旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》尾道と瀬戸内の島々~竹原街歩き、呉の大和を観て広島へ

2021-04-22 16:40:51 | 国内
忠海港で待っていてくれたバスにのり、
朝ドラ「マッサン」の実家がある竹原へ向かおう。

日本酒は古くからつくられていたが、竹原は江戸時代に赤穂から塩作りが伝わって以来、昭和三十五年代に「塩田整備法」が施行されるまで塩が最大の産物だった。

このメインストリートの豪邸群もその財力による。

三百五十メートルに百五十戸が並ぶ。

高台の西方寺に登ると↑

京都の清水に影響をうけたという「普明閣」がある↑
1758年の建築で西方寺の地に妙法寺という禅寺があった当時からのもの。今は浄土宗。

「舞台」からは竹原が一望できる

かつては街並みのすぐ外側にまで塩田がひろがっていたのだそうだ。

近くの閉じられた蔵に、妙法寺時代からのご本尊だった十一面観音がある↑
平重盛(清盛の長男で冷静で優秀な人物だったが父より二年早く没した)の持念仏だったとされているようだ。
日宋貿易によりもたらされた可能性あるらしい。
一年に一度の御開帳なのはもったいない気がする。

ふたたびメインストリートに戻る。


「それにしてもよくこれだけきれいに残ったものだなぁ」、と思い込みがちだけれど

昔からの姿がそのまま残ったとばかりは言えない。

道の駅のトイレに貼ってあった写真↓

住民の意志と努力とお金と年月、これらすべてがあって取り戻すことができた景観だったのだと気付かされる。

一時間ほどの自由時間。蔵を利用したお好み焼き屋さんでランチをした方もあった(^.^)

小松は道の駅で売っていた各種柑橘類を買って、いくつか食べてみた。
生産量が少ないものは近隣でなくては手に入らない。
道の駅の野菜や果物は、その土地らしい味を楽しむチャンスですね(^.^)
**
この旅最後の見学地、呉に向かう。

海岸沿いで牡蠣殻がたくさんみえてきた。
2020年二月に訪れた台湾西岸の牡蠣の山を思い出した※こちらに写真を載せています。あの村の料理、また食べたいなぁ

牡蠣は古代から瀬戸内で食されてきて、室町時代には養殖もはじまったのだそうだ。
だが、水深が深いところでは養殖できなくて生産量は増やせなかった。
現代になって水中に垂らす方法が開発され、飛躍的に生産量が増えた。

呉の港に到着

戦艦大和が建造されたドックは戦火をうけず、いまも残っている↑↓

●大和ミュージアム

ドックがみえる場所にある。

10分の一模型はもちろん見所だが、すぐとなりの「てつのくじら」=潜水艦の方を是非みていただきたかった。

※「てつのくじら館」についてはこちらに書きました

16時にバスで呉を出発。
カープの試合がある日だったので道路が混むのを心配したが、17時の二十分前には広島駅に到着できた。
今回の旅、お一人のキャンセルもなく無事に催行できたこと、お天気に恵まれて観ていただきたいと思った景色を楽しんでいただけたこと。心から感謝いたします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《手造の旅》尾道と瀬戸内の島々~大久野島

2021-04-22 09:38:16 | 国内
翌朝、国民休暇村の前の地面はウサギの穴でいっぱい(^.^)

ウサギよりも、この島でなくては見られない毒ガス工場の遺構を見ていただくために、出発を遅くした。
一周一時間もあれば歩いて回れる島である。

↑国民休暇村のある場所も工場があったのだと分かる。

↑今は樹木に覆われた廃墟になっているが

↑島には工場と住居がしっかりあった。
毒ガスは禁止された兵器だったので、表向きに製造しているのは発煙筒などということになっていた。
後には島のある海域が地図から消されてしまう。

↑「日本庭園の跡」と解説されていた場所には、それらしい太鼓橋や石垣があった。

ウサちゃんたちが駆け寄ってきて

「なんかないの?」と↑すり寄ってくる子まで。

ちゃんと餌をあげる係りの人がくれば、こうしておとなしく食べております。

昔の建物をイメージしてつくられている毒ガス資料館
一室だけれど、見てはじめて理解できることがたくさんある。
日本軍が使用した毒ガスの八割以上がここで製造され、中国大陸で人体実験に使用されたそれも、ここで製造されていた。

