案内してくださった方自身も彼らの気持ちがよくわかる立場なのだろう。
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ブラジルやらやってきた日系人たちは、かつてここからブラジルへ移民していった父祖をみつけようとする。
昭和三年(1928)に「国立移民収容所」という名前で開所し、1971年に閉鎖されるまでに、およそ二十五万人を送り出したとされる。
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日本全国から集まった(主にブラジルへ)移民する家族たちが十日から二週間をすごし、開拓生活に必要な事々やポルトガル語を学び、生活用品を手に入いれていた。
明治維新に三千万人ほどだった日本の人口は昭和に入るころには倍の六千万人にまでふくれあがり、農地も食料も足りなくなる状況。
国策として外国への移民が推奨されていたのである。1923年の関東大震災でその数はさらに増え、船賃も入植初期費用もすべて公費で移民してもらう制度もはじまっていた。
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上の地図は移民を多く輩出した県ほど色が濃くなっている↑
明治新政府の政治家たちが地盤とした西日本の各県、戊辰戦争に負けた福島宮城、移住が多かった北海道からの再移住、関東大震災の東京、こういった事情が読みとれる。
ブラジルへの移民船は神戸からしか出ていなかったから、ここにはブラジルへの移民データがきちんと保管されている。
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寄贈された白黒の写真の横にはメリケン波止場に置かれた移民する親子の像の複製があった。
↑なんだか日本人離れしているのは、ブラジルのサントス港にある日系移民家族の像をモデルにしたからだそうな。
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ブラジルまでの海路は西回りが主。赤道周辺など五十日ほどかかっていた。
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昭和三十一年までは船に冷房はなく、日中は暑すぎて船倉にはいられなかった。
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出航前、神戸の「移民収容所」にいる十日間ほどのあいだ↓下のような日程で過ごした
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↑三食きっちり食べられ、珍しい「シチュー」なども出され、移民準備の生活は希望にあふれていたのかもしれない。
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↑洋風生活になれるためにベッド。
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移民家族が必ず神戸で買っていったモノ↑風呂にも水を溜めるのにも使ったドラム缶は必需品
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「もう一つの必需品がアイロンでした」と言われて不思議な気がしたが、それは服のシワをのばすためにつかうのではなかった。
服の目地に入り込んむ虫を殺すために必要だったのだ。
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ジャングルを開拓するのはどれだけの重労働だったのか↑
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移民たちは自分たちのルーツを忘れないよう↑子供達にはいっしょうけんめい日本語を教えた。
「いつか故郷に錦を飾る」誰もがいずれ日本に帰ることが出来ると思っていたから。
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しかし、1942年1月
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ブラジルは日本と国交を断絶することになり↑日本大使館は閉鎖↑
移民たちは「捨てられた」と感じた。
ブラジルで生きていくことを強いられた。
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1945年8月、日本の敗戦を開拓民たちの多くは信じなかった。
「日本は必ず勝って我々を迎える船をおくってくれる。」
そのことに望みを託していた人は信じたくなかった。
日本の戦勝を信じた「勝ち組」と呼ばれた人々は「負け組」を襲撃し、何年も日本人同士が対立した。
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1954年のサンパウロ市の記念パレードでようやく日系人社会はまとまりをとりもどした↑
日系人は農業工業商業すべての分野でブラジルに貢献してきた。
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展示の最後に、日系移民が最初に渡航するきっかけとなったコーヒーの木があった。
気候があわない日本ではほとんど実をつけない↑もうしわけ程度に一つだけ実っていた。
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1980年代、1990年代、ブラジルの日系人は逆に日本へ「デカセギ」に行くようになる。
「DEKASSEGUI]はブラジルでもう一般名詞になっているのだそうだ。