2017年になりました。早いもので、「2012年のアセンション」ブームから、4~5年がすぎさろうとしている。見たところ、まだ地球人類はアセンションしていないようだ(笑)。
ずっとブログを更新してはいないものの、精神世界や哲学に関連する本は、それなりに読んでいる。つまり今までは、放電せずに、ひたすら充電してきたという状態。年末年始に読んだ本の中には、精神世界の基本書ともいえる、「ラマナ・マハルシ ~ あるがままに」なんかもあった。
ラマナ・マハルシは、某有名ブログによれば「千年に1人の人物。この方をこえる人はいません」というくらい、すごい覚醒者。たいていの精神世界の大物には、熱烈なシンパとアンチがいるものだけど、この人に関しては、アンチがまず見当たらない。精神世界関係者のほぼ全員から尊敬されているという、まことに稀有な人物だ。
「あるがままに」は、マハルシとのお付き合いが長かった人が書いたもので、「著者による編集が入っており、マハルシそのものではない」という批判もあるものの、やはり基本書といえる一冊だろう。
少年時代からずっと山中にこもってきた人だけに、話の内容は純粋で、理論的な印象を受ける。ここは、ずっと俗世間にいて、オジサンになってから精神世界にデビューしたニサルガダッタ・マハラジたちとは異なるところ。
「真我」というのが、この本のメインテーマ。
真我とは何かというと、そのまんまだけど、本当の自己を意味する。日ごろ、「ボクはこういう人間だ」と思っているのは、自分に関する物語にすぎず、本当の真実ではない。つまり、「偽我」だということになるだろう。
その「偽我」を乗り越えるのは難しい。そのためにはどうすればいいかというと、マハルシによれば、「真我探究」をするしかない。瞑想をしていても、いつかはこの道にたどりつける。でも、「真我探究」のほうが、ずっと早い道を行ける。これに勝る方法論はないらしい。
では、「真我探究」とはどういうものかというと、これが実にシンプルで、「私は誰?」と自分自身に問いかける・・・というもの。これを1回や2回ではなく、ひたすら問い続ける。それがメイン。
われわれ人間は、通常、自分の身体を「これが自分だ」と思っている。精神世界ファンなら、「自分に関しては、そんなことない。私は、身体が自分ではないと知っている」と思うところだろう。確かに、そのとおり。身体は、この世における仮の宿り、一時の乗り舟にすぎない。おそらく、大半の精神世界ファンがそう考えていると思われる。ラマナ・マハルシも、「身体は自分ではない」と、いつも強調していた。
でも、「身体が自分ではない」ということを実感するのは、実際には非常に難しい。なんといっても、誰もが、何十年もこの身体で生きてきているのである。「ほかの身体に乗り移ったことがある」という経験者は、ごく少数。ほとんどの人には、そんな経験がない(笑)。まず普通は、ずっと一つの身体を使い続けてきた人ばかり。あれこれ故障してきても、ガマンして使い続けるしかない。
そんな、何十年もかけて刷り込まれてきた身体感覚から、離れるのが容易でないのは当たり前。
その先には、「心が自分ではない」という、さらに難関のハードルが待ち受けている。
身体が自分ではないのは分かったけど、では、心はどうなのか。怒ったり、喜んだり、悲しんだりしている、この心が、本当の自分ではないと、どうして分かるだろうか。ラマナ・マハルシは、「心を破壊せよ」と繰り返し説いていた。そのためには、「真我探究」。つまり、「私は誰?」と問い続ける・・・ということ。それしかないみたい。
いや、それしかないというわけではなく、普通の瞑想でもそれは可能なんだけど、「真我探究」のやり方に比べて、ずっと時間がかかります・・・ということなんだそうな。
筆者もさっそく、「私は誰、私は誰、私は誰・・・?」と、念仏や題目のように唱えることにした。
私は誰なのかっていったら、まあ、とりあえず、「こっくり」だろう。かつては、「コンサル星人」という名前も使ってた。これもまた、偽我なのか。いや、単なる筆名。
それはともかく、2017年こそは、真我に目覚める年にしたいものだ。
ほとんどブログを更新してないけど、今年もよろしくお願いします。