終戦時には日本軍が隠ぺいするために地中や海中に投棄。
それを発見したアメリカ軍は日本人に処理を命じた。
現在でもそれらすべてが見つかったわけではない。
大久野島への地下送水管計画は、そのルートに毒ガス施設の何かと思われるものが発見され中止されたそうだ。

**10:10国民休暇村発のシャトルバスで港へ

本土の忠海港まで十五分ほど。


ふと見ると↑船の掲げている旗は来島村上水軍の旗と同じではないか↑

↑忠海はアオハタジャム発祥の地、今も工場がある。
今回の旅で「ジャム作り体験」も検討したけれど、とても時間がとれません(笑)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《手造の旅》尾道と瀬戸内の島々~大久野島泊

2021-04-21 19:25:51 | 国内
広島県の生口島から愛媛県の大三島へ
「いも観音」の案内をちょうっとだけ見ていただいた↓

鹿児島から禁を破って持ち出されたサツマイモが瀬戸内の島で飢饉を救ったのである。
※このあたりの話はもっと訪れたい場所があったのだが時間が許さず断念…残念

盛港から大久野島へのフェリーに乗る↑明日の朝の大久野島から忠海への切符も買う。
盛と忠海、二つの港の名前は平忠盛(清盛の父)からきている。
朝廷から命ぜられて、この地方の豪族(海賊ですな)を平定した時に自分の名前を与えたのだそうだ。この父があったからこそ平清盛が権力の座につくことができた。

フェリー乗り場というのは地中海でも瀬戸内海でも同じような雰囲気。
時計の時間が狂っていたのを直してあげました(^^)

大久野島は個人の車立ち入り禁止なので人だけで乗船。

十五分ほどで大久野島の第二桟橋に到着。

さっそくうさちゃんがお出迎え。
島に一軒だけの宿泊施設である国民休暇村までの送迎バスが待っている。

ほぼ全室和室の昔ながらの施設だが夕食は力が入っていた。
夕食後★海ホタルの発光実験が行われた

↑ホテルスタッフが昼間に捕まえておいてくださったのだそうだ↑
大きさは二三ミリというところ。活発に動いている。
ネット検索すると「発光する」と書かれているが、実は身体が光るのではなく、吐き出した物質が発光しているのだそうだ。
電極を入れてみると…

一瞬でこんなホタルの色に染まった。
海ホタルには気の毒だがとてもキレイ。
夏には海辺で見せてくれるのだそうだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《手造の旅》尾道と瀬戸内の島々~「未来心の丘」と瀬戸田

2021-04-21 15:30:46 | 国内
青空と真っ白な大理石、遠くに海地中海…じゃなくて瀬戸内海


日本じゃないような景色

願っていたお天気に恵まれてほんとうによかった(^^)
さらに、この景色を出現させた杭谷一東(くえたにいっとう)さんにお会いできるとは、思っていなかった幸運だった。


生口島に入るとすぐ、レモンの生産日本一の看板

島でいちばんにぎやかな「しおまち商店街」を歩こう

中心になる「汐待亭」さんこだわりのレモンカツとレモネードを用意していただいている。
できあがるまで周囲を散策。
商店街の入口にあるこの和モダンな建物は、つい最近完成した新しいホテルAZUMIと別館YUBUNE。アマングループのコンセプトでつくられている。

商店街ウォークの楽しみは地元らしい小物・食べ物。

短い自由時間なのに

しっかり楽しんでおられました(^^)

テレビ番組でもよくとりあげられるコロッケ屋さん

有名人の色紙でいっぱい。

自分で食べてみないと何も言えません。

あ、おいしい(^^)全員の分を買って、

レモンカツとレモネードといっしょに軽いお昼ごはんにしました。

商店街で買ったお土産を預かっていただき
冒頭の写真「未来心の丘」のある耕三寺へ入場しよう。

入場するのは山門、ここは本当にお寺。
※実業家だった創業者についてホームページで解説してあります
歴史的な建築を模して、しかし本格的に建設された堂塔が並んでいる。

階段の上に立つ五重の塔は、二月に行った奈良の室生寺のものをモデルにしているのそうだ。
納得※こちらから二月に奈良を訪れた時のブログをご覧ください
室生寺とちがって芯柱は鋼管が使われているそうだが。


「孝養門」は日光の陽明門がモデル。


↑本堂は平等院鳳凰堂がモデル。


高さ十五メートルにもなる観音様のモデルは、法隆寺夢殿に秘されている聖徳太子に似せたといわれる救世観音。それにしても大きい。
**
ここを訪れたのは上のような再生産建築を見るためではない。

まさにここにしかない、冒頭のような「未来心の丘」のため。
「天気が悪かったらやめておこう」と思っていたが、今日は海も大理石も輝いている。

と、ここで旅メンバーのおひとり、尾道「なかた美術館」の中田さんが杭谷さんと連絡をとってくださっていた。
美術館で彼の作品を購入していたこともあり、今でもイタリアから戻ると美術館に寄っていかれるのだそうだ。
でも、「日本にいない時が多いからお会いするのは無理だろうな」と思っていたら…なんと前日の新聞に4月29日から「未来心の丘」で展示会をすると掲載されていた(^^)
※拡大してお読みください

アトリエ=作業場は丘の下にあった
巨大な石からうみだされる作品制作はまるで工事現場のよう。
体力がなくては材料と対峙することさえできない。

「石と対話して中から姿を彫り出す」と、
まるでミケランジェロみたいなことをおっしゃる。
これらの大理石は、ミケランジェロが制作に使ったカラーラ山からコンテナで運ばれてきたもの。
世界中の彫刻家が知るカラーラ山の大理石を、これだけふんだんにつかった場所が瀬戸内の小さな島にあるのは驚きだ。
十七歳のころに刻んだという小さな観音像を見せてくださった。
安心した。
誰もが取り組む基礎的な写実を、杭谷さんもとおってこられたのだ。
十代の作品というにはこれも抜きんでた力量を感じさせるが。

そこからこんなダイナミックな抽象造形をはじめるのに、どのようなきっかけがあったのかしらん。
「ファッツィーニからいつも『個性をだせ』と言われていたんです」
ファッツィーニとは、二十代でわたったイタリアでの師匠。
技術も才能もあったからイタリアで学ぶことができたのだろうけれど、「上手い」だけでは成り立たないことはどんな表現の世界でも同じ。
どのようにして乗り越えられたのかは本人にしかわからない。
しかし、乗り越えて自分自身の表現を獲得したからこそ、この「未来心の丘」の話が耕三寺さんからもたらされたのだろう。
それは杭谷さんの生涯でも指折りの幸運だったと言ってよい。
表現を自分の生業とする人の中で、こんな場所を得られるのはごくごく限られた人でしかないのだから。

いっしょに丘にのぼり、案内していただいた。




ぱっと見にはわかりにくいが↑この塔は猫が月を見ている姿が組み込まれている
真ん中は空洞になっている↓


抽象彫刻だとばかり思っていたが、こんなのもあるんだ。

完成した作品は作者の手を離れるとよく言われるが、見る人がそれぞれ自分の見方をすればよい。
↑これなんか、小松には「氷山」でした(笑)

階段は波なのかしらん。
「大理石は水の性質、木は火の性質、日本人は木の性質だから怒りやすい(火がつきやすい)んです」
杭谷さんが言ったことが、自然に思えた。

頂上のモニュメントは何なのだろう?
祈る手?天のエネルギーを受け取る場所?
とにかく一度見たら忘れない姿。



カフェも大理石


しかし、もっとも印象的だったのは、我々のまわりを走り回って遊ぶ近所の子供たちがいたことだった。
この場所は子供たちに開放されていている。
小学校ぐらいではこの場所の特別さはわからない。
ずっとずっと先になってから、故郷の大理石の丘はほかにはなかったのだと、気づくだろう。
その時にはきっともういなくなっている(かもしれない)杭谷さんの事も知るだろう。
その時にこそ、表現者としての本懐が遂げられるのではないかしらん。


今回、杭谷さんとの出会いをつくってくださった尾道在住の方々とはここでさよなら。
我々は大三島経由で、今晩泊まる大久野島へむかいます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《手造の旅》尾道と瀬戸内の島々~因島水軍城、白滝山、「一本松」の記念碑

2021-04-21 11:31:40 | 国内
フェリーに乗りこむ寸前で車が停止した。
「この車、高さが2.6メートルなんです」

「たくさん乗ってるからだいじぅようぶだよ(笑)」
車は慎重に動きだし屋根をこすることなく乗りんで出航。ほっ。
瀬戸内を感じていただくためにできるだけ船をつかう行程にしたが、思いがけないことがあるものだ。
バス会社を下見した時に見たもう一台のHINOのバスは車高が高かった。
今回このTOYOTAを指定していなかったら、フェリーに乗れていなかった。
ほっ。

向島から因島に入る

↑今回の旅企画でいちばん発見が多かったのがこの因島
※下見の時に手に入れて読み込んだ冊子を載せました


最初は誰もがイメージする村上水軍について、水軍城で今井さんに解説していただいた。
この「城」はそのカタチをした博物館。もともと城があった場所ではない。
が、村上水軍の概略を知るには適した場所だ。

↑水軍の三種類の船。面白いのは右の中型船の先端。敵の船に突進して穴をあける突起がある。

↑船上の戦いで鎧武者は不利。陸戦用の防具をつけた相手なら↑この道具でひっかけて海に落とせばよい


↑村上水軍の祖は南朝の要請によって長野からやってきた村上氏、熊野水軍の応援をうけ瀬戸内の覇権をにぎると、三兄弟が三つの島に分かれて支配をはじめていた。
その血筋は受け継がれ、現在の因島村上氏の当主は女性
この場所から海は見えない。因島の中に二十四建てられていたという砦や城塞のあった場所ではないのである。

↑ここの次に行く白滝山の上からはぐるりと見晴らせるのだけれど↑
降りて、駐車場の近くで無料のみかんをいただきました(^.^)
**

白滝山(226m)からの絶景

↑因島村上氏の本城だった「青木城」は手前の丘・標高50mほど。
古くから修験道の修行場だった白滝山には観音堂が建設されていた。

そこにおびただしい数の石像を出現させたのは江戸後期十九世紀はじめの柏原伝六。
※三月の下見でそのいきさつを書きました

白滝山の「極楽」に登るには、八合目の駐車場から階段を登らなくてはならない。

なので、一般的なツアーには入らないことが多いのだが

登ればそれだけの価値がある場所だ。
観音堂の前でデコポンがふるまわれていた(^.^)

かつてはふもとからこの階段を登っていたのだから、楽になったものだ(^.^)

山頂に突き出していたのだろう巨大な岩石をそのまま彫り出し、尾道から呼んだ石工たちに名刺代わりの佛を刻ませ多宝塔をのせた。

別の巨石の上には修験者を表すのか、天狗たち↑

この巨石の端には異人のような顏が突き出している。堂守をしておられる峰松さんの祖先も、かつて山上の極楽を出現させるのに尽力した一人だったそうだ。

伝六亡き後、その仕事を完成させた柏原林蔵が自らの姿を自らで彫ったと伝わる等身大より大きな立像↑

三月に見た時よりも今日の方が表情がよくわかる光だった↑

↑昭和二十年代にこの場所を整備するために出資した人々の名前が刻まれた碑↑
いちばん左の「村上勘兵衛」という名前、因島を除虫菊栽培の中心地にした人物↓

山を下り、車で★一本松というところで↑柏原林蔵さんの子孫の林造さんと待ち合わせ。
かつてはここまで小さな川が流れ込んでいた。長い年月どれだけの土地を埋め立てていったのか、人々の苦労がわかる。
↑ここに「村上勘兵衛」に捧げられた碑がある↑林造さんのまとめらた「ふるさと重井」にそのいきさつが書かれていた。
※村上勘兵衛さんがどのように除虫菊栽培を因島にもってきたのかが書かれたページをこちらに載せました


因島からとなりの生口島(いくちじま)へ向かう。

建設中の橋が遠くにみえた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする