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宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

経済成長の終焉

2011年11月02日 | お金が要らない世界

最近、中国を始めとする東アジア諸国の経済に、以前の勢いがなくなってきている。最大の原因は、欧州の経済危機だという。

日本の高度成長は、主に日本の国内需要、そしてアメリカへの輸出によって実現された。今でこそ、中国が最大の貿易相手国になったけど、ずっとアメリカが圧倒的に大きな輸出先だった。

でも中国の場合は、意外なほどヨーロッパへの輸出が多い。輸出の二割以上を欧州向けが占めており、欧州危機の影響をもろに受けている。その欧州の経済状況が、あまりにも悪い。

日本と同様、欧米諸国の経済成長は、もはや限界だ。ちょっと前までは、そうでもなかったのだが・・・。

アメリカでは、90年代以降、メキシコからの移民を何千万人も受け入れた。彼らが住宅ローンを借りて家を買うことによって景気が良くなり、経済成長を続けてきた。だが、その後はサブプライムローン問題が噴出して、いまや強烈な反作用を受けている。これを見て、「日本も移民を受け入れて人口を増やし、経済成長しよう」という意見は、すっかり勢いを失った。

ヨーロッパの先進国の場合は、スペインやギリシャといった南欧諸国と経済統合して取り込んできた。もはや経済成長の余地がないドイツやフランスは、「ヨーロッパ」という国そのものを拡大することで、さらに成長しようとしたのだ。貿易が増えて新たな繁栄に向かったかに見えたが、やっぱり、つまずいた。これを見て、「日本も近隣諸国と統合して人口を増やし、経済成長しよう」という意見は、すっかり勢いを失った。
 
先進国が経済規模をさらに拡大しようとする試みは、いずれも壁にぶち当たった。移民で人口を増やしても無理。他国を統合しても無理。もう限界で、打つ手がない。

だからと言って、中国経済が急速に伸びるかと言ったら、それもすっかり怪しくなってきた。どの国も、一本調子で発展し続けるのは無理なのだ。ムチャな経済拡大をやればやるほど、反作用もそれだけキツくなる。たまりにたまった矛盾が爆発する日は、もう近い。

まだまだこれからという国々には残念な話かもしれないが、地球はもはや、経済が発展するような世界ではなくなってしまった。

ここは、日本人と同じように、世界中の人々に経済成長を諦めてもらうしかない。もはや、経済規模が拡大することはない。良くて現状維持だ。人間、アキラメが肝心。そういう深い諦観の中から、新しい価値観が生まれる。

だからといって、世界経済が破綻して大パニックになるのが良いかと言えば、そんなことはない。いまさら、戦争や革命の時代に逆戻りするのは最悪だ。業火に焼かれて鍛えられた人類の中から、生き残った者が「神人」に進化するのだ・・・なんて、ヒトラーじゃあるまいし、危なっかしい限りだ。

無理に経済を拡大しようとするから、反作用で崩壊が起きることになる。逆に、経済が一気に崩壊するのも、反作用がキツい。ここは、「良くて現状維持」を目標とする路線に切り替え、マッタリと世の中を維持していくしかあるまい。
 
結局のところ、世界中が江戸時代の日本のように、細く長く持続する社会になるしかなさそうだ・・・。
 


古来から変わらない問題

2011年09月04日 | お金が要らない世界

 
以前からたびたび書いていることなのだが、最近の精神世界では、本当に政治的な主張が多い。社会を改革することが、アセンションなのだと受け取られているフシがある。
 
たしかに、貧富の格差という地球の現実は、過酷なものだ。でも、これは今に始まったことではない。大昔から、どこでもそうだ。中国でも、インドでも、中東でも、アフリカや、マヤとかインカといったアメリカ大陸の文明でも、常に権力者や貴族はいるし、貧富の格差は存在する。
 
この貧富の格差を、「アメリカ・影の政府が作り出したのだ」というのは、あまりにも現代の世界しか見ていない意見だ。洋の東西を問わず、太古の昔から、地球というのはそういうところなのだ・・・ということを、忘れてはいないか。
 
例によって高島康司氏のブログを見たが(今はコルマン・インデックスが大詰めなので仕方がない・・・笑)、「日本人よ、怒れ。民衆の覚醒だ」みたいなことが書いてあった。気持ちは分かるのだが、それはイカガなものかと思う。そういう「民衆の意識の覚醒」というのは、政治的な問題だ。精神世界でいう「意識の覚醒」は、それとは関係ない。
 
そういう「怒れる民衆の行動」なんてものは、18世紀末のフランス大革命で、すでに実現されている。というより、二千年前の、古代中国の農民反乱でも実現されている。それは地球人類にとって、まったく目新しさのない問題だ。古代から変わらない、権力と富をめぐる闘争の一環でしかない。
  
重要なのは、闘争をなくすことだ。つまり、「富の偏在」という問題があるのなら、「金持ちを打倒して山分けしよう」と考えるのではなく、富そのものの持つ意味を希薄化させる方向に持っていくべきだろう。
 
たとえば、人間、食べられる量には限りがある。どんなにおカネがあっても、一日3食も食べれば、普通は限界だ。美食するったって、毎日フォアグラばかり食べていたら、誰でもフォアグラなど見たくもなくなるだろう。古代ローマの貴族は、豪華な食事のあとで薬を飲んで吐き出し、また食べていたが、それでも一人が食べられる量には限界がある。
  
逆に、おカネがなくても、生きるのに必要なだけ食べることができれば、特に問題ない。富が偏在していても、それに興味がなければ、「勝手にしてくれよ」ということになるだろう。
 
おカネを稼ぐのにアクセクしているというのは、確かに害が大きいと思う。昔の地球人類にとっては、必要な修行の一環(?)だったのかもしれないが、いつまでも続けるべきこととは思えない。これさえ何とかできれば、精神的な成長におよぼす効果は絶大なものだろう。
 
理想は、「不食」なのかもしれない。つまり、食べなくても生きていける人間だ。聞くところによれば、ヒマラヤ山脈には、食べなくても生きていける聖者が住んでいるらしい。それが本当なら、下界に住むわれわれも、ぜひ見習いたいところだろう。いまのところ、筆者は一日一食で平気だが、さすがに「不食」は無理だ(笑)。
 
どちらにしても、すべては地球という温室の中の出来事だ。遠からず、なんとかなるだろう。地球の古い政治経済の問題に、あまりにメクジラを立てると、かえってその世界から抜け出せなくなる恐れがある。
 


お金が要らない世界 2

2011年09月04日 | お金が要らない世界

        
以前、スピリチュアル系の友人に、長島龍人氏が書いた「お金のいらない国」という本を見せられ、「これについて、どう思うか?」と聞かれたことがある。別の人に見せたところ、「これは原始共産制だな」と言われたそうな。それが、このテーマとの出会いだった。
 
これに関して、読者の方が付けてくれたコメントによると、長島氏自身は、まずは「お金があってもなくても大差ない社会を目指すべきだ」と言っているらしい。
 
船井勝仁氏も、出口汪氏との対談で、
 
>みろくの世でもお金はある、しかし今のようにお金がお金を生むような社会ではない。一日に三時間、週に三日四日働けば十分。自己実現できる機会や、自分の才能を発揮できる仕事がたくさんある。思ったことがどんどん実現してゆく・・・

と、述べているという。

これについては、「なるほど」と言える。貨幣を一気に消滅させるということまでは、この人たちも考えていない。まずは、「お金がなくても困らない世界」を作ることが目標とされている。

おカネという問題が特殊なのは、「世の中の誰もが、否応なく直面せざるを得ない問題」だということだろう。ほかのテーマなら、興味のある人だけがガンバって、興味がない人はスルーしていればいい。仕事や勉強だろうが、芸術やスポーツだろうが、交友や恋愛だろうが、みんな同じことだ。食事や睡眠も、ほとんど取らない人がいる。もちろん、精神世界の探求は、その最たるものだろう(笑)。
 
でも、おカネだけは、ないと本当に困る。これは、誰にとっても一緒だ。生活するのに、どうしても必要最小限のおカネは必要で、その「必要最小限」というハードルが、ほかの分野に比べて結構高い。不労所得者ならともかく、普通は、おカネを稼ぐために大部分の時間を使うハメになる。良くも悪くも、それが地球で生きる者の生き方だ。
 
世の中の多くの人は、こうした必要最小限の所得を得るために働いている。いつの時代も、それは変わらない。洋の東西を問わず、世間の一般人は常に貧困ラインで瀬戸際のスレスレ生活というのが、地球の歴史の大半を占めてきた現実だ。ゾッとするほど貧しい人々の群れに、戦争・疫病・災害が容赦なく繰り返し襲い掛かってくるというのが、いつの時代も、どの地域でも、紛れもない地球の現実だった。地球人類の歴史を知れば知るほど、ホラー映画を見るような戦慄を覚えるのは、このためだ。

その点に関して、現代の日本は、大幅に改善された社会といえる。それでも、貧しさはなくならない。
 
一方、莫大な富を蓄積している層がいるのは、いつの時代も変わらない。現代では、アメリカと中国がとくにひどいが、貧富の格差はどこの国にもある。「これを、もうちょっと均等に分配できないか」と考えるのは、誰にとっても自然なことだろう。

でも、貨幣を消滅させれば、そういう現実が変わるかといえば、そういうわけでもない。貨幣は、単なる道具だ。交換したり、価値の尺度にしたり、蓄積したりするのに便利だから、使われている道具にすぎない。それ自体には、何の意味もない。それを受け取って、代わりに財やサービスを提供する人がいるから、意味があるだけだ。
 
例えてみれば、仕事をするのが嫌になったからと言って、道具を捨ててしまえば、それで問題が解決するのだろうか。そんなことはない。単に、仕事ができなくなって困るだけだ。仕事そのものをしなくても生活できるようにならない限り、仕事の道具をなくしたところで何の解決にもならない。それは、単に不便になって困るだけの結果に終わる。

もっとも、おカネがなくても衣食住が確保できるなら、なくても困らない。そうなれば、別に問題ないだろう。

世の中には、なくても困らないものが沢山ある。たとえば都会では、電車でどこへでも行けるので、車がなくても生活できる。むしろ、車があると管理や維持費が大変だ。それでも、高価な車を購入して、維持している人は多い。それは、自由選択そのもの。

同じように、おカネも、なくても困らないものになればOKだろう。つまり、おカネがなくても生活できるから別にいいんだけど、もっと欲しい人は、自由に稼いでくれればよい。そういう社会になれば、「おカネが好きな人は、勝手にガンバッてくれよ」で済むはずだ。

実際のところ、昔の社会主義国では、それを目指していた。ソビエト連邦や東欧諸国では、電気代や水道代といった公共料金、パンをはじめとする生活必需品の価格が、政府の負担によって極端に安く抑えられていた。このため、昔を懐かしむロシア人は少なくない。「ソ連時代はよかった。生活必需品が安くて・・・」というわけだ。

つまりソ連では、事実上、政府が生活必需品を高く買い取り、安く売っていた。一見すばらしいことに見えるのだが、残念ながら、そういう無理は長く続けることができない。財政赤字がみるみる膨れ上がっていくことになり、遠からず国家経済が破綻する。そのツケは結局、国民に回ってくることになるから、結果は変わらない。

経済の問題というのは、一方向にだけ作用するものではない。どこかで無理をすれば、別のどこかにシワ寄せがくるのが常であり、何事にも常に副作用が発生する。いずれ、どこかで必ず調整することが避けられない。
 
しかし、衣食住が「無限供給」されていれば、話は別だ。昔、松下幸之助の「水道哲学」というのがあった。「家電製品を、蛇口をひねれば水がジャンジャン出てくるように、世の中にジャブジャブ供給する」というものだ。それなら、家電製品は、タダみたいに安くなる。実際に、どんどん安くなってきた。他のものも、大量供給されれば安くなる。無限供給されれば、タダになるでしょうな・・・。
 
前述のスピ系友人にも、そういう話をしたところ、彼が言うには、「ヘンプ(麻)が、そのカギを握っている」という。ヘンプは、雑草のようにどこでも育って、繊維は衣服になるし、住宅建材にもできる。食用にも、薬用にもなる。これを活用すれば、衣食住の無限供給が可能になるという。

確かに、それにも一理あると言える・・・。
 


お金が要らない世界

2011年08月26日 | お金が要らない世界

  
個別の通貨制度のことはともかく、「お金が要らない世界」が、精神世界の理想なのは確かだ。
 
物質世界における我々の苦労は、たいていお金に関係している。他のことはたいてい、お金があれば解決するか、気にしなければすむ問題が多い。それに比べて、お金の問題ばかりは、気の持ちようでは何ともならないことが多い。

