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宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

もはや、勤勉は美徳ではない

2013年05月28日 | お金が要らない世界
政府が、国民全員に、一定額の生活費を支給する。それが、ベーシック・インカム。

「それだと、人は働かなくなるんじゃないか?」という考え方もあるだろうけど、実際には、配給されるベーシック・インカムだけじゃ足りなくて、もっと稼ぎたい人がほとんどになるだろう。

というのも、「全員、一律に配られる」というのが、ベーシック・インカムの特徴。だから、たとえ高額所得者になったとしても、打ち切られることはない。

それ以前の問題として、ここが発想の転換のしどころだ。

この先ますます、生産するのは、ロボットやコンピュータの役目になるだろう。一方、消費するのが人間の役割。

ガンバりすぎて、1人で3人分も働いたりすれば、その分だけ他の人たちが失業しやすくなる。人間の仕事が減ったら、ワークシェアリングが重要だ。人が今までほど働かなくなったら、生産性が下がるけど、それはなんとか機械に補ってもらう。それでも生産性が低下する分は、経済がマイナス成長しても仕方がないと割り切る。

古代のギリシャでは、芸術や哲学が栄えた。これは、労働を奴隷にやらせて、自分たちはヒマにあかせて美の追求をやってた市民階級のおかげ。こういう人たちにとって、勤勉は美徳ではなかった。むしろ、怠惰が美徳だったのだ。

かつては、「おカネを使えば使うほど景気が良くなる」という意味で、「消費は美徳」と言われた時代もあるんだから、「怠惰は美徳」になってもおかしくないだろう。

まあ、「消費は美徳」というのは極端な言い方だけど、「倹約は、個人にとっては美徳だが、社会にとっては、そうではない」とは、よく言われたものだ。それをもじって、「勤勉は、個人にとっては美徳だが、社会にとっては、そうではない」と言ったのは、先見性で知られる経済学者、ガルブレイス。

「怠惰は美徳」といえば、それを極限まで推し進めたのが、朝鮮王朝の貴族、両班(ヤンバン)だろう。両班は、顔を洗うことすら、自分ではやらずに、下僕にやらせてた。両班の場合は、労働以前に、身体を動かさないのがステイタス。近代に入り、日本の皇族がテニスをしているのを見て、ある両班が、「どうして、あのようなことを下僕にやらせないのか?」と言ったという話は有名だ。

こういう例を見ても、「よく働く」ということは、決して古今東西の人類の、普遍的な価値ではないということがよく分かる。

現代人の多くは、一日の中で、仕事の占める比重が大きすぎだ。こんなんじゃ、日常に埋没してその日その日を生きるしか、なくなってしまうだろう。

その点、高齢化社会で、すでに働かなくなった年金生活者が増えているが、美術館もコンサートホールも、こうした人たちで一杯だ。精神世界に関する講演でも、聴衆には高齢者が多い。人間、忙しさから解放されれば、どれほど精神生活が充実するかが、よく分かる。

そもそも、おカネになることばかりが仕事なのではない。

昔からよく言われるのは、家事と育児だろう。家庭で主婦がこれをやれば、GDPは少しも増えない。でも、家政婦を雇ったり、保育園に預けたりすれば、払ったおカネの分だけ、GDPは増える。これは、「社会的な意義や豊かさと、GDPが比例しないことの例」として、昔からよく引き合いに出されている。

ベーシック・インカム

2013年05月28日 | お金が要らない世界

大阪で、母子の遺体が発見された。アパートの一室は、電気とガスが止められ、冷蔵庫には食べ物がなかった。3歳の子供の遺体のそばには、ガス料金の請求書の封筒に、「最後におなかいっぱい食べさせられなくて、ごめんね」という内容のメモが残されていた。大阪府警が調べたところ、預金口座には十数円しか残っていなかったという。

かつての日本は、「一億総中流」と言われ、「貧困を根絶した社会」とうたわれた。でも、それはとっくに過去の話。最近の日本では、餓死者が出ている。貧困は、まったくシャレにならない問題になってしまった。

勤勉の道徳がすみずみまで根づいている日本社会では、生活保護を受けるのが難しい。たいていの場合、役所からは「身内を頼りなさい」、「働きなさい」と言われて、なかなか認められない。しかも、ますます受けにくくなる方向に制度改正が進んでいる。

最近は、ネット右翼が生活保護を「生保」(ナマポ)と呼んで、攻撃するのがネット上で流行している。でも、それはいずれ、自分たちの首を締めることになるだろう。


日本共産党は、こうした問題を、いつも国会で追及している。左翼の知人がよく言うことだけど、今の日本は、共産党が大きく勢力を伸ばしても、まったく不思議はない状況だ。言われてみれば、確かにそういう気がしてくる。なんだかんだ言っても、こういうテーマで、本気でガンバッてくれてるのは日本共産党くらいのものだろう。

でも、世の中は一筋縄ではいかない。数年前、筆者が失業してバイト生活してた頃、バイト仲間たちと駅前で集合したのだが、そのとき、たまたま駅前で共産党が街頭演説をやっていた。「非正規雇用をなくせ!」という話だった。それを聞いたバイト仲間たちは、「非正規雇用がなくなったら、俺たちはどうすりゃいいんだよ?」と、口々に怒っていたものだ。

また、日本共産党が主張している「法定最低賃金の引き上げ」というのも、確かに悪い話じゃないんだけど、いきなりそれをやれば、失業率が上がるのは確実だ。


いっそのこと、「国民全員に最低生活を保障しよう」という制度が、ベーシック・インカムだ。たとえば、大人1人に月10万円、子供1人に月7万円を、政府が配給する。これなら、生活保護を申請して、認められるまでもない。途方もない財政支出になるけど、まさに夢の制度。

その逆なら、過去にもあった。つまり、「一人アタマいくらで、全員一律に税金を取ります」という制度ならあった(・・・こういうのを、人頭税といいます)。これは、なんともつらい制度だった。

