旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ネパールの現代史と握手

2020-05-31 16:04:16 | ネパール
2004年の1月から2010年の11月の間に《手造の旅》ネパールを五回催行した。
2005年には王が議会を封殺する政変が起きた。
※いまどきルイ14世の様な絶対君主をめざしたのです
マオイスト(毛沢東主義者=共産ゲリラ)が出没した不穏な時期もあった。
2008年には二百年以上続いた王国が終わり、ネパール王国から共和国になった。
今から考えると激動の時代だったのだが、観光客が危害を加えられるようなことはなかった。

このブログを書きはじめたのは2011年から。なので「ネパール」という項目はこれがはじめてになる。
今になって十年以上前の旅を個々に書くことは難しいが、この機会にそれぞれの都市の話を小松の視点で書いてみる。

2008年11月の訪問で、ネパールの現代史を体現しているようなG.P.コイララという人物とお会いする機会があった。
まずは、その時に小松がメール・マガジンに書いた文を再録する↓
**

コイララ氏の手はその体と同じように大きかった。
しかしとても柔らかな手でもあった。
ネパールの現代史をそのまま見てきたG.P.コイララ氏は今年85歳になるが、「老い」を感じさせない風貌と強い眼差しが印象的である。

ネパール第二の町ポカラの名門ホテル、シャングリラ・ヴィレッジに到着した日、ホテル中の警備がいつもより厳しかった。
「誰かVIPですか?」
「コイララさんです」

2008年5月、二百四十年続いた王制が議会によって停止されたネパール。
総選挙で新しい共和制政府が誕生するまでの間、動揺するネパール暫定政権の首相を任されていた人物として新聞で知った名前だった。

彼には兄が二人いて、この二人ともがネパールの首相になっている。
長兄マトリカ・プラサド(M.P)コイララは、1950年代に亡命先のインドから帰国し宰相家支配を覆したトリブバン国王下で二度首相になった。1997年没。
次兄ビシュウェシュワール・プラサド(B.P)コイララは、トリブバン国王の息子マヘンドラの元で民主選挙により首相に指名されたが、専制君主化した国王に反対し罷免・投獄される。インドに亡命し、国王の死後帰国。1982年没。

そして三男のギリジャ・プラサド(G.P)コイララが、私が握手したコイララ氏である。

2008年にはなんと五度目の首相選出だった。
若い頃は兄と共にインドに滞在し、次兄が投獄されていた時には反政府ゲリラのひとりだった。後年、自らの生涯を語る番組で「銃を持って戦っていた」と語っている。

彼の経歴はネパールの現代史そのものである。
つい最近まで反政府テロ活動をやっていたマオイスト(毛派という共産主義に影響を受けた集団)でさえもコイララ氏には一目おかざるをえない。
思想は違っても同じ元反政府ゲリラ経験さえある「大先輩」なのである。
こんな人物だからこそ、王制の廃止が決まり混乱するネパールで首相に担ぎだされた。

その彼が今、同じホテルに滞在している。

シャングリラ・ビレッジは客室数の少ない小さなヴィラ風のホテル。
庭で散歩して出会ったら誰でも友達になれそうな雰囲気がある。
コイララさん、散歩でもしてないかな。
ちらっとでも見かけるチャンスがほしいものだ。

そのチャンスはむこうからやってきた。
「あのぉ、そちらのグループが使っておられる部屋を、コイララさんが使いたいと言われております」と、レセプションの人が言ってきた。
なんでも高齢で体調がよろしくないコイララさんが、一階に滞在している娘さんとコネクティングになっている部屋に移りたいと希望したのだそうだ。
偶然、その部屋は我々グループのメンバーが使っていた。
「どうぞ、どうぞ」
もちろん喜んで部屋を換わってさしあげることになった。

翌日。
我々が観光に出発しようとすると、大勢の警護にかこまれた人物がロビーの椅子に座っていた。大柄で長い手足、ネパールの民族帽子トピをかぶった顔はひと目でコイララさんである。

