旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

望んだようなユングフラウの景色をハイキング

2012-06-30 22:45:50 | スイス
朝、ウェンゲンのホテルのテラスからぴかぴかに光ってシルバーホルンが見えている。昔、あの白い山頂の方をユングフラウだと間違って覚えていたっけ。
クライネ・シャイディックへ登る電車の窓からもユングフラウがだんだん大きくなっていく。

クライネ・シャイディックからの電車はトンネルがほとんど。列車に設置されたテレビで各国語の説明が次々にながれてくる。ドイツ語、英語、フランス語、イタリア語、中国語、韓国語、みんな真面目なアナウンサー口調の案内なのに、日本語の部分になると突然ハイジ登場!
あのアニメの声で「もうすぐアイガーヴァント駅に到着よ♪」と話し始めるので、皆さん大爆笑。
日本語のわからない外国人も雰囲気が明らかに違うのでにやにや笑うのだそうだ。おもしろい演出です(笑)。

ユングフラウヨッホ駅に到着。しばらく来ていないうちに地下通路にいろんなアトラクションみたいな演出がされるようになっている。この青いモニュメントは、この鉄道を企画したツェラーさんの像とメモがモチーフになっている。

スフィンクス展望台へのエレベーターをあがると…
アレッチ氷河にはうっすらと雲が溜まっているが遠くまで見通せる
アイスパレスを通り抜けて、雪原に出る。
駅に戻り、暖かいミルクを飲んでほっとひと息

**
下りの列車をアイガーグレッチャー駅で降りる。ランチまで三十分ほどあったので氷河を見下ろす場所まで歩いて行った。駅に併設されたレストランで軽く昼食。
午後に入っても山がよく見えている。一面の花畑にみんな少女のようにはしゃいで写真を撮っている
ついでに私も一枚(笑)

***
夕方、せっかくだからスイス料理のラクレットを食べようということになった。多くのツアーレストランではあらかじめ溶かしたチーズがジャガイモと共にテーブルに出される。しかし、本当はじわじわと溶けていくチーズを自分でこそいで食べるのが楽しいのだ。
ウェンゲンでそんな店をみつけて下さったNさん、ありがとう。我々とっても楽みました(笑)
三人から四人にこの機械が一台。
じわじわ溶けて、焼け目がついたぐらいが特に美味しい。しかし、それを待っていると、そのうちチーズ全体が柔らかくなりすぎて焦げなくなっていく。そこを、いかに焦がして美味しく食べるか、みんなで工夫して大騒ぎ。ま、まわりの席がどなたもいらっしゃいませんでしたから(笑)

ホテルへの帰路、空を見上げると、ユングフラウの山頂に薄くなった月がちょうどかかっていた綱渡りのバランスシュミレーション器具が置いてあったので、みんなで代わる代わる挑戦。ガイドさんお上手ですねぇ(笑)
落ちて怪我したらどうするんだろう?と思ってよく見たら「自分の責任で使ってください」と、英語の看板があった。
ホテルにもどり、しばらくしてテラスに出ると、先ほどの月が深い藍色の空に輝きながら昇っていくところであった。
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インターラーケンで美味しいランチを

2012-06-29 16:04:12 | スイス
《手造の旅》列車とポストバスのスイス第四日目。ロートホルンクルムの夜明けはやはり美しかった。
朝食を終えて9時半の始発でブリエンツ湖畔へくだっていく。

