旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

五島列島四日 小値賀島その二

2017-09-21 17:20:30 | 国内

「島宿御縁」からは、坂の下に漁港が見える。穏やかに晴れた朝↓

ここにはたくさん猫ちゃんが住みついている。こんなところで暮らす猫ちゃんはシアワセだろうなぁ↓

⇒※こちらにネコちゃんと遊べる「島宿御縁」の話、もう少し載せました
**
今日は最初に小値賀島の高台、「愛宕山園地」へ
バスが止まったところから苔むした階段をのぼる。それほど人がやってこない場所になっているようだ↓


石積みに見える物見台は標高89m↓

魚見かと思ったら、はじめから観光用の展望台なのだそうだ↓

設置された陶板↓

あちらはきのう訪れた野崎島か↓

近くに見える港↓

少し下にお稲荷さんがあった。この展望台は最初に建設した時に頂上が陥没して、「お稲荷さんより高くしたせいだ」と噂されたのだそうな。
***
長壽寺は、平戸を本拠地とした松浦家がかつて本拠にしていた屋敷跡に建てられたと伝わる臨済宗の寺↓

廃仏毀釈でのダメージはあったが、それでも一見の価値がある
→※こちらに公式ページがあります

****
「建武の新田」は、なんと14世紀から同じカタチで存在しているといわれる。
小値賀島はかつて西島と東島に分かれており、浅瀬が隔てていた。鎌倉時代末に埋め立て事業がはじまり、建武元年1334年に完成したのでこの名前で呼ばれている↓

14世紀の埋め立てでたくさんの牛が犠牲になったとされ、「牛の塔」と呼ばれっる供養塔もある。
⇒※こちら下見の時の日記に写真を載せてあります

●神の埼遺跡は、もともと海に突き出した岬だった場所。きのう博物館で見たヒスイの首飾りはここでみつかった。
三十基近い弥生時代の石棺があり、海に削られる前の岬にはもっとたくさんあったのではないかと推察されている↓


●地の神島(ちのこうしま)神社
海に向かう鳥居の先には、きのう船の上から見た野崎島の「王位石(おえいし)」がある「沖の神島(おきのこうしま)神社」がある↓

遣唐使時代からの二つの神社は西暦704年に分社したと伝わる。どちらがもともとあったのか議論があるようだが、塚原さんは「沖の神島」が先とのご意見。小松もそう感じます。あの「王位石」のパワーこそが信仰のルーツではないかと思うのです。

「地の神島神社」は、かつてもっとたくさんの建物があった。お寺でもあった時代に経が納められていた建物がこの石組みの上にあったそうである↓






●神方(かみかた)古墳~塚原さんとでなければなかなか連れてきてもらえそうにない、五島列島に二つだけ残る(両方が小値賀にある)古墳のうちのひとつ↓この看板は去年やっと設置された

放棄された民家を裏にまわっていくと、かつては地下にあった石室がむきだしになっている↓

奈良の石舞台を思い出したが、それより古い七世紀はじめのもの。朝、最初に訪れた「神の埼」遺跡の時代より後になる。




今回の旅、最後の食事は「藤松」さんへ。ここも小値賀の名家の家だった建物↓
古民家再生で快適で魅力ある場所になりました↓

入口で、ベベンコビッチさんが待っていてくださいました。五島の言葉でオリジナルの歌を聴かせてくださる方。いや、純粋な日本人(笑)
プロで活動していたこともある方にもうしわけありませんが、小松もちょこっとベースで参加させていただきました

お料理は島の魅力を多様に味あわせてくれます(^.^)
  

食事が終わって、海にひらけた門へ↓




巨大な梁がむき出しの屋根裏スペースにはアレックス・カーの豪快な書↓

「ここでゆっくりしたいわねぇ」と言われましたが、そろそろ船の時間です↓


港の待合室↓

ベベンコさんが自分のCDを持ってきてくれました

船が来るのに合わせて、みんなで集合写真とりましょう↓

乗船、え!紙テープ?港に売ってるんです。こういうの、いちどやってみたかった(^.^)





皆様、ありがとうございました!
旅とは、つまり人に出会うことなんだと実感する旅でした。

佐世保から予約しておいたタクシーで長崎空港、羽田へ✈




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五島列島四日 小値賀島

2017-09-20 15:50:12 | 国内

好洋丸が小値賀港へ近づくと、島に二台しかないバスのうちの一台「ちかまる号」が埠頭でまってくれているのが見えた↓


「ちかまる」とは、鹿をかぶった男の子のキャラクター。さっき野崎島でたくさん見た九州鹿がイメージの元。女の子のはなちゃんとペアで、車体に描かれている↓※こちら小値賀島のHPで解説されております

中はまったく普通の路線バス仕様。「止まる」ボタンもちゃんとピンポーン♪と鳴りまする(^.^)↓

人口2600人ほどの小値賀島。公共交通機関を利用して島をめぐるのはなかなか難しい。

港のすぐ前にある「あわび館」を見学。小値賀島は遣唐使の時代から干し鮑が大きな産業だったと解説していただいた。海人(あま)は小値賀では男性。あわび館で空中に泳いでいる、その姿↓

鮑の話をきかされたら、「じゃ、買って帰りましょ」と訊ねたが、この鮑館でさえ鮑はまったく、ない。売っていたのはサザエの注文送付だけ。
どっかでアワビ関係なにか買えないかなぁ、と思っていたら・・・※後ほどこちらに書きます

小値賀の歴史を知りたければ「小値賀町歴史民族資料館」を訪ねるべし。港から歩いて五分ほど。かつて小値賀を支配した小田家の屋敷跡がそれ↓小田家がこの家を去る時、残された膨大な資料を調査した成果も上手に解説してくださる↓

興味深い展示物はたくさんあるが、その中で、小松がいちばん注目したいのは、この島の石棺から発見された見事な勾玉のネックレス↓

はじめ、これだけを見たときには、「ほほ~ん」という程度の感覚だったのだが、実際に発掘調査された塚原さんに「神ノ崎遺跡」の石棺を見せてもらって、「これはけっこうすごい発見なのだ」とだんだん気がついてきた。現場を見るって、どんな世界でも大事なのです。
※神の崎遺跡を下見で見たときの写真をこちらに載せました

博物館から徒歩で、「万日堂」を訪れる。
ここは小田家二代目当主・伝兵衛重利によって1715年(正徳二年・※新井白石が活躍していた頃)に建立された、五島列島に現存する最古の木造建築↓この階段をのぼります



正面の本堂から少し離れた位置に赤いお堂がぽつんと建っている、かつて「念仏堂」と呼ばれていた↓周囲から離れていたことで、何度も起きた火事で焼けずにすんだのか。

カギをあけてもらうと、ご本尊の左右に小田家歴代の座像がずらりと並んでいた↓

これらの小像は、一時歴史博物館に置かれていたそうだが、ご先祖が夢枕にたって「もどりたい」と言ったとかで、今は本来あるこの場所に戻されている。

今日泊まるのは「島宿御縁」↓若いオーナーの岩永さんがやっておられる、民宿という響きからイメージするよりずっと洗練されたデザインの「お宿」。外国人にも人気で、夏のアルバイトに住み込んでいるスェーデン人の方が給仕してくれた↓


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五島列島四日 野崎島

2017-09-20 12:11:36 | 国内

無人島の野崎島に島内の交通機関はない。かつての野崎集落から野首集落までは二十分ほどの登り坂を歩くしかない。だが、海を見晴らすこんな景色の道を歩けてよかった。幸いそれほど暑くはない↓


****朝 中通島から野崎島へはチャーター船を使うことにした。下の地図をみていただければ、その理由がわかる。細長く伸びた一番上の方に津和崎がある。そこからすぐ上の野崎島へ行くならものの十五分なのだ。これが、もし定期船を使うとなると、ぐぐぐぐっとこの地図外まで下がって有川港から一度小値賀島へわたり、さらに乗り換えて野崎島へ行くしかない↓

五島列島は島同士の交通が不便だが、もともと「五島」ではなかった小値賀島や野崎島は、いまでも別の行政区となる佐世保市に属する。さらに移動がムズカシくなる筈だ。

朝十時にホテル・マルゲリータを出発。津和崎へ行く途中に、江袋集落へ寄る。車の走る尾根の道から江袋集落は左側に見えてくる。港まですり鉢状の急斜面。そこにへばりつくように家々が肩を寄せ合い、その中の階段を上がりきった頂上に江袋教会がある↓この教会は、本来港から見上げる集落の一番上に位置している。下から見上げるのが本来の見方なのだ。


木造の質素な姿が集落のたたずまいに合っている↓

ここは2007年に火災に遭うまでは、建てられた当時の木造だった。ああ、もったいない↓

静かな堂内。祭壇の前にこれから生けるのだろういきいきした赤いピンクの百合の花が置かれていた。信仰を受け継ぐ人があってこそ、教会は生き残る。

もうひとつ。ステンドグラスのおもしろい仲知(ちゅうち)教会を訪れてから
津和崎港で、予約してあった「好洋丸」に乗り込む↓


五分もすると、野崎島でいちばん、いや五島列島でもいちばん印象に残る佇まいの野首教会の姿が船上から見えた↓


野崎の港では、考古学者の塚原さんが迎えてくださった。小値賀と野崎の発掘に四十年も携わってこられた方
朝の船で小値賀から到着し、我々を待っているあいだにいろんなものを拾っておられた。
●黒曜石のナイフ?↓

室町の陶器?↓

そして、このコイン。腐食が激しくてここでは何か分からなかったが、小松が東京へ戻ってから理解しました。

★⇒こちらからごらんください

野崎集落を歩く。ここはキリシタンの集落ではない。昔からの神を祀る宮司さんが常駐していた。その家が、今年から見学できる形でオープンした↓
右奥の建物から離れた小さなお堂が、五島列島の最高神、沖の神島神社の方向を向いている↓
神社本体まではここから険しい山道を二時間歩かないと着かない。集落のこの家に住む宮司さんは本宮までいかない日でもここから祈りをささげていたのである↓

江戸時代から残ると言われる絵が内部に↓


誰もすまなくなった村、ひとつひとつ倒壊してゆく家、それでも残る石積み、水場は今も水をたたえている↓



村の上のサバンナへあがってゆく↓

野原を横切る無用のフェンスは現代アートではない。
かつてここで鹿牧場をやろうとしていた夢の跡。

今でも野生の鹿がそこらじゅうをぴょんぴょんしている↓




一度、ビジターセンターにもどってサンドイッチの軽いランチ↓中身よりこっちのほうがすてき?捨てられない箱↓

ある嵐の夜に倒壊した神社がそのまま↓空しく守る狛犬



****
いよいよ、野首集落へ向かう。島がくびれた鞍部につくられたキリスト教徒の集落。細いこんな道だけがつないでいる↓

左手下に青い海と砂浜を見ながら二十分。
実はこの坂道がダメで野首集落行をあきらめる方が出るかもしれないと思っていたのだが、みなさん思ったよりも元気!
暑すぎない、照らない、風のない、今日の天気も味方して、全員が野首集落到着。

あの印象的な野首教会が見えてきた↓

教会まで、最後の階段を登ります


内部は一見きれいに整備されている。だが、これも塚原さんの尽力がなければこんなふうにはいかなかった。

★野首教会の保全の話をこちらに少し書きましたのでお読みください

教会の前にある戦時中の記念碑↓塚原さんはこの碑が設置されたこと自体に感慨を覚えると話された↓

キリスト教は明治五年以降弾圧されることはなくなったが、日本の社会にキリスト教徒が普通に受けいれられていたわけではない。

久賀島の浜脇教会は戦時中には外壁を真っ黒に塗られてしまった話からも分かるように、「敵国の宗教」だとして、教会と教徒への蔑視は依然として続いていた。
キリスト教徒の集落である野首では、ことさらに大東和戦争への参加を強調するこういった石碑を、教会の前に建てたのだろう。

*****再び野崎集落まで二十分歩き、チャーターしておいた好洋丸に乗る↓


小値賀島へいくために野崎島の北側をぐるりとまわる。すると、山の木々の間にストーンヘンジのような巨石が立っているのが見えてくる↓高さ29メートルもある。距離があるのでそうは見えないかもしれないが↓

※ここまで歩いた方の写真記事にリンクします
自然にこんなかたちになったのか? 塚原さんのお説は、上の二つの石は人の手によって積まれた、というもの。

あの「王位石(おえいし)」のある場所が、五島列島の最高神が祀られた「沖の神島神社」である。正式な参拝ルートは、海際に見えるあの鳥居から険しい道をのぼりつめてゆく↓


今回の旅で訪れる最後の島。小値賀にもうすぐ到着する

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五島列島四日 キリシタン洞窟から中通島へ

2017-09-19 22:34:48 | 国内
久賀島を出た船は二十分ほどで若松島の南端に至る。陸からはたどり着けない岩場に「キリシタン洞窟」を呼ばれる岩穴がある↓

明治初年の切支丹弾圧の際、郷を逃れた数家族が隠れ住んだが、料理する煙を漁船にみつけられ、捕えられてしまった。

この場所に住んだのは四か月ほどだったと言われる。
岩場では毎年ミサが行われている↓


**
若松島の土井の浦で上陸。予約してあった二台のタクシーに分乗。小松がリクエストしておいた「日の島の墓石群」へ向かう。今は離島の中のまた離島になっている小島だが、中世には活発な港だった。港には今でも沈没船があるという。

室町時代からという風化して文字も読めない墓石がずらりと並んでいる↓






●龍観山(りゅうかんざん)展望台 

ここで坪内パンさんのつくってくれたサンドイッチをいただきまーす↓



若松大橋をとおり↓

中の浦教会を横目にみて↓


島の中心である有川港に近づくと蛤浜がある↓

ここは海開きで砂の彫刻をつくるのが有名なのだそうだが、シーズン終わりの九月半ばでもこのぐらいのこっていた↓はじめてこの手の砂の像を触ったが、おもったよりも固く締まっている↓


●鯨賓館(げいひんかん)は港のターミナルそのものに付属している
かつて有川の主要産業だった捕鯨の博物館であります↓


建物そのものが鯨のカタチだ↓


●頭が島教会はやはり行っておかねばならない教会だ。これは中通島の東のはずれから1981年に建設された橋でつながった頭が島にある。こんな辺鄙なところにと思うが、やはりこういう場所でなければ、移住者は受け入れてもらえなかったのだろう↓辺鄙な島に橋が架かったのは、頭が島の丘の上に飛行場が建設されたから。現在でもチャーター機ならば利用できるのだそうだ。

尾根の道から港を見下ろすと、頭が島教会の建物が見えた↓この道だって飛行場が出来たタイミングで整備されたものでまだまだ新しい。

こういった海辺の村落のほとんどすべてが、当時は海からのアクセスしかなかったと思ってよい。
今はしかし、たくさんの観光客がやってくるので、混雑時は一般車は手前のパーキングに入れさせられ、そこからシャトルバスで訪問するのだそうだ。幸い、タクシーやバスは現状そのままアクセスできる↓

当時西日本で唯一の石造り教会であった↓地元でとれる砂岩があったので可能になったのである。

切り出された石は使われる場所によって長さが違う。きざまれた数字は「四尺九寸五分」の意味↓

屋根の雨どいは、雨だれが壁を伝わないように工夫がしてある↓

***
今晩宿泊のマルゲリータへ行く途中「青砂ヶ浦天主堂」↓

置かれていた、拷問「算木責」に使われていた石↓

矢堅目埼の面白いかたち↓

****
マルゲリータ到着
解放的な入口レセプションの空間↓

ここはけっして広いホテルではないけれど、充分な快適さがある。
なにより、おいしいダイニングが待っている。


明日は野崎島を見学してから小値賀島に宿泊です


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五島列島四日 久賀(ひさか)島

2017-09-19 12:00:34 | 国内

朝、福江島の港へ行く途中、商店街の坪内パンさんにランチ用のサンドイッチをとりに途中下車。忙しい朝なのに、わざわざバスに乗り込んで説明してくださった↓
※こちらに詳しく載せました

永冶さんが今朝も港まで送りにきてくださった。永冶さんはNPO法人の代表を務め、五島の椿油のために活動しておられる↓
※こちら内閣府のホームページです
※こちらツィッターのページです

ご自慢の椿油石鹸を、是非ためしていただきたく、こま通信から予算を出して、お一人ひとつプレゼント↓




午前九時半、チャーター船に乗って久賀島へ向かう。ここからのガイドは長崎巡礼協会の平山さんにおねがいした。これから向かう久賀島のご出身であります↓


十五分ほどで久賀島がみえてきた↓あれは浜脇教会。久賀のキリスト教信仰の中心。↓

久賀島はアルファベットの「U]の形をしている↓左下の田ノ浦から上陸し、

今回ちょうどこの地図の赤い線と同じルートで回る

タクシーに分乗して、まずはさっきの浜脇教会へ到着↓

海上から見ていた時はごく普通にみえていたが、間近にするとはっとした。清楚にバランスがとれている。平山さんは「いちばんきれいな教会だと思っています」と、さらりとおっしゃった。小松も同意。

今、見えているのは1931年(昭和六年)に建設された、日本で初めてのコンクリート作りの教会。

先頭部分に木目が見えたので「この部分は木製?」と思ったが↓

これはコンクリートを固める木枠の木目のようである。

内部、今は当然のように椅子席がならべられているが、平山さんが子供の頃はただの板床で、その上にぎっしり正座していたそうな。
当時はたくさんいただろう子供たちが、広い聖堂の後ろの方でしびれを我慢して座っている姿が見えるような気がした。

☆この場所にはかつて、1881年(明治十四年)に建設された木造教会があった。
世界遺産登録候補にもなっている「旧五輪教会」がそれである⇒
正確には現在の教会の場所から左奥手の場所である。現在は民家が建っている⇒
ここにあった木造教会を1931年(昭和六年)に解体し、船に積み、現在ある五輪地区にてもういちど組み上げたのである。
五輪地区にはその後新しい教会が出来たので、木造教会は「旧」五輪教会と呼ばれているが、「旧浜脇教会」という理解もしておいたほうがよい。

***
再びタクシーに分乗し、少し山を越え、アルファベット「U」字型をした島の内海部分におりてゆく↓
田畑も多く、おだやかで豊かな景観である↓こういう場所には当然、キリスト教徒が移住してくる以前から仏教徒の集落があった。


先住の仏教徒たちから「いつき」と呼ばれていたのだと平山さんが解説されたが、小松はじめはなんの事か分からなかった。漢字で「居付」と書くのだと知って、その意味するところをやっと理解できた。

貧しかった五島藩は1797年(寛政九年)に大村藩から千人の入植農民を送ってくれるよう依頼する。
それに応じたのが西彼杵半島に多く住んでいた隠れ切支丹たちであった。五島藩はその実際をどのぐらい知っていたのか分からない。知っていても目をつぶり、年貢を納めてくれるならばそれでよいと考えたのかもしれない。同年、第一陣として百八名が移住。最終的には三千名が五島に移住したと言われている。

五島はしかし、無人の島ばかりではない。耕作に適した場所にはすでに村落があったので、入植者はよりきびしい土地を開墾するしかなかった。久賀島で現在キリスト教徒が多い集落になっている場所は、どこもきびしい地形をしている。外からやってきて「居付」いた人々には、そういった場所しか与えられなかったのだ。

先住の島民と「居付」の間に深い交流はなかなか育ちにくかっただろう。隠れた信仰というだけでなく、漁場、収穫、行事における優先権、生活のすべての場面で移民と先住民の軋轢があるのは古今東西変わらない。

明治になってもキリスト教弾圧は続いた。久賀島では自らキリスト教徒であることを名乗り出た人々が捕えられ、十二畳の広さに二百人もの人々を押し込めた。その場所が殉教地として残され、慰霊碑と教会が建てられている↓

場所は、内海に面している。その場所から海をはさんだ対岸に代官所があって見張られていた。

二百人もの人を押し込み(満員電車以上の状態)、食べ物もろくに与えず、糞尿は垂れ流し。死んだ者はそのまま下敷きになり五日間も放置されウジがわいた。
悲壮な建物のまわりを、仏教僧が「改宗させる」として念仏を唱えながらぐるぐる回った。中からはそれ以上の声でオラショ(キリスト教の祈り)を唱え、ひとりも改宗するものはでなかった。こんな状況が、八か月間も続き、殉教者は三十九名。牢を出てからも三名が亡くなった。

殉教者の最後の言葉を刻んだ石がずらりと並んでいる↓



現在この教会がある場所に牢があった。内部に入ると、その十二畳の広さだけ赤い色の絨毯になっている↓



現場で残虐行為を実行する者たちも、人として辛くなかったはずはない。彼らも命令を遂行するしかなかった弱い者だったのだろう。蛮行というのは、多くの場合弱者がさらに弱い者を痛めつける構図になっている。

最終的にキリスト教徒がすべて解放されたのは、「外圧」による。不平等条約の改正を目指して欧米を訪れていた使節団が、この蛮行を指摘され、最初は「あれはキリスト教徒ではない」と言っていたものの、とうとう無視できずに禁教を終わらせたのである。

****
小松がリクエストしていた通称「首長地蔵」を少し訪問。集落の人々は「高麗地蔵」と呼んでいる。知っていなければ通り過ぎてしまう集落の一軒↓

ちいさなドアの奥にこんなふうに安置されていた↓


この地蔵には★「高麗島の伝説」がある。
高麗島は福江島・三井楽の北十里、小値賀島の西に存在したとされる幻の島。この地蔵はもともとそこにあった。
島民の夢枕に立ち「私の顔が赤くなったら大禍が起きるので逃げよ」と告げた。
不信心者が嘲笑い、戯れに地蔵の顔を赤く塗ったところ、信心深い人々はあわてて船で島を離れた。
悪戯した不信心者は逃げた者たちを嘲笑ったが、島は一夜にして沈海にんでしまった。
高麗曽根という浅瀬も存在し、そこから古い陶磁器がひきあげられることがある。

*****
折り紙展望台まで上がり、

細い道をいくと車はここで終わり。

五百メートルほど歩いて海まで降りる↓


五輪地区へ到着↓

前出の「旧五輪教会」=「旧浜脇教会」に到着↓

外観は日本民家だが、内部にはゴシックの天井↓


ここから再びチャーターした船に乗って、若松島を目ざします


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする