旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

トロワ街歩き~塗りつぶされたベラ・シャガール トロワ現代美術館

2023-02-09 16:25:29 | フランス
2023年1月、塗りつぶされた裏カンバスの下からシャガールの妻・ベラの肖像画がみつかった。
※展示は鏡をつかって裏側も見せている↑
「なぜ、塗りつぶされたのかはわかりません」

表の絵はロベール・ドロネーが描いたランナーたち。
1924年のパリ・オリンピックの一場面。
来年、百年ぶりのパリ・オリンピックが開催されるので各所から貸与の申し出があり、あらためて調査されてみつかった。

ロベール・ドロネーは1910年ごろシャガールとパリで知り合ったとされる。
シャガールと妻のベラの故郷はベラルーシ北部のビテブスク村。
ドロネーが結婚したソニアはウクライナ出身。
妻同士ネイティブなスラブ語で・ロシア語で会話したにちがいない。
ベラは友人画家夫婦のモデルになったのである。

このあとは想像だが…
この肖像画を彼女自身は気に入らなかったのかもしれない。
受け取ってもらえなかった絵は塗りつぶされ、
カンバスは再利用され、ランナーが描かれた。

ポンピドゥーセンターとの共同調査によると、カンバスを再利用するためにわざわざ裏の絵を塗りつぶす必要はなく、実際両面に描かれた絵はけっこうある。塗りつぶしたのはやはり、気に入らなかった・気に入られなかったから?

この絵はトロワ現代美術館の三階いちばん奥にある。

大聖堂のすぐ横にある建物は元の司教館

木組みが美しい階段

窓からは大聖堂が見える

1990年代に開館したが2019年に閉館。
長い修復期間を経て近年再オープンした。

トロワ伝統の繊維業者レヴィ夫妻のコレクションを中心にしている。
ピエール・レヴィはパリ生まれだが20歳の時にトロワやってきた。
働いていた会社の跡取り娘ドゥニーズと結婚し、家業をさらに発展させた。
後には有名なラコステブランドを傘下におさめるほどになる。
↑上のラフスケッチはトロワ生まれのガラス作家・画家モーリス・マリノーによる。
未完成だが40歳前後のレヴィ夫妻の雰囲気をよくとらえている。

↑これらがマリノーのガラス作品群

ピカソ晩年の陶器や
19世紀の先進的な画家の作品を網羅している。

さらにキュビズムに決定的な影響をあたえたアフリカの民族造形も豊富。

これらの収集にあたっては、現在パリのオランジェリーにそのコレクションが収められているポール・ギョームの助言があった。


バルテュス

デュフィー


さらに庭園には屋外彫刻も見える↑
合気道有段者の受付の彼はちょこっと日本語も話す(^^)
またゆっくり見学できる機会をつくれますように。

**
大聖堂のすぐちかくにもうひとつsaint-Loup博物館がある。

こちらは自然科学から古代ローマ以前の歴史にはじまり18世紀までの美術・絵画まで幅広い展示。

↑この5世紀ごろとされる剣は1842年に発見され、トロワの宝石商が資金を出して買い取り、ナポレオン三世の裁定でトロワの博物館に展示されることになったもの。発掘物はできるだけその場所の近くで展示されるのがよいという考え方がすでにはじまっていた。


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トロワ街歩き~ローマ時代の名残、大聖堂

2023-02-09 15:53:13 | フランス
トロワ旧市街はシャンパンのコルクのカタチをしている。


キノコ型の部分にローマの街アウグストボナがあった。

↑現在のパリ=上の地図のルテシアはセーヌ川でアウグストボナ=現在のトロワとつながっている。

ローマ帝国時代の南北直線道路(=カルド)と東西直線道路(=デクマヌス)

ローマ街道に沿って建てられた教会群。
中世13世紀に建設がはじまった現在の大聖堂もその一角に位置している。

つまり、地下にはローマ時代の遺構がねむっている。

Muse saint-Loup博物館には↑地下に下りる階段があって↑

↑発掘された様子をそのまま見ることができる。

↑壺に満載された貨幣は紀元後二世紀ごろ=ガリア帝国として一時的にローマ帝国から独立していた時代のものと推察されている。

↑貴重な青銅のアポロ像は紀元後一世紀ごろ?