少し緊張気味に「皆さんと写真に写ってもらってよいですか」とお願いすると、通訳の方が昨夜部屋をかわった顛末を話してくれてか、コイララさんは気楽に応じてくれた。椅子から立ちあがって我々のメンバーが並ぶ中に入ってきてくれた。

二枚シャッターを押し、写真の列がほどけた時、正面から彼の目を見て話しかけた。
新聞やテレビでなく、間近に見るネパールの現代史を体現している男。
幾多の変革の中で生き残り、味方だけでなく敵側にある者にさえ敬意を払われているのはいったいなぜなのか? その理由を少しでも感じたい。

「ありがとうございました」と握手。
「あなたはとっても若いですね」と私が彼に言う。
この言葉はまわりの警備の面々にも聞こえて、笑い声があがり、コイララさん自身も嬉しげにおどけてみせてくれた。 いや、私は実際思った通りを言ったのだ。彼は85歳ではあっても老人のようには全く見えなかったから。

その場を離れてた後、メンバーの一人の女性が言った。
「くらぁっときちゃったわぁ♪」
彼女はコイララさんのすぐ隣に立って写真に納まったのだが、その時コイララさんは彼女の腰に手を回してぐっと引き寄せたのだそうだ。
それはごく自然に。がっちりと受け止め信頼を感じさせてくれる手だったのだろう。
だから「くらっときちゃった」のである。

その言葉を聞いて、私が握手したときに感じた印象もまた同じだったと思った。
彼の手に触れて感じた不思議な雰囲気はなんなのだろう?
初対面の彼がナニモノかを知らない外国人女性でも、「くらっと」させる人間的な磁力がコイララさんには備わっている。 

その磁力は彼が波乱のネパール史を生き抜いてきた人だから持っているものなのか?
あるいはそんな魅力ある人だったから動乱の現代ネパールを生き抜いてこられたのか?

人が相手の持つ高い地位やお金に頭を下げるのはいつものことである。
下げざるをえなくなる事もある。
しかし、ほんとうの人望というものはそんなものでなく、頭を下げさせることが人望なのでもない。

地位・役職などは解任・引退で終わり、お金も無くなれば終わり。
地位もお金も、本当には自分と一体になり得ない。

では「何」が人を惹きつけるのか。
鍛錬された精神が、同じく鍛錬された肉体と離れがたく同居していること。
コイララさんの手から感じた確かなことはそれだ。
そんな人と握手したとき、腰に手をまわされた時、その存在そのものが強くひとに響く。
コイララさんの大きな暖かい手は説明の必要もなく魅力的であった。
***
2020年追記:
コイララ氏はこの出会いから一年半後に没した。


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クトゥブ・ミナールを中心とする複合建築~インド最初のモスク

2020-05-25 10:00:07 | インド
2005年《手造の旅》インドより

日本なら鎌倉時代のはじめに建設されていた高さ72mの塔

デリーの南郊外にあるが、ちかごろは地下鉄でも行けるようになったそうな。
これはインドで最初に建設されたモスクに敷設されたミナレットだった。
遠くからでもよく見える。
イスラム教の勝利を広く告知する役割をしていたわけだ。

よく見ると上部のカタチが不自然。
ネット辞典Wikiの解説を要約すると、
建設当初は100m近くあったのが1369年の落雷で上部が壊れ修復、1505年の地震で上部崩落し修復。
実質イギリスの支配下位にはいっていた1803年また地震で崩落、1828年クーポラをつけて修復。
1848年にクーポラは取り除かれて現在のカタチになっている。

塔の名前はゴール朝(アフガニスタンあたりを中心としたイスラム国)からの北インド遠征軍の将軍であったクトゥブディン・アイバクにちなむ。
※もしくは当時絶大な影響力のあったイスラム神秘主義教団のクトゥブディン・バクティアル・カキかもしれない

