旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

信州上田、安楽寺八角三重塔(国宝)

2022-01-31 19:59:25 | 国内
雪を散らした斜面↑凍るような空気を縦割にする木立の向こうを見上げる。

登るにつれて軒下の放射状の垂木がはっきり見えてくる。
質素というより華やか。

垂木の下にある組木はびっしり詰まっている。
これが「禅宗様」=中国式のカタチだという。
陽射しで影が濃くなる夏ではなく、白い雪からの反射が明るく見せてくれる今日は「見時」だったのかもしれない。

↑斜面を少し登って見下ろしたが、下から見た時とぜんぜんちがう。
お寺が「見下ろすものではありません」と書いていたのはそのとおりかもしれない。
この塔いちばんの見せ所は放射状の垂木と組木の華やかさなのだ。

日本で唯一残されている八角三重(+裳階(もこし))の塔は鎌倉時代末期につくられた。
平成六年の木材調査ではっきりした。
お寺自体は律令時代九世紀に創建されたと考えられているが、記録にあらわれるのは鎌倉時代。
鎌倉にやってきた蘭渓道隆と同じ船で(1246)帰国した留学僧・樵谷惟仙(しょうざんきせん)が禅宗寺院として開山したとされる。鎌倉と上田の間で交わしていた手紙が残されている。
二代目の幼牛恵仁(ようぎゅうえにん)は中国生まれ。
八角形の塔は中国には多い。
故国で見た八角塔のスタイルをここでも出現させようとしたのだろう。

当時京都の法勝寺(ほっしょうじ)には十一世紀につくられた高さ八十メートルの八角九重の塔があったことが分かっている。

幾何学的な建築美だが↑細部のデザインにも注目↓
横長の格子をわざわざ曲線にしている↓

「弓型連子」「波型連子」という。
↓その上に突きだす木材の端を「刳型(くりがた)」と呼ばれる波模様にしてある↓

**
塔は安楽寺のいちばん奥に位置している。
順番が逆になったが入口からのルートをふりかえる↓下の図で左上奥が前出の八角三重の塔。

別所温泉のはずれから石段をのぼってたどりついた山門。
そこからまっすぐ正面に本堂がみえる↓

右手には鐘楼↓

本堂の内部は禅寺らしくがらんと広かったが

↑入口天上から下げられた籠が目についた。
本堂左手からが八角三重の塔への道になるが、ここから有料。

↑入ってすぐのところにある四角い倉庫のような建物は

↑お経の倉庫。江戸時代寛政五年(1793)に宇治の黄檗宗から入手した「鉄眼一切経」を納めるためにつくられた。
※鉄眼一切経とは、黄檗宗の僧・鐵眼道光(てつげんどうこう)が延宝6年(1678)完成させた版木を元に全国に普及させた経典。鉄眼はもと浄土宗の僧だったが、寺の格で僧の格まで決めらてしまう(いわば寺の身分制度)を嫌って隠元禅師(黄檗宗開祖)に師事した。三十歳以上年長の中国人僧との出会いによって「鉄眼」となった人。

↑朱塗りの厨子にどんなものがおさめられているか、宇治寶蔵院のページにリンクします
↑前に坐しているのは傅大士と二人の息子。中国南北朝時代にインドからやってきた達磨大師と出会った。膨大なお経を管理しやすいように回転式の書棚を考案したとされる。それがこの回転経蔵のルーツなのか。そういえば昨年秋に京都嵐山でも同様の回転経蔵と傅大士をみかけた。仏教の世界で図書館の守護者とされているそうな。

経蔵から右手に登ってゆくと、冒頭ように林の向こうの塔が見えはじめる。
途中の傳芳堂(でんほうどう)に禅寺としての開祖樵谷惟仙(しょうざんきせん)と二代幼牛恵仁(ようにゅうえにん)の木像が安置されている。

↑鎌倉時代らしい迫真の人物彫刻なのだが、反射がひどくてあまりに見にくい…。もとは東京の国立美術館に収蔵されていたのを元のこの寺に戻したそうな。ゆかりある場所からこういったモノを離さないことはとても大事であるとは思っておりますが。

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信州青木村、大法寺の三重塔(国宝)

2022-01-29 18:28:56 | 国内
京都か奈良か鎌倉か。
1333年に建てられた端正な塔が坂の上にそびえている。

↑山側の屋根にだけ雪が残る。
律令時代七世紀後半からの官道「東山道」の浦馬駅(うらのうまや)に隣接した場所。
藤原鎌足の息子定恵によって大宝年間(701-704)この大宝寺ができたと伝わる。
宝⇒法と変わったけれど。

江戸時代の建物である観音堂に安置された秘仏十一面観音は平安時代の作。
これを室町時代の厨子に納めている↓

↑観音堂の内部の厨子↑には日本最古のしゃちほこが乗っていると解説されている↑どれどれ…

暗い写真を修整・拡大すると↑屋根の両端に齧りついている迫力あるサカナが見えた↑


↑本堂も江戸時代ので、神社のように紙垂(しで)がつけてあるのは神仏合祀だった名残とされる。この本堂内部にも平安時代の木像がある。

見所はなんといっても三重の塔。

京都や奈良の塔をつくっていた棟梁がここまでやってきて仕事を指揮したと考えられている。
上層階の方が細くしてあるが、屋根自体は一層目が「二手先」二層目三層目は「三手先」にしてある=つまり上層階の屋根の方が張り出し方が大きいのだ。飛び出した垂木を見ると、たしかに上層階のほうがひとつ多くなっている。

↑最上階には白い漆喰が残っている↑
解説書によると完成当時は全体が朱色に塗られていたそうだ。
白い漆喰は下塗りだ。

一階部分は自然の岩の上に立てられている。

心柱が水煙から二層目まで貫いており、地震の際には振り子の役割をするので倒れない。
檜皮葺という檜をつかった最高級の軽い屋根になっているが、大正8-9年(1919-20)の全面改修前は瓦屋根だった。ずっと手が加えられなかったわけではなく、この時1333年当時の姿に戻されたのだ。

「見返りの塔」と呼ばれるだけの姿↑
**

以前から訪れたいと思っていた「無言館」が近いというので、今回は場所だけ確認に。

途中で上田電鉄別所線の列車が見えた↑これに乗って別所温泉へ行く旅、つくってみたいです(^.^)

少し坂をのぼると

冬枯れの向こうに修道院のような建物が見えた

窓のない建物。

パレットをかたどった石碑に↑美大生たちの名前が刻まれていた。
この美術館は戦没画学生たちの作品を集めたものだけれど、その無念を知ってもらうというより作品自体の価値を感じて見てほしいのだと、館長の窪島誠一郎氏は書いている。
※こちらのweb連載をお読みください
一般的な旅に、戦争に関連する場所を入れるのは簡単ではない。
無頓着に入れるだけにしたくはない。
訪れる前にできるだけの知識を持って作品に対してほしいと思っているのだが…あるいは何も考えずに作品に出会ってもらうほうがよいのかしらん。


秋に青木村と上田と諏訪を訪れる旅を提案してみたい。
コメント (2)
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諏訪湖畔の「千人風呂」

2022-01-26 10:48:56 | 国内
諏訪湖畔にたつヨーロッパみたいな建物の屋上からの凍った湖

↑右手にそびえる銭湯みたいな煙突は何?
これは本当に「千人風呂」の煙突!※公式HPにリンクします。内部も洋風!

↑ルネサンス風の階段を上ると冒頭の湖が見渡せるテラスに出る。
諏訪湖の花火の時には有料観覧席になるのだそうだ。

↑階段下から振り返ってみる「休憩室」。
映画「テルマエロマエ」で草津温泉の遊技場シーンに使われ、卓球台やモグラたたきをならべた写真が飾ってあった。
昭和三年(1928)にこの施設を出現させたのは絹糸産業で財をなし「シルク・エンペラー」と称されたた片倉財閥(現片倉工業)二代目当主片倉兼太郎※三代目まで全員同じ名前

片倉工業は当時から富岡製糸場より大きな工場を稼働させており、昭和十四年(1939)には民営化されていた富岡製糸場も傘下に入れる。1989年に操業を停止した富岡製糸場を壊さず歴史的資産として維持していたことが、十八年後に世界遺産指定をうける原動力になった。
※片倉工業が富岡製糸場について書いたHPにリンクします

↑「千人風呂」外観↑
ヨーロッパ視察した成果として「千人風呂」をつくるなんてすごい発想(^^)

浴槽が1.1mととても深い。
実際に入浴してみると、底に玉砂利がひかれているのも意外だった。


↑「千人風呂」にとりつけられたステンドグラスのミニチュアが、
となりの「片倉館」に展示してあった。

諏訪湖畔の軟弱な地面にこれだけの重量建築を建てるにどんな基礎が必要だったか?

↑図面にびっしりと描かれているのは何?

↑建設途上の写真を見ると、それが松の丸太材であることがわかる。
「千人風呂」の下には1711本、
「片倉会館」の下には922本、打ち込まれているそうだ↑
これはヴェネツィアの建物と同じである。

↑こちらが地域の集会場として建てられた「片倉会館」外観↑

↑ポーチの大理石を張った部分も凝ったデザイン↑

入ってすぐに巨大な金庫↑もともとここに置かれていたのではない?

番号でなく「イロハ」で合わせる。
↑同じ形式のもう少し小型の金庫を京都の古民家で見たことがある。

二階はどーんと二百四畳の大広間。

となりの「千人風呂」がみえる



第二十三代総理大臣清浦奎吾のものだそうだ。
※昭和二十四年半年だけの内閣

邸内にたくさん飾られている書の中で興味深かったのが↑中村不折のもの。
「浩然の気を養う」=「ちいさなことに囚われず、どっしりと構える」
不折は信州一味噌のロゴになっている会社名を書いた※HPにリンクします
はっきりと個性がありつつ、読みやすく美しい。
**
片倉工業は今は東京に本社を移したけれど、
この施設を建設したころは地元への想いは熱いものだったと感じたのが、「千人風呂」の前に置かれていたこれ↓

諏訪大社の御柱祭の「木落し」がどんなものなのか、体験してもらうために置かれている。
※実際にはこんなのです
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諏訪湖畔の「くらすわ」

2022-01-24 06:59:11 | 国内
全面氷結した諏訪湖がCURASUWAの窓から見える。

四年ぶりなのだそうだ。
ここはあの養命酒が運営するレストランを主体とする施設。

二階にあがると冒頭写真のレストラン

メニューは多くないがどれも養命酒や諏訪地域に根差した材料を使っている。

「十四豚のグリル」を選んだ。
これはなんと読む?名前の由来は?

低音でローストして「ジューシー」(笑)
養命酒に配合されている十四の生薬のカスをエサに与えている。
※養命酒の十四の生薬 →HPにリンクします
十四種のトップにあげられている「烏樟[ウショウ]」はクスノキ科のクロモジ(黒文字)の皮。
クスノキ科で良い香りがすると聞いて、つい先月訪れた屋久島の樟脳(しょうのう)工房を思い出した。
※7月の下見ブログにリンク 後半に出てきます
虫よけにつかわれてきたように抗菌作用がある。

それでこのスプレーもよく売れるようになった。
樟脳工場で売っていたスプレーと同じ香り(^^)
さらに、レストランのテーブルに置かれていた楊枝もクロモジ製で、


折って鼻にちかづけると、あ!同じ香りだ
※クロモジという名前は木肌にある黒い模様が文字を書いたようにみえることからつけられた

↑売店で売られているジンもクロモジを香りづけにつかっている
※ジンについて「たのしいお酒」の解説HP内にリンクします


ランチにはすべて野菜ビュッフェがついている。
そこで他にはみかけないドレッシングがあった↓

↑テレビの旅番組で「高遠蕎麦は辛味大根の汁で味噌を溶いたのをつけて食べる」というのを思い出した
※製粉会社の解説ページにリンクします

↑辛味大根ドレッシングたいへん気に入りました

↑こちら古代の赤米をサラダにしてある。
諏訪地方は「縄文のヴィーナス」も出土した古代から栄えた場所
※「縄文のヴィーナス」を二度見たブログにリンクします
デザートは長野のリンゴをつかったタルトタタン。
ここで食事をするだけで養命酒と諏訪エリアのことを自然と知ることができる。

※養命酒のHPに1602年以来の歴史が書かれています

「くらすわ」三階のテラスから見ると、湖面が少し溶けている。

湖畔をドライブしていると氷の上に乗っているひともあるけれど…。






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ザンクト・ゴッタルト峠の「悪魔の橋」

2022-01-20 09:38:11 | スイス
2010年6月、イタリアとスイスを結ぶ難所にある「悪魔の橋」を訪れた。

●昔話
ロイス川の激流に苦労していた村人。
ある日悪魔がやってきて「橋をかけてやってもいいが、代わりに最初に渡る者の命をくれ」と言った。
承諾した村人だったが、完成すると最初にヤギを渡らせた。
「約束が違う!」と怒った悪魔(冒頭写真の絵)
恐ろしさに震えたおばあさんが悪魔にむかって十字をきるとへなへなと力を失い、持ち上げていた大石を取り落して消えてしまった。

その大石は道路工事のために下流へ移動させられて現存するが、移動の祟りで事故が多かったと伝わる。

↑現存する橋は悪魔がかけたのではなく、1830年に馬車も通れる広さでかけかえられたもの(手前)
※うしろに見えるのは鉄道用↑

ネットでみつけた↑1587年ごろにかけられた現存しない石の橋(手前)↑こちらも悪魔がかけた?(笑)わけはないが、1799年にロシア軍とナポレオン時代のフランス軍の激闘があった場所。

↑1803年にターナーが画いた「悪魔の橋」は、現実離れしている↑

↑現地にあるロシア人のレストランにあった絵が、戦いの様子を感じさせてくれる↑

↑戦闘二百年記念碑が1999年9月25日に序幕された↑
スイスを訪れるロシア人団体の多くが、この「生涯負けなし」のスヴォーロフ将軍の戦跡を訪れる↑
ロシア人には超有名な歴史上の人物らしい。
**
この日、アンデルマットからの峠道はクラシックカーがいっぱいだった。

ヨーロッパの車道楽がスイスの山々を背景にドライブを楽しんでいた。

↑冒頭の絵の描かれた、新しい「悪魔の橋」たもとにある駐車場にバスを停めて歩くことにする。

↑1830年にかけられた橋は最新の橋の斜め下に位置している↑
道はぐるりとまわり最新の橋の下をくぐる。

ちょっとわかりにくい構造。

地元の?学習グループが座りこんで話をきいている↑

お昼をずいぶんまわったので軽く食べたいけれど↓さっきバスを降りたところでみかけたこの看板の一軒だけしかない↓

レストラン「悪魔の橋」↑朝八時からあけてます
「アルプスチーズ、ヤギチーズ、売ってます↑」
ルツェルンのビール会社のロゴが入っている。

幸い席が空いていた。

壁には↑メヴェージェフ(当時のロシア大統領)の写真↑とサーベル

↑先込式のマスケット銃

↑スヴォーロフ将軍の肖像と

↑ワインも「キュヴェ・スヴォーロフ」

↑お店の方もロシア人だった

メニューはいたってシンプル(^^)

しかし、この石づくりのがんじょうそうな一軒家↓いったいいつごろからのモノだろう。

外壁にうっすらフレスコ画の跡

古い写真を調べていくと1934年に撮られた航空写真に↑
↑左下でヘヤピン形に折れ曲がった道のところに写っている↑
いつごろロシア人御用達の店になったのかはわからないが、
この峠の古戦場を訪れるロシア人たちを迎えるロシア人のお店があるのは良いことだ。
同じロシア語でいろんな話をしてくれているのだろう。

↑近くにはまだまだ多くのロシア語の記念碑がある。
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