宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

心を治療するのが、真のヒーリング ~ クリシュナムルティ

2009年01月23日 | クリシュナムルティ
 
>アメリカ巡回旅行中のK(クリシュナムルティ)は、次のように彼女(エミリー夫人)に書き送っていた。

>「私は何かとてつもないものであふれています。私はあなたにそれを言葉で告げることはできません。(中略)・・・・・私は2,3人の患者に自分の手による治療を試みたことがあり、彼らにそれについて口外しないように求めましたが、それはすこぶる効果がありました。失明しかかっていたある女性は、すっかり回復するだろうと思います」

>Kは疑いもなくある種の治癒力を持っていたが、しかし彼は常にそれについては非常に口が重かった。なぜなら、彼は人々が身体の治療者としての彼のもとに来ることを望まなかったからである。ある集会での質問に答えて、彼は次のように答えた。

>「人が全き存在であり続ける道を示してくれる教師と、一時的にあなたの傷を癒してくれる人のどちらをあなたは持ちたいですか? (中略) 私の多くの友人はスピリチュアル・ヒーラーです。が、彼らは体を治すことはできるかもしれませんが、彼らが精神と心をも健康にしないかぎり、病気が再発するでしょう。私は心と精神の治療に関心があるのです・・・」

(メアリー・ルティエンス 大野純一訳 「クリシュナムルティの生と死」より)


神秘家としてはクールでドライな印象のあるクリシュナムルティだが、目立たないところではヒーリングもやっていたようだ。

でも、なるべく目立たないようにしていた。「病気治し」なんて評判が立って、人々がどっと押しかけてきたら大変だ・・・。

Kによれば、大事なのは身体だけでなく、精神を癒すこと。

心の治療こそが、真のヒーリングだという。
 
地球上のエネルギーが増大するのに伴い、情緒不安定な人が増えている。心の病こそ、現代人にとって最大の敵なのかもしれない・・・。
  

時間の観念 ~ クリシュナムルティ

2008年11月30日 | クリシュナムルティ

あるがままを、あるがままに見る。

物事をそのまま見ればいいんだから、本来は簡単なはず。それが、難しい。出来そうで、出来ない・・・。

なぜ、難しいのか。それは、あるがままに見ることを阻む、強力な無意識の障壁があるから。

「過去の記憶」が、そのひとつ。 

「ああだった、こうだった」という過去の記憶。それが、「ああである、こうである」という、先入観に変わる。

人は誰しも、「先入観」というメガネを通して物事を見ている。だから、あるがままに見ることができない。

このことに、自覚症状はない。曲がったメガネを通してモノを見れば、自然に曲がって見えるのと同じ。慣れてくると、それが普通に思える。

先入観の最たるモノは、カルト宗教の教義(宗教的ドグマ)でしょう。これに取り憑かれた人とは、もはや通常の会話を成り立たせることすら難しい・・・。
 
でも、クリシュナムルティによれば、あるがままに見ることを阻む障壁は、過去の記憶だけではありません。

「未来への希望」も、それに加わります。
 
「ああなりたい、こうなりたい」という、意志。「ああなってほしい、こうなってほしい」という、願望。それが混ざると、「あるがままを、あるがままに見る」ことからは遠ざかってしまう。

「覚醒」についても例外ではない。
 
「明日こそ、覚醒しよう」と思っただけでダメなんだそうだ。

「いま、この瞬間に覚醒する」でないといけないらしい。

というのも、「時間」は物質界特有の観念。この観念を持ち込んだ途端、物質界の破壊的な混沌が、精神の領域にもたらされる。それは、破壊的な作用をもたらす。

長年の地球暮らしで刷り込まれた 「時間」の観念から解放され、強烈に「今」を感じる。

過去も未来もない。

強烈な、「今」の現存。

精神にとっては、「この瞬間」 しかない。永遠に・・・。


受動的な凝視 ~ クリシュナムルティ

2008年11月30日 | クリシュナムルティ
   
クリシュナムルティは、「あるがままを見る」を強調した。

それは、一切の先入観を捨てて、ものごとを見ること。

だからいって、ぼんやりと、何も考えずに見ればいいというわけではないから厄介だ。

Kが言ってるのは、「受動的な凝視」。
 
「凝視」というからには、ボーッと眺めるわけではない。ジーッと見つめることを意味する。
 
必ずしも、自然体で実現できることじゃありません。研ぎ澄まされた観察力が要求されます。
 
自分の思考や感情を、隅々まで完全に把握する必要があるというから、簡単なことを言っているようで、実はかなり難しいことを要求されている。

しかも、「受動的」というのがポイント。

「これは良いことを言ってるな」とか、「コイツはまちがってるな」とか、そういう主体的な判断を棄てる。何も判断しない。それが「受動的」ということ。

しばしば、講義を聴いている生徒が「受け身の姿勢で聴いている」と言って非難される。これは、主体性がなくて自分では何も考えていない、「自ら求めていない」というわけなのだが、真の求道者の場合はむしろ、それでいい(笑)。
 
ルドルフ・シュタイナーも、「いかにして超感覚的認識を獲得するか」という著書で、「主観的な判断の停止」を強調していた。「主観的な判断を交えずに本を読む」という訓練をする。最初はなかなかそうもいきませんが、練習あるのみ。

徹底的な自己放棄。とことん、受け身の姿勢。それが、秘儀参入を求道する修行者の道・・・。

そこまでは、クリシュナムルティも同じ。だが、Kはそこにとどまらない。
 
Kによれば、「こうあってほしい」という願望、「このようになりたい」という意志なども、大きな障壁になるという。
 
「こんな風になりたいな」と、強烈に念じろ。そうすれば、思考が現実化するから・・・という具合に、成功哲学ではしばしば言われる。

たしかに、そういう面もあるだろう。

でもそれは、「あるがままに見ることを阻む」という、副作用を伴うから要注意(笑)。
 
 

あるがままに見よ ~ クリシュナムルティ

2008年11月30日 | クリシュナムルティ
    
クリシュナムルティの箴言
   
   
1. 「あるがままのものを,あるがままに見よ」

2. 「虚偽を虚偽と見,虚偽の中に真実を見,そして真実を真実と見よ」

3.  「“真理”は、自己の思考が完全に終焉したときに、向こうからやってくるものである」


・・・   
 
我々もクリシュナムルティを見習い、無益な宗教的ドクマを捨てて、あるがままを見るようにしましょう。

あるがままを見ると、矛盾した自分が見えてくる。 内面の葛藤や矛盾を見ることになる。 すると、嫌気が差す。 だから、よく見ない。
 
嫌気が差すと、見なくなるのが世間の一般人。 

嫌気が差すことを、非難せず、正当化せず、その感情や思考をただ、眺める。 

それだけの事で、人は劇的に変革できるという。
   
 

無我の境地 ~ クリシュナムルティ

2008年11月26日 | クリシュナムルティ
 
<1922年の夏:クリシュナジの体験>
 
  
ひとりの男が道路を修理していた。

その男は自分自身なのだ。

上げている彼のツルハシも自分自身だ。

ツルハシに砕かれた大きな石の欠片も自分自身である。
 
一枚の草の葉は自分の存在そのもので、男の後ろにたたずむ樹も自分自身だ。

自分の感性や思いは道路修理者そのものに融合し、梢を通りすぎる風を感じ、草葉の上の小さいアリを感じた。

つぼみも、ちりも、そしてあらゆる雑音も自分の一部である。

ちょうどそのとき、自動車が遠くへ走り去る。

自分は運転者、そしてエンジン、タイヤである。

自動車は遠くに去っていき、自分も自分自身から去って行く。
 
なにもかもが、自分の中にある。
 
というより、なにもかもが自分なのである。
 
生命のないもの、そして生命を吹き込む山々、虫、それから呼吸をしているすべての物たちが、自分自身なのだ。
 
 


これこそ、「無我の境地」の見本。

仏典でブッダの言葉を読んで、「無我とか、自他不二って、一体なんなの?」という疑問がわいてきたとする。

そんなときは、上の文章を読み返す・・・。
 
 

思考の観察 ~ クリシュナムルティ

2008年11月26日 | クリシュナムルティ
 
(クリシュナム-ティは)つまり、思考はどのような起源を持ち、どのように働き、どのような結果を生んでいるかという一つの事実を発見したのです。

(R・パウエルいわく・・・)

