旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ズンデルト~ゴッホの生まれた街

2019-11-07 15:53:14 | オランダ
ゴッホが1853年3月30日に生まれた家は1903年に建替えられたが、そこが記念博物館になっている↓

↓もとの建物の白黒写真↓


すぐ前は市庁舎↓

こちらは1830年に建てられているので、ゴッホもこれを見ていただろう。
※1965年に一部改修されている
**
オランダの中のベルギー領バールレ・ヘルトフを出て三十分もせずにズンデルト。
遠くから教会が見えた時、「あれがゴッホの父(牧師だった)がいた教会か」と思ったが、実は違うカトリック教会だった↓

かなり立派で、ズンデルトがカトリック優勢のまちだとすぐにわかる。


ゴッホの父が牧師をしていたプロテスタントの教会はずっと小さい↓

そうか、ゴッホ一家はカトリックの街の少数派プロテスタント牧師の家族だったのである。
↓ちょうど葬儀が終わったところ。内部に入ることができた↓

五十人も入れるかどうかという大きさ。
ゴッホが洗礼をうけた洗礼盤↓

建てられた年号1805年とデザインされている天蓋↓

昔の様子がわかる養蜂器具がちかくに展示?されている

***
となりには若い芸術家のためのアトリエがあって、ズンデルト市が彼らを援助している↓
↓観光客を快く迎えてくれた

****
教会建物のすぐ横に19世紀の墓石がたくさんあるのだが、そのうちのひとつにヴィンセント・ヴァン・ゴッホの名前がある↓

これは有名なゴッホの一年前に死産だった同名の兄のもの。
両親は、一年後のまったく同じ日に生まれた次男に死産だった長男と同じ名前をつけていたのだ。
次男ヴィンセントは自分の名前の書かれた墓石を日々見ながら育ったということになる。

ゴッホは死産だった兄も入れると七人兄弟だった。
「孤独な」というイメージのあるヴァン・ゴッホだが、実際には大家族のなかで育っていたのだ。
まぁ、それもたいへんだったのだろうと想像できるけれど。
↓記念館の展示に系図があった↓

日本語のイヤフォンもある↓

分かりやすく、深く解説してくれる。
画商の叔父の紹介でハーグで働きだしたのに長続きせず、三十歳になってもまともな職につかず売れない絵を描く甥ヴィンセント。
経済的に成功した叔父の悩みの種になっていたのかもしれない。
兄弟の中で、すぐ下の妹だけが裕福で安定した結婚をした。
彼女はプライドの高い兄の事をわかっていたのだろう、テオを通じてわからないように経済的な支援をしていた。

↓広くはないが多様なコーナーと解説があり、ぜんぶ聴いていると一時間ぐらいはすぐに経ってしまう↓

ゴッホが本格的に画家を志したのはズンデルトを出てからなので、一般的なツアーでここを訪れることは希だが、この町を歩くとここがゴッホ絵画の原点になっていることが染み込むように理解できてくる。

教会の前にザッキンが製作したヴィンセントと彼を献身的に支えたすぐ下の弟テオが融合したような彫刻がある↓

ザッキンはゴッホが生涯を閉じたオーヴェールにもゴッホ像を設置している。
帝政ロシア時代からソビエトへの激動の時代に、ベラルーシからロンドンとフランスへ渡ったユダヤ系のコスモポリタン。
ゴッホがいつも抱えていた郷愁へのシンパシーがあったのだろう。

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アムステルダム~国立美術館、ジン博物館

2017-10-15 10:47:54 | オランダ

アムステルダム公共交通機関24時間券↓

アムラスホテルを出て駅前からトラムに乗った。明るく快適な車内↓

十五分ほど乗ってミュージアム広場で降りる

広場にある巨大なこういうオブジェ、写真映えするのでみんな上っている。落ちてけがする人もいるだろうけれど、そのあたりを一律に「禁止」にしない。自分で判断するのが基本だという考え方なのです。万一ケガをしても、このぐらいなら「行政の管理責任」などとは言われない。


振り返ると国立博物館。改修をするときに真下を貫通する自転車道路をなくしてしまおうという案だったのだが、市民の反対でこんなかたちに残された↓


この騒動で二本映画が製作されてもとを取ったと噂されます(笑)→こちらの映画
設計が変更されて、結果、博物館の入り口は地下になった↓ひろびろとしたスペースに見えるこの季節だが、四月五月にはグループがぎっしり入場待ちをする場所↓

フェルメールやレンブラントについては訪れる誰もが見に行くし言及するので、ここではあまり紹介されない★図書室をご紹介↓

改装されても古い雰囲気のまま残されている部屋が突然現れる。光がよく入る天井だ↓

美術館・博物館の主要な役割は、公開以上に貴重な品々・資料の安全な保管にある。本という人類文化の蓄積は世界中どんな国でも重要視されてきた。ここの図書館は1881年に完成。こうして一般公開している場所の他に、総延長五キロにもなる書架が地下にあるのだそうだ↓

