旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ミラノはもっと面白い

2014-10-22 01:38:44 | イタリア
10月21日《手造の旅》北イタリア小都市めぐり6日目の午後。
クレモナを午後二時に出発し、一時間半ほどでミラノの大聖堂まで徒歩三分のホテルへ到着・チェックイン。

今日は通常のツアーでは行かないアンブロジアーナ図書館・博物館を案内していただくことになっている。
もちろん道すがらにも、まだまだ知らないことをたくさん教えていただいた。

下の写真の銅像はアレッサンドロ・マンゾーニという19世紀のイタリアを代表する小説家・詩人。イタリアの統一後は、国王によって上院議員にも任命されている。日本で言えば明治の元勲の一人にあたるような人物。彼の名前を冠した通りや広場はイタリア中にある。彼の作品が統一戦争を遂行中のイタリアのひとつのシンボルになった。
ここに彼の銅像が置かれているのは理由がある。

1873年1月6日、後ろに見えるサン・フェデレ教会を出たマンゾーニは突然倒れて頭を強くうった。長期の入院の間、4月28日に長男の訃報がもたらされ、それがマンゾーニの心の最後の灯を消してしまったらしい。5月22日に88才で世を去った。
国葬の際にはヴェルディが作曲したレクイエムが演奏されたそうである。

こんな話ちっとも知らなかった!

大聖堂の前も少し第二次大戦中、砲弾があたりはしなかったが、その破片がブロンズの扉に当たった跡がある。


アンブロジアーナ図書館・博物館ここの見ものは入口左の帯にあるカラヴァッジョの「果物籠」と、右の帯のダ・ヴィンチ作「音楽家の肖像」。
それに、ラファエロがヴァチカンに画いた「アテナイの学堂」の実物大デッサンがある。
ダ・ヴィンチが残した草稿=通称「アトランティック・コード」が収蔵されていて、いつもテーマを決めて展示替え公開している。
絵画も中世からバロックまでなんでもござれ。ミラノらしくダ・ヴィンチの影響を受けた画家の作品に見ごたえがある。中でも、「岩窟の聖母」を共同制作した言われるデ・プレディス兄弟の女性肖像画は迫真の出来栄え※モデルが誰なのかは諸説ある
いずれにしても、同じ部屋に置いてあった「音楽家の肖像」と何度も見比べて思ったのは、これが「レオナルド作」となっていても、誰もが納得するだろうということ。

入場してラオコーンの模造をすぎると写真撮影禁止。是非、ご自分の目で確かめてみてください。
大聖堂から歩いて五分もかからない場所にあるのに、ミラノを観光する日本人グループはほとんど訪れない。

今日は一時間半、たっぷり説明していただいたが、んん、まだまだ見るものがありそう。見る側の知識や意欲・集中力も必要になる。
外へ出るとちょうど美しい夕暮れの時間になっていた

夕食は近くの老舗レストランにて。
入るとすぐに、この季節ならではのコレ!こうしていただきました↓

新鮮だからサラダにも
エビとルッコラとオレンジのサラダ、この取り合わせは日本ではあまり見かけないけれどいけてますカラスミパスタ あ、次のトリュフのパスタの写真撮り忘れた!すんません。
そして、やっぱりお肉ははずせません

徒歩でホテルまでもどって、本日終了。

**
《手造の旅》7日目、10月22日今日はロンドン経由帰国便に搭乗する日だが、午後一時まで自由時間。
ホテルが町のど真ん中にあると、とても有効に使える。
小松はしばし休憩の後チェックアウトし、中心部にあってもいつもは見る時間のない場所を二ヶ所見てきた。
●サン・ゴッタルド教会の鐘楼
大聖堂前の広場から建物の屋根越しに見えるので気になっていたロマネスクの鐘楼。今日はその本体を確かめてみよう。

レンガの赤と大理石の白が青空によく映えている。
近づくと尖塔の先に風見の天使がくるくるまわっている。持っている旗先にヴィスコンティ家の蛇の紋章が見える。

案内板によると、この教会はミラノ公アッツォーネ・ヴィスコンティの宮殿付き礼拝堂として1330年から36年にかけて建築された。
もともとは聖母マリアに捧げられた名前になるはずだったが、アッツォーネ自身が苦しんでいた慢性通風をなんとかしてほしいという願いの為に、痛風の守護聖人(そんなのがあるのです)聖ゴッタルドにささげられることになったとのこと。
内部は単身廊の単純な形で多角形のアプスになっているとか。なるほど、外側からそのアプスが見えてきた。

中へ入ろうとおもったら…あぁあ、修復中。ま、これはよくあることなので仕方ありませんまた次のチャンスを待ちます。今度はローカルガイドさんに詳しく説明していただくように設定しようかしらん。「あなたの知らないミラノ観光」楽しそうでしょう?

入れないので舐めるように外壁を見ていたら、窓の下にオリジナルのものと思しき文字があるのをみつけた磨滅していて読み取れません…これも次回への宿題。

鐘楼についても案内板に書かれていた。これはクレモナ出身の建築家フランチェスコ・ペコラーリによるもので、故郷クレモナにあるトラッツォと呼ばれる112mの塔のデザインに影響を受けているのだとか。なるほど!ちょうど今回も行ってきたばかりです。下の写真がクレモナの大聖堂とその向かって左に建つトラッツォ。これはもともとはクレモナ市が建てた純粋な塔だったのだが、今では教会の鐘楼になっている。

上部、確かにミラノのサン・ゴッタルド教会と似ております。このトラッツォは1309年に完成したものだから、ミラノのサン・ゴッタルドは当時の最新流行をいち早く取り入れたデザイン、ということになろうか。調べてみると、彼はミラノにもう一つ似たような鐘楼をつくっているのがわかった。

こちらがそのキアラヴァッレ修道院※写真はWikiより引用。
なるほど、こちらも似ています。場所を調べていると、なんだ、今日飛行機に乗るリナーテ空港のすぐちかくにあるのではないか。しかも、より創立の古いシトー派の修道院なのだそうだ。こちらも、いつか訪れる日がくるまでの宿題としよう。

ゴッタルド教会にくっついた「王宮」は、現在複合美術館になっている。2014年10月現在、ゴッホの展覧会をやっていて地元の人々にも大人気。入場待ちの行列ができていた

時間があったので、もうひとつ、トリノ通りの美術好きにはつとに有名な教会へ。
●サン・サティロ教会ここは建物をたてるスペースが限られていて、建物の後ろに十分なスペースをとれないのがわかっていた。依頼された若きブラマンテ、15世紀流行りの手法で対応した。それが、これ。

どうです、奥まで建物が続いているように見えるでしょう。それは、錯覚ですが。
実際には奥の壁のくぼみは97センチしかない。つまり、T字型の空間をどれだけ十字型に見せるかの挑戦がされているのだ。

後年、法王ユリウス二世によってヴァティカンの改造に力を発揮するブラマンテらしい。

この偽アプスを見にやってくるわけだが、この教会自体も随所に見どころがある。
左奥にある八角形をした礼拝堂の雰囲気がロマネスク的で個人的に好み正面の彫刻はさておき、空間を囲む柱のそしてその柱頭の美しさ。古代のものと中世のモノとが混ざっている。
特に印象的なのが、ロンゴバルド時代を感じさせる、だれかが「セミ型」と呼ぶデザイン。たしかにセミの顔に似たふんいきのぐるぐるですね(笑)


外へ出て、建物の後ろにまわると、確かにすぐ後ろは道になっていて、十字型に建物をつくるスペースがなかったことがみてとれる。さっき見た八角形のスペースの屋根が見える。
そして、となりの鐘楼は9世紀の、ミラノでも屈指の古いものになるそうな。

帰国してからもう少し調べてみると、この鐘楼の基部には古代の石がたくさん再利用されていて、中には孔雀が刻まれているものがあるのだと分かった
・・・これもまた次回への宿題・・・ばっかり増えます。

ミラノは「最後の晩餐」だけではない。もっともっと見るべきものがあるおもしろい街である。



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ヴァイオリンの町クレモナで、ニコロ・アマティの生演奏を聴く

2014-10-21 00:34:57 | イタリア
パルマを出て一時間ほどでクレモナに到着。ヴァイオリンの街として世界に知られている。
バイオリン博物館は以前からあったが、昨年一新したというので楽しみに見学コースに入れた。
午前9時40分到着、同じビルにはおしゃれなカフェレストランも併設れていた

10時といったら10時ちょうどにドアオープン今日は専属の日本人ガイドさんに案内をお願いしてある。さらに、事前リクエストで25人分のチケットを払えば開催してくれるというミニ演奏会もお願いしている。
建物自体もおもしろい。1941年に建築された「合理主義建築」と日本語に訳されるらしいが、要するにムッソリーニ時代のファシズム様式を合理的に美しく仕上げたもの。たしかに美しくまとまってアールデコ的な雰囲気もあるここから先は写真撮影禁止!

●まずはヴァイオリンという楽器が誕生する以前のルーツ楽器のコーナー。
アラブのウードという楽器が東と西に伝播して、中国から日本では琵琶になり、ヨーロッパではリュートになっていったそうな。
このあたりでは、ブリッジが平らで単音演奏には適さない、吟遊詩人が伴奏に用いたもののようだ。

やがて、一弦一弦を個別に弾けるようにするためにブリッジが盛り上がり、弓を弾きやすいように胴の横のところを切り取り、女性の腰のようなかたちになったというわけ。なるほど。

およそ1560年頃に現代のヴァイオリンの形が形成され、そのころには上下の板をつなぐ「魂柱」も存在するようになった。

●誰か特定の人物がこの形を考え出したとは言えないが、クレモナの職人集団の知恵は確実に影響を与えたと考えられている。

クレモナの職人たちの元祖は1534年にフランス宮廷に38丁のヴァイオリンをはじめとする楽器を納入した記録が残る、アンドレア・アマティ。裏板にシャルル九世の紋章とモットー「正義と慈愛」が書かれたものもあった。

アンドレア・アマティの孫にあたるニコロ・アマティ(1596-1684)が、多くの弟子を育て、その中のひとりが、かの有名なアントニオ・ストラディヴァリであります。ストラディバリがあまりに有名になってしまったので、彼の像が博物館前にたっております。


17世紀半ばにストラディバリをはじめとする職人たちが工房を構えていた一角は、今は新しいビルが建っている。
さらに、ストラディバリが葬られたドメニコ教会も取り壊され、ローマ広場になってしまった。
彼の墓のプレートコピーと言われるものが、墓のあったあたりに記念碑になっている。


楽器博物館には、金額のつけられないような名器がずらりと並んでいるが、これらの楽器は弾かれいなくては朽ちていくのはまちがいない。なので博物館ではちゃんと鳴らす係りの人がいるのだそうだ。

さて、11時からは、我々の専用ミニコンサート。
どの楽器がその日に使われるのかは指定できない。ヴァイオリン学校の先生だという人が今日もってこられたのは、なんとニコロ・アマティだった。ストラディバリに比べるとやわらかい優しい音色だというが、比べて聞くことなどはできないのでなんともいえない。

今日、その楽器を用いて演奏されたのは、バッハ三曲、それに現代曲かと思うような技巧の曲。
25分の演奏の間、ほんの二メートル前で鳴っているその古い木の箱に驚かされた。
二百年以上前の楽器が、現代の曲を楽々演奏できるレベルに、すでに至っていて、
それが現代の演奏家を充分満足させるレベルで使われているという事実。
ヴァイオリンというのは、楽器のひとつの完成されたかたちなのだろう。

二十五人分のチケット代金を払って、七人の為にミニコンサートをしてもらった価値があった。

博物館のブックショップには、ここだけにしかないだろうお土産もある。
「音楽の香り」と書かれて、ヴァイオリンの削りくず。



***
旧市街も少しだけ歩いておこう。

もともとロマネスクで建築された大聖堂のファサードは、改築され丸窓がつけられ、頂上の三角屋根の部分も改築されている。


入口前のポータルでは、この地方の名産品の相場が決められていた。
それは「レンガ」。ローマ時代からこのあたりの土はレンガを作るのに最適で、
その販売相場をこの大聖堂の列柱前で商人同志が決めていたのだそうだ。

「トラッツォ」と呼ばれる高さ112mの塔は、元は市の持ち物だったが、現在は教会の鐘楼としてつかわれている。
はめこまれた天文時計には、日食月食をさすとする針までつけられている。

★この町の紋章は「金の球を握った手」
伝説によると、クレモナは神聖ローマ皇帝に税金として黄金の球をつくって献上していたのだそうだが、それに不満を持った一人の若者がきっかけて暴動が起こり、皇帝は譲歩して黄金の球を市民のものとしたという。


***
午後三時半過ぎ、ミラノ大聖堂徒歩三分のホテルにチェックイン



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パルメザンチーズとバルサミコ酢の工場を見学

2014-10-20 02:15:30 | イタリア
《手造の旅》北イタリア小都市めぐり5日目~六名+小松の旅だから出来る、今回の旅ならではの日です(^^)/

モデナの南、ブドウ畑が広がる丘陵地帯にあるアグリツーリズモで目覚める


朝食は8時から。でも、遅すぎるとは感じない。
太陽が昇ってからちょうど良い時間に朝食だ、という感じ。急ぐ旅ではこういう朝食を楽しめません。

メニューは文字にしてしまうとそれほど変わったモノではないのだが、ひとつひとつの質が良い。
写真から伝わるとよいのですが
手造りのジャム、いろいろな材料の味わいがある。写真いちばん右の素材がわからなかったので訊ねると「ペスカ、ペスカ、えっと英語でなんだっけ」と辞書をひいておしえてくれた
**

農場民宿を出てすぐに一番近い城塞の村が見える


★二十分ほどでマラネッロ近郊のパルメザンチーズの工場へ到着。
マラネッロはフェラーリの街として有名。

簡易衛生服を着用して行程を見学
機械化しているように見えても、結局は昔ながらの方法で人間がつくっているのだと実感。
結局美味しいものというのは、安く大量生産など出来ないのがあたりまえなのだ
飽和食塩水の中で浮かぶパルメザンチーズ。長い棒でひっくり返す。


パルメザンチーズはとても価値があるものなので、商標をつけるのもきっちり管理されている。これを型枠に入れる。

そして、熟成の棚で12ヵ月、または24ヵ月、と寝かせる。
最終的に検査に合格したものが印を押されてそれが偽装されないように緑色に見える確認チェックがはいる。
12ヵ月モノと24ヵ月モノを味わってみると明らかに違う。それは良し悪しではなくて好みですね。

直売所で切ってすぐに真空パック
五百グラムで七ユーロほどでした(^^)

***

★次はバルサミコ酢をつくっている所へ行こう。
こちらはブドウ畑の中にある家族経営の小さな「工房」と呼びたい場所。
この地方の発砲赤ワインランブルスコの一品種であるグラスパ・ロッサの葉が赤く紅葉している。白ワイン品種も植えられていて、このしぼり汁を薪で煮詰めていくと、甘い「ワインの元」が出来る。オーストリアあたりで「モスト」と呼ばれるもの。おいしく試飲させていただきました

ワインをつくるのとは反対に、温度差のある屋根裏で寝かせる。その時に何の木をつかったかによって、味わいがかわってくるのだそうだ。樽は菌が息をできるように開けた状態にしてある

樽に木の名前が書いてある


熟成には8年、15年、25年、など長い年月が必要となるのが手造りバルサミコ。この地方では子供が生まれると、その年のものを名前を書いて寝かせておき、結婚式に双方の家で持ち寄って開けたりするという。ここのご家族のお孫さんダビデくんの樽がこれ

バルサミコは独特の形の入れ物に入れてつるしておかれた。それがこの入れ物今でもバルサミコの協会?のマークになっている

高級バルサミコは出荷の時に差別化されるための認証をとり、独特のボトルに入れられる。それがこのボトルこれに入れて認証をとった商品は、ガイドさん曰く「30ユーロも高くなる」のだそうだ。

ここの小規模な「工房」のオーナーはそういうのが気に入らず、専用の瓶は使わずに、自分たちのルートで出荷しているそうな。
なるほど、どの業界でも同じなんだ。自分の商品に自信があれば、大量生産品のルートに乗せずに、しかも上品質なものを良心的な価格で提供できる、ということ。※旅行だって同じです(^^)

いよいよ試食!
15年もの+さっきのパルメザンチーズ工場からもってきてもらったリコッタチーズ

25年もの+パルメザンチーズ

この25年ものは、どっかで食べたことのある味・・・そうだ、梅肉エキスにそっくりであります。
この日の夜に行ったパルマのレストランで出されたものも15年ものだったし、かならずしも熟成が進んだものが上モノとはかぎらないのがよくわかった。
要は自分が好む味わいとして楽しめることが重要なのですね。

~この日の午後に訪れたパルマについては、こちらからお読みください。




※工業製品では熟成を早めるために先にできているワイン酢を入れたりするのだそうな。今回大量生産の市販品と比べてみると、市販品ではお酢の咽るような香りが強いのに対し、この工房の15年ものになるとそういう感じがまったくなかった。

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ノナントラとモデナとカルピを見学し、アグリツーリズモへ泊まる

2014-10-19 15:13:59 | イタリア
ラヴェンナの朝は霧だったが、モデナが近づくころには晴れてきた

《手造の旅》北イタリア小都市めぐり4日目。
世界遺産のモデナ大聖堂へ行く前に、モデナの北10キロのところにあるノナントラの修道院跡を訪れる予定にしている。ここはかつてベネディクト派の大修道院があったところだが、現在はその一部だった聖シルベストロ教会だけが残されている。
ファサードは、実は1913年から20年にかけて、昔の姿をとりもどすべく大改修された。
この写真が改修以前のもの⇒ノナントラ最盛期の形状をとりもどさせたいとおもったわけだ。

簡素なファサードは12世紀ロマネスク彫刻が美しいポータルがある。古いとばかにするなかれ、ロマネスクのデザインというのは、時に現代でも(現代なればこそ)ヒットしそうなデザインがたくさんみられるのだ。この羊いかが?


昨年来た時には入れなかったクリプトへ
予約しておいたら、2012年の地震で荒廃して修復途上の教会本体もちょっとだけみせてくれた。

★ノナントラについてはこちらにもう少しかきました。

**
11:30モデナ旧市街中心、世界遺産指定されているイタリア屈指のロマネスク建築の大聖堂の塔。

日曜日の大聖堂前はマーケットが出てにぎわっている

昼食は出店で売っていたティジェッレというパンみたいなものにラルド(豚の脂肪を味付け熟成させたもの)とパルメザンをはさんだものをこれについて、翌日もうすこし詳しく分かったのでこちらに書きました。

市場で見つけるといつも買うのがハチミツ日本で買うより安いし、多様な味わいがあり、店によって確かに個性がある。

モデナはボローニャの全長42㎞には程遠いが、やはり長いポルティコがある

エステ家が本拠地フェラーラを奪われ(後継者不在でローマ法皇クレメンス8世に没収された)、モデナに本拠地を移して建造した侯爵宮殿がこれ。

現在は軍学校になっていて、231人の学生が学んでいるとか。ここの学生は街でも必ず制服の着用が義務付けられている。ピシッとした制服姿をよくみかけた。

**
今日のローカルガイドさんは、モデナの北18キロに位置するCARPIカルピという街に住んでいるという。
カルピがミシュランのガイドブックでちょっとだけ言及されていたのを思い出した。「きれいな広場のある町」と紹介されていたし、良い機会だから案内をお願いすると、喜んでくれた。自分の街をめったにやってこない日本人に案内できるとは思っていなかったでしょうね。

★カルピの町について、こちらにもう少し書きました。

***
今晩の宿泊は、モデナの南にあるアグリツーリズモ
全部で七部屋しかない、農場の中の一軒家である。こういう民宿の様な施設は差がはげしいしツアーには使いにくい。地元の日本人が自ら調べてまわって選んでくださったところであります。部屋は個性豊かで楽しくさせてくれる内装

到着したらワイン畑を見晴らすテラスでまずはいっぱい赤ワインの発泡酒ランブルスコの原料になるグラスパロッサは赤く色づいていた


わんちゃんとうさちゃん夕食までゆっくり散歩していると、野兎も飛んででた。

いちばん早いタイミングの19時半で夕食。
カボチャとポテトとチーズと卵を練って、バルサミコソースを添えて。
中身はホウレンソウとリコッタ。カラっといためたベーコンがちらしてある。
ほろほろ鳥、こちらもバルサミコソースがよくあう。
いっしょにもちろんランブルスコを

静かな農場の夜でした。
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ラヴェンナ、サン・ヴィターレ聖堂をもっと

2014-10-17 12:04:09 | イタリア
《手造の旅》北イタリア小都市めぐり、三日目。

ラヴェンナの輝くモザイクは必見!
まずは定番箇所のサン・ヴィターレ聖堂を小松なりの角度からご紹介。

ゴート人の王テオドリクスの治世の後、紀元後540年にはいってきた東ローマの主要人物の肖像モザイク。※テオドリクス王については昨年こちらに書いたものをご覧ください。

左から二人目が皇帝ユスティニアヌス。彼自身はラヴェンナへは来ていない。コインなどの肖像画から起こしたイメージだろう。

他の面々はモザイク職人が実際に目の当たりにしていたと思われる人々なので、実にいきいきとその性格まで写し取っているように感じられる。
向かって一番左はラヴェンナを占領したベリサリウス将軍。三人目・皇帝の隣はユリアヌス・アルゲンタリウス(銀行家ユリアヌス)出資者になる。右から二人目は頭の上に名前が書かれているので確実に司教マクシミアヌスと分かる。一番右の人物も明らかにモデルがあったと思わせるが人物は特定されていない。
全体図はこんな

対面する壁の女性たちの部には、個性を感じさせるものは少ない
ただ皇后テオドラだけが別格。あとはモデルはあったかかもしれない侍女・侍従かと推察。

「熊使いの娘だったのを皇帝に見初められた」とも伝えられるテオドラの強い性格は、皇帝ユスティニアヌスの貴族風なおだやかさとは対照的に見える(笑)

こちらがサン・ヴィターレ聖堂内部の雰囲気

六世紀の前半建造ということは、コンスタンチノープルでは、かのアヤ・ソフィアが現在の姿に建造されていった時代。ラヴェンナにおけるアヤ・ソフィアを現出させようとしたように感じられる。

コンスタンチノープルのアヤ・ソフィアがたった一年ほどで完成したのと違い、こちらは完成まで四半世紀を要し、その間に三代の司教が存在した。礎石を置いた時の司教は、正面上のモザイクで、若いキリストと同じ画面におさまっている
いちばん右でこの聖堂を捧げ持っているのがそのエクレシウス司教。


次の司教ヴィクトールの名前は、モザイクには出てこない。柱頭の上の部分を注意深く見て初めてわかる

アルファベットをこのように合わせて個人のモノグラムとするのは、アヤ・ソフィアでも見られる方法だ。

そして、聖堂完成時の司教は最初の写真に出てくるマクシミアヌスということだが、彼が皇帝から贈られたという象牙の椅子が大聖堂博物館に残されている。
これほどの細工が施された象牙の椅子というは、他で見た事がない。これがマクシミアヌスのものだったというのは、彼の名前アルファベットのモノグラムと言われるものがあるから。下の写真の上部にそれが見える。

下に表される中央の洗礼者ヨハネをはじめとする人物の表現にひきつけられる。

他の部分には別の彫師すくなくとも二人がかかわったとされるが、確かに雰囲気が異なるのだ

この聖堂の壁には、創建当時からのオリジナルの大理石も数多く残っている。この赤いものは北アフリカ産とされる自然石の色はあせない。

床のモザイクもおもしろが、これは時代も技法の優劣も様々。地盤のゆるいラヴェンナではすべての建物が長い年月と共にずぶずぶ沈んでいく。
この聖堂の床も1950年代までは、現在の約50センチ上に設置されていた。街全体をすくうために大掛かりなポンプが導入され、水没の危機が去った後に現在の床となったのだ。下の写真でガイドさんが手で示しているあたりにその床があった。


オリジナルの床は大変少なく、多くは元のモザイクの破片を再利用した新しいものだ。
入るはずもない場所に文字が刻まれたこういう部分を見るとそれがよく分かる。


こういった事情はただガイドブックを読んで見学しているだけでは決して分からない。地元の歴史をよく知るガイドさんに、時間をかけて解説してもらってはじめて理解出来る事柄だろう。
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