宇宙のこっくり亭

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マインドフルネス瞑想 その2 ~ 観察する瞑想

2014年04月13日 | ヴィパッサナー瞑想
   
「集中する瞑想」の次は、「観察する瞑想」、または、「気づきの瞑想」ということになる。
 
集中する瞑想は、「サマタ瞑想」。それに対して、観察する瞑想は、「ヴィパッサナー瞑想」と呼ばれる。
 
日本の仏教で、「止観」といわれているのも同じ。この場合は、「止」が集中する瞑想で、「観」が観察する瞑想。この2つを合わせたのが、「止観」。

この「止観」を見て、遠いスリランカから訪れたスマナサーラ長老も、「日本には、インドの仏教の本来の形が、意外なほど残っている」と、ビックリして感心することしきり。守り続けてきた千年の法灯は、ダテじゃなかった。ありがたや・・・合掌。
 
もっとも、この「サマタ瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」の2つがどう違うのかは、あまり深く考えなくてもいいみたい。たいていの場合、「まずは、意識を集中しましょう」と言って、そのまま、「次に、気づきの瞑想に入りましょう」というような調子で、切れ目なく連続している。その上、「ヴィパッサナー瞑想」という名前のほうが遥かにポピュラーなので、最近は、この2つを引っくるめて、全部をそう呼ぶことが多い。
 
前回の「なぜ、集中力を強化する必要があるのか?」に続いて、「なぜ、注意力を強化する必要があるのか?」というのが、素朴な疑問というものだろう。
 
それに対する答は、「しっかり観察するため」ということになる。
 
仏教には、弟子が守るべき基準として「八正道」(はっしょうどう)というものがある。この八つの項目のうちの七番目が、「正念」(しょうねん)。
 
この正念について、かつて某宗教の教祖は、「正しい方向に向けて、念力をかけること」と解説して、仏教関係者をあきれさせたものだった。これでいくと、ユリ・ゲラーのスプーン曲げは、「正しい念力」だったのかな?
 
残念ながら、「正念」というのは、「念力」の念ではない。どちらかといえば、「念入りに準備しました」とか、「大事な書類なので、念には念を入れてチェックしましょう」というようなときの、「念」に近い。つまり、しっかりと、細部にいたるまで観察しましょう・・・ということ。

  
何を念入りに観察するのかといえば、最大の観察対象は、自分自身の感覚。

感覚は、身体の中でいつも生じている。「イテテ・・・」とか、「気持ちイイ!!」といった、強い感覚もあれば、意識していなければ気づかない程度の、微細な感覚もある。「その微細な感覚をチェックして、気づきましょう」というのが、この瞑想の主眼と言ってよい。

こういう、気がつかないほどの小さな感覚を、ひたすらに観察する。そのことによって、意識が途方もなく鋭敏になり、研ぎ澄まされてくる。

その延長上に、意識の覚醒がありますよ・・・ということになる。

まあ、確かに、眠っているときと、目覚めているときの意識の違いを考えてみれば、普通は、眠っているときのほうがボンヤリしていて、目覚めているときのほうが、ハッキリ・クッキリしているものだろう。中には「睡眠学習」が得意な人もいて、「ボクは、眠っているときのほうがアタマが冴えてるんだ」ということもあるかもしれないが、普通は、そうではない。

注意力を強化し、ひいては、観察力を研ぎ澄ませていくこと。それが、覚醒した意識へとつながっていく。


ところで、「観察」の反対語は何か?・・・という質問を受けたら、どう答えるべきだろう。
  
というのも、小学校の国語のテストには、「反対の言葉はなんですか?」というような問題がよくある。「利益」の反対は、「損失」。「勝利」の反対は、「敗北」・・・といった、よくあるタイプの問題。このあたりまでは分かりやすいんだけど、「戦争」の反対が「平和」とか、「感情」の反対が「理性」とか、「ホントにそれが反対なのかよ?」とツッコミたくなるものもある。

瞑想の世界だと、「観察」には反対の言葉がある。それは、「判断」。

たとえば、建物を見ていて、「なんだ、このボロい建築は。さっさと建て替えないと、震度3でも倒壊するぞ」・・・というようなのは、判断。そういうものを交えず、ただひたすら、あるがままに見るのが、「観察」。

犬がワンワン吠えていたり、赤ちゃんがウエーンと泣いている声を聞いて、「うるさいな」とか、「かわいいな」と思うのが、判断。ただひたすら、あるがままに聞くのが、観察。

精神世界ブログを読んでいて、「なんだ、このブロガーは。アタマ大丈夫なのか?」というのも、判断だ。「これは、良いコメントだ!」というのも、判断。
 
そうした一切の判断を交えず、ただひたすら、あるがままに受け入れるのが、「観察」ということになる。ただし、それを実行するのは難しい(笑)。
 
ルドルフ・シュタイナーの「いかにして超感覚的認識を獲得するか?」という本にも、「一切の判断をまじえない読書」というのが、有効なトレーニングとして強く推奨されていた。つまり、本とか新聞を読んで、その内容を、「正しい」とか、「まちがっている」とか、そういう判断を一切しないという訓練を、意識的に行うというのだ。
 
ここを押さえておかないと、正しい観察はできない。主観を放棄して、一切の判断を交えない・・・というのが、観察する瞑想者の目標。
 
 
(つづく)
 

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