千年以上も昔に、世界を制覇したサラセン帝国が、異教徒には人頭税をかけて、イスラム教徒には免除したのは有名だ。イスラム教に改宗した人は、人頭税を免除します。イスラム教を信じないで、偶像崇拝を続ける人は、人頭税を払いなさい。この制度は効果テキメンで、異教の民がわれもわれもとイスラムに改宗した。

よく、「イスラム教は、武力で信仰を押し付けた」と言われるけど、それは誤解だ。それよりも、「異教徒からは人頭税を取ります」という、おカネの話のほうがずっと効果的だぅた。

最近だと、イギリスの大改革者、サッチャー首相が人頭税を導入しようとして政治的につまずいたのは、記憶に新しい。

ベーシック・インカムは、人頭税の反対。国民全員に、「一人アタマ、いくら」で一律でおカネを配るという制度だ。人頭税が地獄なのに比べて、これは天国だ。


もともと、これは、経済学で、市場原理ではどうしても解決できない問題に対する、ひとつの答えとして出てきた考え方。

というのも、経済学には、「自然失業率」ってものがある。たとえば、「今月の失業率は、4パーセントでした」という話を聞いて、「う~ん、悪い数字じゃないんだけど、それでも100人に4人が失業してるのか。いっそのこと、ゼロパーセントにはならないもんなのかね?」と思ったとしても、そうはいかない。

誰も失業してない世の中は、完全雇用といって、とても困った状態とされている。なぜかというと、完全雇用の状態になると、就職は超・売り手市場になり、人を雇う側は、どんどん給料を上げないと、人手不足になってしまう。そうなると、人件費が高くなり、それが物価にハネ返る。

早い話が、失業率がゼロになると、物価が急カーブを描いて高くなり、インフレになってしまう。世の中、いいことばかりではない。物価が急上昇して、生活は大混乱だ。

これを防ぐために考え出されたのが、「自然失業率」。最近は、「失業して困ってる人がいるのに、自然とは何事だ!」という批判にこたえて、「インフレにならない失業率」とかなんとか、言いかえられている。

つまり、安定した経済を維持するためには、必ず一定以上の失業者がいなければいけないというのが、この世界の真実だというわけだ。

でも、それじゃ困る人が出てくるわけで、そのスキマを埋めるためには、失業保険とかも考えられるわけだけど、いっそのこと、「全員に生活保障しちゃったら?」という考えが出てきた。それが、ベーシック・インカム制度。

(続く)


経済の活性化

2013年01月17日 | お金が要らない世界

ひと頃は、「アセンションとは、世界の経済が崩壊することだ」という論調が流行っていた。

筆者は、それに強く反対していた。「世界大恐慌がやってくる」とか、気楽に言うのはいいけど、地球人類の歴史を見れば、その悲惨さは想像を絶するものがある。とても、「それは、バラ色の未来につながっています」などと言えるような話ではない。

地球人類の歴史は長い。その大半を占めるのは、ゾッとするほどの貧困と飢餓、キチガイじみた戦乱と虐殺、人々がバタバタ倒れて町じゅう死体だらけになっていく伝染病・・・。ほとんど、悪夢の地獄そのものだ。その苛酷な現実を、軽く見るべきではない。

もちろん、常にそうだったわけではない。ときには、戦争や疫病が起きないこともあった。

だが、たとえ表面的には平和な時期でも、人類が貧困から脱却できた試しはない。基本的に、「人は増えるけど、食べるものがない」という状況が、地球人類のスタンダード。たとえ戦争や疫病で殺されなくても、貧困で飢えて死ぬ。それが普通だった。

その点で、昔に比べたら格段にマシになった現代の先進国を見て、「これが普通だ」と思ったら、地球という苛酷な修羅場を見誤ることになる。

ただし、そんな現代の先進国でさえ、貧困ラインに落ち込んでいる人は少なくない。そこまでいかなくても、多くの人は会社や家計を通じて、お金のやりくりに苦労している。

それというのも、景気が悪いからだ。それが唯一の原因とまでは言えないけど、少なくとも、最大の原因なのは確かだろう。

なんで、世界の経済が崩壊して大恐慌になったら、この世から経済的な苦労が消えてなくなるのか。

それは、「巨大な隕石が落ちてきて人類が全滅すれば、もう病気で苦しむ人はいなくなる」というくらい、ムチャな発想だ。

普通に考えれば、逆だろう。

むしろ、もっと豊かになれば、経済的な苦労はなくなる。「もう、いいや。これ以上は要らないよ」というくらいになれば、経済的な苦労は消滅する。

もっとも、貪欲な人なら、それでも「もっと欲しい」ということになり、際限がないことも予想される。

いくら食欲旺盛と言ったって、普通は、人間が食べられる量には限りがある。1日2~3食も食べれば、普通は十分だ。それ以上、食べろと言われても無理がある。

それでも、もっと食べたい人はいる。古代ローマの金持ちは、おいしいものを山ほど食べては、吐き薬を飲んで床にゲーッと吐き出し、また食べていた。吐いた汚物をせっせと掃除するのは、貧民のお仕事だった。

衣装だって、一人で何百着も持っている人は、現代にもいる。体はひとつしかないし、1年は365日しかない。着れる服には限りがある。平安時代の貴族みたいに十二枚も重ね着したところで、その辺りが限界だ。。それでも、もっと欲しい。

昔の中国皇帝は、「後宮3千人」、つまり、3千人も奥方がいたと言うが、1日に1人と会ったとしても10年近くかかる人数だ。皇帝がどんなに好色だったとしても、さすがに多すぎる。

そういう人も、中にはいる。

でも、全員がそうだというわけではない。普通の人なら、食欲・性欲・物欲・・・、何にでも限りがある。一部の極端なマニアは別にして、普通の人間の欲望など、たいしたことはない。そこそこの満足を得られる水準は、実はそんなに高くない。

経済的な苦労が存在しない社会は、十分に実現可能だ。

そのためには、別に世界経済が崩壊する必要はないし、「貨幣が存在しない社会」になる必要もない。

むしろ逆に、景気が良くなり、経済活動が活発になったほうが良い。かつてのような経済成長はもう無理だけど、できる範囲でそこそこ経済が活性化することが、意識の覚醒を目指す上でも望ましい。

いつまでも、お金の苦労に意識を縛られているようでは、意識の覚醒がますます難しくなる。そういう余計な制約条件など、なくなるに越したことはない・・・。

(続く)


お金を使わないで生活する人が増える

2012年04月16日 | お金が要らない世界

またまた読者のコメントで知ったのだが、神田昌典氏と評価経済の岡田氏の対談をニコ動で視聴した。

http://www.nicovideo.jp/watch/1332160619

神田昌典氏といえば、外務省や外資系企業で活躍してきたことで知られ、自分では「占いに関してもプロ級」と言っている著名コンサルタント。おそらく、重要な意思決定は占いで決めていると思われる(笑)。
 
その神田昌典氏によると、2018年ごろにはお金を使わないで暮らす人々が全体の10%程度になるらしい。今後は、そういう人が増えていくようだ。

たしかに、最近の日本は貧困層が増えて、お金を使いたくても使えない人が多い。いかにして、最低限の出費で生き延びていくか。これも、経験がモノをいう世界。住居費はもちろん、衣食の費用をとことん削る。外食しないで食生活に工夫を重ねる分、かえって健康になったりするから皮肉なものだ。
 
東京では、住居費がかかるから難しい。でも、最近はルームシェアする人が急増している。何人かで一つの部屋を借りてとりあえず住居を確保し、起きてる時間の大半を外出先で過ごす。外国では、それが普通なので違和感がない。もともと、多忙な現代人にとって自宅とは、寝るために帰り、起きたらすぐに出ていくところ。もちろん、ゆっくりくつろげる環境に恵まれた人もいるけど、「貧乏ヒマなし」という言葉のとおり、ギリギリの生活をしている人ほど、かえって忙しかったりするものだ。
 
筆者も、貧乏生活を何度も経験している。一方、かなりの高給取りだった時期もあるので、両方を経験していることになる(笑)。
 
お金がない生活をいかにして乗り切るかは、工夫を重ねるしかない。100円ショップや、スーパーの衣料品など、最近の日本では高望みさえしなければ激安な商品が決して少なくない。実際のところ、すでに驚くほど安い生活費でも生きていける世の中になってきている。
 
そういう人は、ますます増える傾向にある。生活必需品をロボットが生産するようにすれば、人件費はタダになり、モノはますます安くなるだろう。

神田氏や岡田氏が言うように、年収100万円以下でも、余裕をもって生活できるような社会になれば、生きるのはかなり楽になる。そういう生活を選択する場合は、確実に余暇が増えることになるだろう。年収80万円なら、日当8000円の仕事を100日もやれば稼げる。
 
そこそこの収入と、豊富な余暇を両立するのは難しい。なかなか難しいけど、個人的には、それが出来ていた時期もある。

かつて筆者は、仲間と一緒に再生に取り組んでいた企業が潰れてヒマになりブラブラしていたところ、とある富裕な家庭の、個人的な家庭教師として雇われたことがあった。「受験地獄」や「詰め込み教育」への批判が多い世の中だけど、自称・「地球を調査するために宇宙から転生してきた情報端末」から見れば、学校の勉強に必要な知識量などタカが知れている。半日ほど英語・数学その他を教えたら、後はヒマなので本を読み放題の生活だった。おかげで、精神世界に関する造詣がさらに深まった(笑)。

精神世界や芸術などを十分に探求するためには、豊富な余暇が欠かせないのは事実だろう。最前線のビジネスマンとしてムチャな働き方をしていたのでは、さすがに無理がある。

とはいうものの、フリーターの生活というのも、大変に厳しいものがある。世間の一般人は、フリーターを「マジメに働くのが嫌なので、気楽な生き方を選んだ人たち」と考えている人が多いが、それは誤解だ。筆者がバイト生活を送っていた時期に、よく現場で一緒になった初老のフリーターなどは、日中の仕事を終えた後、そのまま別の現場に移動して夜勤に突入し、朝まで働いていた。驚くべきことに、次の日も現場に出てきて、平然と働いていた。「いつ寝ているのか?」と不思議になる点にかけては、銀行や商社の猛烈サラリーマンをも上回っていた。「なぜ、そんなに働くのですか?」と聞いたところ、「人間には、たったひとつ平等なものがある。それは何だと思う?」と逆に問い返された。「さあ、なんでしょう?」と言ったところ、彼は「時間だ。時間だけは24時間。みんな同じだ」と答えた。「人と同じだけ働いていたのでは、カネは貯まらんよ」というのが口癖だった。もはや、ほとんど睡眠を必要としない、仙人みたいな境地に到達していた・・・。
 
どういう人生を送るかは、人それぞれだ。実は、潜在意識でそういう生き方を望んでいた・・・という場合も考えられる。

しかし、「お金がなくても生活できる世の中」を実現できさえすれば、人生の選択肢が大幅に広がるのは確実だ。誰もが、余暇を活かして好きなことをやっていられる。それこそ、ブログの更新が止まることもないだろう。

例によって話が脱線しまくりだけど、とにかく、多くの人々が、より安い生活費で生きていける社会を切実に必要としている。それが、世界を変えていく。あらゆるモノの価格が下がっていくのは、自然の流れだろう。当然のことながら、経済規模は縮小する。最終的には、まったくお金がなくても生活できる社会に限りなく近づいていくだろう。