建設をはじめたアイバクの時代に①最初のモスク(43.2m×32.9m)が完成した。
下の図の赤い部分がそれ↓

たった四年で完成できたのは、周辺のヒンズー教・ジャイナ教の二十七の寺院を破壊してその石材を再利用したから。モスクの柱にしてはヒンズー装飾が使われているのはこのせい。また、働いた職人たちはヒンズー教徒だったから、そう簡単に新しい様式に転換はできないのだ。

削られているがヒンズー教の神々の姿があったのは明白

↓この部分は復元・修復されているだろうが、どこまでがオリジナルの「混合した」デザインだったのだろう。



アフガニスタンのゴール朝の遠征軍を指揮したマムルーク(「奴隷」の意味」)だったアイバクは、やがて独立した王となってゆく。※「マムルーク朝」の由来

アイバクが落馬事故で突然亡し、跡を継いだ息子アーラム・シャーだがその暴政で民心が離反。
アイバクの側近で娘婿だったイルトゥトゥミシュが反旗をひるがえし討伐。
イルトゥトゥミシュは遊牧民首長の子だったが内紛で奴隷として売られ、アイバクが引き取った。
その能力の高さで愛され信頼される側近になっていた人物。
三代目の王となったイルトゥトゥミシュは恩あるアイバクのモスクを拡張した。
②二番目のモスク建築(1193-97)は、前出の見取り図で緑色に示されている
彼の墓がモスクのすぐ外に残されている

イスラム教は礼拝するモスクの中に墓をおいてはいけない規則になっている
※キリスト教の教会は内部に墓があったので衛生的に問題が多かった。後発のイスラム教はそれを改善した教義を導入したのだろう。

モスクではないがメッカの方向を示す方向は白いキブラ【メッカの方向)となっている。
クトゥブ・ミナールはイルトゥトゥミシュの時代に完成したとされている。

モスクは次のハルジー朝のアラー・ウディン・カーンの時代に再拡張される。
③三番目のモスク建築(1296-1316)は、前出の見取り図でいちばん大きな黒い枠=現在の廃墟として残されているもの。
アイバクの建設したモスクは、百年後には六倍の面積になっていった。

アラー・ウディン・カーンは安定した支配期に、クトゥブ・ミナールを超える高さの塔を建設しようと思い立つ。

直径二十五メートルにもなるその基礎が↑残されている。
完成していれば百五十メートル級になっただろう。
彼の墓もこのモスクの外につくられた。

クトゥブ・ミナールは13世紀から現在に至るまで、世界で最も高いミナレットである。

**
十三世紀にモスク建設が行われる前にも、ここには寺院があったとされている。
たぶんその頃にはすでにおなじように立っていただろう鉄の柱がある↓

高さは約七メートルにもなる紀元後四世紀のもの。
地中にも二メートルが埋まっている。
※全体は冒頭二枚目の写真で右下に写っている
「純度が高いので錆びません」とガイドさんが説明。
真の理由は謎だがたしかに錆びていない。
表面にサンスクリット語がブラフマー文字で書かれている↓

これによりチャンドラグプタ二世時代のものだと判明したのだそうな。
イスラム教の成立の遥か以前からものがモスクの中庭に壊されずに残されているのは幸いだ。



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ガンディーが火葬されたラージ・ガート

2020-05-23 10:27:57 | インド
2005年《手造の旅》インドより

「ヘイ・ラーム(おお、神よ)」至近距離から銃撃され絶命する直前のガンディーの言葉が刻まれている

死の翌日にここで火葬され、灰はガンジス川ヤムナー川(ガンジスの支流で古都アグラも流れる)と、若き日々をおくった南アフリカの海に撒かれた。
ヒンズー教徒は墓をつくらない。だからここはガンディーの墓ではない。

墓ではないが、ガンディーを悼む人々が集まる場所となっている。

1948年1月30日、滞在していた支援者の家の庭で礼拝に向かう途中、胸に三発の銃弾をうけた。
ヒンズー教徒だった彼を暗殺したのはヒンズー至上主義のゴドセーという男だった。
イスラム教徒と共に新しいインドをつくろうとしたやりかたがイスラム教徒に妥協的だと不満に思い凶行に及んだ。
※近年、ヒンズー教徒優遇政策を推進するインド内でガンディーの暗殺者を英雄として崇拝する集団ができてきたそうだ
産経新聞のページにとびます


インドの国旗の中心にはあるのはガンディーがまわしていた糸車(チャルカ)なのだとずっと信じていたが調べてみると「アショカ・チャクラ」という仏教由来の法輪にだとわかった。
だが、1931年の独立運動のシンボル旗には糸車が画かれている大英帝国の工業化によって破壊されていったインド社会を、インドの伝統的な綿紡ぎを復活させることで自立させようとしたガンディー。
国旗の上部サフラン色はヒンズー教、下部の緑はイスラム教をあらわす。宗教によって分断された社会を和解できるのは地道な生活なのだと言っているようだ。
イギリスから独立する際にイスラム教徒のパキスタン(現在のバングラデシュも含む)を分裂させてしまったが、ガンディーは最後までジンナー(パキスタンの初代総督となった人物)に分離を思いとどまるように言い続けていた。
現在の国旗にあるシンボルは糸車もあわせて表現しているものと理解したい。

ガンディが火葬されたガートは四方から見下ろせるようにつくられている


1859年にムガール帝国最後の皇帝が廃位されるとインドは独立を失い、第一次・第二次両大戦において多数のインド兵を前線におくった。
↓この「インド門」は1921-1933年にかけて建設された戦没者慰霊碑である



そのすぐ近くにあるこの天蓋には英国王ジョージ五世(現エリザベス女王の祖父)の21メートルの巨像が置かれていた。
※独立後も1968年までそのままだった

ガンディーは暗殺された時、ヒンズー系大富豪のビルラー家の邸宅に滞在していた。
そのファミリーが建設したラクシュミ・ナラヤン寺院

デリー市内でもひときわ立派

観光地のひとつにもなっている

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デリーのレッドフォート

2020-05-22 09:11:36 | インド
2005年《手造の旅》インドより

ヒンディー語でも同じく「赤い城」を意味する「ラール・キラー」という名で呼ばれる

正門の上に見える演説台。
建国記念日をはじめ、インドの首相が国民に向けて大事な演説をする場所となっている。

17世紀前半、古都アグラにタージマハルを建設したシャージャハン帝が建設しはじめた。
息子のアウラングゼーブが父を古都にある同名の「レッドフォート」に幽閉し、ここに遷都。
※遷都にいたる話はこちらから

巨大な城壁がそびえる。イギリス支配時代にはその駐屯地にもなっていた。

巨大な城門をくぐると↓

広大な庭がひろがっている

東西400m×南北500mを超える広さがある。ムガール帝国時代、一般の人々が皇帝に拝謁できる広場でもあった。

ムガール帝国時代の建築が立ち並ぶ

イギリスは統治した街の中心に西欧建築をこれみよがしに出現させることが多かったのだが、このレッドフォートの様式はあくまでムガール帝国のものを残している。復元したのかしらん?
※韓国で日本統治時代に建築時代の総督府を取り壊して建てなおしたように?
いや、イギリス人たちも感服する見事さだったから残されたのだろう。

赤い砂岩が基本だが、

特に大事な建物は全面大理石。外国使節などの賓客と対面する場所だったそうだ。

細部の装飾がすばらしい。上の写真の柱の下部を拡大したところ↓

宝石を細かく象嵌してある豪華な装飾がここだけ残っているのは不自然。
たぶん、往時の姿を再現するために近年復元されたものだろう。
↓他のほとんどの部分は無残にえぐりとられてしまった跡なのだ↓

誰が持ち去ったのかは明白

往時の姿を想像すべし



ここにはかつて水が流されていた。
暑い街の宮廷ではどこでも、いかに過ごしやすい空間にするかが建築家に求められていた。


ひとつの大きな街のよう。インド大反乱(通称「セポイの乱」の後、ここにはイギリス軍兵士の住居が建設されていった。

寺院と20世紀の?給水塔が共にある

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ナハルガル要塞

2020-05-20 10:52:08 | インド
2005年《手造の旅》インドより
ジャイプール市のすぐ西側に市街を見下ろす要塞がある

アンベール城は市の北11キロだが、こちらは町から近い。
1857年に起きたインド大反乱(通称「セポイの乱」)の際には市内のイギリス人たちがここに逃げ込んだ。


砦は中世に狩の舘としてはじまった。
Nahargahという名前は「虎の居るところ」という意味からきているという。

だが、別の伝説もある。

★ラホールの皇子Nahar Singh Bhomiaはかつて古い時代にこのあたりを領有していた。
18世紀はじめの領主アンベール王国のマハラジャが新たに城をつくろうとしたが、何日経っても工事がすすまない。
砦に留まっていた皇子の霊が夜になると昼間に建設した部分を壊してしまっていたのである。
アンベール王国のマハラジャは古い時代の皇子の霊と話をし、
新たに建設する砦に彼の名前をつけることを条件に砦から離れてもらうことになった。
1734年から建設された現在の建物の一角に彼のための寺も建立された。

**
ここはアンベール城と同じ世界遺産に認定されているが、比べるとぐっと観光客が少ない。
ゆっくりお茶もたのしめる。


18世、ここはマハラジャの後宮が置かれていた。
十二人の妃のために平等な大きさの部屋が十二建設され、今もそのとおりに見られる。

屋上部分を歩いて見下ろすと、たしかに同じような区画がずらりと並んでいた。

そのころからのものと思われる壁絵

ゾウの背に乗るのはマハラジャかしらん





イギリスの支配が強まっていた19世紀はじめ、すでに荒廃していたこの砦に迷い込んだ男の、
まるで「こぶとりじいさん」みたいな伝説もある。
★半分目が見えなくなくなって仕事ができなくなった年老いた鍛冶屋。
家族から見放され、自暴自棄でさまよって入ったこの砦で迷って夜を迎えた。
やがて暗闇からいくつもの鬼火が現れ彼のところにやってきた。
「何故こんなところにいるのか」と訊ねる鬼火。
役立たずで行き場を失くした自分の苦しさを吐き出した鍛冶屋に、
鬼火は「空中に泡をはいてそれを金箔に変える方法」を教えた。
朝になり、街に戻った鍛冶屋は息子にその方法を教え、
家族は豊かに暮らすことができるようになった。

突然金持ちになったのを不思議に思ったライバルの鍛冶屋、
ナハルガル砦での不思議な夜の事をききだした。
同じように夜の砦へ行った彼は、
翌朝無残な遺体となって発見されたのだった。


この建物は20世紀になってからイエズス会の学校として使われたこともある。
そのせいか、どことなく西欧的な内装が多い。

折衷を感じさせるデザイン

百五十年ほど前に建設されたアンベール城がラジャスタン地域最高の建築・装飾で埋め尽くされているのとくらべると、こちらは西欧を中途半端に模倣している。
**



1944年にはここから時間を知らせる大砲が鳴らされていた。
ジャイプール市内の巨大日時計ジャンタル・マンタルから合図が送られていたのだそうだ。

砦を下りて市内にもどろう

途中で貯水池の中に建設された「水の宮殿」にてフォト・ストップ

写真でぜったい伝わらないのはこの池が強烈な悪臭を放っていたこと。
片づける人のないゴミが山のように堆積しているのだ。
2005年当時は誰も近づかなくなっていた「水の宮殿」、十五年後にはどうなっているのかしらん。

***
ジャイプール旧市街入口の喧騒

ピンクの砂岩を用いてつくられ

さらにピンク色で装飾している





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