その方面に詳しい人によると、発達障害人にアリガチな特徴として、「言語性IQと動作性IQのギャップが大きい」というのがあるらしい。どういうことかというと、どちらも名前の通りで、言語性IQというのは、主に言葉を使う能力。しゃべったり、文章を読み書きしたり。テストでいい点を取るためには、言語性IQが高いと有利だ。それに対して、動作性IQというのは、動作とか作業をする能力のこと。飛んでくるボールを捉える動体視力、それに素早く反応する動作の速さ。そういうのが典型的な例だ。これが高いと、作業系の仕事には有利になる。詳しいことは専門家に聞いてみないと分からないけど、だいたいそういうことだと思っていいみたい。
言語性IQと動作性IQが両方とも高いのは、何をやっても出来る人。そういう人は優秀だ。逆に、両方とも低いと、ちょっとスローでマイペースな人になる。でも、それはそれで生きる道がある。難しい仕事は避けた方が無難だけど、生きてく上で特に支障はない。
問題は、どちらか一方が高くて、どちらかが低い。つまり、バランスが悪い人。そういう人が「発達障害」になりやすい。高学歴で一見優秀そうなのに、何をやっても妙に作業が遅くて「やる気あるのか?」と言われるような人は、言語性IQが高くて動作性IQが低い可能性が高い。
筆者の場合は、言語性IQが高くて、動作性IQが低い。正式に調べたことはないけど、おそらくそうだろう。身体を使ってやることは、たいてい何をやっても下手だ。昔から、野球のキャッチボールもマトモにできない。ボールを投げたら真っ直ぐ飛ばないし、よほど撮りやすい球でないと、まず捕球できない。日常生活においても、驚くほどドジな人間。今はそうでもなくなってきたけど、昔は「よく、これで無事に生きてこれたな?」と感心されるくらい、いつもボーッとしていた。
その代わり、国語は極端に得意で、偏差値80の国語大王だ。高校生の頃などは、参考書も問題集もマジメにやった試しはないけど、国語のテストの成績は自然体で抜群。その辺のクラスで一番、学校で一番などという程度ではなく、全国規模でトップクラスだった。いくら世間は広くて色んな人がいると言ったって、筆者ほど国語や社会に強い人など滅多にいるものではない。そんな人が古今東西の宗教書や哲学書を手当たり次第に読みまくってきたのだから、詳しくなるのは当たり前。日本語だけでなく、英語でもたくさん読んでいる。難解な文章を読んでも、作者が何を言いたいのかがすぐに「ピン!」とくるのが特技。哲学するためには有利な特技だ。
言語性と動作性のバランスがこれだけ悪いと、人生は本当に難しくなる。こうして考えてみても、「よく、これで無事に生きてこれたな?」と我ながら感心してしまう。「動作性IQ」という言葉を知ったのは数年前だけど、それが低いのは昔から分かっていた。別に悩んではいなかったが。なぜ悩まなかったかというと、この地球で過ごす人生はたったの数十年か、長くても百年程度にすぎない。悩んでいるヒマがあったら、情報収集を急ぐ必要がある。早い話が、宗教書や哲学書を読みまくるのに忙しくて、悩んでるヒマがなかった。
とはいうものの、動作性IQの低さが弱点なのは分かりきっていた。「第一印象では見るからに賢そうな人だなと思ったけど、じつは底抜けにドジなので、ギャップが凄すぎて逆に感心してしまった」、「いい悪いは別にして、とにかくユニーク」、「ある意味、貴重なキャラだ」とかなんとか、盛んに言われた。
動作性が弱点なのは明らかだ。この弱点を補強しようと、実にさまざまな努力をしてきた。小学生の時などは、スポーツばかりしていた。正直なところ、子どもの頃の筆者にとって、小学校の勉強など簡単すぎて勉強する必要なんか無かった。目標は、「ドジでノロマな亀」から卒業すること以外に無かった。いつも走り込みでヘトヘトになり、鉄棒の練習のやりすぎで手はマメだらけだった。
学校で掃除をしても、「ホウキの掃き方が、普通の人とは違って、なんだかおかしい」だの、「雑巾の絞り方がかなりおかしい」だのとよく批判されたものだ。実際にその通りなのだから、批判は甘んじて受け止めるしかない(改善できなかったが)。大人になってからも、工場作業員になって半年くらいバイト生活を送ったことがある。他に仕事がなかったわけじゃないんだけど、動作性IQを鍛えようと思って試しにやってみたら、ハマッた。不器用なので足を引っ張ることもよくあったが、「辞めます」と言ったら、「もうちょっとガンバってみようよ」と周囲の人たちから言われた。なるべく器用さと反射神経を要求されないところに置いてもらって、しばらく続けた。