もちろん、より高収入を稼いで豊かな生活をしたいと望む人々も多いだろう。それはやっぱり、人それぞれの自由選択ということになる・・・。
 


「おカネが要らない世界」をまた考える

2012年01月29日 | お金が要らない世界

酒井英禎さんという人のブログを見て、「おカネが要らない世界」について、また考えた。

いくつか疑問点はある。

>ベーシックインカムは、政府が国民全員に最低限の生活に必要なお金を毎月配る制度である。今の日本だったら、一人10万円くらいだろうか。その代わり、生活保護・年金などの他の公的社会保障は全て廃止する。・・・ダン・コガイは BI の財源として、税率を100% にした相続税を充てることを提唱する。つまり三途の川の向こう側には誰もカネを持って行けないのだから、税金は死んだ後に取られる方が痛みが少なかろう、というわけである。・・・私も、そういう社会が実現したらすばらしいだろうな、と思う。ただし、残念ながら永遠に実現しないだろう。特にダン・コガイが大真面目に主張する BI の財源 = 税率 100% の相続税収、は政治的に無理がありすぎる。
  
「相続税の税率を100%にして、ベーシックインカムの財源にあてる」という話なのだが、ベーシックインカムには莫大なカネがかかる。ざっくりと、1億人に毎月10万円を政府が配るとして、月間10兆円の財政支出が増える。年間では120兆円だ。それだけで、現在の国家予算を上回ってしまう。一方、相続税の税収など、タカが知れている。土地や株の値下がりのおかげで、今じゃ年間1兆円くらいしか税収がない。「税率を引き上げるのは政治的に無理がある」もなにも、ベーシックインカムの財源にするには、もともと力不足もいいとこ。
 
今は一部の資産家だけにかかっている相続税を、世の中の死んだ人全員に課するということなんだけど、それは意外に大変なことだ。相続税をちゃんと課税するのには、相当な手間ヒマがかかる。死んだ人の銀行預金口座を調べて、預金の出し入れまでチェックしなければいけない。「アナタは亡くなる3年前、銀行から現金いくらを引き出しましたね。その後、お子さんの口座に預金がナゼか増えましたね?」というような話を、一部の資産家だけならともかく、無数の小金持ちにまでやっていたら、税務署の職員をどれだけ増やしても足りないだろう。
 
>本書で残念な点があるとすれば、ダン・コガイが経済=カネと考えていることだ。実際には、経済とカネはイコールではない。・・・経済全体が貨幣を媒介とする商取引に絡めとられるようになったのはここ数百年のことにすぎない。・・・経済=貨幣経済(A)+非貨幣経済(B)である。古代は貨幣経済(A)は事実上無視できるほど小さかった。数百年まえから貨幣経済(A)が急速に伸長し、非貨幣経済(B)の息の根を完全に止めるかのように見えた。
  
これも、「おカネがない世界」を唱える人たちによく見られる考え方のひとつで、以前から気になっている。というのも、「貨幣経済が広がったのは、ここ数百年のできごとにすぎない」、つまり、「貨幣経済とは、近代の資本主義社会の産物なのだ」と思っている人が多い。

実際のところ、そんなことはない。それは、貨幣経済の歴史が、近代の資本主義社会よりもずっと長いからだ。2千年前の漢やローマ帝国だって、貨幣経済の存在感は、「無視できるほど小さく」はなかった。
 
本格的な「貨幣経済社会」が到来したと言えるのは、千年以上も昔、8世紀のイスラム帝国(イラクの首都バグダッドを中心とする巨大帝国)だろう。ここでは、軍人や官僚の俸給が、すでに現金で支払われていた。国際的な商取引が発達して、アラビア人の貿易商社が世界の海で活躍し、中国とインドの貿易の仲介までやっていた。おカネがあれば、中国からアフリカまでドコに行っても生活できたので、海外旅行をする人も出てきた。それは、やがて世界に広がった。スタートが遅かった日本でさえ、「室町時代には、貨幣経済が浸透しました。農民は、商品作物を育てて定期市で売るようになりました」とかなんとか、中学校の歴史の教科書にも書いてある。
 
でも、疑問(・・・というより、異和感)を覚えるのは、そこまで。このブログ記事を書いた人にとっても、そこまでは前置きで、本題はそこから始まる。
 
>これから先、生活必需品はほとんど人手を介さずほぼ自動的に生産されるようになっていく。一方で人手が要らないがゆえに失業した社会の大多数の人たちには、カネがない。カネのない人にモノを売ろうとすれば、売り手はモノの値段を安くするしかないのではないか。この傾向が強まるほど、モノの価格は下がっていってほぼゼロに漸近していくだろう(いまだって100円ショップをみれば同様のことが起きていることがわかる)。
  
確かに、そのうち、ロボットがなんでも生産する世の中になっていくだろう。今は、多くの製品を、どこかの国で、賃金の安い人たちがタダみたいな人件費で生産している。これも、機械化が進んで、どこでも同じようなモノを作れるようになったおかげ。ますます機械化が進めば、そのうち、人が作る必要もなくなるだろう。

そうすると、どうなるか。買う人にとっては、モノはタダみたいに安くなっていく。一方、モノを作ったり売ったりする人にとっては、失業者が増えて苦しくなっていく。今は、その2つの変化が同時進行しているのだという。
 
さらには、インターネットの普及で、知識や情報の値段が、文字通りタダになってきた。
 
>その一方で、情報技術(IT) が大量の無料(フリー)なものを生み出している。インターネット上では、あらゆる情報(文章・音楽・映像等)を完全に無料か、ほぼ無料に近い安価で手にいれることができる。たとえば iPad は、わずか5万円ほどの機械だが、かつてのテレビ・パソコン・ラジオ・新聞・CD・DVD・書籍・百科事典・ステレオコンポ・携帯音楽プレーヤー・有線放送等、諸々のものの代替物になっている。
  
というのは、その通りだと思う。今は、新聞を取っていない家庭が多い。インターネットで、必要な情報が無料で入手できるからだ。その意味では、確かに無料なものや、タダみたいに安いものが増えている。
   
もっとも、「無料か、タダみたいに安くなる」というのは、どれも、「必要最低限なもので満足できるなら」という条件付きになる。よりハイレベルな生活を求める人は、引き続き高額な商品の購入を続けることだろう。

美食をするグルメや、着飾ったオシャレな男女がいなくなったら、やはり寂しいものがあると思う。音楽にしても、youtubeで聴くのもいいけど、「有名なコンサートホールで、名門オーケストラの実演を聴きたい」という人だっているだろうし。文化が栄えるためには、そういう人たちも必要だ。筆者はyoutubeで十分なのだが、そんな人ばかりだと文化がヤセ細っていくことになる(笑)。
 
いずれにしても、それ以上を求めない人にとっては、「おカネがなくても生活できる世界」になっていく。よりハイレベルな生活を求める人は、その道を追求する自由選択があっていい。でも、とりあえず「おカネがなくても生活できる世界」にならないと、同じような苦労がいつまでも続くことになる。
 
もっとも、人類の意識が進化するにつれて、物質的な欲望は薄れていく方向にあるので、ハイレベルな生活を目指す人はだんだんいなくなっていくかもしれないのだが・・・。
 


幸福度の高い社会

2011年12月10日 | お金が要らない世界

 
先日、ブータン国王夫妻が来日して、改めて「国民の幸福度」が話題になった。ブータンといえば、「幸福度」だ。世界でも貧しい部類に属する国で、「今の生活に満足していますか?」という世論調査に、国民の6割が「満足している」、3割が「まあ満足している」と回答し、合計で9割に達した。
 
この国は、老子の理想とする国に似ている。人口は70万人しかいない。ヒマラヤ山脈の高地にあり、年中、霧や雲に覆い隠されている秘境。しかも、旅行者や移住者の入国を厳しく制限して、鎖国に近い体制にしている。国民の約半数は、教育を受けておらず文字が読めない。ほとんどが農民だ。
 
ただし、「幸福度が高い」というのは、ブータンの中でも、主に地方の農村の話。ある調査結果によると、都市部で調査すれば、様子はカナリ違うみたいだ。「幸福度」は5割を下回っている。鎖国体制のブータンだけど都会では、なぜか学校の授業を、すべて公用語の英語でやっている。海外に留学した経験のある人も多い。情報量が多い都市の住民は、自分たちの置かれた状況をよく知っている。こうなると、幸福度はグッと低下する。やはり、「知らぬが仏」という言葉のとおりなのか・・・。
 
ブータンに比べて、日本人の幸福度は低い。「今の生活に満足していますか?」という質問に、「満足している」という回答は、わずか一割だった。もっとも、日本の調査でも、「まあまあ満足している」という人も含めれば、「満足」が5割を超えている。その点、日本人の「不幸」ぶりは誇張されている。
 
それにしたって、アンケート結果からすれば、日本人はあまり幸福そうではない。ここで昔なら、「お金があって豊かでも、心は不幸な日本。お金がなくて貧しくても、心は幸福なブータン」という、オナジミの二項対立図式が登場するところなのだが(笑)、残念ながら、今の日本はそういう状況ではない。今の日本では、お金がなくて困っている人が多い。こんな世の中で「お金があって豊かでも・・・」というような話をしても、「ハァ?」という反応が返ってくる恐れがある。

それにしたって、狭い自給自足の農村社会で、外界の事情を知らない無知で無欲な村人たちの満足度が、目立って高いのは事実。同じブータンの国内でさえ、都市部と比べて農村部の満足度が高いことに、それがハッキリと表れている。老子の「小国寡民」は、やっぱり昔も今も真理なのだ。

でも、この先もそれが理想像であり続けるかと言えば、それはどうだろう。
 
やっぱり、「高い意識を持った人々による、理想の共同社会」というのが、次のステップとして見えてくるんじゃなかろうか。つまり、「無知で無欲な村人たちによる、幸福度の高い社会」から、プレイヤーを入れかえて、「高度に進歩した文明人による、幸福度の高い社会」を目指す。いつまでも、「次善」を目標にしてるわけにはいかない。「最善」を目指さなくてどうする・・・というわけだ。
 
そうなると、老子の「小国寡民」からは離れてくる。今度は、ヘーゲル大先生が登場する番だろう。それは、ヘーゲルが唱えた理想の市民社会、「人倫の共同体」に似てくる。

これは、今までの地球人類の意識レベルでは空理空論にとどまっていたが、意識進化の時代を迎えた今は、現実問題として再浮上してもおかしくない。

(続く)
  


経済問題の終わり

2011年11月27日 | お金が要らない世界

   
いきなり、「おカネのない世界」を目指すというのは、無理がある。無理を通そうとすれば、必ず反作用が返ってくる。極端な例が、カンボジアのポルポト政権だ。ポルポト政権は、一気に貨幣を廃止するという、過激な社会改革を企てた。それだけが原因ではないけど、カンボジア社会は悲惨な大混乱になってしまった。カンボジア国民の2割から3割が、ポルポトによる大虐殺で死んだと言われている。大勢の自国民を殺した政治家としては、人類史上でもダントツの部類に入るのは間違いない。
 
おカネそのものは、そう簡単にはなくならないだろう。戦争が起きない世の中になっても、軍事力はまだあるのと同じだ。でも、以前と比べたら、重要性はグッと低下する。

たとえば、野球やサッカーは、デキないよりはデキた方が良い。その方が面白いからだ。でも、デキなきゃデキないで、別に困るわけではない。英語や数学も同じ。スポーツと比べれば、「嫌いなのに無理やりやらされた」という苦い記憶を持っている人が多いせいか、評判はいまひとつだけど、これも一緒で、デキないよりはデキた方が面白い。でも、たとえデキなくても、生活に支障を来すわけではない。

