旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ミュンヘンからニュルンベルグへ

2014-12-19 11:56:43 | ドイツ
ミュンヘン市庁舎の塔へ登る乗継エレベーターはたいして大きくない。ひとつめの定員が八名、ふたつめが六名の定員日本人は小さいから8人乗りのエレベーターに詰めて詰めて十五人全員が乗れた。と、おもったら地元ドイツ人が急いでとびのってきて、ついに十六人!倍の人数でのりました。
下へ降りたら、待っていたひとがびっくり。どんどん降りてくるので「何人のってたの?」

正午の仕掛け時計はこの手のものとしては動きもあって時間も長い。

見守る公爵夫妻については⇒こちらから書きました。

昼食後、ニュルンベルグへ向かう。その方向に、バイエルンと1860の本拠地スタジアム「アリアンツ・アリーナ」が見えてきたアリアンツはドイツ最大の保険会社。

16時にはニュルンベルグに到着。
ここはバイエルン州とはいっても北部のフランケン地方の中心都市。
1806年まではフランケンという国の首都だったのだが、ナポレオンによってバイエルンに併合されてしまった。
だからなのか、フランケンとバイエルンはあまり仲良くないのだとか。日本でもそういうのありますね(笑)

16時半からクリスマス市へお連れしましょ。
「ドイツ最大の」というだけあります
クリスマス時期、ニュルンベルグの主役はクリスト・キント(幼子キリスト)と呼ばれる、高校生の女の子。
その姿をかたどった巨大な人形が通りに浮かんでいる

マルクト広場までいって解散。夕食には数人て小松の好きなニュルンベルグ名物のこのソーセージをたべに行った。
ブナの小枝で焼く香りの良さ!

「これまで食べたソーセージでいちばんおいしい!」と言ったかたもありました。

マルクト広場の聖母教会に、15世紀末にアダム・クラフトが製作した聖母子の浮彫。
夜のライトアップが殊に美しい
彼の全身自画像がロレンツ教会の聖体顕示台を支えている
また、ゼバルドゥス教会の外壁にある大きなキリスト降下の図の中にも自画像を彫り込んでいる。


ロレンツ教会にあるもっとも印象的な彫刻は、つりさげられた巨大なファイト・シュトース作の受胎告知。
同じく15世紀末から16世紀はじめに活躍した人物。


**
翌日、ニュルンベルグの観光。
旧知のガイドさんと相談して、コースには入っていなかったが、第二次大戦時代の記憶をとどめた場所へご案内した。
ヒトラーはニュルンベルグをゲルマンの街として好み、党大会を何度も開催した。その場所は今でものこされているのだ。
※⇒こちらからご覧ください

もうひとつ。
戦後の「ニュルンベルグ裁判行われたのは、この建物の600号。今も現役の裁判所である建物の別館になっている。


季節の良い時期に、このあたりの歴史をもう少し時間をかけて知ることのできる旅を企画してみたいとおもいます。

***
「皇帝の城」でバスを降り、歩いてデューラーの家まで降りてきたここはデューラーが同じ職人の娘だったアグネスと結婚して住んだ場所。
午後からの自由時間ではじめて中へ入ったが、意外に(失礼)おもしろかった。日本語の音声ガイドもある。奥方のアグネスがデューラーの事を話すという趣向でナレーションされている。

デューラーの作品は一点もないが、一室にそのコピーがあった。これはしかし、ただのコピーではない。1928年に開催されたデューラーの没後四百年を記念して行われた展覧会で、世界中から集まってきた作品をその時に模写したものなのである。つまり、二十世紀にえがかれたものなのだが、描いた人の中にはのちにアメリカのニクソン大統領の肖像画も描くことになった人物もあった。
解説も地元愛にあふれておりました(笑)

※「デューラーの家」博物館で見た絵について、こちらにもう少し書きました。

****
15時になって、聖母教会の前にクリスト・キントが登場ニュルンベルグの高校から推薦を受けてコンペが行われ、二年の任期で選ばれる。
条件は:高所恐怖症でないこと~教会の高いバルコニーから登場しなくてはならないので、ニュルンベルグの歴史についてよく知っていること、三か国語以上話せること。

この時期の郵便局スタンプも特別


長靴型のグリューワインカップにも登場してます






コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テディ・ベアを成功させたのは誰?

2014-12-15 15:26:27 | ドイツ
テディ・ベアで世界的に有名なシュタイフ社は、いまでもドイツの片田舎ギーンゲンにある。
敷地の入口には、マーガレット・シュタイフの記念プレートが置かれている。
一歳で小児麻痺にかかり両足と片手が不自由になった彼女がはじめたのが、このシュタイフという会社だ。

1903年に制作したクマのぬいぐるみ・型番PB55が、アメリカの大統領選挙のマスコットになってテディ(ルーズベルトの愛称)と名付けられ、世界的に有名になった。

だが、マーガレットの最初の成功した商品は、この象の針刺し。
近所で評判になって、最終的に五千個売れたとか。

五千個?
いくら評判になったとはいえ、百年前にこれだけの数を売るのには、ちょっとした商才が必要だっただろう。

それを持っていたののはマーガレットではなく、甥のリヒャルトだった。
彼は美術を学んでいて、動物園で後のクマのぬいぐるみのもとになるスケッチをした。

マーガレットと三十才年齢が違う、彼がやっていた事をなぞっていくと、なにかおもしろい人物だったように見える。こんな写真を残しているし(^^)


後のテディ・ベアもリヒャルトがライプツィヒの見本市に持ち込まなければ、ブレイクのチャンスはやってこなかっただろう。
販売は制作とは違う苦労がある。何かの才能というのは、それを持っている人物が存在するだけで成功するわけではない。

たとえば、ショーケースの片隅でひっそり座っていたこのサルを見るとそれが分かる⇒こちらからお読みください。

見学コースで当時の制作室が再現されていた。その棚にいろいろな動物の骨格や顔や手の形を模索した石膏がたくさん積まれている。

「この動物はどうだろう?動きはこれでよいのか?どんな顔ならみんなが気に入るのだろう?」
これらを作りながらリヒャルトはいろいろ考えたはずだ。
そして、マーガレットおばさんのところへもっていく「こんなのつくれる?」。

器用なおばさんはクマやサルや、きっともっと他にも試作品をつくっただろう。その中のPB55というクマがアメリカでブレイクするとは夢にも思わずに。

シュタイフ・ミュージアムの案内約にはそのオリジナルのPB55くんが登場する


ミュージアムの見学は、この制作室から空にうかびあがっていくという設定になっている。
それをけん引する飛行機ロロプラン前回も見たはずなのだがちっとも気に留まっていなかった。これはしかしこの時代には画期的なアイデアだったのだ。

前出のサルと同じショーケースにおさまっていた1908年制作のタコ型飛行機ロロプラン

竹の骨に布張り。調べてみると、同年正式に商標を獲得したロロプランは1910年から1915年の間に三万四千個も売れたのだそうだ。
大きさは縦横1.8mもあった

1909年には3.6mの大型を制作し、フランクフルトの飛行機コンテストで賞を得た。オランダのコンテストでは高さ800mまで達した。
時代は、人が空を飛ぶという夢を実現する直前。リヒャルトもその夢を追った実業家のひとりだと言えるだろう。

ドイツ軍部は空中撮影に利用できると考え、第一次第二次大戦を通じてシュタイフ社に依頼していたようである。※このあたりの事情はあまり詳しく説明されていない。

現代ではまったく忘れ去られてしまったロロプランだが、リヒャルト・シュタイフという人物の面白さを象徴しているようである。

実業としてのテディ・ベア作りにも、彼のアイデアは生かされている。
現在でも残るこのガラス張り工場は当時としては革新的。明るく快適そう。

***
さて、現代のシュタイフ・ミュージアムはレアなベアももちろん手に入るが大人でも楽しめる場所だ

以前アウトレットはこの黄色い足跡を追っていったところにあったが現在は正面入り口すぐ横の分かりやすい場所に移動していたタグはなかったり、穴があけられて正規品と違えているが気にしなければ充分良い品ものが置かれている。ここまでつくって検品ではねられたからって、廃棄するより良いですね(^^)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハイデルベルグ2014冬

2014-12-14 16:10:39 | ドイツ
12月14日、思ったよりもずっと暖かく、雪もないハイデルベルグだった。
数年前の同じ時期、雪を踏み分けて歩いた記憶もある。