湖畔から一般の列車に乗り換えてインターラーケンへ

きのう歩いた湖畔、おとといクルーズから見た城などが車窓をながれていく

インターラーケンについたら、大きな荷物はコインロッカーに預けて身軽に

小松は行ったことがなかったハーダークルムの展望台へのケーブルカーに乗る

十五分ほどで山頂駅、そこから数百メートルあるくと木々がきれて素晴らしい眺望がひろがった

ここはメンデルスゾーンも気に入って滞在していたのだそうだ


天気が良い。インターラーケンからはユングフラウの頂上付近しか見えないが、ここまで上がってくると、左からアイガー、メンヒ、ユングフラウの三山が見えてくる。
**
インターラーケンへ降りると標高が低いので山頂とはうって変わってかなり暑い。19世紀からのホテルが並ぶメイン通りをあるいて、中でも老舗のビクトリアユングフラウホテルが見える頃には皆さん木陰でひと休みしたくなっていた。

今日の昼食も、事前に打ち合わせにきていただいていたので、屋根の下の屋外、とても良い席を用意してくれていた。

前菜はバッフェ、これがとても多彩なイタリアン
そしてメインコースをかなりたくさんの種類があるパスタから選ぶスタイル。
ゆっくりと午後の食事を楽しんでから、川沿いの道を駅に向かう

電車でラウターブルンネンへ、乗り換えて今日の泊まりのウェンゲンへのぼってゆく。

駅から見えているシルバーホルンへチェックイン。チューリッヒの空港で送っておいたスーツケースに三日ぶりに対面。

17時過ぎ、村はずれにおいしい牛乳とチーズの店を紹介してくださるという。

この旅を企画している時、何度となく「ここの牛乳はおいしいんですよ、晴れている日に飲んでもらいたいなぁ」と、何度となく聞かされていた。そう、今日はほんとうにそういう日になったのです。

夕食はもう入らない。
おいしいお昼ご飯をゆっくりたべて、しっかり味のあるミルクを夕方に飲んだらそれで充分ですね(笑)
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ブリエンツで牛を刻む

2012-06-28 14:18:34 | スイス
朝、ギースバッハを船で出発。

今日は対岸のブリエンツまでほんの十分ほどの移動。

夕方までブリエンツで過ごして向こうに見えるロートホルン山頂の山小屋ホテルに泊まる。
パッケージツアーでは有り得ない、ほとんど移動しない、とても余裕ある日。

ちょうど一年前、このブリエンツ湖畔をボランティアガイドしてもらったことを思います。
この時から今回の《手造の旅》列車とポストバスで行くスイス、ははじまったのだった。
その時の日記参照。

湖畔を白鳥がついてくる。

ブリエンツには何度となく来ていたが、ほとんどがパッケージツアーでお土産物屋へ停車するだけ。こんなに美しい村だとはじめて知った。

どの家も、ブリエンツそのものに敬意を表して目立ちすぎないそれでいて美しい佇まいを演出している。

ふと気づいたのだが、この家の造りは今年一月に小松が行ったブータンと似ている。
基礎の部分を石で積み、その上に木造の部分を乗せている。


ここにはスイス唯一の木彫り職人養成学校がある。
生徒は全国から毎年8名ほどをとっているとか。
わざわざ先生が案内してくださった。

生徒たちは学年末で卒業制作に追われている。

ここは日本の北海道のくまの彫り物のルーツにもなっているそうである。
いろいろな話を聴いて、午後の「牛彫り」が楽みになってきた。

昼食は湖畔でサンドイッチ。
夕食を美味しく食べるためにも、お昼はこのぐらいで良いのです。
無駄にいつもスリーコースなんか必要ありません。


★19世紀から続く木彫の老舗JOBIN(ジョバン)の社長が自ら先生をして下さる、牛彫り体験のはじまり!


