旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

神戸市立海外移住と文化の交流センター

2021-06-28 17:37:05 | 国内
「このパネルを見つめてずっと動かない人も多いです。その気持ちに寄り添ってあげなくてはと、いつも思います。」
案内してくださった方自身も彼らの気持ちがよくわかる立場なのだろう。

ブラジルやらやってきた日系人たちは、かつてここからブラジルへ移民していった父祖をみつけようとする。
昭和三年(1928)に「国立移民収容所」という名前で開所し、1971年に閉鎖されるまでに、およそ二十五万人を送り出したとされる。

日本全国から集まった(主にブラジルへ)移民する家族たちが十日から二週間をすごし、開拓生活に必要な事々やポルトガル語を学び、生活用品を手に入いれていた。

明治維新に三千万人ほどだった日本の人口は昭和に入るころには倍の六千万人にまでふくれあがり、農地も食料も足りなくなる状況。
国策として外国への移民が推奨されていたのである。1923年の関東大震災でその数はさらに増え、船賃も入植初期費用もすべて公費で移民してもらう制度もはじまっていた。

上の地図は移民を多く輩出した県ほど色が濃くなっている↑
明治新政府の政治家たちが地盤とした西日本の各県、戊辰戦争に負けた福島宮城、移住が多かった北海道からの再移住、関東大震災の東京、こういった事情が読みとれる。

ブラジルへの移民船は神戸からしか出ていなかったから、ここにはブラジルへの移民データがきちんと保管されている。

寄贈された白黒の写真の横にはメリケン波止場に置かれた移民する親子の像の複製があった。
↑なんだか日本人離れしているのは、ブラジルのサントス港にある日系移民家族の像をモデルにしたからだそうな。

ブラジルまでの海路は西回りが主。赤道周辺など五十日ほどかかっていた。

昭和三十一年までは船に冷房はなく、日中は暑すぎて船倉にはいられなかった。


出航前、神戸の「移民収容所」にいる十日間ほどのあいだ↓下のような日程で過ごした

↑三食きっちり食べられ、珍しい「シチュー」なども出され、移民準備の生活は希望にあふれていたのかもしれない。

↑洋風生活になれるためにベッド。

移民家族が必ず神戸で買っていったモノ↑風呂にも水を溜めるのにも使ったドラム缶は必需品

「もう一つの必需品がアイロンでした」と言われて不思議な気がしたが、それは服のシワをのばすためにつかうのではなかった。
服の目地に入り込んむ虫を殺すために必要だったのだ。

ジャングルを開拓するのはどれだけの重労働だったのか↑

移民たちは自分たちのルーツを忘れないよう↑子供達にはいっしょうけんめい日本語を教えた。
「いつか故郷に錦を飾る」誰もがいずれ日本に帰ることが出来ると思っていたから。
**

しかし、1942年1月

ブラジルは日本と国交を断絶することになり↑日本大使館は閉鎖↑
移民たちは「捨てられた」と感じた。
ブラジルで生きていくことを強いられた。

1945年8月、日本の敗戦を開拓民たちの多くは信じなかった。
「日本は必ず勝って我々を迎える船をおくってくれる。」
そのことに望みを託していた人は信じたくなかった。
日本の戦勝を信じた「勝ち組」と呼ばれた人々は「負け組」を襲撃し、何年も日本人同士が対立した。

1954年のサンパウロ市の記念パレードでようやく日系人社会はまとまりをとりもどした↑

日系人は農業工業商業すべての分野でブラジルに貢献してきた。

展示の最後に、日系移民が最初に渡航するきっかけとなったコーヒーの木があった。
気候があわない日本ではほとんど実をつけない↑もうしわけ程度に一つだけ実っていた。

1980年代、1990年代、ブラジルの日系人は逆に日本へ「デカセギ」に行くようになる。
「DEKASSEGUI]はブラジルでもう一般名詞になっているのだそうだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神戸ジューコムと諸宗教施設

2021-06-27 14:39:51 | 国内

NPO法人JAFS(ジャフス)アジア協会アジア友の会主催の「神戸歴史ウォーク」に参加

1939年、杉原千畝が発給した「命のヴィザ」を持ったユダヤ人たちは1940年から41年にかけて神戸に身を寄せていた。当時日本ではユダヤ教徒のコミュニティとシナゴーグ(ユダヤ教徒の礼拝所)は神戸にしかなかったから。その数約四千五百人。近在の日本人はユダヤ人たちを宿泊させた。

↑この石垣はユダヤ人コミュニティがあった当時のまま↑むこう側の建物は電子専門学校が建っている。
↓下の地図はこの日ガイドしてくださった巽正憲さんによる↓

※リトアニアのカウナスを訪れた時のブログはこちらから
リトアニアのカウナスで得たヴィザは長い旅のはじまり↑シベリア鉄道が満州国の国境を通過できたのは
樋口季一郎(陸軍)の尽力。 ナホトカでは根井(ねい)三郎(日本領事代理)が許可しなければ日本行きの船には乗船できなかっただろう。 ※根井三郎についての西日本新聞の記事にリンクします 杉原千畝だけではない、多くの日本人の個々の善意によって神戸までたどり着いていたのか。

↑ユダヤ人避難民にリンゴを配る神戸のキリスト教関係者たち
宗教の分け隔てなく神戸の人々は彼らを助けた。

↑それを記憶する説明版が2020年にやっと設置された↑
神戸には明治以来多様な外国人を受け入れてきた土壌がある。
★バプティスト派(英国国教会から分かれたプロテスタントの一派)
"★ロシア正教会>
↑現在の★ユダヤ教のシナゴーグ(礼拝所)1971年からこちらに移ったのだそうだ。

↑こちらはインドセンター 1912年から続く同国人会。キッチンやバーも備えていて水曜日だけ本格インドカレーをだしているのだそうな。

★ジャイナ教寺院 1985年完成

ブッダと同じ紀元前六世紀ごろにインドではじまった。
殺生を絶対的に嫌うので農業さえもできず、主に商業で生計をたてている人が多い。
神戸では特に真珠をあつかうジャイナ教徒が多いのだそうだ。

見事な孔雀模様の装飾扉。日曜日の午後にだけ開く。

最後に訪れた立派な★イスラム教モスク

なんと昭和十年1935年に建設された当時のままなのだそうだ。

濃い黄色のでこぼこした厚い窓ガラス↑戦争にも阪神淡路大震災にも割れなかったとは。
※神戸大空襲の焼け跡にのこされたこのモスクの写真を神戸新聞のページからごらんいただけます
明治の開港以来、神戸は多様な国の多様な宗教の人々を受け入れて発展してきた。
多様な人々の多様な宗教が、神戸の人々の寛容さを育てたのだろう。
それにしても、
爆弾はなぜこの目立つ建物に当たらなかったのかしらん?
目立つから、当たらなかったのかしらん?


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

亀岡祭への旅のための下見

2021-06-26 09:55:07 | 国内

10月、過ごしやすい季節に行われる丹波亀岡の祇園祭。
祭りを楽しむためには、ど真ん中の宿にとまるのがよい。
亀岡祭をぞんぶんに楽しむには「ここしかない」と思った古民家再生の宿を下見に訪れた。

外観ではここが宿泊施設だとはわからない。

三棟の古民家が元の雰囲気を残しながら快適に改築されている

飾られている書や絵画はアレックス・カー氏の作品や持ち物だそうだ。
※五島列島の小値賀島を訪れた時「藤松」というお店がアレックス・カーさんの監修で改築されていた
⇒こちらからその時のブログをご覧いただけます


三つの棟それぞれから坪庭を楽しめる

↑これは閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)の書だった。

町家らしい急な階段↑この棟は二階にもうひとつ寝室があった↑
敷地は結構広い。元は京都の老舗香木店の持っていた場所だったそうで立派な蔵がある。

ここなら出て十メートルほどに「亀岡祭」の十一の山鉾のひとつが立つ。
きっと楽しんでいただける筈(^^)

お昼は料理教室もしている方のところで、京野菜をたっぷりつかったメニューを用意していただいた。

※こちらに詳しく載せ
「十月は鯖寿司がおいしいんよ」と言われる。
でわでは、きっと出番をおねがいいたします(^^)
**
亀岡町家カフェ↓この欄間は亀山城が取り壊されるときにここに移築されたとつたわっている↓

ガイドの会の会長・副会長とお会いする
昨年11月にはここで心づくしお昼ご飯もだしていただきました(^^)
※こちらからその時のブログをご覧いただけます。紅葉黄葉がとてもきれいでした
***
昨年の亀岡訪問時、目に留まって突然訪問した「柿渋染」の工房を再訪

あの時購入した鳥獣戯画をデザインした柿渋染抗菌マスクを使っているうちにたいっへん気に入って

どうしても手に入れたかったのです↑(^^)
柿渋は抗菌効果があると証明されて小物の売り上げもあがっているのだそうだ。

もうひとつ、気になっていたのはストール↑
ごわっとした生地だがそれ故ボリューム感がある。一時間半ほどでこれを染める体験もできる。10月の旅で組み込んでみるのもおもしろいかも(^^)

この「紙」の籠も他にはない↑「紙」というのは「こより」のようなもの↓

これを染めて丁寧に編んでいるのだ↑ちょっとナンタケットバスケット
アメリカ東部ナンタケット島のバスケットを思い出した※こちらのページでちょこっと載せました
安くはないけれど、価値ある品ではないかしらん。

半日、四か所で人にお会いした亀岡下見、十月の旅はきっと楽しいものにいたします(^^)

↑この中に山鉾のセットが収められているのです。
組み上げがはじまる10月23日から見学できればおもしろいかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バイロイト~祝祭劇場内部見学、ヴァーンフリート荘