「クリシュナムーティが心理の領域で成し遂げたことは、物理学においてアインシュタインが行った革命に匹敵すると言ってよい」


そして、私たちの頭の中で働いている心理的な思考の動きを克明に観察することによって、私たちはその思考の全構造を知ることができる、とクリシュナムーティは言っています。

このようにして思考の全体の働きを知ることによって、心理上の思考が完全に停止し、精神が静寂になったとき、そのとき私たちに絶対の「真理」を知る可能性が生まれてくる、と彼は言うのです。

「真理」は自己の思考が完全に終焉したときに向こうからやってくるものである、とクリシュナムーティは言っています。


(クリシュナムルティ 「自我の終焉」日本語版の訳者前文より)

 
  
これは、思考停止のススメ。
 
要するに、「何も考えない」ということ。

「ああでもない、こうでもない」という、日常、我々の頭の中をグルグルと渦巻いている考え。「精神の静寂」を得るためには、まず、このグルグル渦巻いているものを止める必要があるらしい・・・。

実際のところ、インド人は昔から、これが大好き。2千年以上も前に釈尊がインドで修行していた頃も、修行者たちはみんな 、「思考」 を止めようと思って一生懸命に 「無念無想」 の瞑想行をやっていたという。

しかし、「思考」は、止めようと思って止められるものなんだろうか?

現実にはなかなか、そうもいきません。

そこで、クリシュナムルティが勧めるのは、自分の頭の中を渦巻いている思考を「止める」というより、「観察」すること。
 
「敵を知り、おのれを知れば、百戦あやうからず」という格言もある。まずは、敵(思考)を知れ、というところか。
 
「思考を観察する」。それが、われわれのテーマ・・・。 
 

あるがままの全体的知覚 ~ クリシュナムルティ

2008年11月26日 | クリシュナムルティ
  
クリシュナムルティによれば、真理の知覚が可能になるのは、「あるがままの全体的知覚」が実現されたときだけだという。
 
「あるがままの全体的知覚」とは何か。
 
「あるがまま」というのは、物事を、先入観で歪めることなく、そのまま見ることを意味する。

「全体的」というのは、いろんな部分に分かれていない、分けないということ。 分析するのを止めた結果、分離がなくなった状態を意味します。 
 
人は、「ああでもない、こうでもない」と、分析する。 そして、「ああである、こうである」と、思い込む。

それらは、あるがままの全体的知覚を妨げる。

過去の哲学や宗教は、皆、思考や観念の産物。

それらは、すべて否定の炎によって浄化されなければならない・・・。
  
「あるがままの全体的知覚」とは、一切の偏見から離れた、無我の状態でのみ実現される純粋な認識。

そこには、分離がない。 偏見もない。 思考がない。 観念もない。

もっとも、これは、出来そうで出来ない・・・。
 
 

組織を捨てた、クリシュナムルティ

2008年11月25日 | クリシュナムルティ
 

「20世紀最高の聖者」として名高い、ジドゥ・クリシュナムルティ。現代において、最も釈尊の思想に近い人物としても知られる。

そんなクリシュナムルティは、1895年5月12日、南インド・タミルナドゥ州マドラスの近くでバラモンの家系に生まれた。

当時のクリシュナムルティは、ぼーっとした子供であったという。英語も数学も、非常に苦手だった。特に、記憶力が致命的に悪かったとされる。

14歳のとき、転機が訪れた。南インドの道端でぼーっと座っていたクリシュナムルティ (K) 少年に、、イギリス人の神智学協会の幹部・リードビーター師が目を留めた。K少年が放つ巨大なオーラに圧倒されたリードビーター師は、神智学協会で引き取って育てることを決める (稀代の美少年だったK少年を、美少年好きのリードビーターが見染めたとも言われる)。

その後、ヨ-ロッパの神智学協会に連れて行かれたKは、救世主マイトレーヤが降臨するための 「乗り物」とされ、英才教育を受けることとなる。 マイトレーヤ (弥勒菩薩) の化身たるKを覚醒させるべく、何度もイニシエーションが実施されたという。

1911年、神智学協会の会長であったアニー・ベザントは、クリシュナムルティを長とする宗教団体、「東方の星の教団」を設立した。ついに教祖となったK。

ドイツ神智学協会の大物・シュタイナーは、これを見て怒り、去っていってしまった (正確には、イギリス本部と対立したため、除名された)。 タイプは違うが、20世紀の精神世界を代表する2人の大物の人生が交差した瞬間だ。
 
Kも、最初のうちは教祖の役割を忠実に演じていた。だが、やがて反抗するようになる。よほど、宗教団体が嫌いだったのだろう。

そして、1929年、 クリシュナムルティは 「真理は道なき道であり、いかなる組織体とも無縁である」と宣言して、教団を解散した。当時、神智学の教団には3千人あまりの信者がいたという。現役の教祖が教団を捨てたのは、当時としても宗教界を揺るがす衝撃的な事件だった・・・。

フリーの宗教家になったクリシュナムルティは、世界各地を回って講演した。講演は各地で評判を呼び、Kは有名になった。ハリウッドでは映画スターへの道も開けたが、それをも捨てて講演活動に邁進した。それは、90歳に至るまで半世紀以上にも及んだ・・・。    
 
 

クリシュナムルティの進化論

2008年05月10日 | クリシュナムルティ
 
昔から、生物学をやってる人には、精神世界に対して冷たい人が多い・・・。
  
理由は単純でして、生物学をやってると、人間や動物が「機械」に見えてくるから。

こういうのを「人間機械論」と呼び、近代ヨーロッパで発展した考え方です。これが、現代人の唯物的な思考の源泉。







これは古代ギリシャでも同じでして、「師匠のプラトンがあんなに神がかり的なのに、弟子のアリストテレスはなんで現実主義者なの?」という素朴な疑問は、アリストテレスの本業が「生物学者であった」ということを抜きにして語れません。アリストテレスの「動物誌」は、生物学の古典です。

このため、神秘主義者には「生物学」を敵視している人が多い。「生命の神秘」を否定していると映るからでしょう。

特に、「ダーウィンの進化論」は目のカタキにされている。アメリカ南部の創造論者の運動は有名ですが、日本でも進化論を否定している人は、新興宗教の信者を中心として、意外に多い。グーグルで検索してみれば、反・進化論サイトが大量にヒットする。

でも、「20世紀最高の神秘家」として名高いJ.クリシュナムルティは、そんなことなど意に介していなかった。「進化論」を、当然のこととして受け入れています。

クリシュナムルティによれば、人間が発揮する残虐さや凶暴さは、祖先である動物に由来するものだという。

動物に言わせれば、失礼な話(?)    
  
動物は、常に厳しい生存競争にさらされている。他の動物との競争だけではなく、環境の変化とも戦って生き延びなければならない。
 
人間も、その闘争本能を受け継いでいます。
 
この厳しさが、地球生命系の特徴でしょうな。美化したところで仕方がない・・・・・。
  
 
   

クリシュナムルティの進化論2

2008年05月10日 | クリシュナムルティ
  
<クリシュナムルティ講演録より> 
  

★遺伝された生物学的原因

・・・思うに、その理由のひとつは私たちが世々を通じて受け継いできた、動物に由来する本能です。

あなたは犬が喧嘩するのを、あるいは子牛が―――強い方が弱い方をやっつけるのを、見たことがおありでしょう。

動物たちは本質的に攻撃的で暴力的です。

そして人類は動物から進化してきたので、私たちもこの攻撃的な暴力と憎悪を受け継いでいるのです。

それは私たちが動物にあるのと同じテリトリー権――― 一片の土地を支配する権利―――や、性的な権利をもつとき存在します。

だから、それが理由の一つなのです。
 
 
★肉体的な恐怖は動物的な反応である


・・・さて、まず、動物的な反応である肉体的な恐怖があります。

私たちは非常に多くのものを動物から受け継いでいるからです。

私たちの脳の構造の大部分は動物から受け継がれたものです。

これは科学的な事実であって、たんなる理論ではありません。
それは事実なのです。

動物は暴力的です。
だから人間も暴力的です。

動物は貪欲です。
彼らはへつらわれることを愛します。
甘やかされる(愛撫される)ことを愛します。
快適さを見つけることを好みます。

人間も同じです。

動物はよくばりで競争的なので、人間もそうです。

動物は群れて暮らします。
だから人間も集団の中で活動することを好むのです。

動物は一種の社会的構造をもちます。
人間もそうです。

詳しくお話すれば、まだいくらでも類似点は挙げられます。

が、私たちの中に動物的な要素が多くあるのを理解するには、もうこれで十分でしょう。