それ以外のことで、どうにもならないことと言えば、病気や老化、そして死亡だろう。これに、この世に生まれること自体を加えれば、「生老病死」の四苦となる。この四苦という現実に気づき、他のことで気を紛らわしたりしないで直視することが、解脱へと向かう求道心につながる。

でも、これもお金さえあれば、かなり何とかなるようになってきた。今じゃ、高級な病院に行けば、たいていの病気は治してもらえる。老化も、せっせとエステその他でおカネと手間ヒマをかければ、郷ひろみや松田聖子のように、アンチエイジングの成功者として持てはやされることも夢ではない。今後、さらに急速に発展しそうな分野だ。

死ぬことばかりは、どうにもならないが、これも人類の寿命が伸びてきたおかげで、かなり先に延ばせるようになってきた。ハイデッガーではないが、「人はいつか死ぬ。だが当分の間、自分の番ではない」という言葉に現実感が伴ってきている(笑)。
 
それ以外の悩みなど、これらに比べれば、なんとかなることばかりだ。仕事のこととか、人間関係のこととか、恋愛のこととか・・・は、たしかに本人にとっては深刻なことかもしれないが、気にしなければ悩まなくてすむことが多い。つまり、これらは、何か他のことで気分転換できる問題だ。
 
最も重要なのは、やはりおカネの悩みだろう。誰の言葉だったかは忘れたが、「おカネのことなど、なんとかなるさと言う人は、おカネで苦労したことがない人だ」という格言があった。20年に及ぶ日本の不況を見るにつけ、まさしくそれを実感する。「いついつまでに、いくら支払わなければならない」という、資金繰りのプレッシャーは厳しい。とても、「気の持ちようでなんとかなる」と言うわけにいかない。他のことをして気分転換したところで、支払期日がさらに近づくだけであり、意味がない。他の諸々の悩みとは、その点が大きく異なる。

これを見れば、誰もが、「おカネが要らない世界になれば・・・」と思わずにいられないだろう。
 
でも、「貨幣をなくせば良いのだ」というのは、あまりにも短絡的にすぎる。貨幣は、単なる道具にすぎない。貨幣をなくして物々交換にすれば、理想の世の中になるのだろうか。そんなことはない。単に、不便になるだけだ。

コルマン博士が、「あらゆる借金を棒引きにし、すべての債務を免除すれば、おカネの要らない世界になる」と書いているのにはビックリした。それが本当なら、室町幕府の徳政令のおかげで、日本は15世紀に「おカネの要らない世界」を実現しただろう(笑)。コルマン博士という人は、よほど純粋な理想主義者なのだろうが、これは現実にちょっと難しい。
 
おカネが要らない世界にするためには、おカネがなくても困らない世界にしなければいけない。その点で参考になるのは、現時点でおカネに困っていない人たちだろう。世の中には、金利収入や家賃収入その他で、働かなくても悠々自適な人々が、確実に存在する。彼らは、アクセクとおカネを稼ぐ必要がない。悠々と、ボランティア活動や趣味に打ち込んでいられる。坂本政道氏などは、アメリカでベンチャー企業に勤めて、株式公開でお金持ちになったおかげで、ヘミシンクの普及活動に安心して打ち込めるようになったという話だ。

結局のところ、「おカネが要らない世界」、というより、「おカネがなくても困らない世界」にするためには、世の中の全員が、彼らのようになれば良いのである。つまり、稼がなくても生活できる状況に全員がなれば、誰もおカネで困ることはない。皆が、ボランティア活動や趣味に打ち込むことができる。それこそ、一日中PCや携帯に向かって、精神世界ブログを朝から晩まで更新し続けているのも自由だ。かなり精神衛生に悪そうな行為だが・・・(笑)。
 
逆に言えば、そうならなければ、「おカネが要らない世界」になるのは無理だろう。世の中の全員が不労所得者にならなければ、全員がボランティア活動や趣味に打ち込んでいて、それで世の中が回っていくということにはならない。
 
「おカネがなくても平気な世の中」を想像するには、「おカネがなくても、キャバクラに通える世の中」を考えてみると良いかもしれない。そのためにはまず、無償で接待する、ボランティアのキャバクラ嬢を大量に集める必要がある。そして、場所をタダで提供する篤志家のビルオーナーと、酒類を無償で提供する篤志家の酒屋さんが必要だ。
 
それでも、キャバクラが無料になるとは限らない。というのも、キャバクラ好きな男が、そんな無料キャバクラに殺到する結果、指名競争が発生する恐れがあるからだ。お気に入りのキャバクラ嬢に接待してもらうためなら、自発的にプレミアムとして指名料を支払うことを申し出る男が、きっと出てくることだろう。その後は、プレミアムの積み上げ競争に展開する可能性が高い。そうなれば、無料ではなくなる。

つまり、いくら無償の供給があったとしても、供給量が無限でない以上、需要の側が自制してくれない限り、無料は長続きしない。「いくらタダでも、キャバクラ通いなどするヒマがあったら、ボクは瞑想して精神世界の探求をするのだ」というような男が増えない限り、無料キャバクラの世界は維持できないのだ。
 
要は、「おカネが要らない世界」を実現するというのは、供給側だけの問題ではない。根本的な問題として、人間の欲望を抑える必要がある。
 
それこそ、地球人類の意識を変革して、欲望の乏しい人間ばかりにしなければ、それは実現できない。

(続く)
 


ドル基軸通貨制度について

2011年08月26日 | お金が要らない世界


ネット上でアセンション情報を漁っていると、当然、船井会長とそのグループの人たちの意見を見かけることが多くなる。このため、彼らの主張内容にだんだん詳しくなってくる(笑)。

以前からの最大の謎のひとつとして、彼らがなぜ、これほど「ドル基軸通貨制」にこだわっているのかが、不思議で仕方なかった。アセンションとの関連で、「アメリカ経済が崩壊して、ドルが基軸通貨でなくなる」という話を目にしない日はない。「アセンションというのは、ドルが基軸通貨ではなくなるってことなの?」と思えるほどだ。

