「発達障害」という言葉もすっかり世間に定着し、広く一般に知られるようになった。でも、「発達障害」といっても種類がいくつかあり、それぞれに特徴が大きく異なる別モノだ。主なものは、「自閉症スペクトラム」、「注意欠如・多動性障害(ADHD)」、「学習障害(LD)」の3つがある。
自閉症スペクトラムというのは、「自閉症、広汎性発達障害、アスペルガー症候群」などのいろいろな名前で呼ばれていた症状を、「自閉症とその仲間たち」みたいな感じで1つにまとめたもの。極めて強いコダワリや行動パターンを持ち、「相手の反応を見ないで、一方的に話し続ける」など、対人やコミュニケーションに困難を抱えることが多いとされる。映画「レインマン」とか、アメリカのコメディー「ビッグバン☆セオリー」などでもオナジミ。これこそ発達障害のなかの発達障害と言えるだろう。単に「発達障害」と言えば、たいてい自閉症スペクトラムを意味する。
これに対して、「注意欠如・多動性障害(ADHD)」は、「不注意(活動に集中できない・気が散りやすい・物をなくしやすい・順序だてて活動に取り組めないなど)」と「多動-衝動性(じっとしていられない・静かに遊べない・待つことが苦手で他人のじゃまをしてしまうなど)」というような特徴があるとされる。筆者は昔から、この傾向が強かった。でも最近は、この傾向をあまり指摘されないし、自分でも感じなくなってきたように思う。この人生を通じて自分自身の脳を刺激されてきた結果、鈍かった箇所がようやく活性化したのかもしれない(残念ながら、ちょっと遅かったが・・・)。
もう1つは「学習障害(LD)」で、これは端的に言えば、「読み書きが苦手」とか「計算が苦手」とか、何かが極端に苦手なことを意味する。それも、「ちょっと苦手なようですね」なんてものではなく、「なんで、こんなに出来ないんだろう?」と不思議になるくらい、妙に全然できない人だ。筆者はひところ学習塾で働いた。そのときに、学習障害の子どもに勉強を教えた経験が印象に残っている。発達障害の児童にアリガチな、人形みたいに可愛い子ども。ヒトケタの足し算はなんとかできるけど、フタケタになるとお手上げで、何度も教えたけど翌日には必ず忘れていた。こちらはもともと教えるのが好きなので、何度も教えるのは楽しかったが、本人は大変そうだった。もっとも、そういう人でも、成長すると普通に計算ができるようになって、「あれは一体、何だったんだろう?」ということになることもある。
他にもあるけど、主な分類はこの3つ。発達障害と一言で言っても、自閉症とADHDではかなり傾向が異なる。たとえば、自閉症の人は、「毎朝6時15分に起きて、6時30分に歯を磨いて、6時45分に朝ごはんを食べて・・・」というような、カッチリしたパターン化を好むコダワリ派が多い。逆にADHDの人は計画性が乏しく、思いつきで衝動的に行動することを好むことが多い。たとえば筆者のように、何年も更新してなかったブログを何の前触れもなく急に熱心に更新し始めるような、行動パターンが読めない人。そういう人には、ADHDの傾向がある。こんな具合に、自閉症とADHDでは、まるきり逆の特徴を示すこともあるから一概には言えない。しかも、これらの発達障害は1つではなく、混ざり合って起きることが多い。
問題は「バランスが悪い」ということだろう。たとえば、学習障害でいえば、計算能力は高いのに、何歳になっても言葉がなかなかしゃべれるようにならないとか。このように、何かの発達が人並みより早くて、何かの発達が人並みより遅いというような偏りがあってバランスが崩れると、発達障害になりやすい。思うに、車でいえば右の車輪の回転が速くて、左の車輪の回転が遅いようなものか。これだと、まっすぐ走るのが難しい。いちいち調整しないと走れなくなる。
症状はいろいろあれど、共通するのは、「これがあると人生が難しくなる」ということだろう。バランスが取れた人間のほうが、人生は生きていきやすい。でも人生は、生きやすいほうが良い人生かっていったら、そういうわけでもない。重要なのは、この地球での人生経験を通じて意識進化することだ。課題は人それぞれであり、進化の道もさまざま。スマホのゲームでも同じで、簡単なヌルゲーを周回したい人もいれば、難易度の高いゲームにあえて挑みたい人もいる。どっちが良いというわけでもない。
精神世界を探求する上では、どっちかっていったら発達障害人のほうが有利かもしれない。お釈迦さまもイエス・キリストも、ショーペンハウアーもクリシュナムルティも、明らかに発達障害人。ごく普通の人生を無難に生きているようでは、なかなか探求へと向かう強烈なエネルギーは生まれないということだろう。
科学的に見れば、「これは、アナタの脳の特定の部位の発達度合の偏りが原因です」というようなことになる。確かにその通りとは思うのだが、背景としては霊的な要因がある。
これはいつも思うことだけど、宇宙の成り立ちとか生命の仕組みとか、そういったものを科学的・合理的に説明できるのは事実で、間違っていない。でも、その背景には霊的なものがあって、それも大きな影響を及ぼしている。
男性なのに女性みたいな(あるいはその逆も)、「性同一性障害」とかもそうだ。男性ホルモンとか女性ホルモンとか、そういう科学的なところに原因があるのも事実だけど、その背景には霊的なものがある。
重要なのは、「どっちか一方だけが原因ではない」ということ。中には、「霊的には女性の意識なのに、間違って男性の身体に生まれてしまった」というような、霊的な要素だけが原因の人もいるだろう。逆に、「霊的には何の問題もないのに、たまたま身体のホルモンバランスが化学的な要因で崩れてしまった」というような、純粋に物質的な要因でそうなったケースもあるだろう。その中間の多くのケースは、その両方が混じり合って起きたと考えられる。
物事は、物質的な要因と、霊的な要因がカラミあって起きている。あの世ならともかく、この世では両方とも無視できない。大昔の人は、何も分からなかったので、何もかも「神さまの意思」で片づけていた。つまり、物質的な要因が分からなかったので、霊的な原因を探すしかなかったのだ。現代人は逆に、科学的・合理的な理由ばかり探すようになった。「これは前世での体験に原因が・・・」なんて言おうものなら、一発で異常者あつかいだ。
でも、未来の人類は、その両方に原因があるのを前提として、すべての物事を考えるようになるだろう。筆者は、日頃からそれを実践している。科学的な説明をしてはスピリチュアル系の人たちから反対され、スピリチュアル的な説明をしては科学的合理主義者たちから反対される。これは周囲の無理解というより、両方いっぺんに語るのはそれだけ難しいのだ(笑)。それは仕方ないんだけど、いずれ、どちらか一方だけではなく、両方をいっぺんに論じるのが当たり前になるだろう。
自閉症スペクトラムというのは、「自閉症、広汎性発達障害、アスペルガー症候群」などのいろいろな名前で呼ばれていた症状を、「自閉症とその仲間たち」みたいな感じで1つにまとめたもの。極めて強いコダワリや行動パターンを持ち、「相手の反応を見ないで、一方的に話し続ける」など、対人やコミュニケーションに困難を抱えることが多いとされる。映画「レインマン」とか、アメリカのコメディー「ビッグバン☆セオリー」などでもオナジミ。これこそ発達障害のなかの発達障害と言えるだろう。単に「発達障害」と言えば、たいてい自閉症スペクトラムを意味する。
これに対して、「注意欠如・多動性障害(ADHD)」は、「不注意(活動に集中できない・気が散りやすい・物をなくしやすい・順序だてて活動に取り組めないなど)」と「多動-衝動性(じっとしていられない・静かに遊べない・待つことが苦手で他人のじゃまをしてしまうなど)」というような特徴があるとされる。筆者は昔から、この傾向が強かった。でも最近は、この傾向をあまり指摘されないし、自分でも感じなくなってきたように思う。この人生を通じて自分自身の脳を刺激されてきた結果、鈍かった箇所がようやく活性化したのかもしれない(残念ながら、ちょっと遅かったが・・・)。
もう1つは「学習障害(LD)」で、これは端的に言えば、「読み書きが苦手」とか「計算が苦手」とか、何かが極端に苦手なことを意味する。それも、「ちょっと苦手なようですね」なんてものではなく、「なんで、こんなに出来ないんだろう?」と不思議になるくらい、妙に全然できない人だ。筆者はひところ学習塾で働いた。そのときに、学習障害の子どもに勉強を教えた経験が印象に残っている。発達障害の児童にアリガチな、人形みたいに可愛い子ども。ヒトケタの足し算はなんとかできるけど、フタケタになるとお手上げで、何度も教えたけど翌日には必ず忘れていた。こちらはもともと教えるのが好きなので、何度も教えるのは楽しかったが、本人は大変そうだった。もっとも、そういう人でも、成長すると普通に計算ができるようになって、「あれは一体、何だったんだろう?」ということになることもある。