★ドール・ハウスも意外なコレクション↓

十九世紀貴族女性の趣味として流行した。ここに収蔵されたものはその最高峰。彼女がつくったのだそうだが寛容なご主人だったのでしょうねぇ。同じ部屋に彼の肖像もありました。
★デルフト焼の変わり種をあつめた部屋も↓

★エイドリアン・コールトの静物画は個人的に大好き。→※以前、マウリッツハイスでその存在を知った

**近くのゴッホ美術館に11時の入場予約をとっておいた↓予約客用の入り口からはいったところ↓

こちらは内部写真撮影禁止。
お土産屋さんにはこんなパッケージのポトテチップスを販売↓


***
ゴッホ美術館のすぐ前に、★BOLSというジンをつくる会社の博物館があるなんて知らなかった↓

そこそこ高い入場料を払って入ると、受付で小瓶に入った赤い液体を渡される↓

入っていくと、16世紀の当主ボルス氏が迎えてくれる↓

⇒※アサヒビールのホームページにBOLSの歴史が解説されています
受付の女性が「四つの扉のところにきたら、どれでも中に入ってこの赤い液体を飲んでください」と言っていた。どうやらこれが、それらしい↓

中へ入ると音と照明がしばらく続く、飲んだ液体はそれほど強くない甘いアルコール飲料。鏡をみてどうすればいいの?
出てきてしばらくすると、近くの画面のひとつに自分のその時の顔が映し出された↓

なんだ、それならもっといろいろリアクションしておけばよかった。

ジンのいろいろなフレーバーを体験させてくれるセクション↓


最後に最上階のバーへいくと、好みのカクテルを電子レシピで注文できる↓



それを持ってカウンターへいくとバーテンダーがつくってくれる↓

アジア系の彼がシャカシャカやってくれたのですが・・・バーカウンターへ通いなれているK氏曰く「あんなに派手に音を立てるのはだめだねぇ」とのこと。 美味しい一杯のためのプロセス、ゆっくり楽しみたいですね。

お土産セクションにも売っていたが、このBOLSがKLMオランダ航空ビジネスクラス利用者へのお土産につけているのが、アムステルダムの家の形をしたジンのボトル↓

コレクションしている人も多いのだそうな。なかなか良いつくりで、あたりまえだが本物のジンが入っている。
かつてファーストクラスがあった当時には、王宮のかたちのボトルがあったのだそうだ↓これが、それですね↓

*****ちょっと花市場へ寄っていこう

ジンゲル運河のところに残された★ムント塔は、1480年当時の旧市街への入り口門のひとつに取り付けられていた守衛さんの建物だった↓今は町のど真ん中になっている↓

1618年に火災に遭い、1620年にオランダルネサンススタイルで再建。
1672年第三次英蘭戦争の際、オランダの貨幣鋳造所であったドルトレヒトとエンクホイゼンが占領され、緊急避難的にこの塔で貨幣鋳造が行われた。ムントとはコインの事。塔の名前はこの出来事によっている。

この塔があるジンゲルの花市ではこんなものも売っている↓

そう、大麻の栽培キット。ここでは合法でも、日本には持ち帰れませぬ。
******
ベギン修道会跡に寄っていく。
街中の雑踏に面しためだたないこの小さな門を入る↓



車が入ってこられないこの一角には、静寂が・・・いや、実際にはたくさんの観光客が(笑)↓

エアポケットのように残された歴史が感じられる場所↓一角にはアムステルダムでいちばん古い家(1528年?)が木製のファサードを見せている↓火事がおこるので後には木造は禁止になった


この扉を入るとアムステルダムで起きたある奇跡を記念した教会↓この話はまた別の機会にて↓


*******
路地にある「歴史博物館」の入り口↓

入場しない人にも見られる巨大な木造は何?↓

これ、かつての遊園地に設置されていた「ダビデとゴリアテ」の像なんだそうです

********
夕飯はガイドのWさんのお宅から近いお店へ↓

ここのマダムが正直な方。「TERIYAKI」と書かれていた一品を頼もうとすると、こう言った。
「日本人が食べたら『オランダ人ってこんなのをテリヤキと思っているんだね』と、きっと後からいいそうね…」↓