それと同じように、おカネも、「無いよりは有った方がいいだろうけど、無くても別に困らない」という程度の存在になればよいのである。つまり、おカネを稼ぐことに情熱を燃やしている人は、その道でガンバってくれればいい。それは、人それぞれの好みであり、自由選択だからだ(ただし、これからの時代にそれをやるのは、そうとう古い生き方になるだろう・・・)。一方、おカネに興味がない人は、なくてもOK。ないからといって、別に困るわけではない。

そういう世界になりさえすれば、特に問題なくなる。

今の世の中は、そうなっていない。おカネがないと、本当に困るようにできている。「カネの悩みなど、気の持ちようで何とでもなるさ・・・という人は、カネで苦労したことがない人だ」という格言もあるのだが、まさにそのとおり。おカネの問題ばかりは、気持ちの持ちようではどうにもならないことが多い。

これはやっぱり、世の中がそんな風にできているからだ。地球人類は、必要なものが足りなくて、全員に行き渡るのは無理という環境の中でずっと生きてきた。ここは、生き残るためには競争しなければいけない、サバイバルゲームの世界だったのだ。こうなるのは必然だし、仕方がなかったのである。

学業も、「無理やり勉強させられた」という嫌な思い出を持っている人が多いから、「知識なんか要らないんだ」と強く反発する人が出てくる。それと同じで、おカネを稼ぐのも、興味の有る無しにかかわらず、誰もが強制参加させられる競争だ。「いっそのこと、大恐慌を起こして経済そのものを潰してしまえ」という過激な反発が起きてくるのは、そのせい。

でも、それももう長くは続かないだろう。遠からず、「おカネがなくても困らない世界」が実現する。人類の大半は、最も深刻なプレッシャーから解放されて、自由になるだろう。おカネの重要性が低下すれば、経済問題で怒る人もいなくなる。

意識の進化はもちろんだけど、それだけでなく、「科学技術の進歩」も、その原動力になるだろう。新しいエネルギー源は、どんどん開発され、実用化されていく。必要なものの大半が無料で手に入る世の中も夢ではなくなる。ロボットやコンピュータが、人間の変わりにいくらでも働いてくれる。モノを無限に作り出してくれるだろう。

現在のグローバリゼーションは、モノの価格の劇的な低下をもたらしている。機械が発達して、誰でも生産できるようになったおかげで、どこでもモノが作れるようになった。かつては、テレビの生産が日本の電機メーカーの独壇場だった。アナログの時代には、画像調整その他が、日本人ならではの職人芸が生きる分野で、他の追随を許さなかったからだ。でも、デジタル時代となり、中国でも東南アジアでも、部品を組み合わせれば同じようなモノが製造できるようになってしまい、差別化が難しくなった。大画面の薄型テレビは、ほんの数年前まで車一台が買えるほど高かったのに、今ではすっかり安くなった。

100円ショップで目にする安価な商品も、「誰でも、どこでも作れるようになった時代」のおかげと言えるだろう。TPPで貿易が自由化され、関税が引き下げられれば、なんだかんだ言って食料品の価格も大幅に下がることだろう。

不動産の価格も下がっている。欧米の金融危機までは、外資の主導で都会の地価が上がってた。なんだか、それも大昔のことみたい。人口も減ってる今、もはや不動産が上がる要素は考えにくい。今後も、下がり続けるのが自然だろう。

どれも、一見、「経済が縮小していく」という過酷な現実に見える。売る側にとっては、確かにキツい。でも、特定の業界だけではなく、世の中全体がそうなのだから仕方がない。

世界は、明らかに「収入が少なくても生きていける社会」が実現する方向に向かっている。おカネがなくても困らない世の中は、もうすぐそこだ。もはや、経済問題が人類にとって最大のテーマだった時代そのものが、いよいよ終わろうとしている。

今後の人類は、別のものに目を向けていくことになるだろう。ヲタク評論家(?)の岡田斗司夫氏は、「評価型社会」を唱えているそうだ。

「評価型経社会」というのは、文字通り、仕事の価値がおカネではなく、人からの「評価」で計られる社会のこと。

言い換えれば、「趣味」を極める、マニアックな生き方。アートがいい例だろう。ネット上では、すばらしい写真やイラストを載せているサイトが多い。まったく感心してしまう。まさしく、「出来ないよりは出来る方が面白いし、人からも評価される」の世界・・・。


「資本主義」の崩壊・・・?

2011年11月27日 | お金が要らない世界

船井会長を中心とするグループの人たちは、「資本主義の崩壊」を唱えることが多い。それを見るたびに思うのは、彼らがいう「資本主義」ってのは、何を意味しているんだろう・・・ということ。どうも、言葉だけが一人歩きしている。中身まで考えてるようには見えない。

「資本主義とは何か」なんてことを言い始めたら、人によって意見はそれぞれで、本当にキリがないけど、やっぱり、いくつかの基本的な特徴がある。

まず、「私有財産制である」というのが前提条件。つまり、「権力者が、気分次第で市民から何でも取り上げてしまう」というようなのは、資本主義ではない。

古代ローマの皇帝には、旅先のギャンブルで大負けしたおかげで、地元のお金持ちを何人か死刑にして財産を没収し、そのお金で賭けを続けた・・・というエピソードの持ち主もいる。大昔の古い社会というのは、そういうものだった。その点、資本主義の社会なら、いくら権力者でも、人の財産を勝手に取り上げるのは無理。「財産を私有するとは何事か」といって怒るのも分かるけど、地球人類の歴史を振り返ってみれば、昔より遥かにマシになっているのである。

それから、「おカネで雇われた労働者が働く」というのが基本。サラリーマンでも、フリーターでも、そこは変わらない。つまり、「権力者が、奴隷をタダ働きでコキ使う」というようなのは、資本主義ではない。

