旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

阿武山地震観測所見学

2021-07-27 10:03:44 | 国内

アールデコ調の塔への階段を上から下へパノラマ撮影してみた↓

阿武山地震観測所は1933年(昭和八年)に完成した当時とほとんど変わっていない。ニューヨークでは摩天楼が建設されていた時期。エンパイアステートビル完成の三年後↓

たどりついた屋上からの眺め。
阿武山の頂上から少し下がった標高218mの地点は平野をかこむ山々をぐるりと見渡せる。

アベノハルカスや奈良の山々まで。

天気の良い日は淡路島や関空まで見えるのだそうだ。
※阿武山観測所ができた当時の写真がそのホームページに掲載されています
遠くから雨がやってくるのがはっきり見えた↓

↓「太陽の塔」の背中が小さく見える

観覧車はそろそろ雨の中だろう↑
これは煙突だった

JAFS(アジア協会アジア友の会)主催の阿武山観測所見学に参加した
※JAFSについて、こちらのHPからごらんください


「阿武山観測所は、昭和2年(1927)3月7日発生『北丹後地震』(マグニチュード7.3、犠牲者約3,000人)の後、地震研究を進めるため、昭和5年(1930)、『阿武山地震観測所』として創設」ホームページより。
日本は地震研究を切実に必要としていた国なのだ。ここでは現代にいたる地震計発達の歴史を実物と共に知ることができる。

↑●大森式地震計は1898(明治23年)世界ではじめて常時動いて地震を観測・記録し続ける仕組みをもっていた。それによって初期微動の縦揺れ波(P波)・横揺れ波(S波)の到達速度の違いを発見し、震源地までの距離を測定する公式がつくられた。記録率は20倍※1㎜の揺れ幅を20㎜として記録するということ)
●ウィーヘルト式地震計は1904年にドイツで開発された「精密機器として位置づけられるはじめての地震計」※現地の展示解説より

重さが二トン以上もある。

阿武山では観測所開設当初に設置され、1991年まで六十年以上も現役だった。記録率は170倍、つまり相当微弱な地震も感知できるということ。
しかし、日本では巨大な地震が発生するので精密すぎる地震計では針が振りきれてしまう。
そこで世界に一台しかない大地震対応の地震計が開発された↓
●佐々式地震計は記録率1倍。揺れの大きさそのままが記録紙に描かれる大地震対応の地震観測器↓

1995年1月17日の阪神淡路大震災はこの地震計でなければ全貌が記録できない機会だったはず。
その記録が↓これ

↑あれ?大きな揺れの後、線が途切れてしまってますが?
「地震直後の停電で全部記録できなかったのです」
大災害に想定外はつきものなのでしょうけれど、いかにも残念。
1997年まで現役で使われていた。

現在活躍しているのは2009年に開発された
●満点地震計

↑こんなに小さくてコストも一台七十万円ほどなのだそうだ。
これだけ小さくて安ければたくさんの場所に設置して広域を細かく調査することができる。
地震計もこの百年で飛躍的に進歩してきたのがわかった。

2009年、この辺鄙な場所(失礼)を、「サイエンス・ミュージアム」にしようという再活用計画がうごきだした。
※ツィッターのアカウントがこちらにあります
京都大学の★満点計画の一環になっている。地域と共に自然を学ぶ活動はこの場所をメンテナンスしてゆくことだし、この地に住む人々の防災意識を高めることにもつながるというのだ。なるほど。

**
館内の説明を終える頃、さっき屋上で見ていた豪雨が到達。
番外編の阿武山古墳へ行く予定だったのだけれど、ちょっと難しい状況。
代わりにスライド付きで「ここでしかきけないガイド」をしてくださった。

これ、現場へ行くよりずっと面白い。

阿武山古墳=「藤原鎌足の墓?」は裏山に地震計を設置する穴を掘っている時に偶然見つかったのである。
※こちらに高槻市のホームページがあります

戦前のことで、内務省が「不敬にあたる怖れあり」として埋め戻しを指示し、新たな白い棺をつくってそこに納めて埋めた↓その時の写真がこれ↓

埋めた後に植えられた木々が、今はだいぶん繁っているのだそうな。
もういちどちゃんと調査される機会はくるのかしらん。

高槻市には近年多くの古墳に関する博物館が建設された。
そう遠くない時期に訪れて、この阿武山古墳についてももういちど認識しなおしたいと思う。
今日は、ここまで。


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屋久島歴史民俗資料館

2021-07-16 12:29:42 | 国内
海岸に流れ着いた像は明らかに日本のモノではなかった。

こびりついていた汚れを丹念に除くと金箔された豪華な着物を着ていた。

栗生の海岸に流れ着いてここに持ち込まれ、大学の先生にみてもらったところ

台湾や中国の海岸部で信仰されている「媽祖娘娘(まそにゃんにゃん)」か?結い上げられた髪↓

持っている桃と柘榴から、同じく道教の「西王母」か?と、推察されている。

屋久島には流れ着いた由緒ありげな像を「寄神様」として祀る習慣がある。

↑この木片は館長の黒飛さん自身が見つけたもの↓
「天官賜福」↓極楽の役人?

捨てられてしまいそうな木片をしっかり見る眼力は民俗資料館に必要。

屋外にほったらかしになっているこの変顔の像↓

顔がこんな冗談みたいに復元されたのは、もともとあった仁王の顔がこそぎ落されてしまったから。
↑なるほど、ちゃんとみるとこれも廃仏毀釈で破壊された仁王像のひとつだったんだ↑
像の後ろの水槽には↓

びっくりするほど長い↑木片が水に漬けてある。水中で発見されたものなので、この方が劣化を防げる。

なんと操舵の部分!100トンクラスの輸送船のものだったと推察されている↑
**

資料館入口↑こののこぎりはレプリカだが

歯のカタチが当時先進的で、木屑を凹んだところに逃がすので休まずに伐採できたのだそうだ。

↑館内の実物↑

木を伐採する作業員が住んだのが「網代小屋」

竹を細く割ったものを組み合わせて壁にすると涼しく過ごせた。
↑この復元小屋は大正末期から昭和にかけてのものだが、江戸時代には伐採した巨木をそのままふもとにおろすことは労力がかかりすぎた。「平木」に加工して背負って降りた↓こんなふうに

米の代わりに木材を年貢に納めていたから、「平木」はサイズが決められていた↓

「平木」は主に屋根に使われた。瓦屋根なんて贅沢だったのです。
***

↑これは平木ではなく、伊能忠敬の御用測量隊がやってきた時に宿泊してもらう場所を示した札↑
伊能忠敬が南の島を回るころには幕府からの重大なお役目と伝わっていたので現地はできる限りの用意をしていたのがわかる。
****

屋久島には縄文遺跡もある。
一湊で先にみつかっていたが、1971年に春牧の横川遺跡では126基もの住居跡が発見された。
2014年に地元の有志が復元をはじめてた。

地方の、地元に密着した民俗資料館をしっかり解説していただきながら見学すると、土地土地の姿がうかびあがってくるのだ。

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宮之浦再訪~屋久島新町役場、宮之浦の「牛床詣所」

2021-07-16 10:57:53 | 国内
「新庁舎は屋久島の森林資源の展示場である」屋久島町新役場の建築コンセプトより


「人工林の地杉だけでなく、天然杉や広葉樹(クス、タブ、センȀン等)、屋久杉などをやくしまフォーラムの柱、展示家具、ベンȁ、受付窓口のカウンǿー等に特徴的に用いることを検討する。」同じく建築コンセプトより
↑上の印象的な部屋は議場になる場所↑議員数十六なら固定の椅子などなくてもじゅうぶん(^^)

職員の労働空間も開放的↑誰でも自由に入ってよい

前回2017年にはまだ存在していなかった屋久島町新役場今年十二月の旅にご参加の前回2017年には完成していなかた。今年順次月には行程にいれよう(^^)


宮之浦から少しあがった林の中に

牛床詣所(うしどこもいしょ)がある。

ご神体である山そのものに入ることが許されなかった女性たちは、ここで男たちを見送り、祈った。
かつては各集落にこういった場所があり、宮之浦なら宮之浦岳へ、春牧集落なら前岳へ、山詣りをした。

ここは神社か寺か?鳥居の向こうに仁王様がある。

江戸時代には厳密に分ける必要もなかったのに、明治の廃仏毀釈で仏教的なものはほとんど破壊されてしまった。
宮之浦の益救神社(やくじんじゃ)には破壊され埋められていた仁王像が復元してある。
※2016年12月はじめての下見の時のブログをごらんください

平成になってから復元された碑文↑「法寿」になっているが、破壊される前は「宝珠」という神道の言葉だったそうだ。
寺が復元の監修をしたのでわざとこういう間違いをしているのだとか。
ううむ…
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屋久島下見旅余白

2021-07-15 11:08:30 | 国内
鹿児島空港を飛び立つと霧島湾にこんな島が見えてきた↓

機内誌の地図と窓から見える海岸線を比較して見つけるのを楽しみにしているが、その時は何という島かわからなかった。

後日、グーグルマップを拡大していくと、三つの島からなる「神造島」だとわかった。
桜島が近いこのあたりは火山活動で出来た島がぽつぽつ存在し、これもそのひとつらしい。
※地域の会社がこんなページを書いておられます
今は無人島だが江戸時代には漁師も住んでいたそうな。↑養殖をしている丸いいけすがみえる↑ブリかな?

そうこうしているうちに雄大な桜島↑

今日は噴煙は少ない。今、ドカーンと噴火したらすごい光景がみられるだろう…いやいやそのあと生きて地上にもどれないか(笑)

しばらく南下すると薩摩富士=開聞岳と池田湖↑
※2017年四月の《手造の旅》で訪れた時のブログをこちらからご覧ください

ほどなく屋久島が見えてくる。

となりの平たい種子島と比べて、対照的な山の島。

空港へ降りる直前に見えたこの丸いのは?↑
迎えてくださった里めぐり委員会の方に海老の養殖だとおしえていただいた。

雨の島・屋久島の山には雲がかかっているけれど

今日は、そのほかの空はすばらしい青さ(^^)
空港は大型バスも止まっていて観光需要がもどってきているのを感じた。

屋久島の海岸線には二十四の集落があり、そのなかの有志がそれぞれの集落の魅力を伝える「里めぐり」プランを用意してくれている。
里めぐり★一湊はこちらに書きました
里めぐり★春牧はこちらに書きました
二つの集落をめぐったのち、十二月の旅で連泊するサンカラホテルへご挨拶。

ここがとれなければ十二月の旅は催行しないと決めていた。

まるでバリ島のリゾートにいるかのよう。

本館テラスから見える広い敷地にコテージスタイルの部屋が点在している。本館まではゴルフカートですぐに送迎してくれる。
ここには二つのダイニングがあってそれぞれ地域の食材を生かした魅力的な料理を出してくださる。
※2017年に滞在した時の様子をこちらのブログでごらんください。後半最後の方から夕食料理へのリンクもあります
**
江戸時代半ば、屋久島に密入国したイタリア人宣教師シドッティ。

四年前、屋久島の《手造の旅》のために読んだ本の中で印象に残った一冊。
この本を書かれた古居さんにお会いして、屋久島への新たな視点を得られた気がした。
「ウィルソン杉」の名前の元になったウィルソンが戦前の日本を旅した時の写真をハーバード大学から発掘し、日本で巡回展をしたお話は特に興味深い。※こちら「やくしまじかん」のホームページにて古居さんとウィルソン、また園原咲也について書こうとしておられる話が載っています

十二月の旅でお話を聴かせていただけるように、お願いしてきました(^^)
***

屋久島で一泊するJR屋久島ホテルをちらっと見て

今日泊まるのは宮之浦の「晴耕雨読」。

ここのオーナー長井三郎さんのエッセイ「晴耕雨読」も、小松の屋久島感をつくった一冊。

入口を入ると長井さんの人生の縮図のような書架が迎えてくれる(^^)
今回もお話していただけるのを楽しみにしています。

夕飯はオススメいただいた近所の居酒屋へ↑
※ここではじめて「亀の手」なるものを食べた※写真をこちらに載せました
〆の回線茶漬け→

真っ暗な道を「晴耕雨読」に戻る

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屋久島下見~春牧

2021-07-15 10:12:09 | 国内
一歩入ると空気が変わった。

太古の昔、海底に堆積していた泥がこんな一枚岩になっている。花崗岩の山が多い屋久島では珍しい。
この上流には川の名前の由来となった高さ三十メートルの大滝があるのだそうだ。

「滝の川の一枚岩」は山奥の秘境のように見えるが、車を降りて一分で行けてしまう場所。

神秘的な雰囲気なのでここで瞑想するグループもやってくるとか。

村の中心は平家の落人:盛久を祀った神社

★伝説
平盛久は壇ノ浦合戦で敗れたのち京都に潜伏していたが捕らえられ鎌倉の由比ガ浜で処刑されることになった。今しも断頭の刀が振り下ろされようとした時、盛久の経文から光が発して処刑人の目をくらませ、太刀は三つに折れた。
別の刀を振るおうとしたところそれも壊れた。
変事の報告をきいた源頼朝は「自分も同じ夢を見た」と言い、盛久を特赦した。舞上手の盛久は頼朝の前でひと差し舞う。
※能楽「盛久」の話がこちら
京都に戻った盛久は、壇ノ浦で入水した幼い安徳天皇が実は生きて南の島に逃れたという風説をききつけ、鹿児島の硫黄島に渡る。
※硫黄島には今も安徳天皇の墓があり、末裔を称する一族もある
晩年、病にかかった盛久は薬の島=屋久島を目指して船出するが途中で亡くなり川口に漂着する。
島人は海岸近くに葬ったが変事が続くので神として改葬したのがこの神社。
春牧さとめぐりの会編「春牧里めぐり里語り読本」より要約

社殿の裏側に古い墓石がかたまっている

代々守ってきた宮司のものではないかと説明された。
昭和二十四年に安房村から分離した「春田」と「牧野」の農事組合が「春牧」集落となった。
それ以前から秋分の日に前岳の祠に参る登山は、盛久神社への祈りからはじまる。

↑境内に南国らしいアコウの木が長い根をたらしていた↑
**
春牧集落は屋久島の南東海岸に位置している。安房川が流れ込む南側の集落。

この川は昔から屋久島の奥に分け入るためのルートになっていた。
↑上の写真は水面から七十メートルに位置する松峰大橋から↑「ウラジロ」=シダの葉を飛ばそうとしております(^^)

これ、実際にやってみると紙飛行機のように川面に並行して滑空してゆく

***
屋久島の奥で切った木を海岸まで運ぶのに便利なルートは川。

川に沿って材木を輸送するトロッコ列車が建設され↓こんなふうに材木が運ばれていた

1922(大正十二年)に森林伐採のためにつくられた小杉谷集落までの十六キロが開通。
最盛期は二十六キロまで延長され、伐採が停止される1969(昭和四十四年)まで活発に利用されていた。

すぐ近くの自然公園は、実は杉の苗を育てていた。
伐採した後には、次の世代のために苗を植えることになっていたから。

今は各種めずらしい五葉松など↓


トロッコは実は現在もヤクデン(屋久島電工)が工事用に動かしている。
春牧のガイドさんは「とても眺めがよいから観光路線になるといいのに」と申されました。

****
1971(昭和四十六年)、安房中学の学生が土器がたくさん落ちているのを見つけたことから、大規模な縄文時代の住居跡が発見された。その数最大二百六十基におよぶと推察され、横峯縄文遺跡と名付けられた。

大規模な発掘が行われたがその跡地はほったらかしになり、地元の有志が縄文人の住居をコツコツ復元している。
発掘物は大学に持っていかれそうになったものをなんとか取り戻したが、展示公開への道は遠いようだ。
*****
最後に、ガイドさんが自分の畑につれていってくださった。

↑サルや鹿が入らないようにしっかり防護柵↑

中で見せてくださったこれは…

おお、さっき食べたパッションフルーツ!

こんなふうにできていたのか~。



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