「それだと、人は働かなくなるんじゃないか?」という考え方もあるだろうけど、実際には、配給されるベーシック・インカムだけじゃ足りなくて、もっと稼ぎたい人がほとんどになるだろう。
というのも、「全員、一律に配られる」というのが、ベーシック・インカムの特徴。だから、たとえ高額所得者になったとしても、打ち切られることはない。
それ以前の問題として、ここが発想の転換のしどころだ。
この先ますます、生産するのは、ロボットやコンピュータの役目になるだろう。一方、消費するのが人間の役割。
ガンバりすぎて、1人で3人分も働いたりすれば、その分だけ他の人たちが失業しやすくなる。人間の仕事が減ったら、ワークシェアリングが重要だ。人が今までほど働かなくなったら、生産性が下がるけど、それはなんとか機械に補ってもらう。それでも生産性が低下する分は、経済がマイナス成長しても仕方がないと割り切る。
古代のギリシャでは、芸術や哲学が栄えた。これは、労働を奴隷にやらせて、自分たちはヒマにあかせて美の追求をやってた市民階級のおかげ。こういう人たちにとって、勤勉は美徳ではなかった。むしろ、怠惰が美徳だったのだ。
かつては、「おカネを使えば使うほど景気が良くなる」という意味で、「消費は美徳」と言われた時代もあるんだから、「怠惰は美徳」になってもおかしくないだろう。
まあ、「消費は美徳」というのは極端な言い方だけど、「倹約は、個人にとっては美徳だが、社会にとっては、そうではない」とは、よく言われたものだ。それをもじって、「勤勉は、個人にとっては美徳だが、社会にとっては、そうではない」と言ったのは、先見性で知られる経済学者、ガルブレイス。
「怠惰は美徳」といえば、それを極限まで推し進めたのが、朝鮮王朝の貴族、両班(ヤンバン)だろう。両班は、顔を洗うことすら、自分ではやらずに、下僕にやらせてた。両班の場合は、労働以前に、身体を動かさないのがステイタス。近代に入り、日本の皇族がテニスをしているのを見て、ある両班が、「どうして、あのようなことを下僕にやらせないのか?」と言ったという話は有名だ。
こういう例を見ても、「よく働く」ということは、決して古今東西の人類の、普遍的な価値ではないということがよく分かる。
現代人の多くは、一日の中で、仕事の占める比重が大きすぎだ。こんなんじゃ、日常に埋没してその日その日を生きるしか、なくなってしまうだろう。
その点、高齢化社会で、すでに働かなくなった年金生活者が増えているが、美術館もコンサートホールも、こうした人たちで一杯だ。精神世界に関する講演でも、聴衆には高齢者が多い。人間、忙しさから解放されれば、どれほど精神生活が充実するかが、よく分かる。
そもそも、おカネになることばかりが仕事なのではない。
昔からよく言われるのは、家事と育児だろう。家庭で主婦がこれをやれば、GDPは少しも増えない。でも、家政婦を雇ったり、保育園に預けたりすれば、払ったおカネの分だけ、GDPは増える。これは、「社会的な意義や豊かさと、GDPが比例しないことの例」として、昔からよく引き合いに出されている。