかし、起上がれなかった。

――身動きも出来なければ、声も出なかった。

……そして鈴の音は、段々近く、更にずっと近くなって来た。

――そして、ああ、その犬の吠え方といったら!

……やがて、忍び込む影の様に、1人の女が――どの戸も堅く閉ざされ、どの襖も動かないのに――1人の女が、経帷子を纏い、巡礼の鈴を持って、すっと部屋の中に、入って来た。

入って来た女には、目が無かった。

――死んでから、余程になるからである。

それに、乱れた髪の毛は、顔の辺りに降掛っていた。

そして、この女は、乱れた髪の間から、目も無いのに眺め、舌も無いのに物を言った。

「この家の中に、

 ――この家の中に居てはならぬ。

 此処では、まだ私が主婦なのだ。
 出て行っておくれ。
 だが、出て行く訳は、誰にも話してはならぬ。
 もしあの人に話したら、そなたを八つ裂きにしてしまうぞ!」

そう言って、幽霊は消えた。

花嫁は恐ろしさのあまり、気を失ってしまった。

そして、明け方迄、花嫁はそのままになっていた。


にも拘らず、麗かな日の光の中では、花嫁は自分が見たり聞いたりした事が、果して事実だったかどうか疑った。

それでも、戒められた事の記憶は、尚重く心に圧し掛かっていたので、幻の事は、夫にもその他の誰にも、思い切って話せなかった。

しかし、自分では、ただ嫌な夢を見て、その為に気持ちが悪くなったのだと、どうにか納得出来るようになった。

しかしながら、次の晩には、最早疑う事は出来なかった。

またもや丑の刻になると、犬が吠えたり、鳴いたりし始め、またしても鈴が鳴り響き、ゆっくりと庭の方から近付いて来た。

――またもや、これを聞き付けた花嫁は起上がって、声を立てようとしたが、駄目だった。

今度も、死人が部屋に入って来て、シュウシュウいう掠れ声で言った。

「出て行っておくれ。
 だが、何故出て行かねばならんか、誰にも話してはならぬ。
 たとい、そっとあの人に話しても、そなたを八つ裂きにしてしまうぞ!」

今度は、幽霊は、寝床の直ぐ傍までやって来て屈み込み、ぶつぶつ言って、顰め顔をした……

明くる朝、侍が城から帰ると、若い妻は、夫の前にひれ伏して嘆願した。

「お願いで御座います」と妻は言った。

「こんな事を申上げるのは、恩知らずで失礼で御座いますが、里に帰りとう御座います。
 直ぐに、里に帰りたいと存じます。」

「此処で、何か面白くない事でも有るのか」と、夫は心から驚いて尋ねた。

「わしの留守の間に、誰か辛く当りでもしたのか。」

「そんな事は御座いません――」と彼女は、啜り泣きながら答えた。

「こちらでは、何方も、この上無く優しくして下さいました。

 ……でも、このまま、貴方の妻になっては居られません。

 ――お別れせねばなりません……」

「お前」と、夫は酷く驚いて叫んだ。

「この家の内で、お前が面白くないという、何かの謂れが有るのは、真に心苦しい。
 だが、何故お前が出て行きたがるのか、想像さえ出来ないのだ。

 ――誰もお前に、辛く当りもしないのに。

 まさか、離縁して貰いたい、と言うのではないだろうね。」

若妻は身を震わせて、泣きながら答えた。

「離縁して下さらなければ、命が無くなります。」

夫は、暫くの間黙っていた。

――どうしてこんな思いもかけぬ事を言い出したのだろうかと、その訳を思い浮かべてみようとしたが、解らなかった。

そこで、何の感情も顔に出さずに答えた。

「お前の方に、何の落度も無いのに、今親元へ帰しては、誠に不都合な仕打ちの様に思われる。
 お前のそうした願いのしかとした訳――わしがその事を立派に弁明出来る様な理由を、話してくれるなら、離縁状も書けようが、しかし、お前の方に理由が無ければ――はっきりとした理由が無いのでは、離縁する訳には行かぬ。

 ――家の家名が、傷付けられないようにせねばならんからね。」

そこで、若妻は、話さねばならぬという気持ちになった。

そして、何もかも打ち明け、恐ろしさのあまり、こう付け加えて言った。

「貴方にお知らせした以上、あの人は私を殺します。

 ――きっと、私を殺します……」

勇敢な男で、幽霊等殆ど信ずる気になれなかったが、侍は、一時は酷く驚いた。

けれども、この事柄を簡単で自然に解決する方策が、直ぐ心に浮んで来た。

「ねえ、お前」と夫は言った。

「お前は今、大層神経が高ぶっているが、誰かに、つまらぬ話を聞かされたんだろう。
 ただ、この家で、悪い夢を見たからと言うだけで、離縁する訳には行かぬ。
 だが、わしの留守中に、そんな風に苦しめられていたのは、本当に気の毒だった。

 今晩もまた、わしは城に詰めていなければならんが、お前1人にしてはおかないよ。
 家来2人に言い付けて、お前の部屋を張り番させよう。
 そうすれば、お前も安心して眠れるだろう。
 2人とも立派な人だから、出来るだけ気を付けてくれるよ。」

こうして、夫がひどく思い遣り深く、優しく言ってくれたので、新妻は恐がったのを恥しく思い、家に留まる事に決めた。


若い妻を任されて、家に留まった2人の家来は、勇敢で誠実な大男で、女や子供達の保護者として、経験の有る者達だった。

2人は、花嫁の気を引き立てようと思って、面白い話をして聞かせた。

花嫁は、長い間彼等と話したり、陽気な冗談に笑ったりして、恐い事等、殆ど忘れてしまった。

とうとう花嫁が横になって眠りに就くと、2人の武士は、その部屋の片隅の、屏風の後ろに座を占めて、碁を打ち始めた。

そして話も、花嫁の邪魔にならぬように、小声でした。

花嫁は幼児の様に眠った。

しかし、丑の刻になると、花嫁はまたもや、恐ろしさに呻き声を立てながら、目を覚ました。

――鈴の音が聞えたからである。

……それはもう近くに来ていた。

そして、段々近付いて来た。

花嫁は跳ね起きて、悲鳴を上げた。

しかし、部屋の中には、何1つ動く物は無かった。

――ただ死の様な沈黙だけで、

――沈黙は広がり、

――沈黙は深まるばかりだった。

――花嫁は武士の所へ飛んで行った。

彼等は碁盤の前に坐っていた。

――身動きもしないで、互いに、じっと目を据えて、見詰め合っていた。

花嫁は、大声で2人に呼掛けた。

2人を揺す振った。

が、彼等は凍り付いた様に動かなかった。


後で、2人の語る所によると、彼等は鈴の音を聞いた。

――花嫁の叫び声も聞いた。

――彼女が自分達を揺起そうとしたした事さえも、解っていた。

――にも拘らず、彼等は身動きも出来なければ、口も聞けなかった。

その瞬間から、聞く事も、見る事も出来なくなって、妖しい眠りに取り憑かれたのであった。


明け方になって、侍が花嫁の部屋に入ってみると、消えかかった灯火の光で、若妻の首の無い死体が、血溜りの中に横たわって居るのが、目に付いた。

2人の家来は、まだ打ち掛けの碁の前に坐ったまま、眠っていた。

主人の叫び声に、2人は跳ね起き、床の上の惨たらしい光景に、呆然と目を見張った……

首は何処にも見当らなかった。

――そして、その物凄い傷から見ると、それは斬り取られたものではなくて、もぎ取られた事が判った。

血の滴りは、その部屋から縁側の角まで続き、そこの雨戸は、引き剥がされた様になっていた。

3人は血の跡を辿って庭へ出た。

――一面の草地を越え――砂場を通って――周りに菖蒲を植えた池の岸に沿って行き、

――杉や竹の陰気な木陰の下へ出た。

そして、角を曲ると、ふいに、蝙蝠の様な声を立てる魔物と、面と向ってまともにぶつかった。

埋めて久しくなる女の姿で、墓の前に突っ立ち、

――一方の手には鈴を掴み、もう一方の手には、血の滴る首を掴んでいた。

……ほんの、暫くの間、3人は痺れた様に立ち竦んだ。

やがて、家来の1人が、念仏を唱えながら、刀を引き抜き、その姿目掛けて斬り付けた。

忽ち、それは地上に崩れ落ち、

――ぼろぼろの経帷子と骨と髪の毛との、空しい破片となった。

――そして、その残骸の中から、鈴が鳴りながら転がり出た。

しかし、肉の無い骨ばかりの右手は、手首から斬り落されながら、尚ものたうち、その指はまだ、血の滴る首を掴んで、黄色い蟹の鋏が落ちた果物を掴んで離さぬ様に、引き毟り、ずたずたにしていた……


「これは酷い話だ」と私は、この話をしてくれた友人に言った。

「その死人の復讐は、

 ――いやしくも復讐するのなら――男に向ってやるべきだったと思います。」

「男達は、そう考えるのですが」と彼は答えた。

「しかし、それは女の考え方ではありません……」

友人の言う事は、正しかった。



…最後の氏と友人との会話が、妙な説得力を持って響きく。

そういえば四谷怪談のお岩さんも、女の方から祟り殺していたね。

「前妻が死んでる旦那の元には、三回忌を過ぎるまでは嫁に行かぬ方が良い」と、私の田舎でも実しやかに話されていた。

旦那の居る前では化けて出ようとしない辺り、前妻の女心が透けて見えるようだね。

自分の醜い姿を、愛する人には見せたくなかったのだろう。

約束は安易にするものではない…そういう教訓を含んでいる様にも思えるね。

余談だがこの話を元にして、楳図かずお氏が『おみっちゃんが今夜もやってくる』と言う恐怖漫画を描いている。


今夜の話はこれでお終い。


…それでは21本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…


……有難う……どうか気を付けて帰ってくれ給え。


いいかい?……くれぐれも……


……後ろは絶対に振り返らないようにね…。


『怪談・奇談(小泉八雲、著 田中三千稔、訳 角川文庫、刊)』より。

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