材料は松の一種だそうだ。荒掘りしてある型からはじめる。
道具は本格的な彫刻刀。指を切らないように慎重に背中の部分後をごしごし削る。時折先生が彫り方のお手本を実演してくれるのだが、見ていると柔らかいチーズを削ぐように木がはがれてゆく。
目を削って首に鈴をつけて耳と角をつけるとほうら、牛らしくなってきました。色付けは各自好きなように。小松はうちの犬(ダックスフンド)をモデルに塗ってみました。
ワイン等飲んでいる間にそれぞれの作品を乾かし、社長自らが修業証を手渡してくださる。ジョバン社長を真ん中にみんなで記念写真

**
午後四時過ぎ、ロートホルン山頂へ登る最終の蒸気機関車に乗る。
幸い視界も良好。

さっき彫った牛を見ると、全体をしっかり観察したくなる

眼下にブリエンツ湖が見えてきた。

山頂駅からホテルまでちょっと荷物をひきずって

洗面台だけ付いたしかしとても清潔な部屋にチェックイン。
尾根にあるこのホテルからはどの部屋になっても素晴らしい眺望が楽しめる。

今日の夕食もまた、シェフから「一番自信のある料理を出します」と連絡を受けている。
そして、出てきた料理は、正直に言ってパッケージツアーで手配して泊まった時に出された料理とは雲泥の差であった。
最初につまみで出てきたチーズとサラミ

これを前菜のサラダと一緒に食べるとぐっと味わいが変わる。
ドレッシングは新鮮なオリーブオイルとビネガーと塩胡椒で自分でつくる。
日本には数限りない市販ドレッシングがあるが、それよりも素材の味を楽しめるのではないだろうか。
メインコースは鱒の一種

はじめに「魚をメインコースにしたい」と連絡があったとき、小松は「え~、さかな?」と思わず言ってしまった。
魚大好きな日本人に山の民スイス人のシェフが満足させられる料理を提供できるのか?と思ったのである。
しかし、その予感は良い方に裏切られ、身も味付けもそして付け合わせの野菜の素晴らしさも!とても満足できる夕食となった。正直に言って、前日に泊まった名門ホテルの夕食よりもずっとおいしかった。
★そしてデザートは本当にここでしか食べられない「グリルしたベリー」

ふわっとしたソースの表面を焦がしてある事によって香ばしさが増す。こんなの食べたことありませぬ。
料理はやはり気持ちが入っていることが重要なのですね。

***
夕食後21時近くなってもまだまだ明るい。
ロートホルンの山頂まで15分ほどゆっくり歩いてゆく。
ほんとうは明日の午前中に歩こうと思っていたアイ湖を見下ろすと、まだまだ雪が残っているのがわかる。

コースはまだ正式オープンしていないので、あすは残念ながら行くことはできない。
日没を楽しんだ後、みんなで記念撮影
小松の彫った牛も記念撮影
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ギースバッハ~ブリエンツ湖半の隠れ宿

2012-06-27 10:39:38 | スイス
アッペンツェルを12:03の列車で出発。
二等席だけののんびりした電車にドイツ人の団体さんも一緒だった。

のんびりした田舎の風景がひろがる。
12:43GOSSAU到着・乗換12:56乗車
13:53チューリヒ到着・乗継12:02乗車
14:58ベルン到着・乗換。ここでブリエンツからのガイドさんとお会いする。誘導してもらってほっとする。ここでは6分の乗換時間しかないのだから。15:04ベルン発
15:57インターラーケン東駅到着。ブリエンツ湖の遊覧船に乗換。
16:07発の遊覧船乗船。
今日はすばらしいお天気。
風もなく暑いぐらいの陽射しである。
今日泊まるホテルは以前から一度泊まってみたいと思っていたこブリエンツ湖の対岸にある森の中の隠れ宿・ギースバッハ。
遊覧船からホテルへのケーブルカーは1879年に設置されたスイス最古のものになるそうだ。

城のような外観
ロビーを入ると

すぐちかくに山から何段にも流れ落ちる滝がある。
夕食前に少し歩いてみよう。
歩くルートはたくさんあるが、滝の裏側をあるいて帰ってくる三十分ぐらいのコースが散歩にちょうどよい。
きのうまで大雨だったということで、すごい水量!
ホテルの下からテラス前へ歩いて上がっていく。
正面玄関前からブリエンツ湖を見下ろすこの立地こそが、このギースバッハホテルの価値。
シックなダイニングでゆっくり夕食を終えてもまだ湖面には太陽の名残があった。

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アッペンツェル~FLECKENな街

2012-06-26 23:03:06 | スイス
スイスを構成する州(カントン)の州都でありながら、とても田舎な雰囲気を留めている街、アッペンツェル。アッペンツェル市がつくった説明によると、こういう田舎でも都市でもない街をFLECKENと呼ぶのだそうだ。駅舎もこんなに小さくて静か。

我々が泊まったロマンティックホテル・センティスは、ランツゲマインデ開催される広場に面しているのだが、これがまたこぢんまりした佇まい

目抜き通りの市長舎がこの赤い建物。白地に黒い雄熊のランパント姿勢がアッペンツェルのシンボル。
その熊ちゃん自身がアッペンツェルの紋章を掲げている像。
市長舎の壁にはめこまれた1405年の戦いを記念したプレート

この戦いが実質的にアッペンツェルの独立を可能にした。刻まれたウーリー・ロータッハという人物は、この戦いで12人の敵を倒したが、「最早武器では倒せない」と思った敵が家に火を放ち殺されたとされる。※WEB辞書Wikiの記述を訳していただきました~1405年6月19日のザンクト・ガレンの記録、1470年のザルネン白書に記載あり。1530年のヴィンタートゥーア年代記にはウエリー・ロータッハの記録はない。

アッペンツェルはもともと近くのザンクト・ガレン修道院の所領であり、その名前の由来もラテン語のabbatis cella=修道院の小部屋または修道院長の部屋、からきている。

★ちょっと歴史の話★
アッペンツェルの農民たちは修道院の支配を嫌い、1377年には南ドイツの反皇帝勢力であるシュワーベン同盟に参加。コンスタンツ市(現ドイツ)や南ドイツの有力な市のバックアップを得て、修道院の要求の多くを拒否するようになっていった。

修道院の派遣した司教が埋葬した遺体の服を剥ぎ取るために墓をあばく行為を強要した事をきっかけに(WEB辞書の記述より)、アッペンツェルはいよいよザンクト・ガレンの司教を追い出しにかかる。

修道院側は対抗してハプスブルグの皇帝に支援を求め、1402年シュワーベン同盟(南ドイツの都市同盟)は皇帝の機嫌を損ねるのを怖れアッペンツェルを同盟から追放、逆に敵対勢力となった。いよいよ戦う他に道がなくなったアッペンツェルははじめてシュヴィーツ(スイス三原州のひとつ)に救援を求め同盟。スイス盟約同盟軍はその時までにハプスブルグの軍隊を打ち破った経験(ゼンパッハの戦い)を持っていた。隣接するグラールス(現スイス)もまた義勇兵を送ってくる。

1403年5月15日トローゲン(現スイスのアッペンツェル・アウサーローテン)を目指して進軍してきた司教とシュヴァーベン同盟の軍隊は、シュパイヒャー(現スイス領)への峠でアッペンツェル軍と遭遇。丘のうえから攻撃してくる百名足らずの少数のアッペンツェル勢を甘く見た彼ら騎兵は丘を登ったところで待ち構えた二千のアッペンツェル軍に遭って驚き退却をはじめた。包囲する三百のシュヴィーツ軍と二百のグラールスからの援軍。司教と同盟軍は六百の騎兵と五千の歩兵を失って大敗を喫したとされる。

1405年再び皇帝軍がアッペンツェルへ侵攻。6月17日には首都アッペンツェルへの入口となるシュトス峠にて激戦となる。アッペンツェルの援軍が現れた事をきっかけに皇帝軍は敗走をはじめたが、この援軍は実はアッペンツェルの女性たちが偽装した集団だったのだそうだ。

