茂木健一郎氏のおかげで、クオリアは「脳科学の問題」として取り上げられることが多くなった。でも本当は、その辺りは微妙かもしれない。どっちかっていったら、「宇宙にハテはあるのでしょうか?」に代表される、「こればっかりは、どんなに科学が進歩しても永久に分からないんじゃあるまいか?」というタイプの問題かもしれない。
なんで科学で解明できないのかといえば、「他人のクオリアは分からないから」というのが、その理由。「ボクに見えているリンゴの赤い色と、ペットの犬に見えているリンゴの色は、同じでしょうか?」・・・というような、究極に主観的な問題ともなると、実験して分かるものでもない。これじゃ、科学者が取り扱う対象になりにくい。分からないというより、調べようがないのである。
そもそも、他人の意識というのは、本人になってみないと分からないところがある。
「ボクには意識があるけど、他の人たちはどうなんだろう?」というのは、子供がよく抱く疑問。「ひょっとしたら、意識があるのは自分だけで、他の人たちは機械みたいに動いてるだけなんじゃないのかな?」というのは、子供らしい空想で、「ボクも昔、そう思ったことがある」という人は多い。
ところが、これは哲学では「独我論」と呼ばれ、昔からある、かなり強力な考え方のひとつだったりする。というのも、「疑える限界まで疑ってみる」というのが、西洋哲学の伝統。「他人にも、自分と同じような意識があるのかどうか」なんてのは、どうにも確信がもてないものの筆頭に挙げられるくらいなんだから、真っ先にさんざん疑われてきた。
でも、やっぱり、「意識があるのは自分だけ」と本気で思っている人は、まずいない。明らかに、ほとんどの人は、他人にも意識があるのを当たり前と考えている。ナゼかというと、それは、他人の心の中までは分からなくても、反応や行動を見れば、だいたいのことは分かるからだろう。
たとえば、他人の目の前に、ミカンとテニスボールを置いてみる。普通は、ミカンの皮をむいて食べるだろう。ここで、テニスボールの皮をむいて食べようとする人は、まずいない。このように、他人の反応や行動を見ていれば、「どうやら、他の人たちにも、自分と同じものが見えているみたいだな」ということが分かって安心する。
そういう人生経験を重ねることを通じて、「他人にも、自分と同じような意識があり、感覚がある」というのが確信へと変わり、ついでに、「この世は実在する」という確信も深まる。他の人たちも「ある」って言ってるんだから、やっぱり実在するんだろう。他人との交流を通じて、そういう信念が強くなる。
子ネコに鏡を見せると、鏡に映った自分の像にビックリして、後ろをのぞきこんだりする。それを見れば、「ネコにとっても、鏡に映るのは不思議なんだな?」ということが分かる。でも、そんな好奇心旺盛な子ネコが、大人になると、鏡をメンドくさそうにチラッと見るだけになったりするのだが・・・。
このように、いくら「意識とか感覚とかは、人それぞれの内面のことだから分からない」と言ったって、実際には、反応や行動を観察することによって、かなりのことが分かるのである。たとえば、「利き酒テスト」をやってみれば、人それぞれの味覚の個人差も、かなりのところまでは客観的に分析できる。
人間の感覚の中で、昔から実体が疑わしいものの代表格とされている「色覚」だって、絵を見たときの反応などを観察すれば、他人にどう見えているのかは、だいたい分かる。色覚検査をすれば、さらによく分かる。もっとも、「本当の色」など誰も知らないのだから、色覚「異常」も何もあったものじゃないんだが・・・。
それはともかく、他人の意識や感覚のことは、こういう観察と分析を通じて、かなりのところまでは分かる。IT革命のおかげで、その方法は飛躍的に進歩した。おかげで、ますます多くのことが科学者には分かるようになった。
それでも、分からないことは残る。どれだけ技術が進歩しても、「反応や行動を、外から観察する」ということに変わりはなく、心の内側にはナゾが残るからだ。
たとえば、イヌの脳をよく調べれば、「どうやら、イヌにとっては、リンゴは黒っぽいコゲ茶色に見えてるみたいだな」とか、そういうことは分かってくるだろう。でも、本当にどう見えているのかは、イヌにしか分からない。
それと同じように、他人の感覚についても、最終的には本人の意識になってみるしかない。
実は、ここが重要なポイント。というのも、「本人の意識になってみる」というのは、「意識を統合して、自他一体になる」ということ。ここまでくると、完全にスピリチュアルの領域に入ってしまう。
「人間の認識の限界」を明らかにした18世紀の大哲学者・カントに対して、19世紀の大哲学者・ヘーゲルは、それを「意識の進化によって乗り越えられる」と唱えた。ヘーゲルによれば、「人間の認識には限界がある。本当のことは分からない」とカントは言うけど、そんなことはない。それは、あくまでも、「現時点では」という話。人間の意識は成長している。人類の精神も進化している。今は無理でも、いつかはすべてを知ることができるようになるのだ。
・・・この話を聞いて、「やっぱり、ヘーゲル大先生は偉いなあ」と感動する人もいれば、「人間が全知全能の神様みたいになれるとは、なんだか、神がかった偉そうな思想だな?」と反感を持つ人もいた。後に第二次世界大戦を起こしたヒトラー総統は、「人間は、生成途上の神である」という超人思想を唱えた。「元ネタはヘーゲルだ」と批判されている。
でも実際のところ、ヘーゲルが言ってたのは、「人間は、進化すれば神になる」というような話ではなかった。それよりも、「自他一体の境地になれば、完全なる理解に到達できます」という、ワンネス思想に近い話だった。このあたり、精神世界マニアにとっては難解どころか、逆にピンと来やすいところ。やっぱり、昔の人の思想に共感するためには、哲学の知識だけでは無理。ここは、精神世界の素養が要る(笑)。
例によって話が脱線しまくりだけど、「クオリア」というのは、要するにそんなところ。人類にとっては、神秘の彼岸にある永遠のナゾのひとつだろう。
もっとも、先日も取り上げた未来学者のレイ・カーツワイル氏によると、「将来はITの進歩により、自分の意識をインターネットにUPして、視聴者がその意識をダウンロードして楽しむのが流行する」という話だった。たとえば、サーフィンをやっている最中の爽快な感覚を、本人の意識になりきって楽しめるらしい。脳神経とコンピュータが直接つながっているから、リアルな感覚が脳へとダイレクトに送り込まれる。これほどハマる娯楽は、他にないだろう・・・だそうな(笑)。