城の庭にも近年クリスマス市がひらかれるようになった。「エリザベスの門」も小屋の中にうもれてしまっている。
1616年にイギリスから輿入れした16歳の王妃の為に、フリードリッヒ五世が一夜で建てさせたものと伝わっている。

★城の内部は今回ツアー料金に含まれてはいなかったが、はじめてハイデルベルグを訪れるかたばかりで少人数十三名だったので、皆さん個人払いで入場することにした。

城の中、世界一の大樽も健在
それを守るペルケオもいつものようにワインを口にしているうしろには大樽を作る時に使ったというコンパスとカンナが見える。

ペルケオは宮廷道化師だったので、これが実際の身長だっただろうと思われている。
この木造は18世紀にカール・テオドールが修復した時につくられたのだろうけれど。大樽にC/Tのイニシャルが見える。

城のテラスから見下ろす市街は少しけむっていた

ケーブルカーで市街に降りる。

市内で一番古いという「騎士の家」持ち主だった商人ベニエが、フランス軍にあらかじめ献金したか内通したかで焼かれなかったのだとか。

大聖堂の中のステンドグラス。いちばん手前には現代に広島原爆を記憶する為につくられたものもある

クリスマス市は屋台で売られている食べ物も魅力とくにお気に入りのきのこについて⇒こちらに写真載せました。

**
昼食後は本日宿泊のシュトットガルトへ。

この写真右手に写っているのは現代美術館。夜は特に美しい。

人がいっぱいのクリスマス市から離れて、このすっきりした建物で休んでおりました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルフテン・ブリュッケ~ベルリン封鎖の記憶

2014-12-13 15:33:19 | ドイツ

12/13午後五時過ぎ、フランクフルト空港からハイデルベルグへ向かう。

空港敷地内にあるかわった形をしたモニュメントがハイウェイを走るバスから、ほんの十秒ほど見える。

「ルフテン・ブリュッケ=空の架け橋」は現代ドイツの歴史の一ページを刻んだもの。せっかくドイツを訪れたのなら、是非知っておいてほしいとおもって、このルートを通る時には出来るだけ解説している。

★ベルリン封鎖1948年6月~49年5月
第二次大戦の後、ドイツ全土だけでなく、ベルリンも戦勝四か国によって分割統治されていた。
ソ連は東ドイツのなかに孤島の様に残る西ベルリン地区(米英仏支配地域)をなんとか放棄させようと、1948年6月、道もライフラインも封鎖してしまった。兵糧攻めである。


これに対してアメリカとイギリスは、飛行が許された細い細い空路を最大活用して、西ベルリン市民に生活物資を届ける空輸作戦を実施した。当時の西ベルリンは人口200万人。これらの人々が必要とするすべてを空輸するなど不可能と思われた
※ベルリンのテーゲル空港はこの時に突貫工事でつくられた飛行場がもとになっている。

が、百機以上の輸送機をかきあつめた米英は、結果一日五千五百トンにのぼる輸送を行い、ソ連の兵糧攻めを耐え抜いた。

アメリカのパイロットのひとりは、甘いものに飢えた西ベルリンの子供たちのために、飛行機からハンカチをパラシュートにしたチョコレートを撒いた。
一人がはじめた行為はやがてアメリカが軍をあげておこなう作戦となり、非道なソ連のやりかたとび好対照の効果をうんだ。

ソ連のさまざまな妨害や事故にもかかわらず続けられた支援によって、西ベルリンの市民は占領国のアメリカ、イギリスに対して感謝するようになり、絆がうまれ、ソ連が意図したのとは全く逆の結果となってしまったのが、このベルリン封鎖だった。

ベルリンの地下鉄駅「ルフテン・ブリュッケ」駅を上がると、同名の広場にフランクフルトの方向を向いたまったく同じ形をしたモニュメントがある。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高知へ日帰り

2014-12-06 07:54:03 | 国内
空気は冷たいが、すっきりと晴れた朝11時前。
高知の海岸線が見えてきた。山が海近くまで迫る海岸線に小さな集落が寄り集まっている。
万次郎の村もこういう場所だったのだろう。
空港を降りてすぐの案内版。ひと目で見どころが把握できるこういう地図は役にたつ。
何気なく撮っておいたもののなかに、あとから符合するものが見つかった。左下のパラソルでアイスクリームを買っている絵がそれ。