そもそも、「基軸通貨」にそこまでの意義があるかどうかという問題がある。

14~15世紀には、イタリアの港町ベネチアが海上貿易の中心で、都市国家のベネチア共和国が、事実上の基軸通貨国としての役割を果たしていた。ベネチアのライバルといえば、真っ先に挙がるのは同じイタリアの港町・ジェノバだった。ほかにも、フィレンツェやローマなど、西洋世界の先端をゆくのはイタリアの諸国ばかりで、これらの国々が対立と協調を繰り返すことによって、今日の国際関係の原型ができあがった。お互いに外交官を常駐させあったり、国際条約を結んだりするのも、イタリア諸国で始まった。当時はヨーロッパ全体が、それに連動して動いていたようなものだ。
  
その後、16世紀にはスペイン、17世紀にはオランダと基軸通貨国は移動した。もっとも、スペインがその地位にいたのは、貿易と金融の中心地であるネーデルラント(オランダ・ベルギー)が、当時はスペイン王国の領土だったことによるものが大きく、後にスペインから独立したオランダがそのまま基軸通貨国の地位を引き継いだから、実質的にはずっとオランダが基軸通貨国と見てもいいだろう。つまり、世界経済の中心は、アルプス山脈を越えてイタリアからオランダに移動した。当時のスペインは、今じゃ想像もできないほどの超大国で、アメリカ新大陸やアジアにも地球規模で広大な領土を有し、24時間、常にどこかが昼だったことから「日没することなき帝国」と呼ばれてた。海上覇権を握っていただけではなく、ネーデルラントには欧州最強のスペイン陸軍が駐屯し、カトリックの守護者としてドイツやフランスの宗教紛争に盛んに介入する、脅威の存在だった。
 
その後、世界経済の中心は海を渡ってさらに北に移動し、オランダに代わってイギリスが基軸通貨国となった。18世紀から19世紀にかけては、ロンドンが世界経済の中心。当時のイギリスは、今じゃ想像もできないほどの超大国で、これまた、アメリカ新大陸やアジア・アフリカにかけても地球規模で広大な領土を有する「日没することなき帝国」。でも、18世紀の後半に独立を許すこととなったアメリカが、やがてイギリスからその地位を奪った。

でも、そんなことにこだわるのは、経済史家か、もしくは筆者のような地球史マニアくらいのものだろう(笑)。それ以外の誰が、こんな大昔の覇権移動を気にするだろうか。  

つまり、基軸通貨国なんてのは、昔から結構コロコロ変わってきてるんであって、たとえアメリカがそうでなくなったとしても、長い人類の歴史からすれば、それほど画期的なこととは言えない。それは、単なる「移動」でしかない。

春秋戦国時代の中国でも、斉から晋へ、魏から秦へ・・・といった、大陸の覇権の移り変わりはあった。時代が違うだけで、人類がやってることは一緒。どこの国に覇権が移動したかなんてことは、同時代の人々にとっては大問題だったかもしれないが、歴史を後から振り返ってみれば、たいした違いには見えないものだ。 
 
最近のドル安などを見れば、ドル基軸通貨が揺らいでいるという主張に説得力が増しているようにも思えるのだが、必ずしも、そうとは言い切れない面もある。むしろ、2~3年前に比べて、論拠は弱まっているかもしれない。
 
最大の理由は、ドルに代わりうる最大の対抗馬として熱い期待(?)を集めていた、欧州共通通貨のユーロが、昨年のギリシャ経済危機と、救済策をめぐる欧州諸国のゴタゴタのおかげで、すっかり輝きを失ってしまったことだ。
  
世の中の変化は早い。もう、ドルに代わる基軸通貨として「ユーロ」を挙げる人は、誰もいなくなってしまった。かといって、ユーロに代わる対抗馬など、ますます見当たらない。さすがに、日本の円が取って代わるというのは、国家規模の面からして誰が見ても厳しい。やっぱり、「中国の人民元」に期待するしかないのだが、これは日本円よりもさらに無理がある。人民元の場合は、基軸通貨どころか、まずは近代的な制度を整えて、普通に国際決済通貨を目指してもらわなきゃいけない(笑)。
 
そんなこんなで、ユーロ危機のおかげで、ドルに代わるタマがなくなったのは、彼らも承知している。少なくとも、他の通貨にはもう期待できない。そこで期待を一身に浴びる(?)ことになったのは、金だ。ゴールドである。

彼らが書いていることを見ると、「金価格の相場」の話が多いことに驚く。いつも、「またまた、金が値上がりして、1オンスいくらになりました。これからはますます上がります」という話をしている。特に、副島隆彦氏にその傾向が強い。まるで、貴金属業界や商品先物業界の宣伝マンになったのか?・・・と思えるほどなのだが、もちろんそうではない。「世界的にドルが価値を失い、金しか信用できるものがなくなった」というのが、彼らの真意だ。つまり、「打倒ドル」の有力な対抗馬として、ユーロに代わるタマは、もう金しかない。世界経済を一種の「金本位制」にするのが、彼らの夢なのだ。

でも、金というのは、量があまり多くない。昔、「地球には、金がプール2杯分くらいしかないのです」という宣伝が話題になったことがあったが、プール2杯分かどうかはともかく、少ないのは確かだ。これだけ巨大化した世界経済の裏付けとなるにしては、ちょっと力不足の感が否めない。その点、ベンジャミン・フルフォード氏あたりは「本当は、金鉱がもっと発見されているのだが、影の世界政府がそれを隠している」と主張してるけど、憶測の域を出ない。

最後の期待は、「基軸通貨そのものが消滅する」という考え方だ。つまり、世界各国がドルを国際決済に使うのをヤメて、テンデバラバラな通貨を使えばいい・・・ということになる。

今、彼らの期待は、「中国がドルを基軸通貨として使うことを拒否し、ドルを中心とする世界経済システムから離脱する」ということに集中しているようだ。いわく、中国は、日本と違ってアメリカから自立している。NOと言えるのは、中国しかいないのだ・・・ということになるみたい。

でも、それは中国に対する過大評価だろう。「日本と違って、アメリカから自立している」というのは、あくまでも軍事面の問題だ。経済的には、そんなことはない。中国の経済規模は、ようやく日本と肩を並べたばかりだが、アメリカへの輸出に依存する度合いも、アメリカ国債を買い込んでいる度合いも、アメリカからの投資に頼っている度合いも、日本より中国の方がずっと大きい。中国経済はアメリカ経済にリンクされているから、結局のところ、アメリカなしでは何もできない。アメリカ嫌いな人々が、対抗勢力として中国に期待するのは今に始まったことじゃないし、気持ちは分かるのだが、ちょっと上滑りの感が否めない。