小松はこう答えた。
「わかりました、正直に感想お伝えしますから、お願いします」これがその、ちょっとオリエンタルな一皿↓

照り焼きとは違った味付けだったが、今晩食べた中でいちばんおいしかったかもしれません。
「きっと裏では中国人シェフが…」という話になったけれど、トイレに立った方が厨房をのぞいたところ、アジア人は居なかったそうな(^.^)
正直に我々の美味しいものを考えてくれるマダムがいるこのお店、また訪れたいです。
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アムステルダムでアムラスホテル泊、ジン酒場からシーフードの夕食

2017-10-14 20:20:02 | オランダ

ホテルの内装デザイン↓

角に突き出したホテル入口から続く階段部分で振り返ったところ↓


アマラスホテルは、周辺でちょっと目を惹く建物である↓

建てられている場所は16世紀にコルネリス・デ・ハウトマンが国家の使命をおびて出航した場所。彼は、当時ポルトガルが独占していた香辛料貿易にオランダが参入するルートを開発した人物。オランダ黄金の世紀のはじまる時代だ。

20世紀初頭にもこの場所には東西インド会社の流れを引き継ぐ商社が本拠を持ち、アムラスホテルは当初そのオフィスとして使われていた。
外観、見るからにこの時代のアルーデコ↓

同じ時期にバルセロナではガウディも活躍していた。類似性、感じます。




**
アムステルダムはおもしろい建物が多い

香港にある中華レストランそのままの船まである↓

ホテルから五百メートルには、東京駅のモデルになったと言われるアムステルダム中央駅↓

アムラスホテルにチェックインした後、街歩きにでた。

***
プロテスタントの国オランダでは巨大な教会はたいていカトリック時代のもの。今は展示場として使われている場所も多い↓

ここではガンディー、キング牧師、マンデラ氏の展覧会をやっている↓


ジンを飲ませてくれる酒場へ立ち寄る↓

⇒こちらに古いジン酒場の話載せました


レンブラントやフェルメールやハルスの名画の扮装をさせてくれる写真屋さんもある↓


19世紀に建設されたネオクラシックな現マグナショッピングセンター↓

そのとなりにあるポール・ファン・クレーヴというホテル、以前から一階のパブがデルフト焼きの内装が美しいので訪れていた場所なのだが、それがかつてはハイネケンの工場だったのだとは知らなかった↓

ハイネケン社はジェラルド・エイドリアン・ハイネケン(英語的読み方ですが)氏が1863年に創業した。当時たくさんあったビール工房をどんどん併合していったそうである。ビールのもとになる水は当初は運河からのものだったそうだ。今では考えられませんが(^.^)

1870年には現在のホテルがオープン↓


アムステルダムの中心、王宮のあるダム広場↓いつも思うのだけれど、ここにこんな移動遊園地があるのはちとそぐわないのでは?↓


17世紀に建設された町並みは傾いている家も多い。それが当然↓ビルとビルの間の狭い扉


★夕食はシーフード・バーへ行こう 大人気の店は、予約していても席が確保されているか不安↓

いちばん早いタイミングで入ってもすでにほぼいっぱい

最初に定番のムール貝↓

牡蠣二種類とシーフードプレート↓


マテ貝を見て今年四月の北スペイン「地の果て灯台ホテル」で出たのを思い出した↓

さらにグリルの盛り合わせ↓これが、意外なほど(失礼)おいしかった。一人で全部たべられそうなほど(^.^)↓

このエビを見よ↓


会計と共に出してきたミントは「ウィルヘルミナ」と通称される、オランダの定番だそうだ。かつての女王陛下の名前である↓

オランダは食事は期待できない、なんて大嘘です(^.^)





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ヒートホールン~オランダのヴェネチア?

2017-10-13 13:30:22 | オランダ

「ボートで森の中を散歩できる町があるんです」と、アムステルダムのガイドさんにきいたのはかれこれ十五年も前のことだったっけ。あれからずっと行ってみたいと思っていたヒートホールンを訪れることが出来た朝。

宿泊したちょっと大きめの民宿といったホテル↓

ここも水路に面した立地
晩秋のきりっと冷たい空気。空にはカナディアン・グース↓


水路の中心部へ歩きだす↓

普通に住民のいる町。ワンちゃんおさんぽ↓

にゃんちゃん塀の上↓

まるでテーマパークのような家々なのだが、人々の暮らしがそのままおしゃれ。

水路から湖方向へのびるあたりには観光滞在用のコテージがたくさんならんでいる↓

夏にはどれほどの人がやってくるのか、係留されているボートの数をみれば想像がつく。今日のようなオフシーズンのほうがきっと楽しめるのではないかしらん↓ボートがならぶ桟橋は
湖に突き出した桟橋にある円形のレストランのもの↓


最近やっとできたというヒートホールンの博物館へ入ってみよう↓

★ヒートホールンとは「ヤギの角」という意味。ヤギの角が見つかったのでこの名前の村になったのだという。歴史にその名前がはじめて出てきたのは1227年だそうだ↓

ここに古くから町ができた最大の理由は、泥炭がとれたこと。
切り出して、燃料として売れるのだから比較的楽だったのかなと、思う。

1312年にはFlagellantsフラゲランツと呼ばれる集団が住んだ※博物館の説明
自分の身体を鞭打ちながら行進するような熱狂的カトリック教徒たち。彼らが集団で住みついたぐらいだから、やっぱり田舎ではあったのだろう。

1500年ごろになると切り出していた泥炭が枯渇した。
人々は湖の底の泥をすくってそこから泥炭のブロックをつくるように変わっていった。この作業を何百年にもわたり続けていったことで、今のような広大な湖が出現したのであった↓⇒※このあたりの事をもう少し詳しく書きました

我々もボートを借りることにする↓あ!中国語表記だ↓

水路はごくごく分かりやすい。ヴェネチアなんてとんでもない。一本道です、ほぼ。


湖にでると、すぐにハクチョウがよってきた↓

何かくれるのだと思ってますね、確実に・・・
我々がなにも出さないのを悟ると、とつぜん「ごわ!」とでも形容したい、口汚い罵りをのこして(そう聞こえた)、我々のボートを離れていった。
そして、後ろからやってきていた中国勢のボートに寄っていき・・・↓

(たぶん)いつものとおり、たっぷり食べ物をせしめていた。

おや、前方に平たい島がある↓一軒だけあるたてものは、なんとホテル!↓


やく45分ほどのボートツアーでした

**
ボートを返して、車の方まであるく

途中、この看板↓

ヒートホールンの漢字表記は「羊角村」というのか、
中国は外来語を発音に漢字をあてるばあいと
意味から漢字を選ぶ場合があるが、
この場合は後者ですね↑


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ヒンデローペン村からヒートホールンへ

2017-10-12 18:20:58 | オランダ
「ヨーロッパの美しい村三十選」に選ばれた場所があるのでよっていきませんか?
ガイドさんの提案で、小松もはじめて訪れた。
オランダ北部のフリースラント地方に属する、アイセル湖に面した小さな村・ヒンデローペン。

平たいオランダなので、遠くからこの教会の塔が見えていた↓




市の紋章↓

⇒※日本旅行業協会が独自に選んだ「ヨーロッパの美しい村30選」

ヒンデローペン博物館の入口↓

この村は独自のペインティングで知られているのだそうだ↓





1225年に都市権を取得し、1368年からはハンザ都市のひとつとして交易に参加した。
つまり、ヒンデローペンはドイツ系商人の活躍していた街だったということである。
フリースラントはオランダの中ではドイツ色の強いエリアだ。
オランダという国が存在しなかった時代、住民は力のある支配者の側に立たされることになる。

ハンザの隆盛時代が終わり、オランダ黄金の17世紀にはVOC(オランダ東インド会社)の基地のひとつになっていた。

繁栄を支えていた港も、いまは小さな田舎にしかみえない↓






★フリースラントのサッカーチームのスタジアムへ寄ることになった
オランダのリーグでは強豪のひとつだという↓

現在、KOBAYASHIという日本人選手が在籍している↓サッカーに詳しくない小松にはアピールしないのだが、地元でも人気選手になっているようで、スタジアム前に立派な写真が飾られていた↓

ユニフォームに名前を入れてもらってお買い上げ↓

遠路やってくる日本人も時々あるそうな↓


***
今晩はヒートホールンにて宿を予約してある
「オランダのヴェニス」と呼ばれる町、さて、どんなだろう?

空が広いオランダ、フェルメールの「デルフトの風景」のような雲がながれてゆく

★ヒートホールンの運河沿いに大きなホテルはない。ちょっと大きな民宿といったかんじ↓

離れにある部屋をつかわしていただいた。「入口のカギは閉めておいてね」


夕食にお勧めのレストランをおしえてもらい、十五分ほど運河沿いを歩いてゆく。
もとは風車があったのだとすぐにわかる形をした住宅↓

オランダ全土にはかつて一万もの風車があったと言われている。
不動産として人気になっている。なんせ、数が限られてますからね↓

運河をいくのはゴンドラではなく、小さめのモーターボート。手を振るのは・・・あ、アジア人↓

このヒートホールン、中国人に人気の観光地になっているという。
日本のツアーにはほとんど入らないけれど、国によって目的地はけっこうちがうのです。


お勧めのレストラン、季節終わりで静かだった↓

びっくりしたのは、メニューに中国語が書かれていたこと。日本語は、ありません。


ビートのソースがおもしろい↓




帰り道はすっかり暗くなっていた↓

ヴェネチアとはちょっと違うけれど、明日の朝が楽しみです(^.^)



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