二度の勝利の後、アッペンツェルはザンクト・ガレンの市と同盟し(※修道院とではない)、現南ドイツ領にまでいたる六十の城を支配した。これが、歴史上もっともアッペンツェルの支配地域が拡大した時期であった。


**
センティスホテルから十分も歩いたところを流れている川に、屋根付きの古い橋がかかっているのを見つけてきた方があって、みんなで見に行った。
説明版によると、1401に最初の橋がかけられたがそれ以降なんども流されてはかけ直されてきた。最終的に1750年にハンス・ウルリッヒ・グルーベンマンというマイスターによってこの橋が建造されたとあった。




***アッペンツェルで一番有名なもの★ランツゲマインデ★
これは有権者全員が広場に集まり様々な議題に挙手で賛否を表し議決する昔ながらの直接民主主義政治である。実際の様子が市立博物館のフィルムで見られる。

スイスでは19世紀半ばまで多くのカントン(州)がこのスタイルをとっていたが、現在ではこのアッペンツェルと・インナーローテンとグラールスだけになってしまった。

広場に手を上げる人物の像

張られたロープの中に、有権者の男子は伝来の刀を下げて、1991年以来やっと参政権を得た女性はその証明証を手に、登場する。民族衣装を着てそれは実際には儀礼的な祭りにすぎない…今日市の公認ガイドコルネリアさんの話を聞くまではそう思っていた。

四月の最終日曜日に行われるランツゲマインではたった半日で終わる。そんな時間で有効な議決などできるはずもないではないか。しかし、実際はその場へ至るまえにこの分厚い議案書を読んでくることになっていて、挙手はその最後の意志表明ということになっている。「この本がそれ」と、ガイドのコルネリアさんが見せてくれた。

提案者の思うように結果が行くとは限らない。挙手してみて賛否どちらが多いか判別がつかない時には全員を一度広場の外に出し、YES門とNO門それぞれから入場する数を数えて賛否を決するという方法をとる。

少数による寡占政治を許さないためのこの直接民主主義だが、円滑に行われるには人々がかなりの程度成熟した「大人」であることが必要。匿名投票ができないのだから、毅然と自分の意志を貫く態度。そして、自分と反対の意見を持った人への寛容。さらに衆愚政治に陥らないために、(たとえば増税や福祉カットといった)苦い法案へも賛成出来る公共感覚、これらが必要なのである。

****
ガイドのコルネリアさんのバッチはアッペンツェルらしいデザイン。

「私はこの街の出身だけれど、夫はアウサーローテンの出身でプロテスタント。名前を見ればこの街のひとは外から来た人なのだとすぐにわかるわ」
へぇ、今でも名前だけでそんな区別が可能な状況があるのだろうか。それにしても、カソリックとプロテスタントの入り組んで共存している様は、現代でもちょっと想像しにくい。博物館にあった18世紀頃とおぼしきアッペンツェルの地図をみるとそれがわかる。赤がカソリックノインナーローテン、緑がプロテスタントのアウサーローテンである。

「牛追い」はアッペンツェルのひとつの名物。

きれいに飾られた家々の装飾。これは薬局なので薬草がたくさん描かれている。掲げられた言葉はこうだ「病に効く薬はたくさんあるが、死に効く薬はひとつもない」こんな言葉を掲げた薬局なら信じたくなるかもしれない(笑)


女性の民族衣装は、この地方の有名なレース刺繍をうつくしくあしらったもの。


ホテルで置いてあったお菓子はまるで「アッペンツェル饅頭」。食べてみるとあんこではなく(あたりまえか)、ジンジャークッキーのような味だった。


博物館で目にとまったコイン。18世紀半ばに発行されたアッペンツェル独自のドュカート金貨である

独自の硬貨を発行できるというのはそれだけ経済的な基盤がしっかりしていたという証である。スイス全体で共通のスイスフランを使い始めたのは19世紀になってからのこと。それまでは各カントン(州)でこのような通貨を発行していたのであります。
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