そもそも、「基軸通貨が消滅する」ということに意味があるだろうか。端的に言って、それは不便になるだけだ。世界各国は、金融の中心地であるニューヨークなしでは、膨大な貿易の決済や、資金の融通ができないから、そこの通貨であるドルを使うのが一番便利なのである。古代において、ローマ帝国の金貨や銀貨が使われてたのと一緒。不便になって喜ぶ人はいない。

日本で言えば日本銀行のように、アメリカにも中央銀行に相当するFRBがある。でも、地方分権の連邦国家であるアメリカでは、中央銀行制度が廃止されていた時期が何十年もあったせいもあって、FRB不要論が昔から根強く流れている。つまり、日本人にとっての日本銀行や財務省みたいな、「お上」としての絶対的存在ではない。

日本人が、日本銀行や財務省に対して、「あいつらは、自分たちがカネを刷って融通させて、好き勝手のやりたい放題だな」と怒ることはまずないが、アメリカの左派には、FRBをそのように見るという伝統がある。勢い、彼らが唱える「反・FRB論」が、日本や欧州の左派の人々にも強い影響を与え、反米感情と結びつきながら、世界的な思想潮流を形成している。

でも、率直に言って、そんなのは政治的な党派対立の延長だ。たとえ、米ドルから他の何かに代わったとしても、世界が根本的に変わるわけではない。彼らの主張は、上滑りしていると思う。普通のスピリチュアル・ファンは、このような政治的主張に心から関心を寄せることはない。
 
貨幣は単なる道具だ。米ドルは、その中でも最も世界的に通用する、一番便利な道具であるにすぎない。そんなものを目のカタキにしたところで、「おカネが要らない世界」が来るわけじゃないのである。
  
(続く) 
 


やはり、エネルギーは人類最大のテーマ

2011年03月22日 | お金が要らない世界

    
東北の大地震と大津波がもたらした凄まじい被害に、日本中が凍りついた感がある。地震の揺れは千キロ以上にもわたって、東北から関東に東日本の海岸一帯に及んだ。関東でも余震が延々と続いて、「また揺れてますな」というのがあいさつ言葉。さらに、まるで余震の一部でもあるかのように、長野や新潟でまで地震が起きた。まさしく、日本列島の東半分を覆い尽くした超巨大地震。
  
その地震の被害が、予想を超える方面にまで及んでいるのは、ご存知のとおり。福島の原子力発電所が爆発して炎上し、放射能が周囲に漏れ出している。これは世界にも衝撃を与え、あの「チェルノブイリ原発事故」と並び、史上最大級の原発事故と位置づけられた。数万人の住民が避難した福島では、危険な放水作業が今も続けられている。
 
おかげで、首都圏はものすごい電力不足に見舞われた。電車が突然ストップして、途方に暮れる人や、何十キロも歩いて帰宅する人が続出。「従業員が出勤できない」という理由で、デパートやスーパーが次々と休業。もっとも、たとえ従業員がいたとしても、商品が届かない陳列棚はカラッポだった。
 
埼玉県や山梨県などで、計画停電が実施された。これに対しては、「東京電力は都心を優遇して、郊外に差別的な待遇をした」という批判の声が多い。でも、現実問題として、膨大なコンピュータに依存する東京都心で大規模停電が発生すれば、その影響は計り知れないものがある。
   
この事件を機に、欧米でも、「原子力発電を見直そう」という機運が広がっている。あの中国でも、見直しが始まっている。「技術が遙かに進んだ日本でさえ原子力発電所を管理できないのなら、まして、われわれにできるはずがない」というのがその理由だという。これを聞いた大前研一氏は、「中国も、たまにはいいことを言うじゃないか。分かっていればいいんだ」と評した(笑)。中国に限らず、欧米でも、アメリカのスリーマイル島で起きた原発事故以来、企業が原発事業から続々と撤退してきた。いまや、原発を作れるのは日本の3社のみだということが広く知られている。外国に技術支援を依頼しようにも、「日本ですらできないことが、他のどこでできるのか」と言われてしまう時代だ。
 
われわれの生活が、どれほど原子力発電に依存しているかを、意識する機会はあまりない。この事故は、予想外の形でそれを教えてくれた。
 
だからといって、「原子力発電をやめよう」とは言いにくい。はからずも、今回の事件で、原子力発電なしでは一日も暮らせないことを思い知らされてしまったのだから仕方がない。日本では、特に左派の勢力が「反核」の立場もあって、原発に反対してきた。でも、長年にわたって原発反対の論陣を張ってきた朝日新聞でさえ、今回は慎重な意見を書いている。

膨大な日本の電力需要をまかなえるのは、現状ではなんといっても火力発電と、原子力発電だ。水力や風力など、それ以外の方法では、生み出せるエネルギーの量が小さすぎるので難しい。原発をやめるのなら、代わりになるのは、火力ということになる。つまり、現状で「原子力を使うな」というのは、「石油をもっとガンガン燃やせ」と言っているのと意味が変わらない。これは、さすがに言いにくい。
  
やはり、「使えるエネルギーに限りがある」ということこそが、地球人類にとって最大の難問だ。それがあるから、人類の大半は貧しい生活にとどまり、奪い合いがひどくなっている。
  
足りないものの代表は、やっぱり「食糧」だろう。今回も、日本中でカップラーメンなどの保存食が、スーパーやコンビニの棚から消えた。まったく商品のないガラガラな陳列棚は、ちょっとした非日常の光景で、衝撃を覚える。電力不足で危機感を煽られた人々が、まっさきに買占めに走ったのは、やはり食糧だった。テレビには、「食べるものが買えない」と嘆く老人の姿。この日本でさえ、一皮むけば、いつ食糧の奪い合いが始まっても不思議がないという現実をまざまざと教えてくれた。
  
食糧の買いだめは、被害のなかった西日本にまで広がった。それどころか、海を隔てた中国でも起きているという。中国では、「海水が放射能で汚染された。これから出荷される塩は危ない」というデマが広がり、各地で塩の買占めが起きた。
  
「塩」の不足に対して敏感なのは、大陸国家の国民ならではだろう。海に囲まれた日本でさえ、「上杉謙信は、敵に塩を送りました」という戦国時代のエピソードは名高い。それに比べて、広大な大陸で、内陸の奥にまで塩の流通を行きわたらせるのは、さらに並大抵のことではなかった。歴代の王朝は、戦争などで財政が危機になるたびに、塩に重税をかけてきた。税金が高くなると、アングラの闇商人が幅をきかせるようになるのが世の常。政府と鋭く対立した塩の闇商人は、私兵を雇って巨大勢力になり、ついには首都に攻め込んで王朝を滅ぼしたりする始末。それくらい、塩の奪い合いは古来から激しい。
  
「塩」でさえそうなのだから、ましてや、「水」がさらに死活問題なのは言うまでもないだろう。古代から、黄河文明・エジプト文明・・・と、文明が発達するところといえば、「大河の流域」と決まっている。人間は、水なしでは一日も生きられないのだ。人間が飲むだけではなく、穀物や家畜を育てて食糧を確保するためにも、水が絶対に不可欠。残念ながら、海水では、塩分が濃くてダメ。人間が飲むのにも適さないけど、農業や牧畜もムリ。オーストラリアの広大な砂漠の地下には、膨大な水分が眠っているのだが、残念ながら塩分があるので農業には使えないらしい。ちょっと塩分が混ざっていただけでも、ダメなのだ。

真水さえ存分にあれば、サハラ砂漠でも、ゴビ砂漠でも、オーストラリア大陸でも、どこでも農業ができる。食糧問題は解決だ。それができないばっかりに、あえなく餓死した人々は、人類史上、いったいどれくらいの数なのか、とても計り知れない。現代でさえ、発展途上国では飢えが蔓延している。「餓死」と言うのは簡単だが、人間にとっては七転八倒の苦しみだ。雑草や木の皮まで食べつくしたり、さらには人肉しか食べるものがなくなって、老人や子供から計画的に食べられていったり。歴史には、そういうホラー映画より怖い事例が山ほどある。
 
地球の七割は、海水で覆われている。海水は、地球で最もありふれたもののひとつだ。塩など、海水には無尽蔵に溶けている。塩も水も、海水を熱して蒸留すれば、無限に得られるというのに、そんな塩や水を確保することが、人類にとっては、これほどの死活問題。塩や水が得られないばかりに、血みどろな奪い合いの中で、のたうち回って死んでゆく人々と、生き残る人々。そのかたわらでは、広大無辺の海が、無限に膨大な水と塩分をたくわえているのだから、地球という環境はどこまでも皮肉なまでに厳しい。
  
でも、エネルギーが無尽蔵にありさえすれば、海水を蒸留して、真水にするのはカンタンだ。ついでに、塩もあり余るほど手に入る。余った分は、海に捨てることになるだろう。さらに、水を分解して、酸素を取り出すこともできる。これで酸素不足も解消だ。さらには、海水に溶けているいろんな金属や、海底に眠っている資源を取り出すこともできる。水を陸地にまけば、どこででも食糧を生産できる。地球は一転して、「人間に必要なものを何でもタダで無尽蔵にくれる、どこまでも優しい環境」ということになるだろう。
 
例によって、原発問題から話が飛躍してしまったが、エネルギーさえ十分にあれば、とりあえず、生きていくのには困らない。人類は、生き延びるために汲々としなくてもすむようになる。結局のところ、人類が抱えている問題の大半は、究極にはフリーエネルギーによって解決されると言っていい。
  
原子力も、少量の資源から大量のエネルギーを取り出せる、昔の地球人類から見れば、大変な夢の技術に近いものだ。決して否定されるようなシロモノではない。でも、これではまだ足りないみたいだ。もっと、無尽蔵にエネルギーを取り出せる、究極のフリーエネルギー技術があれば・・・。人類が抱える問題の大半は解決され、理想の世界が一気に近づいてきそうだ。 
 


自由な社会

2010年10月18日 | お金が要らない世界

  
中国や北朝鮮のテイタラクを見て、「やっぱり、社会主義国はダメだな」と思う人は多いだろう。
 
思えば、1990年代の始め頃、筆者はまだ大学生だったのだが、東西ドイツの統一、ソビエト連邦の崩壊と、大きな歴史的事件が立て続けに起きた。まさしく、人類の意識の進化が大きなうねりと化したかのような、巨大な変容だった。
 
それを見て、「中国や北朝鮮の体制も、こんな具合にすぐ潰れるだろう」と思っていたのだが、残念ながら、20年近くたった今も存続している。これは、予想外だった。しかも、いまだに、他国の領土を奪って地下の資源を分捕ろうというような、時代錯誤な発想で動いている。それが、東アジアの悲しい現実だ・・・。
  
もっとも、日本もかつては政府のコントロールが非常に強く、「最も成功した社会主義国」と言われていた。昔は、それがうまく行っており、居心地のよい社会だったのも事実だ。でも、だんだん限界が見え始め、行き詰まってきた。その矛盾が最も集中的に表れているのは、破たん寸前で、いまや次年度の予算を組めるかどうかさえ危ぶまれている財政だろう。

1990年代の始め頃、学生仲間が集まって、「将来はどうするか」という話をしていたことがあった。そこでは、「中央官庁の官僚になって、天下りたい」という人が少なくなかった。そこで筆者は、未来予測を述べた。
  
それは、「この先、日本の財政は破綻に向かい、国家予算を組むことも難しくなるだろう。郵便局は、国鉄や電電公社のように分割民営化される。政府系金融機関や特殊法人は、次々に統廃合される。このため、天下り先は激減する。日本はアメリカ型の社会に近づいていくだろう。ベンチャー企業が花形となり、官僚は『冬の時代』を迎えることになる」・・・といった内容だった。

コレを聞いた友人たちの反応が、印象に残っている。ひとことで言えば、「あきれて、モノも言えない」という雰囲気だった。今じゃ考えられないことだが、この話は、当時の彼らの想像の範囲を超えていた。「宇宙人」を通り越して、アタマを疑われかねない状況となったため、筆者はそこで未来予測を打ち切った。

その後、5年経ち、10年経つうちに、世間では官僚批判が当たり前になってきた。最近では、逆に批判が集中しすぎているくらいだ。でも、これはつい最近の傾向にすぎない。ホンの20年前には、考えられないことだった。世間の人々の考え方というのは、変わる時には本当に変わる。
 
もちろん、自由主義に対する批判は根強い。特に、「自由主義のおかげで、貧富の格差を拡大した」ということが、よく言われている。
 
ただ、「最近の日本では貧富の格差が拡大してきた」というのを、常識というか、当然の前提として話す人が多い昨今なのだが、それには違和感を覚える。というのも、筆者の知る限り、多くの資産家たちは、ここ2~3年のデフレで大きく資産を目減りさせている。羽振りの良かった企業オーナーも、あまりに景気が悪いので、資金繰りに四苦八苦している人が少なくない。大企業のサラリーマンも、給料が減っている人が多い。

たしかに貧しい人は増えているのだが、「貧富の差が拡大している」というより、どちらかと言えば「全体的に、貧困化している」という印象だ。今の日本では、経済成長がストップして久しい。この背景には、日本人の意識の変化がある。「もはや、経済成長を求めない社会」へと、気づかぬうちに突入してしまった日本。この点では、まちがいなく世界の最先端を走っている。「世界の成長から、日本が取り残されている」という危機説も多いけど、どちらかといえば、遠からず世界全体が今の日本みたいになっていくだろう。
  
そもそも、「自由主義は失敗なのか、成功なのか」ということばかりが、語られすぎているように思う。右も左も、「自由主義のおかげで、生活は良くなったか、悪くなったか」という話ばかり。「自由」そのものが追求すべき価値であり、他の目的を達成するための単なる手段ではないということが、忘れられてはいないか。
  
来るべき、意識が進化した人類による精神文明は、社会主義などとは正反対のものになるだろう。政府による上からのコントロールは、ドンドン小さくなり、最終的にはほとんど消滅する。あとは、自立した人々が、勝手に作った小集団で自由に活動する社会になるだろう。各自がやりたいことをやっていても、全体がうまくいくという、自律的な社会。これこそ、非常に民度の高い社会にしか、なしえないことだと言えるだろう(笑)。
  
 
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経済成長しない社会

2010年08月17日 | お金が要らない世界

   
どうやら、「中国のGDPが日本を上回った」という統計結果が出始めたようだ。半世紀に及ぶ「世界第二の経済大国」の座を、ついに明け渡す日本。アメリカの経済紙でも、「ドイツに続いて、日本もついに抜かれた。次は俺たちが抜かれる番かもな?」というような報道がなされています。
 
もっとも、人種的にほとんど変わらず、人口が十倍以上もいるんだから、経済規模が大きい方がむしろ当たり前。「追い抜かれた」というより、「あまりにもイビツだったバランスが、多少は回復した」と言うべき問題でしょう。

それにしても、ここ20年ほど、日本の経済成長はほぼストップしています。経済成長することに、意味がなくなったわけではありません。経済規模が大きくなれば、失業率は下がるし、消費は増えるし、税収は増えるし、財政赤字そのものが相対的に小さくなるし、良いことばかり。経済にとっては、まさに万能の特効薬、魔法の杖。今でも、本音は経済成長したい。

それでも、経済成長がストップして久しいのが日本の現実。もはや、すっかりそれに慣れてしまいました。「世界第二」の座を明け渡すことにも、動揺はほとんど見られません。「へえ、そうなの」という程度の反応だ。これはやはり、それだけ日本人の意識が変わったということでしょう。

実際のところ、もう、日本は経済成長という山を登りきり、頂上に達して久しい。大多数の日本人にとって、新興諸国と経済規模を競うことなど、ほとんど意味をなさなくなってます。新興諸国は、いま必死になって、周回遅れの経済成長をしているところ。すでに、日本は次のテーマに移ってしまいました。

日本に限らず、先進国はみんなそうでしょう。ヨーロッパ諸国も、「富国強兵」の時代をほぼ終えたと言える。唯一の例外は、アメリカだ。日本やドイツの人口が徐々に減る一方で、アメリカは、90年代にメキシコからの移民を大量に受け入れ、人口を四千万人も増やしました。もっとも、ただ単に人口を増やしただけでは、経済は成長しません。移民にせっせと住宅ローンや自動車ローンを貸し付けて、消費を大きく伸ばしてきたのが、アメリカという国のフトコロの深さでしょう。結果的には、それがアダとなり、金融破綻を引き起こしてしまいましたが・・・。

それはともかく、「富国強兵」に代わる次のテーマ、これから目指すべき課題とは何でしょうか。それは、「意識の覚醒」、もしくは「意識の進化」以外に有り得ません。(もちろん、そう思うのは、筆者が精神世界マニアだからですが・・・)。

かつて日本は、軍事力で世界を席巻し、その後、経済力で世界を席巻した。日本が世界を先導する最先進国なのは、すでに証明されてます。あとは、精神力しかない。地球人類の次なるステージ、「意識の覚醒」で世界の先陣を切ることしか、テーマが残されていないのではないか。

新興諸国は、周回遅れの経済成長や、軍備増強に追われています。でも、実のところ、今の地球人類にとって、それはもはや最大の課題ではありません。先進国は「意識の覚醒」へと移っているし、また、移るべきでしょう。

もっとも、自国が次のステージに移ったからといって、他国もそうではないということには、留意する必要があります。靴底に貼り付いたガムのように、いつまでもヘバリ着いて離れないテロリスト国家、北朝鮮。四千年の歴史にも前例を見ないほど、海軍力を増強して日本の領海を横行し、海洋覇権への野心を露わにする中国。もうしばらくは、東アジアの平和への脅威が続くというのが、好むと好まざるとに関わらず(っていうか、誰も好まないだろうが・・・)、動かしようのない現実です。超然としたポーズを取っていればいい、というものでもありません。やはり、現実は現実として、それなりに対応していかなきゃいけない。GDPのことより、この方がよほど問題だ。残念なことではありますが・・・。

もっとも、そんな情況も長くは続かないだろう。いずれ、彼らも変わり始めます。時間の問題なのはまちがいありません。

頭の痛い、余計な問題についてはさておき、日本はすでに次のステージへと移行しました。これからは、新しい精神文明を築いていく時代。軍事や経済ではなく、意識によって世界を変容させる時代です。

実際のところ、産業や経済、科学技術の発展は、地球環境を大きく変えてきましたが、意識の進化もまた、それと同じか、それ以上の変容をもたらす可能性を秘めている。きわめて大きな、発想の転換なのです。
  
  
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「おカネが要らない世界」とは?