桂浜で実際に売っているたのがこれ。アイスクリームではなく「アイスクリン」がただしい。

クリームではなくて、ジェラートとカキ氷の間みたいな食感。なんでも食べてみないとわかりません。
後日調べてみると、咸臨丸に乗ってアメリカへいった勝海舟や福沢諭吉が報告しているそうな。
こちらにメーカーの説明ページがありました←

昼食は地元で人気だという鰻へなぜホンモノの飛行機が置いてあるのか知りたくてHPにアクセスしてみたけれど、それは書かれておりまず。しかし、おいしかった理由がわかりました。
⇒かいど屋のHP
ストレスがある鰻はおいしくないんだ(・o・)

ここで、高知といえばやっぱりカツオでしょう、ということでお店に承諾を得て持ち込みで賞味させていただいたカツオがこれ。
たっぷりした身で、なにより外側の焼きがとても香ばしい。このほとんどを小松がいただいてしまいました。毎日召し上がっているという当地の方は「あぶらがのってたらもっとうまいきに」とのコメント。いや、小松にはじゅうぶん美味しかったですm(__)m

この写真は桂浜への高架。「あ、ここ見た事ある!」渡っている時、大学二年の時に大阪からバイクで四国ツーリングで訪れた記憶がよみがえったこの太平洋の青さが魅力駐車場には闘犬センターがあるそして、有名な海を見つめる龍馬の像高知の市内からは二十キロぐらいあるそうだが、昔の人はよく歩いたからそのぐらいはなんてことなかったんでしょうね。
前出の「アイスクリン」をいただき、浜を見下ろす神社まで上がる
「五色石」というのを、昔はこの浜で拾う事ができたが、今は尽きてしまったそうな。小松も記憶がある。売店で五色セットを売っていた記憶がある。なんなく拾ってみました(笑)
桂浜の上に位置する「県立龍馬記念館」へ。こういう場所を味わい尽くすには相当な時間が必要だが、とにかく自分の目で見て自分にとっての要点を見つけることが重要と思う。

●ジョン万次郎関係の書いたアルファベット一覧表2012年の12月にボストン近郊のジョン万次郎が育ったフェアヘイブンを訪れた。万次郎は十五歳の漁師だったから文字は書けなかった。彼がはじめて覚えた文字は、日本文字ではなくアルファベットだったのである。彼がこのアルファベットを習っただろう学校も訪れた。
★2012年の万次郎の育った町へ訪問した日記は⇒こちらからお読みください。

書簡がたくさんあったが、それぞれの文字が人の性格をもよく表していると感じた。
●たとえば木戸孝允が1866年に龍馬に宛てて書いた手紙のきっちりした書達筆というのはこういうものか、とおもう。
一方、龍馬の文字がこれ。
悪筆で知られた龍馬、木戸のものとくらべるとお世辞にも達筆とは言えないが、分かりやすく豪放で親しみやすい人柄だったのが感じられるではないか。

そして、現代の我々でも注釈と比べれば読める!書き出しの三行はこう。
「さしあげんと申した脇差しハ まだ大坂の使(つかい)がかへり申さず 故、わかり申さず」

木戸の手紙が読み下しと比べても全く読めなかったのにくらべて、現代の目からみても、龍馬はわかりやすいと感じる。

龍馬という人の魅力は、物事の本質をすぐに見てとり、それを簡潔に直裁に表現する力にあったと思うのである。そういう物言い・文章、目指したいですね。

●記念館の一番上の展望室からは湾曲した海岸線が見える。きれいだなぁ、と見ていたら、「そこの下の木の間に墓があるのみえます?あれは罪人の処刑場所やったとこで、唐丸籠に入れられた罪人があそこへ運ばれてきて首切られたんですろ」と説明してくださった。
言われなければわからないだろう。林の間に確かに墓石が長く連なっているのがみえる。

**
★★★今回の最大の収穫はこの干し芋!
こんな甘くておいしい干し芋はじめてでした。「東山(ひがしやま)」と呼ばれているそうな。


※この干し芋については⇒こちらにもう少し書きました
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする