宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

クオリア その4 ~ 世界の実在をどこまで疑えるか?

2016年03月01日 | こっくり亭日記

人間は、それぞれの意識が作りあげた、一種の仮想現実の世界に生きている。検討を重ねた結果、カントを初めとする近代ヨーロッパの哲学者たちには、「どうやら、そうらしい」ということが分かってきた。

だからといって、「物質世界など実在しない」というのは、さすがに極端な意見。

インド哲学と違って、西洋哲学は、「この世は幻影(マーヤー)である。解脱しましょう」というような思想ではない。中にはそういう人もいたけど(ショーペンハウアー)、主流とは言えない。

この世の物質世界は、やっぱり現実に存在している。それを否定するのは、ちょっと極端。でも、ボクやアナタに見えている世界は、どうも、なんだか違うみたいだ。脳内現象を抜きにしては、人間は何も分からないようにできている。本当はどうなってるのか、誰にも分からない。

そう思うと、目の前にある「現実」が、どんどん疑わしくなってくる。「ボクの目には、赤くて丸いリンゴが見えているけど、本当は違うんじゃないか?」なんて疑いだしたら、キリがない。

これは、科学にとっても深刻な問題だった。たとえば、金属片に火をつけてみたところ、オレンジ色の炎を上げて燃えました。そこで、「ボクの目には、オレンジ色の炎が見えている。でも、このオレンジ色の炎は、ホンモノの炎なのだろうか?」なんてことをやってたら、とても実験どころではない。何もかもが、根本的に疑わしくなってしまう。

 そこで颯爽と登場した大哲学者が、「現象学」のフッサール。

 現象学の研究者・竹田青嗣氏によると、この「認識」の問題がヨーロッパの哲学者たちにとって、これほどの大問題になった背景には、血で血を洗う宗教戦争があった。カトリックとプロテスタントに分かれて、欧州各地で大戦争。とくに、17世紀に起きた「三十年戦争」では、「ドイツの人口が3分の2に減った」と言われるほどの、すさまじい被害があった。

 「人間は、同じ世界に住んでいるのに、どうしてこれほど考え方が対立して、殺し合いにまでなってしまうのか?」というのが、なんといっても最大の問題だった。「人はそれぞれ、同じ世界に生きているようでいて、実は違うモノを見ているんじゃないのかな?」という深刻な疑問が出てきた背景には、それがある。

 筆者も先日、左翼の知人が「中国は過去に一度も他国を侵略したことがない平和な国なのに、日本の安倍政権が戦争を起こそうとしている」と言っているのを聞いて、その感を深くした。「それは、地球の現実とは正反対だな。今は、中国が海軍を大増強して、ラバウルとかガダルカナルにまで海洋進出している時代。日本とアメリカ、そして東南アジアやオーストラリアまでが連帯して、その脅威に対抗しているのだ」と反論したところ、「それは、どこの惑星の話だ?」と言われてしまった。

 このような例を見ても、同じ地球環境に生きていると言ったって、人それぞれの意識世界は異なっているのであり、一種のパラレルワールドに住んでいるんだってことがよく分かる・・・。

 それはともかく、底なしに疑わしくなってきた物質世界への疑問に、フッサールは歯止めをかけることに成功した。

 そのためには、まず、すべての先入観を捨てることから始める。特に、「この世は実在する」という、地球人類にとって最も強固な信念、思い込みを停止することから始める。これを、「エポケー(判断停止)」という。

 この世をエポケーしたら、次に、自分にとって見えるもの、聞こえるもの、あるがままの姿だけを直観する。それは、純粋な直観。結局のところ、最終的には直観しかない。

 そこで、テーブルの上のリンゴを見る。そこに見えるのは、「赤くて丸いリンゴ」だ。これを、「白くて細長い大根」だと思おうったって、それは無理というもの。「本当は、これはリンゴじゃないのだ。一見リンゴに見えるけど、実は大根なのである」と、いくら自分に言い聞かせたところで、大根には決して見えない。それはやっぱり、丸くて赤いリンゴ。目と脳は、自分の意思にかかわらず、勝手にそう認識する。胃腸が、自分の意思にかかわらず、勝手に動いて消化するのと一緒。こればっかりは止められない。

どう頑張ってみても、赤いものが青くは見えない。丸いものが四角く見えることもない。「本当は青いんじゃないの?」と疑うことはできるけど、それによって赤いのが青に変わるわけでもないんだし、意味がない。

 「それなら、もう、それは認めてしまってもいいんじゃないか?」というのが、フッサールの考えだった。認めるというより、それ以上は疑っても意味がない。「疑うことの限界」が、ここにある。ここにきて、ついに、人間が物質世界の実在を疑える限界が確定されたのだ (まあ、もちろん、これだけで終わるような話じゃないんだけど・・・)。

 ・・・とまあ、そんなこんなで、哲学者たちは「認識問題」に延々と取り組んできたわけなのだが、最終的には、これは「クオリア」の問題に尽きる。われわれが感覚する、花の色とか、水の冷たさとか、草むらの匂い・・・とかは、なんで、こんなに鮮やかで生々しく、現実感に満ちているのか。これは、人類にとって最大の難問と言えるテーマ。今では、哲学の問題じゃなくなった。現代において、これは脳科学の問題。21世紀になって、急速に進歩している。

 (つづく・・・)