Loup博物館は自然史からはじまって石器時代から現代までを俯瞰している。


今回はローマと中世のセクションをざっと見ただけで時間切れだった。

↑トロワ大聖堂は正面右側にも塔が建設される予定だったが財力がつづかなかった。

↑壁には1429年にジャンヌ・ダルクがシャルル七世を奉じて短期間滞在していたことを示すプレート↑

↑トロワでもっとも壮大な教会

バラ窓も見事↑

13世紀に遡るステンドグラスもある、ということは、シャルトル大聖堂のステンドグラスと同時期のものもあるということか。

大聖堂見学でいちばん驚かされたのはしかし↓ステンドグラスではなく象牙の小箱だった↓

↑ひと目で正倉院宝物の鳳凰を思い出した↓※下は正倉院に伝わるペルシャからとおぼしき布をモチーフに、現代日本で織られたもの



↑同じ小箱の側面に刻まれた狩りの図を見て、ロンドンの大英博物館のハイライトのひとつ「古代アッシリアのライオン狩り浮彫」を思い出す↓



この象牙の小箱はコンスタンチノープル(現イスタンブール)から、1204年の第四回十字軍でもたらされたと解説。
当時のコンスタンチノープルは東ローマ帝国の首都。
古代アッシリアの現イラク北部も領有していたから、この象牙の浮彫を制作した職人は見たことがあったのかも…などと妄想する。


↑絹と金糸でつくられたこれは何?
↑腰に下げていた「財布」で、貧者に施すための銭が入れられていたのだそうな。
※マドレーヌ教会のステンドグラスで赤いこんな財布をさげた金持ちがえがかれていた


↑このケースには聖人「クレルボーのベルナルド」の遺骨が収められている。
彼は1146年に第二回十字軍への参加演説をした。
シャンパーニュ伯爵アンリ一世はまっさきに参加を表明。
その息子チボー三世は第四回十字軍に参加するはずだったがトロワで急死している。
フランス中部の諸侯は十字軍とのかかわりが深い。

ベルナルドの遺骨は彼が創設したクレルボーの修道院にあったが、フランス革命動乱で廃止され1792年この大聖堂に移された。
象牙の小箱も元は別の場所にあったものがフランス革命期にここへ移されたと思われる。
大破壊の時代をのりこえてここで見ることができることに感謝。


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トロワ街歩き~運河、市庁舎、聖ウルバン・バジリカ、

2023-02-09 13:17:35 | フランス
↑トロワに入って最初に目についたのは、二つの旧市街の間を流れるこの運河。

観光案内には木組みの家並みとステンドグラスの教会群ばかり紹介されていたが、トロワは19世紀の建物も多い。

繊維業が現在に至るまで盛んで20世紀前半まではこの運河も現役で使われていた。

↑この橋は船が通る時に旋回していた跡を記憶している↑


19世紀↑革命の後に出来た市庁舎↑中央にはフランスのモットー「自由、平等、博愛」を表す女神がフリギア帽(ローマ時代の解放奴隷がかぶったことが起源とされる)をかぶって、ファッシ(権標)を足元に置く↓

↑モットーの最後に「OU LA MORT(さもなくば死を)」と刻まれている革命最盛期のオリジナルはたいへんめずらしい↑左手には首でも持っていたような手つきをしている…


広場に置かれたメリーゴーラウンド

↑旧市街の「猫の小道」の絵が描かれている

↑ランチタイムが終わってもどってきたお一人が「猫の小道」近くのお店のきれいな紙袋をもっていた。
旧市街の中心にも大きな広場があるトロワ。

シャンパーニュ地方の中心都市だから↑地元の小さなシャンパン製作者のボトルもある
**

商業地区側の聖ウルバン・バジリカ↑
後に法皇ウルバヌス4世となる靴職人の子=ジャック・パンタレオンは1200年にトロワで生まれた。
この教会のある場所は父親の工房跡。
生まれで生涯を決められる時代にあって、自らの能力で地位を得られるのは宗教界しかなかった。
十字軍最盛期にエルサレム司教に任命され、1261年に法皇に上りつめたが、
神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世と対立するなかで、1264年に中部イタリアのペルージアで没した。

ローマ法皇に選出された翌年にこの教会の建設をスタートさせ、「故郷に錦を飾った」のだが、彼の遺骨がここに返還されたのは1905年になってからである。

↑内陣のこの場所に、返還された遺骨は埋葬された↑


ゴシックの彫刻群は破壊されているが一見に値する

↑地獄へひきこまれる人々↑



↑クレルボーのベルナルド像↑戒律の厳しいシトー派の中でもさらにきびしいクレルボーの修道院を創設した人物

↑外側の壁支え柱(フライングバットレス)で支えられていて↓その柱のいちばん下に大きなヤギの頭↓

↑ここをさわると力をもらえるのだそうな(^^)
****

まだまだ↑ホット・ワインの季節(^^)

運河を超えて、大聖堂のあるシテ地区を歩こう。
ローマ時代から街のあった場所である。
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トロワ街歩き~ムロワ館外観(道具博物館)、市場の聖ジャン教会

2023-02-09 12:56:42 | フランス
1582年、ジャン・ムロワとルイズ・プルール夫妻は、死後この館をトリニテ修道院に委託し孤児院として運営することを決めた。

孤児院は自立のための職業訓練として紡績工場を兼ね、職人を育てる場にもなっていった。

この理念があったため、フランス革命時にも孤児院と工場は護られた。
移転はすることになり、この建物は兵舎として使われた。

1920年からは印刷会社が入った。
その後、オーブ県で最初の歴史的建造物に指定され、1966年にトロワ市が買い取った。

1974年にポール・フェラー氏が集めていた職人の道具を展示する博物館となった。

こういう博物館はフランス全土でも珍しく、
今回の旅で見学したいとは思ったのだが…
解説されても小松がすぐに理解・解説できるとは思えず、見送った。
次回(いつ?)、しっかり時間がある時に訪れたい。

↑周辺の路地の木組みの家々↑いちばん上の切妻下にロープをかける場所がある↑


ガイドのクリスティンさんが通りに面した扉の鍵をがちゃがちゃ開けて我々を招き入れた。こんなところのカギなんか持っているんだ↑

ツーリスト・インフォメーションを通じてガイドをおねがいしているから、この場所も見られる。
「黒いライオンの館」と名前が付けられている。

↑この紋章が二階の古い部屋にある暖炉に刻まれているそうな。
「黒いライオン」は道路にむけてあったそうだが失われている。

大通りに↑コロナ禍で閉店したデパート跡↑
**

↑サン・ジャン・ウ・マルシェ教会は9世紀には木造存在していた記録がある。
それは西暦889年から892年まで続くノルマン人の侵略によって破壊された。
その後、遠来の商人たちがやってくる市(いち)で栄えるようになったトロワの街の真ん中に石造りで再建されはじめた。
13-14世紀の石造りが今も見られる。

1524年の大火では聖歌隊席と翼廊に被害をうけたがその後も建設は続けられた。
市のど真ん中にあったので石壁には多くの商店がくっついて建てられていただろう。
1911年に教会の外側に並んでいた小屋が撤去され、南西角の鐘楼塔も崩壊した。
幸い塔の中にあった鐘は無事で、今は教会内部の床におかれている。

1420年、百年戦争中にイギリス王ヘンリー5世とフランス王シャルル6世の娘キャサリンの結婚がここで行われ、「トロワ条約」が締結された。発狂していたシャルル6世の死後にイギリス王がフランス王の領土を継承する内容だった。※シャルル6世の叔父のブルゴーニュ公による策略とされる

↑小松がはっとしたのは↑2018年にカナダのケベックを訪れた時に覚えていた名前を教会の前でみつけたこと。
※2018年秋のケベックのブログごらんください
★マルグリット・ブルジョワは1663年と1673年に、ルイ14世統治下のニューフランス=現在のモントリオールに渡った。
770人もの「王の娘たち」を選び・教育し、男ばかりだった入植者と結婚させた。
数年後にニューフランスの人口は三千人から一万人に増えた。
マルグリットは二十歳の時神の啓示をうけて修道院に入っていた。
友人・ルイーズ・ショムディの弟がモントリオールの初代総督になり「女たちとその教師がニューフランスに必要だ」と相談したので推薦されたのである。彼女は先住民の子供たちにも教育の機会を与え、モントリオールには今も彼女興した施設がある。
※モントリオールの初代総督メゾヌーヴの像の夜景を見た日のブログにリンクします

堂内には聖母マリアとカナダ先住民の子供たちの像↑

***
カフェでランチブレイク

****
NHKの「世界ふれあい街歩き」でもとりあげられたアンティーク店をみつけた

※番組公式HPにリンクします
実際に店内に入ると予想以上に「時の欠片」がつみあげられていた

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トロワ街歩き~ラシ館(外観)、聖パンタレオン教会

2023-02-09 11:55:15 | フランス
ユダヤ人が多いのは中世商業都市の常。ラビのラシ(Rabbi Chlomo ben Itzhak(イサクの息子ソロモン) HaTzarfati(フランスの))は、1040年に トロワに生まれ、今のドイツに位置するマインツとウォルムスで学び、30歳前にはトロワにもどってユダヤ教の学校を開き、ヨーロッパ中から生徒がやってきた。※ラシ館の英語サイトにリンクします

今もここに学校があり、シナゴーグがあり、ミュージアムとしてガイドツアーも行っているのはラビ・ラシ師の存在に寄る。

しかし、晩年には十字軍運動がはじまり(1095年にフランス中部クレルモン(現クレルモンーフェラン※2018年に訪れた時のブログにリンクします)近隣都市のユダヤ人たちへの迫害がはじまっていた。
誰かの正義感が、他の誰かの災いになることはいつの時代にもある。

予約すれば二時間の見学ツアーもあるようだ。
トロワのガイドさんによれば、アメリカからのユダヤ人たちが多く見学に訪れるそうな。



↑改修中の路地を通った↑木造の建物の入口がなぜ高い位置にあるのか?

↑中世の路地は家々から投げ捨てられる汚物がいっぱいで、時にぬかるんで、とても不衛生だったとされる。それらが家の中に入らないようにしていたのではないかしらん。

↑修復中の家の内部が覗けた。
路地を抜けて広場にでると

19世紀に爆発的に拡大した繊維産業に融資するために進出したリヨン銀行※リヨンも繊維(主にシルク)産業で栄えた
**
聖パンタレオン教会は高さ28メートルになる木造の天井が印象的↓

この場所にはかつてシナゴーグ(ユダヤ教会)があったとされるが、十字軍運動の迫害で没収・破壊されたと推察されている。1189年には木造のキリスト教会の記録がある。1500年代はじめに石造りに代えられていった途上、1524年にトロワの大火に遭う。1527年に周囲の土地を購入してより大きな教会として1570年に現在に近いカタチになった。

この教会は周囲に住む裕福な繊維業者の寄進によって支えられていて、特にポーランドから移住してきた職人たちも住んでいた。彼らのためにポーランド語のミサを行ってきたし↑今も目の前にポーランド領事館の旗が出ている。

内部、イタリアからの影響をより強くうけた↑動きのありすぎる彫刻

中央祭壇の直立な聖パンタレオンと対照的。

「グリザイユ」と呼ばれるステンドグラスは↑「新しいステングラスのスタイル」と解説されているが、実はより安価にステンドグラスを製作できるように多彩な色ガラスをつくる代わりにガラスの上に描く方法がとられている。

入って右手二つ目の柱にあるリアルな彫刻。
↓皮職人の守護聖人=聖クレパンと双子の聖クレピアン↓3世紀にローマから布教にやってきた靴職人。
皮を切っている作業場に、今しもローマの兵士が乱入して捕まえられるところ↓



↑机の下の犬も怖がっている↑

↑彫刻の下に腕の折れた天使像↑花輪には何が書かれていたのか?
推察だが↑天使たちの下の空白部分にはかつて裕福な皮職人か商人の墓か記念プレートがあって、フランス革命あたりに破壊されたのではないかしらん。

↑近くの二階から見ている二人はユダヤ人だとされる↑

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