他にもあるけど、主な分類はこの3つ。発達障害と一言で言っても、自閉症とADHDではかなり傾向が異なる。たとえば、自閉症の人は、「毎朝6時15分に起きて、6時30分に歯を磨いて、6時45分に朝ごはんを食べて・・・」というような、カッチリしたパターン化を好むコダワリ派が多い。逆にADHDの人は計画性が乏しく、思いつきで衝動的に行動することを好むことが多い。たとえば筆者のように、何年も更新してなかったブログを何の前触れもなく急に熱心に更新し始めるような、行動パターンが読めない人。そういう人には、ADHDの傾向がある。こんな具合に、自閉症とADHDでは、まるきり逆の特徴を示すこともあるから一概には言えない。しかも、これらの発達障害は1つではなく、混ざり合って起きることが多い。
問題は「バランスが悪い」ということだろう。たとえば、学習障害でいえば、計算能力は高いのに、何歳になっても言葉がなかなかしゃべれるようにならないとか。このように、何かの発達が人並みより早くて、何かの発達が人並みより遅いというような偏りがあってバランスが崩れると、発達障害になりやすい。思うに、車でいえば右の車輪の回転が速くて、左の車輪の回転が遅いようなものか。これだと、まっすぐ走るのが難しい。いちいち調整しないと走れなくなる。
症状はいろいろあれど、共通するのは、「これがあると人生が難しくなる」ということだろう。バランスが取れた人間のほうが、人生は生きていきやすい。でも人生は、生きやすいほうが良い人生かっていったら、そういうわけでもない。重要なのは、この地球での人生経験を通じて意識進化することだ。課題は人それぞれであり、進化の道もさまざま。スマホのゲームでも同じで、簡単なヌルゲーを周回したい人もいれば、難易度の高いゲームにあえて挑みたい人もいる。どっちが良いというわけでもない。
精神世界を探求する上では、どっちかっていったら発達障害人のほうが有利かもしれない。お釈迦さまもイエス・キリストも、ショーペンハウアーもクリシュナムルティも、明らかに発達障害人。ごく普通の人生を無難に生きているようでは、なかなか探求へと向かう強烈なエネルギーは生まれないということだろう。
科学的に見れば、「これは、アナタの脳の特定の部位の発達度合の偏りが原因です」というようなことになる。確かにその通りとは思うのだが、背景としては霊的な要因がある。
これはいつも思うことだけど、宇宙の成り立ちとか生命の仕組みとか、そういったものを科学的・合理的に説明できるのは事実で、間違っていない。でも、その背景には霊的なものがあって、それも大きな影響を及ぼしている。
男性なのに女性みたいな(あるいはその逆も)、「性同一性障害」とかもそうだ。男性ホルモンとか女性ホルモンとか、そういう科学的なところに原因があるのも事実だけど、その背景には霊的なものがある。
重要なのは、「どっちか一方だけが原因ではない」ということ。中には、「霊的には女性の意識なのに、間違って男性の身体に生まれてしまった」というような、霊的な要素だけが原因の人もいるだろう。逆に、「霊的には何の問題もないのに、たまたま身体のホルモンバランスが化学的な要因で崩れてしまった」というような、純粋に物質的な要因でそうなったケースもあるだろう。その中間の多くのケースは、その両方が混じり合って起きたと考えられる。
物事は、物質的な要因と、霊的な要因がカラミあって起きている。あの世ならともかく、この世では両方とも無視できない。大昔の人は、何も分からなかったので、何もかも「神さまの意思」で片づけていた。つまり、物質的な要因が分からなかったので、霊的な原因を探すしかなかったのだ。現代人は逆に、科学的・合理的な理由ばかり探すようになった。「これは前世での体験に原因が・・・」なんて言おうものなら、一発で異常者あつかいだ。
でも、未来の人類は、その両方に原因があるのを前提として、すべての物事を考えるようになるだろう。筆者は、日頃からそれを実践している。科学的な説明をしてはスピリチュアル系の人たちから反対され、スピリチュアル的な説明をしては科学的合理主義者たちから反対される。これは周囲の無理解というより、両方いっぺんに語るのはそれだけ難しいのだ(笑)。それは仕方ないんだけど、いずれ、どちらか一方だけではなく、両方をいっぺんに論じるのが当たり前になるだろう。