「おカネで、人間を支配するとは何事か」と言って怒るのも分かるけど、これまた地球人類の歴史を振り返ってみれば、おカネがもらえてるだけ、まだマシだ。少なくとも、大昔の奴隷よりは、ずっと好待遇になっているのは間違いない。

できた商品は、市場で売り買いされる。もっと売れるのに、作るのが少なすぎると、その分だけ儲けが減ってしまう。逆に、作りすぎると、余ってしまって大損だ。一番、儲かるのは、ちょうどよく生産して販売したとき。資本家は最大の利潤を目指す。それ以外のこと(有名になりたいとか、女にモテたいとか・・・)を目的に、余計なことまでやらかして利益を減らすようでは、真の資本主義者ではない。

儲かれば、それだけ元手が増えることになる。そこで資本家は、さらに投資を増やして生産を拡大する。こうして、経済は成長していく。

ここが、肝心なところ。つまり、せっかくおカネを儲けても、キャバクラとか、美食や旅行で遊んで使い果たしてるようじゃ、まだまだ甘い。ホンモノの資本主義者なら、むしろ節約しておカネを貯める。貯めたおカネを再投資して、もっと働くために使う。単に、ガムシャラに働くわけではない。常に、最大の利益を追いかける。儲かれば儲かるほど、さらに再投資して働く。

ここで「なんのために?」と問うようでは、真の資本主義者とは言えない。それ自体が目的なのである。

つまり、働いて、おカネを貯めて、さらに投資する目的は、もっと働いておカネを貯めるためだ。それを、さらに投資する。いつも、そればっかり考えているから、どんどん事業は拡大する。

最後は、全財産を慈善事業にポンと寄付する。なぜ寄付するのかと聞かれれば、「そんな財産を相続したら、子孫は遊び呆けてマジメに働かなくなるではないか」と答える・・・。

本当は、ここまでの域に達しないと、真の資本主義者とは言えない。

実際に、資本主義が勃興した頃の近代ヨーロッパでは、そういう人たちが続々と出現した。彼らの多くは、敬虔なキリスト教徒だった。「黙々と働き続けるのが、我等の務め」と信じて働き続けた。すべては、神の栄光のために・・・。

元はと言えば、資本主義は、こういう人たちによって引っ張られてきた。結果として、地球の文明は大きく発展した。資本主義社会には確かに欠点もあるけど、それ以前の古い社会と比べたら、いろんな面で大きく前進したのは確か。少なくとも、「悪魔が人類を奴隷支配すべく、巧妙に考え出したシステム」なんてことはない(笑)。

もっとも、日本や欧州では、だいぶ前から、そういう資本主義的な経済成長が事実上ストップしている。どうやら、地球人類の社会は、次のステップに進むときが来ているようだ。

それにしても、「資本主義の崩壊」という言葉の響きは、なんとも古めかしい。
 
この言葉を聞くと、学生時代のマルクス経済学の講義を思い出す。ちょうど、ソ連や東欧の社会主義国がバタバタ倒れて、マルクス主義者にすっかり元気がなくなった頃のこと。

当時は、「資本主義が高度に発展するにつれて、利潤率は傾向的に低下する。その結果、資本主義は行き詰まって崩壊する」というマルクスの理論を巡っての議論が、まだ続いてた。もう、すでにだいぶ下火になっていたとはいうものの・・・。

夕日が射し込む古びた教室の窓際で聞いた、昔なつかしいマル経の「資本主義の崩壊」理論。「また、古いモノを持ち出してきたな・・・」という感じ。長年、マルクス主義を信じ込んできた人たちが諦めきれないのは分かるけど、そろそろ、新しい酒は新しい皮袋に盛らなければ・・・(笑)。
 


「すべてが無料の世界」

2011年11月24日 | お金が要らない世界

 
「お金がない世界」を実現するためには、老子の時代も今も、小さな村落で自給自足するのがベストだ。それなら、今でも実現可能だし、現に南洋諸島やアフリカでは、そういう共同生活をしている人もいるに違いない。

それだけでなく、社会主義国の共同体や、イスラエルのキブツなどで実現された前例が、過去にもある。残念ながら、これらは長く続けるのが難しく、しばらくすれば崩壊するか、もしくは貨幣経済に巻き込まれるのが通常だ。共同体の中の住民同士が、お金のやり取りをしていないのを見ると、「お金のない社会が実現された!」とつい思ってしまう。でも、実情はちょっと異なる。実際には、「キブツ見学ツアー」の観光収入とかで外部から資金を取り込み、それによって住民の生活を支えているケースが多い。それだと、本当の意味で「お金がない世界」とは言えない。

真の自給自足社会を実現する上で、それでは中途半端だ。もっと透徹した覚悟が要る。

「自給自足社会」が当面の目標だとしても、もう少し規模の大きな社会で、「誰もが生活に困らず、好きなことをして生きていける世界」を目指すというのが、人類にとって、より高い目標だと言えるだろう。

これを社会制度によって実現できるかどうかを、考えてみる必要がある。

たとえば、「生活に必要なお金を政府が全国民に提供する」というアイディアもある。

でも、現在の日本で200万世帯に達した生活保護世帯でさえ、財政を大いに圧迫している。まして、全国民を生活保護対象にするためには、いったいどれだけの財政支出が必要か。

たとえば、「国民ひとりに毎月10万円を支給」するという配給制度を作ったとする。月に必要な財政支出は、10万円×1億3千万人で、13兆円だ。年間では、157兆円も必要になる。いくらデフレ社会と言っても、政府・日銀がそれだけのお金を大量発行すれば、すぐに超インフレになって、お金の価値が暴落する。せっかく月に10万円もらったとしても、何も買えないから紙クズ同然だ。

だが、お金を配るのは無理でも、「現物支給」という手がある。つまり、生活に必要なものが、タダで手に入る世の中になれば良い。

たとえば、大工さんは、タダで飲み食いできて、服も誰かがタダでくれるので、生活に困らない。したがって、建築の仕事をする必要はないのだが、生き甲斐だけを求めて、家が欲しい人に無償奉仕で建ててあげる。まさしく、理想の利他社会だ。

でも、いくら大工さんが生き甲斐だけを求めてタダ働きしたとしても、木材を始めとする必要な材料を仕入れなければいけない。これまた、生き甲斐だけを求めてタダで木を切らせてくれる山林オーナー、タダ働きで木を切る人、タダ働きで運ぶ人・・・を、適切なタイミングで十分に確保しなければならない。

さらには、他者への奉仕だけを求めてタダ働きで木材を運ぶ人がいたとしても、そのために必要な輸送車を無料で手に入れなきゃいけない。さらに・・・という具合に、この話は無限に続く。

でも、「おカネのない世界」がたとえ実現したとしても、それで、ちゃんとスムーズに世の中が回っていくかどうかは、また別問題。

「タダ働きの大工さん」の例で言えば、それで本当に、必要な建物が必要な期限までにできるだろうか。できた建物が欠陥住宅だったり、納期が遅れたらどうするのか。

大工さんなら、まだ分からないでもないけど、脳神経外科医だったらどうか。やってもトクにはならないけど、生き甲斐だけを求めて、趣味で脳神経外科手術をやってる人。大丈夫だろうか。

また、世の中には、1人や2人でできる仕事の方が少ない。たとえば、自動車工場を立ち上げたとき、生き甲斐だけを求めてタダ働きする溶接工やプレス工やフォークリフト運転者その他・・・といった大勢の必要人員を、スムーズに集められるだろうか。

もちろん、ここに書いたことは、いきなり「すべてを無料にする」というような極論なので、現実にはもうちょっと適度なソフトランディングを目指すことになるんだろうけど・・・。
  


自給自足の社会

2011年11月23日 | お金が要らない世界

   
お金は歴史が古くて、人類との付き合いも長い。お金は、古今東西を問わずどこでも発生する。日本だろうが、中国・インドや中東だろうが、アフリカとかマヤ・アステカ・インカの文明だろうが、どこでも変わらない。貝殻とか、貴金属とか、紙切れとか・・・。何を通貨として使うかはいろいろだけど、お金はどこででも発生する。
 
2千年前の古代ローマ帝国だって、現代の資本主義国などとはホド遠い農業国で、ローテクもいいとこだったけど、それでもやっぱり、お金がないと生きていくのが大変だった。貧富の格差は、現代のアメリカや中国よりもヒドかった。民衆の大半は、貧しさで生きていくのも精一杯の、ガケっぷち人生を送ってた。その一方では、富を独占する大地主の貴族たちが、世界から集めた珍味を食べては吐き、また食べては吐き、吐いた汚物を奴隷に掃除させていた。地球は、大昔からそういうところなのだ。
 
「お金がない世界」というのは、自給自足の世界ということになる。自給自足とまではいかなくても、モノとモノとを直に交換する、物々交換までしかやらない。
 
真っ先に思い浮かぶのは、南の島の人たちだ。食生活としては、ヤシの実を取って食べるか、自分で育てたイモを食べる程度。ときどき、他の島から船に乗った商人がやってきて、イモと魚を交換するとか、そういう物々交換をする。これなら確かに、お金はいらない。
 
でも、老子に出てくる「小国寡民」の社会は、そんな隣の村との物々交換すら、ほとんどやらない。徹底した自給自足の小さな村落だ。2千数百年も昔の春秋戦国時代の聖賢が思い描いたのは、そんな理想社会だった。
   
というのも、隣の村との物々交換をしただけでも、「イモ3本とライチー5個なら、交換OKあるよ」とかなんとか、交換レートが自然にできてくる。それはやっぱり、商売の始まり。だから、「お金がない世界」を維持するためには、そんな物々交換すらやらない方がよい。

実際には、物々交換には限界があって、すぐに行き詰ってしまう。
  
例えば、経済学者の家で、水道管が破裂したとする。交換に出すものといったら、経済学の講義とか、経済の本くらいしかない。これと水道管工事を交換してくれる相手を、どうやって見つけるのだろうか。また、建築業者と八百屋さんが物々交換するとしたら、ビル一軒と、ニンジン何本を交換すればよいのか。これは、頭が痛くなる問題だ。そんなこんなで、文明が進歩するにつれて、物々交換はすぐに行き詰まる。

でも、自給自足だって、本当は難しい。というのも、足りないモノが多いからだ。たとえば、寒いところではパイナップルが取れないし、鉄鉱石や石炭が出ないところでは鉄が作れない。
    
出口王仁三郎が、「外国には足りないものが多いから、天産自給は無理なのじゃ。その点、日本にはなんでもそろっておるから、天産自給できるのであるぞ」と言ってたのは、そのあたりの事情を指している。

ここで肝心なのは、自給自足できないものがあっても、あきらめることだ。たとえば、砂糖が自給できない村なら、「甘いモノなんか食べなくていいよ」と割り切る。老子が、「隣の村とも交流しない」にこだわったのは、そのあたりにも理由がある。自分の村にないものが隣の村にあれば、欲しくなる。そうすると、「売ってくれ」ということにならざるを得なくなり、必ずや貨幣経済の発生につながる。欲しくなるのを避けるためには、他の村を見ない方がよい。

このように、「お金のない世界」を本気で実現するのなら、そのために必要な条件は、かなり極端なものになる。出口王仁三郎も、「王仁は、都市(の人口)は十万になると言うとるのやで」と言ってたそうなのだが、十万都市なんかじゃとても無理だ。もっと、ずっと規模が小さく、それこそ老子が言うようなレベルで、自給自足の小さな村落にならないと。