千の天使がバスケットボールする

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「雪」オルハン・パムク

2006-11-19 17:00:41 | Book
1990年代初頭のその日、トルコ北東部アルメニア国境に近い地方都市カルスでは、雪が無言でこの世の果てに降っているかのように孤独感がただよっていた。政治活動に挫折してドイツに亡命していた詩人Kaは、雇われ記者としてこの誰しもが忘れてしまったかのような故郷にたどりついた。彼の胸をしめつけるのは、貧困や絶望ではなく、深い孤独感だった。この都市では、イスラム主義と欧化主義の対立が激化し、市長殺害事件や少女の自殺事件が続いていた。
無神論者のKaは、学生時代からの憧れの女性イペッキと再会するやいなや激しい恋に落ちた。40代の入口にたつKaとイペッキ。人が本当に夢中になる恋とは、こうしたもの。大雪に交通が遮断されて陸の孤島のようになったカルスのホテル「雪宮殿」でKaは次々と詩をかき、やがてイペッキは彼とともにフランクフルトに旅立つためのトランクルームを用意するようになった。
ところが、カリスマ的な存在である”紺青”をリーダーとする過激なイスラム主義者たちによるクーデター事件が勃発し、イペッキの父や妹で宗教上の理由から髪をスカーフで覆う少女たちの憧れでもあり、”紺青”の恋人でもあるカディフェらとともに、宗教や政治の対立に翻弄される暴力にまきこまれれいくのだった。

タイトルどおりに、本書では「雪」がこの作家オルハン・パムクの作風に通じる、多くのモザイクのようにちりばめられた秀逸で寓話的なエピソードをつなげる象徴としてその役割を果たしている。Kaの脳裏にうかんだ「雪」は、その一片一片が自分の一生を何らかの形で見せていて、書きあげた詩「雪」も一生の意味を明らかにする点がなければならなかった。そしてイペッキにとっても、「雪」は彼女に人生の美しさと短さを思わせ、それぞれ敵対しているにも関わらず、人間は互いによく似ていること、宇宙と時間は広大で人間の世界は小さいことを感じさせた。
そして雪による交通遮断や電話の不通という密室の異常事態が、この小さな都市で凄惨なふたつの革命劇を進行させるというしかけは、本書のたくみな二重の構成を示している。さらにKaを主人公として3人称で語られていた物語が、後半でKaの友人であり成功した作家としてパムク自身が登場することによって、実はKaをフィルターとして作家が語り部となり進行していたという物語の二重構造が判明する。さらに4年後Ka、イペッキ、紺青、カディフェの深く哀しい「愛」というはかない雪を眺めて友人Kaの足取りをたどるためにカルスにきた「私」が、想像以上にはるかに美しかったイペッキと市長主催の晩餐会で出会い、たちまちのうちに恋をしてしまう。初めて彼女を見た時、その美しさに作家はKaに対する嫉妬と驚きでいっぱいになり、彼の喪われた詩のつまらない本が、一瞬にして深い情熱に輝く、全く異なった物語へとなった。「人はKaのような深い魂をもつと、このような女の愛を勝ち取る」という思いに駆られた。
このような技法は、ノーベル賞受賞にふさわしい丹念に織り込んだタペストリーを思わせるような重厚で豊麗な世界といえよう。

またまぎれもなく宗教・文明の対立を描いた政治小説でありながら、本書は本物の恋愛小説でもある。人を恋すること、また愛すること、それらの喜びと不安、快楽と失望、打算、欲望、、、人間の人とたらしむ感情があますところなく降る雪のかけらのようにすみずみまで満ちている。Kaとイペッキが初めて交わる場面は美しいだけでなく、人の性愛の奥の深さと複雑さをも表現していて、それでいて人の存在のほのかな暗い哀しみすらも漂う。

「長い間一緒にベッドで横になって、降る雪を、何も話さずに見ていた。Kaは時々降る雪をイペッキの目にも見ていた。」
という叙情的な音楽は、いつまでもこころに響いてきてはなさない。

オルハン・パムク氏はノーベル賞を受賞することによって、西側への橋を渡ってきたという批評もある。ノーベル賞というのが、そもそも西欧主義に基づくものならば、確かにアルメニア人大量虐殺を認めて国家侮辱罪で起訴された氏は、ボスフォラス海峡の橋を渡ってきたトルコ人かもしれない。しかし、そんなに「雪」は単純ではない。姉妹でありながら、イスラム原理主義に生きる妹と、髪や長い脚をだして肌を露出したドレスを着たがる姉。故郷に帰ってそのイペッキに会うために、フランクフルトで上質な外套を買ったKaの最後の4年間を過したあまりにも貧しく惨めなアパートの部屋。政治亡命者として年金というドイツからの施しを受けて、わずかな詩の朗読会で暮らしているKaは、トルコ移住民の挫折した姿を現している。
SF小説を書く宗教高校出身の青年は、小説を執筆するという作家に面会を拒んで叫ぶのだった。
「あんたの西側の読者は、俺を貧しいといって憐れんで、俺の人生を見はしない。たとえば、俺が、イスラム主義者の科学小説を書いているといって、彼らは微笑するだろう。馬鹿にして、笑いながら、同情する」
文明と宗教が衝突する点のような、作家自身の哀しみと苦悩を描いた「雪」は、文学のあり方すらも考えさせられる小説だ。

「Erdogan 首相 政教分離について語る」
  
「ノーベル賞作家パムクの政治小説」
  




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