さすがに限界を感じて学習塾の仕事に転じたところ、子どもに人気が出て順調に生徒が増え、「これは天職だな」と周囲の人々にも言われた。でも、あるとき、雑巾で学習塾の机を拭き掃除していたところ、小学生の女の子から「先生の雑巾の絞り方は、なんだかおかしいね」と言われた。
(続く)
言語性IQと動作性IQが両方とも高いのは、何をやっても出来る人。そういう人は優秀だ。逆に、両方とも低いと、ちょっとスローでマイペースな人になる。でも、それはそれで生きる道がある。難しい仕事は避けた方が無難だけど、生きてく上で特に支障はない。
問題は、どちらか一方が高くて、どちらかが低い。つまり、バランスが悪い人。そういう人が「発達障害」になりやすい。高学歴で一見優秀そうなのに、何をやっても妙に作業が遅くて「やる気あるのか?」と言われるような人は、言語性IQが高くて動作性IQが低い可能性が高い。
筆者の場合は、言語性IQが高くて、動作性IQが低い。正式に調べたことはないけど、おそらくそうだろう。身体を使ってやることは、たいてい何をやっても下手だ。昔から、野球のキャッチボールもマトモにできない。ボールを投げたら真っ直ぐ飛ばないし、よほど撮りやすい球でないと、まず捕球できない。日常生活においても、驚くほどドジな人間。今はそうでもなくなってきたけど、昔は「よく、これで無事に生きてこれたな?」と感心されるくらい、いつもボーッとしていた。
その代わり、国語は極端に得意で、偏差値80の国語大王だ。高校生の頃などは、参考書も問題集もマジメにやった試しはないけど、国語のテストの成績は自然体で抜群。その辺のクラスで一番、学校で一番などという程度ではなく、全国規模でトップクラスだった。いくら世間は広くて色んな人がいると言ったって、筆者ほど国語や社会に強い人など滅多にいるものではない。そんな人が古今東西の宗教書や哲学書を手当たり次第に読みまくってきたのだから、詳しくなるのは当たり前。日本語だけでなく、英語でもたくさん読んでいる。難解な文章を読んでも、作者が何を言いたいのかがすぐに「ピン!」とくるのが特技。哲学するためには有利な特技だ。
言語性と動作性のバランスがこれだけ悪いと、人生は本当に難しくなる。こうして考えてみても、「よく、これで無事に生きてこれたな?」と我ながら感心してしまう。「動作性IQ」という言葉を知ったのは数年前だけど、それが低いのは昔から分かっていた。別に悩んではいなかったが。なぜ悩まなかったかというと、この地球で過ごす人生はたったの数十年か、長くても百年程度にすぎない。悩んでいるヒマがあったら、情報収集を急ぐ必要がある。早い話が、宗教書や哲学書を読みまくるのに忙しくて、悩んでるヒマがなかった。
とはいうものの、動作性IQの低さが弱点なのは分かりきっていた。「第一印象では見るからに賢そうな人だなと思ったけど、じつは底抜けにドジなので、ギャップが凄すぎて逆に感心してしまった」、「いい悪いは別にして、とにかくユニーク」、「ある意味、貴重なキャラだ」とかなんとか、盛んに言われた。
動作性が弱点なのは明らかだ。この弱点を補強しようと、実にさまざまな努力をしてきた。小学生の時などは、スポーツばかりしていた。正直なところ、子どもの頃の筆者にとって、小学校の勉強など簡単すぎて勉強する必要なんか無かった。目標は、「ドジでノロマな亀」から卒業すること以外に無かった。いつも走り込みでヘトヘトになり、鉄棒の練習のやりすぎで手はマメだらけだった。
学校で掃除をしても、「ホウキの掃き方が、普通の人とは違って、なんだかおかしい」だの、「雑巾の絞り方がかなりおかしい」だのとよく批判されたものだ。実際にその通りなのだから、批判は甘んじて受け止めるしかない(改善できなかったが)。大人になってからも、工場作業員になって半年くらいバイト生活を送ったことがある。他に仕事がなかったわけじゃないんだけど、動作性IQを鍛えようと思って試しにやってみたら、ハマッた。不器用なので足を引っ張ることもよくあったが、「辞めます」と言ったら、「もうちょっとガンバってみようよ」と周囲の人たちから言われた。なるべく器用さと反射神経を要求されないところに置いてもらって、しばらく続けた。
さすがに限界を感じて学習塾の仕事に転じたところ、子どもに人気が出て順調に生徒が増え、「これは天職だな」と周囲の人々にも言われた。でも、あるとき、雑巾で学習塾の机を拭き掃除していたところ、小学生の女の子から「先生の雑巾の絞り方は、なんだかおかしいね」と言われた。
(続く)