2010年08月14日 | お金が要らない世界

 
精神世界関係者には、「もうすぐ、資本主義が崩壊する」と唱える人が多い。

資本主義が崩壊したら、どうなるのか。昔なら、「社会主義の世の中になる」というところでしょうが、ソ連や東欧の社会主義国が崩壊して久しく、中国が資本主義の道をバク進している現状で、それは言いにくい。

資本主義が崩壊したあとのビジョン。それは、ひとことで言えば「おカネが要らない世の中」ということになるらしい。

おカネが必要なのは、なんらかの形で、何かを買うためでしょう。つまり、「おカネが要らない世の中」というのは、「おカネがなくても、なんでも買える世の中」ということを意味しています。言い換えれば、「あらゆるものが、タダで手に入る世の中」ということ。

でも、世の中には、「需要と供給の法則」ってものがある。売られてるモノ(サービスを含む)が少なくて、それを欲しい人(もちろん、おカネを出せる人・・)が多ければ、価格は上がります。逆に、売られてるモノが多くて、欲しい人が少なければ、価格は下がります。

モノが無尽蔵にあって、コストをかけて生産する必要がなく、それを欲しい人の欲望に限りがあれば、価格は限りなく低下し、しまいにはゼロになります。今の世の中では、「空気」がそれに該当する。空気を吸ったり吐いたりするのは、誰でも無料でできる。空気は、至るところに存分にあって、別に独占したがっている人もいないから。ありがたや・・・合掌。

それ以外は、水道の水ですら、タダじゃありません。でも、蛇口をヒネればジャンジャン出てきて、そんなに高くないのは確か。空気ほどじゃないけど、それなりにコストは安い。それはやっぱり、世の中に沢山あって、人が使う量に限りがあるから。もっとも、水道の水は、浄水したり配管したり・・・にコストがかかるから、それを誰かが負担しなきゃいけない。その上、空気と同じく無料になったら、ひどいムダ使いをされて、すぐ水不足になるだろう。

「あらゆるモノが無料」ってことは、極端な話、高級なワインやブランデーも、キャバクラ嬢によるサービスも無料ってことになる。それを実現するためには、まず、たとえタダでもキャバクラ通いはホドホドにするよう、男性側の意識を改革して、需要を一定限度内に抑える必要があります。そして、十分な数の、男性を無償で接待する容姿端麗な女性を確保しなければいけません。そうすれば、無料かもしくは、非常に価格が安くなるでしょう。

ただし、それだと、もはや「キャバクラ」とは呼べないものになります。それは、「合コン」と呼ばれても仕方がないでしょう。

でも、世の中、「ゼロか100か」で考えるべきではない。「おカネが一切いらない世の中」を考えるから実現不可能に思えるのであって、それに近づけることを考えるのは可能です。

当面、目指すべきなのは、「おカネがなくても、普通に生きていける世の中」じゃないでしょうか。空気がタダで手に入るように、生きていくために最低限、必要なモノだけは、無料で手に入るようにする。例えば、水とか、食料とか、服とか、屋根のある住家とか・・・。それ以上の何かを求める人だけが、おカネを出して高級なモノを手に入れればいい。それ以上の何かを求めない人なら、おカネを出さなくても、とりあえず生きてはいける社会。それが実現すれば、理想へと一歩近づきます。

でも、それが難しい。昔の社会主義国・ソビエト連邦でも(平成生まれの世代にとっては、われわれにとっての『ナチスドイツ』みたいな歴史的存在なんでしょうな・・・)、それを目指してました。食料品の価格や、水や電気などの生活必需品の料金は、極端に低く抑えられていた。そういうのを見て、日本の左翼の人たちも興奮して、「人類は、理想社会に一歩近づいた・・・!!」と叫んだものだ。現在でも、「ソビエト連邦の頃は良かった。食料品や公共料金をはじめ、生活必需品の価格がものすごく安かった。それに比べて、今はなんでも物価が上がってしまって・・・」と、昔を懐かしむロシア人が少なくないと聞く。

でも、世の中では、一見タダに見えるものが、実はタダじゃないことがよくある。そんな社会を維持するのに、ものすごいコストがかかります。1000円の食べ物を、政府が買い取って100円で売れば、そりゃ「理想社会」に近づくだろう。でも、差額の900円を、いったい誰が負担するのか。重い税金をかけるとか、どこかにシワ寄せが行くことになります。

かつて、かの高名なるパナソニックの創業者・松下幸之助は、「水道哲学」を唱えたという。いわく、電機製品を、水道の水みたいに、蛇口をヒネればジャブジャブ出てくるほど、安く大量に販売するのだ。・・・それを聞いて、高度成長期の人々は、みんな感銘を受けていたらしい。

「おカネがなくても生活できる社会」にするためには、生活に最低限必要なものが、この「水道哲学」みたいに、真の意味で安くなる必要がある。本当に、空気みたいにありふれた共有物にならなければいけません。無理を重ねて安くしたところで、いつかどこかでボロが出ます。
 
そのことは、精神世界関係者も分かっている。そこで登場するのが、「フリーエネルギー」。「もうすぐ、おカネの要らない社会になる」と唱える人が、次に口に出すのが、「そのために、フリーエネルギーが開発される」ということ。

今は、石油や石炭を掘り出すのにもコストがかかる。発電所で電気を起こすのには、さらにコストがかかる。発電した電気を使って、いろんな工業製品を作るのに、さらにコストがかかる。人類が、何度も挑んできたにもかかわらず、どうしても「おカネが要らない社会」を実現できないのは、結局のところ、このためでしょう。
 
精神世界関係者にも、いろんな考え方がある。特に、政治的に左派の人は、「必要なモノが、全員に行き渡らないのは、誰かが独占しているからだ」と考える傾向があります。確かに、そういう面もあるでしょう。でも、それだけではない。今の地球環境では、人口が多すぎるのに比べて、必要なモノを十分に確保できてません。どんな風に分配しようが、地球人全員に行き渡ることなど有り得ないというのが、現状での客観的事実です。だから、効率的に分配するシステムとして、資本主義経済が登場する。
 
いまもなお、戦乱や飢餓、貧困や疫病が、特に発展途上国では蔓延しています。でも、現代は、これでもマシになってきた方だ。「一国の人口が半分に減った」とか、「ひとつの都市が全滅した」なんてことが、日本の歴史では考えられないけど、大陸の歴史では珍しくもなんともありません。地球というのは、それほどヒドイ環境なのだという現実を、直視しないといけない。一朝一夕に理想社会を実現できるほど、地球環境は優しくできてません。むしろ、極めて荒っぽくできてます。

いずれにしても、鍵を握るのは、「フリーエネルギー」。コストをかけず、無尽蔵にエネルギーを取り出せるシステムが開発され、そのエネルギーを使ってなんでも生産できるようにならなければ、理想社会の実現は近づいてこない・・・。
  

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