2021-06-25 09:25:32 | ドイツ
2003年12月ドイツの旅より
バイロイト音楽祭は1876年に完成した当時の外観を見せる「祝祭劇場」で行われている。

ニュルンベルクに連泊した中日、一度内部を見学してみたいと思って内部見学ツアーの時間に合わせてオプションを組んだ。

10:45からと14:15から、一日二回の内部見学ツアー※2021年6月現在やっておりません

ワーグナーは生きているうちに自分の作品だけを上演する劇場を実現できた幸運な人。
バイエルン王ルードヴィヒ二世が彼の大ファンだったから可能になったことではあるけれど。

猛暑の七月から八月かけて行われる「バイロイト音楽祭」。冷房のない客席ではなく屋外の方が快適。
上の写真のバルコニーからファンファーレが鳴って入場するまで、観客は外ですごす。

↑ごく狭いホイヤーからこの扉をおして入ると、

簡素な客席がひろがっている。

十九世紀当時とほとんど同じ↑
ギリシャの劇場をイメージしている↓特にデルフィをモデルにしたと言われると、納得。

席数は二千に満たない。日比谷野音よりも小さいということ。
ここはワーグナー自身の意図により、楽曲に集中させる空間ための簡素に徹したつくりになっている。

特にこの座席の、簡素…というか粗末というか…

大柄なドイツ人は我々以上にキツイはず。
ガイドをしてくれた劇場の方が「このシートは改善予定です」と言っていただけれど、どうなったのかしらん?


ステージ側に入ると、印象はだいぶん変わる。
客席が十九世紀のままみたいなのに比べると、最新の舞台装置がちゃんとスペースをとって用意されていた。

↑この舞台装置は十九世紀のものではない。

現代の透視図をみると↑ちゃんと現代の舞台が実現できるように改築されていた。
ワーグナー時代のままなのは…お客の目にふれる部分と、

「奈落」とよばれるオーケストラブース

ここにワーグナーの楽劇に必要なオーケストラを詰め込むなんて!

指揮者はも汗だくでリハーサルの時の写真をみるとほんとに軽装でした(笑)↑こんな感じで指揮しているのでしょ(^^)

客席からオーケストラはまったく見えなくなるように↓ご丁寧なカバーまでとりつけられている。

舞台上から客席をみると↑こんな感じ↑指揮者の上に観客席が見える↑
指揮者からは客席はまったくみえませぬ。

そでに↑こんな「楽器」があったので訊ねてみると

「パルシファル」のなかで四音だけつかう特別な音のためにつくられたモノでした(^^)さすが
**

ワーグナーが六十三歳から住んだ「ヴァーンフリート荘」も訪れた。


↑バイエルン王ルードヴィヒ二世の胸像↑この人がパトロンになってくれたのでこんな屋敷に住むことが可能になった。
二十四才離れたフランツ・リストの娘コジマと。

↑息子のジークフリートと。


七十才で旅先のヴェネチアで没するまで。

遺体は馬車でこの屋敷まで移送され↑埋葬された↑

(ヒトラーと同じで)大の愛犬家だったワーグナーは買っていたルスの墓をすぐちかくに置いた。




バイロイトの街もクリスマス




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エアハルト父子の木彫

2021-06-23 17:08:36 | ドイツ
2014年3月のフランス、ルーブル美術館で出会っていた「マグダラのマリア」

※その日のルーブル見学記ブログはこちらからごらんいただけます

※ルーブル美術館の公式サイトからこの作品の公式写真がたくさん見られます
等身大より大きなこの木彫の作者
★グレゴール・エアハルトGregor Erhart (1470ごろウルム生まれ~1540アウグスブルグで死去)
彼が、2018年1月にウィーン美術史美術館で出会った下の木彫作品をつくった人の息子だったことを知った。

「美のうつろい」をテーマに、若年・中年・老年の姿を一本の木から丸彫りしてある
※ウィーン美術史美術館の公式サイトの写真をご覧いただけます
★ミカエル・エアハルトMichel Erhart (1440から1445頃ウルム生まれ ~1522以降にウルムで死去)

父と息子の作品。
そう思ってみるからだろうか、「なるほど血はあらそえない」とおもわされる。

父のミカエルは二十代の初頭にヨーロッパ遍歴修行に出てウルムに戻りJörg Syrlin the Elderの元で本格的に仕事をはじめた。
そのころ結婚し、長男グレゴールが生まれた。ほどなく独立した工房をかまえ、息子たちはそこで木彫の基礎をまなぶ。
息子グレゴールの細かい経歴は不明だが、1496年にアウグスブルグで独立工房をかまえるマイスターになっている。

同時代に同じバイエルン地方で活躍ていた同世代の彫刻家にティルマン・リーメンシュナイダーがいる。
父ミカエル・エアハルトより二十歳ほど年下。息子グレゴール・エアハルトより十歳ほどわかい。
お互いに名前は知っていただろう。作品も見て敬意をもっていただろう。
直接に会う機会は、あったのかしらん。

こういう市井の職人たちの記録というのは、なかなかないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする