旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》信州~諏訪編(諏訪大社上社本宮)

2022-10-18 11:32:10 | 国内
「今年の御柱には地面と擦れた傷がないんです」
理由は解説されなければわからない。

↑解説に来てくださったのは「木遣りコンクール日本一」のMさん↑
地図で御柱が切り出されるルートを説明してくださる。下の線が上社の御柱を運ぶルート。コロナ禍のため、山から切り出した樅ノ木を急な斜面を落とす「木落とし」も「川越し」も行われなかった。御柱千二百年の歴史上はじめてトラックで「山出し」をした。なるほど、だから擦れた傷がないのか。「里引き」だけは行われた。

↑御柱が社殿を囲む四隅に四本あることはよく知られているが、それぞれ長さが違うとはじめて知った。
↑冒頭の写真は「一の柱」で五丈五尺=高さはおよそ17メートル+地面下2メートル。↑すぐ上の写真に写っているのが「二の柱」で、一の柱より五尺(およそ1.5メートル)短くしている。「三の柱」「四の柱」と、さらに五尺ずつ短くしてある。

そもそも、なぜ御柱をたてるようになったのか?
↓諏訪大社が相撲取の神様である理由とつながる↓

二十以上の仮説があるそうだが、日本書紀の「国譲り神話」説がおもしろい。
★大国主命(おおくにぬし)=大黒様は、天照大御神(あまてらす)から派遣された建御雷神(たけみかずち)と天鳥船神(あめのとりふね)から国の支配権を渡すように迫られた。大国主命とその長男の事代主神(ことしろぬし)は同意したが、次男の建御名方神(たけみなかた)は力比べで決めようと言った。※戦いの様子は省略
力比べに敗れた健御名方神は逃げて諏訪の地まで逃れ、四本の柱を立ててそこから出ないとして許してもらった。
諏訪の人にはおもしろくない話かもしれない。

参集殿に大相撲優勝力士の扁額が納められている。
扁額は毎回増えていくので古いモノから下ろされるのだ。

千代の富士の扁額は↑1989年7月生まれたばかりの三女が突然死した直後の場所で優勝した時のもので、本人には特別な思い入れがある優勝だった↑優勝後に「供養になったと思います」と話したそうだ。

↑明治維新まで上社本宮には鎌倉時代の五重塔がそびえていた↑そのレプリカもここにある↑
廃仏毀釈で土台から完全に破壊されてしまった。あぁもったいない。

↑この図は廃仏毀釈で壊された建物を赤色で示している↑神仏を強制分離する思想は、戦争と同じぐらいの破壊をもたらした↑
現在寺として復興されたのは↓

↑二の鳥居を出てすぐ右にみえる法華寺。
織田信長が諏訪大社を焼き払った時に滞在した場所で、明智光秀の頭を掴んで折檻した事件はここで起きたと伝わっている。

忠臣蔵の吉良上野介の孫で養子となっていた吉良義周(よしちか)の墓もある↑討ち入りの現場で応戦したが切られてこん倒し、父の首をとられてしまった。武士としてふがいないと流罪とされて諏訪に預けられた。三年後に二十一歳で亡くなった。
この法華寺には美しい庭園もあるそうだ。いつか訪れる機会をもちたいとおもう。

↑かつて法華寺の塔頭が並んでいた通り↑
この先二キロほどのところに上社前宮(「まえみや」、または「さきみや」)があるので、この道が正式な参拝ルートだと聞いていたが、実際には神宮寺が隆盛していた江戸時代に主要参拝路とされたのではないかしらん。この道から二の鳥居をくぐって境内に入ると拝殿の裏手となり、布橋(渡り廊下)を通って折り返して拝殿に入ることになる。それ以前・もっと古い時代の上社本宮の正式参拝路は「波切鳥居」と呼ばれる一の鳥居で諏訪湖に面した方向だったのだろう。これなら湖側から境内に入り、自然に拝殿の方向に向かうことができる。

二の鳥居から境内に入ってすぐの「渡り廊下」が↑

「布橋」と呼ばれている↑拝殿へ向かう左手に三十九の神様を祀る社が並んでいる。
「布橋」に面して「御宝殿(ごほうでん)」がふたつあることが、「布橋」という名前の理由だと思えてきた↓「一般の神社の本殿にあたる」建物が「御宝殿」だそうな↓

↑御柱祭が行われる申と寅の年にこの社も新しくされ、神様が移られる。その儀式の際に神様が廊下を通られるので、氏子たちが布をもちよって廊下に敷いていた。なるほど※こちらに詳しく考察しておられる方がありますのでリンクしておきます

↑二つの社↑手前の賽銭箱がある方が現在神様がおられる方↑この二つの社の間に、徳川家康が奉納した「四脚門(しきゃくもん)」がある。

拝所に入るところに、売られている「鹿食の免(かじきのめん)」お守りを解説する看板があった↓

↑諏訪大社がなぜ全国に五千七百社もあるのか、Mさんの解説を伺って得心した。
★殺生を禁じる仏教がひろまると、猟師をはじめとする殺生を生業として生きている人々はうしろめたく思うようになった。殺生をして生きている自分は成仏できないのではないかしらん…。
諏訪神社では4月15日に鹿の頭を75頭も捧げる「御頭祭」が行われる。狩猟の伝統を神が肯定している。
仏教の手前、殺生にわだかまりを感じていた神官の夢枕に諏訪の神が立ち、告げた。
諏訪の勘文(すわのかんもん)
「前世の因果で宿業の尽きた生きものは、放っておいても長くは生きられない定めにある。したがって人間の身に入って死んでこそ、人と同化して成仏することができる」

このお札を手にしてほっとする人々は今でも多いのではないかしらん。全国に諏訪信仰がひろがる理由が分かった気がした。

拝所から見える山の方に「硯石」がある↓

「あそこに神が降りてこられるのです」
**
境内にある「神馬舎」

かつてやってきた貴人の馬を止めておいた建物だったのかもしれないが、今は中に逸話のある木馬が鎮座する。

↑明治27年、近くの大木が倒れて社を直撃した。中の木馬はしかし社から飛び出し、無傷で立っていた。「これは諏訪の神が馬に乗って日清戦争に加勢しにいったのだ」と、人々は噂した。

↑これが倒れた樹齢800年の欅の残り↑
***

↑日本一の「牛の一枚皮の大太鼓」は、平成22年(2010)にデビューした。
それ以前には、となりにある文政10年(1827)に貼り代えられた太鼓が日本一だった。

この太鼓は新年の午前零時に一度だけ叩かれる。
****

↑かつて諏訪の人々は貧しく、東京の海苔業者に出稼ぎしていた↑その縁は長く続いている。
*****
現在の実質的な主要参道にある北の大鳥居は2003年に奉納されたものである。

下見の時にご案内いただいたドライバーさんによると、新宿でラーメン屋からはじめて財を成した人だとか。

検索してみるとスーパーからホテル、不動産まであつかう総合企業になっていた。

諏訪大社は四つ。
しかるべき解説があればまだまだ興味深い事々に出会えるだろう。
Mさんのご都合のよいときに、ぜひお願いしたいと思っております<(_ _)>



★諏訪への《手造の旅》を催行するきっかけは2011年11月14日に、岡谷在住の方に案内していただいたこと。※その日のブログにリンクします
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《手造の旅》信州~諏訪編10/18全般

2022-10-18 07:44:40 | 国内
おもしろすぎる!
↑岡本太郎も大好きだったという石仏。こんなの他にありません。
今回の旅の最後に訪れた



標高千五百メートル近い車山高原のホテル。
昨夕到着した時には霧でなにも見えなかったがホテル廊下の突きあたり窓に見えた木はもうこんな色。

今朝のロビーには明るい高原の光が入ってくる

白樺湖方面や標高2500メートルの蓼科山まで見えた。
が、車山高原山頂までのチェアリフトはまた次回(いつ?)もっと晴れた時に。
**
四十分ほど諏訪方面に下り、
●茅野市尖石(とがりいし)縄文考古館を訪れる。

ここには「縄文のヴィーナス」「仮面の女神」二体の国宝土偶が展示されている↓

↑入ったところにあるマスクしているのは拡大したもの(笑)

「これ、ほんとにホンモノが展示されているのですか?」という声があがったほど
ほとんど完全なカタチで発見された力強い造形
※こちらに写真と共にもう少し書きましたのでごらんください
博物館前に立つこの人は?江戸後期に灌漑事業を行った坂本用川という人物だと解説してあった。調べてみると、彼の仕事は人工滝として近くにも残っている。一度訪れる機会をつくろうとおもう。地域を繫栄させるために農業用水が不可欠だった時代、日本各地にこういう人物がいたことを忘れないでいたい。
***
●仏法紹隆寺

一週間前に訪れて解説をお願いしていた※下見の時のブログにも解説を書きました

↑ゾウは西暦1292年(鎌倉時代)に製作された↑

↑上の普賢菩薩は一度織田信長によって破壊され、1593年(天正二十年)秀吉の世につくりなおされたもの。
オリジナルよりはだいぶ小さくなったのではないかと解説された。

上のリンクに書いたように、もとは諏訪大社上社本宮の敷地にかつてあった普賢堂に、諏訪大明神そのものとして祀られていた像。
明治の廃仏毀釈のすさまじさを実感していただくのも今回の訪問の狙い。
****
次に訪れた●諏訪善光寺にもかつて諏訪大社上社本宮にあった仁王像が移されている。

↑衝撃的に壊された↓

↑これら二体+不動明王、毘沙門天について
※下見の時のブログに書きました
*****

●諏訪大社上社本宮(かみしゃほんみや)

一週間前に下見で訪れた際、急遽ガイドをおねがいしてよかった(^^)

木遣りコンクール日本一のMさんの解説は、そのよく通る声と明快な解説でよく理解できました。
※こちらに諏訪大社上社本宮だけをまとめて書きました
******
ランチは養命酒がプロデュースするCURASUWAにて

※1月に訪れた時のブログをごらんください
ここは野菜がとってもおいしいです(^^)
*******
昼食後、すぐちかくの
●片倉館
ここは諏訪の繊維産業がどれだけの繁栄をもたらしていたのかを感じさせてくれる

※2022年1月に「千人風呂」にも入った時のブログをこちらからごらんください
********
●諏訪大社下社春宮と「万治の石仏」※今回はさっと訪問、またの機会にガイドさんと共にゆっくりおとずれます(^^)

鳥居をくぐると車道のど真ん中に太鼓橋がのこされていた↓

↑調べてみると「下馬橋」。
どんなエライ人もここで馬を降りる地点。
橋自体は江戸時代に修復はされているが室町時代からのもので、諏訪大社下社で最も古い建造物だそうだな。
今は橋にする必要などない場所に見えるが、橋の下には暗渠になった川が今も流れている。

↑春宮の境内真ん中に神楽殿↑

見事な木彫

↑春宮御柱

↑下社の紋は五根梶(五つの根がえがかれている)。
上社は四根梶。※実際には混在しているようだが


春宮の境内から小さな川を渡った場所にある奇妙な石仏↓

●万治の石仏をぜひお見せしたかった。

こんな石像を他に知らない。岡本太郎が大好きだったというのも納得。

↑川の歩道沿いにある文字は岡本太郎による

江戸時代1657年(明暦3年)に起きた「事件」が発端。
事件の翌年からの万治年間(1658年から1661年まで)に石仏にされたようで

「万治三年十一月一日」と刻まれているのが名前の由来になっている。

↑真後ろが大きく切り取られたようになっており、くさびの跡のように見える箇所もある。

ユニークなこのアタマは万治年間に誰がつくった?
調べてもわからなかったが、この大胆で力強いカタチが大きな魅力になっている。

*********

塩尻へ向かう峠から最後の諏訪湖が見えた↑

新宿を走っている国道20号線は通称「甲州街道」と呼ばれるが、本来は下諏訪が終点。国道20号線は塩尻駅が終点↑※上の写真左下に「終点」と書かれている。中山道
JR塩尻駅で解散にしたのは、今回大阪と東京両方から参加していただいていたから。

信州はなるほど日本の真ん中ですね(^^)

諏訪旅を《手造》する最初のきっかけは2011年11月14日。
岡谷在住のTさんにご案内いただいたこと。
※この日のブログにリンクします
ずーっと良いところだと思っていたが、今年2022年の1月に軽井沢の方にまた別の視点からご案内いただき、具体的なアイデアが浮かんできた。
ひとつの旅がカタチになるまでにはそれなりの時間が必要なのです。
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《手造の旅》信州~上田編(後半)

2022-10-17 16:12:13 | 国内
「塔は下からみあげるもの」と言われればそのとおり。
木の間隠れにみえてくる、日本唯一の★安楽寺の八角三重の塔。

中国大陸の禅宗様(唐様)で塔を建設させたのは、宋からやってきた二代目住職の幼牛恵仁。
故郷で見ていたような塔をここに再現させたと言われる。

↑左が幼牛恵仁、右が初代の樵谷惟仙(日本人)。道を求めるに国籍は関係ない。
迫真の鎌倉時代木彫。
1月の下見の時よりは見やすい光で幸い(^^)
※今年一月の雪の残る塔はこちらからご覧ください
これらの像は一時東京の博物館に置かれていたそうだが、やはりこの寺にあるべきもの。

傍に立って見上げる。

離れて少し見下ろすような位置に立つと、急に花弁が閉じたようになる↑


別所温泉へ降りてゆく時に山本宣治の記念碑がある。

戦前、治安維持法に反対し、
昭和四年(1929)三月一日、上田で講演した四日後に暗殺された

青木村の山本鼎といい、塩田平あたりは労働運動の盛んな地域だったということだろうか。
※こちらのHPに分かりやすく書かれています

別所温泉の宿に到着

この宿は玄関で靴を脱いで全館畳になっている。
靴を脱ぐとほっとします。

8月の下見の時に知り合った宿の方がとなりの酒店を紹介してくれた

夕食は松茸を含む地元の品々を

8時過ぎに夕食を終えて散歩に出た。

すぐ前が↑外湯「太師の湯」

誰もいない商店街

北向き観音の境内・観音様が降臨したという桂の巨木
***

朝食は宿の個性を感じさせる時間↑左上の竹の器を開いて別所温泉の熱いお湯を注ぐと…

中が蒸されて湯気がもれてくる

↑三分ほどで蒸し野菜のできあがり(^^)
****
朝九時半に出発し、十分ほどで「無言館」に到着。戦没画学生の遺した絵をそのエピソードと共に公開している。

館長の窪島誠一郎さんは絵が好きだっただけで、反戦運動家でもなんでもない。
東京美術学校から学徒出陣して生還した洋画家の野見山暁治氏と知り合って、そういう運命を背負うことになったのだ。

あるサイトに書いておられたコラムにこんな文があった↓
↓↓
「そんなに画学生の絵を戦争と切り離したい、絵の自立性を重んじたいというなら、絵は絵として、絵だけで勝負すべきだったのではないのか。あんなふうなお涙ちょうだいのエピソードや、戦死直前に戦場から送られてきた家族への書簡までを披露する必要はなかったのではないのか」
 そんな声がどこからか聞こえてくるようなのです。
↑↑引用終わり

「信濃デッサン館」の閉館後も、クボシマさんが「ほんとうに自分のモノ」とおもって運営されている「残照館」も訪れたい。
8月に訪問した時に、「月曜にはいますよ」と言っておられたのでお会いできるかとおもっていたが…
なんと臨時休館! 九州の方へ講演で呼ばれたのだそうだ。

塩田平を見晴らすカフェの芝生でお茶にした。

麹ドリンク、おいしかったです

すぐ前の道路でキノコを売っている↓

松茸はちょっと隠してある(笑)↓値段はコワくてきけない

「匂い嗅いでみるかい」

「でも、味は雑キノコのほうがおいしいよ」とドライバーさん

あぁ、食べたい
*****
晴れれば車山高原のチェアリフトに乗ろうと思っていた午後だが、
残念ながら曇っている。山はもう雨かもしれない。
午後も上田エリアを見ていただくことにした。
昼食は予約していないのでこういう変更ができる、少人数(^^)
青木村でしか栽培していない「タチアカネ」という品種の蕎麦を食べることにする。

↑青木村の道の駅へ向かう途中にこんな看板が↑
↑東急グループの創設者五島圭太は青木村の出身だったのか。

青木村の道の駅は、この時期新鮮な松茸が売り出される。
さっき見た「雑キノコ」がたくさん入った、タチアカネの蕎麦を注文した↓

キノコ料理、もっと食べたい(^^)

こんな高い松茸でなくてもよいです。
******
青木村から上田城へむかう。

盆地の北に向けて千曲川が流れ出している切れ目がみえる↑

↑千曲川は日本最長の信濃川(367㎞)の長野県内を流れている上流部分の名前↑

↑雲が山を乗り越えてこようとしている↑雨はなんとかもつかしらん。

上田城近くの北国街道を観光用に整備した一角を通ってくださる。

上田城の案内はドライバーのNさんにおねがいする。

上田城の堀から下を覗くと↓「ここは電車が走っていたんです」↓

なるほど、プラットホームまで残っております↑
こういうことは指摘されないと気付かない。
※昭和2年から47年まで走っていた電車の写真がこちらにありました


↑橋にあったこのマークはなんなのかしらん?
※っと書いたら★「二の丸橋」と書いてあると教えていただきました!
「○○」で「二の丸」「ハ」「シ」なるほど(^^)

平成二年から大規模な修復がおこなわれた上田城

徳川の大軍勢に二度包囲されても落ちなかった真田昌幸の城の名残はどのぐらいあるのかしらん。

大河ドラマでも有名になった父昌幸と二人の息子



櫓の復元はこれからも続けられる
※上田城の歴史を上田市のHPで詳しく読んでいただけます

↓通称「真田石」は場内でいちばん大きい↓

江戸時代、真田幸隆が松代に転封になった際に父昌幸の想い出にこの石を持っていこうとしたが動かなかったという伝説。
実際にはその後の千石忠政が建設した石垣↑


場外への抜け道があったと伝承される「真田井戸」

深さは16m


上田城主は伝統的に城ではなく場外の藩主邸で公務をおこなうことになっていた。
上田城の遺構で江戸時代からの様子をもっとも留めているのが↓城本体から少し離れたそこ

↑県立上田高校の正門として使われている。

↑路地を走っている時、不意にカトリック教会が見えた。
下調べをしていた時に気になっていた上田聖ミカエル諸天使教会だった※こちらにHPがあります
昭和七年に建設されたお寺のようなカトリック聖堂、訪れる機会があれば幸いです。

*******
★信濃国分寺にも三重塔がある

当初の予定にはなかったが、山が雨模様なので訪れることができた。

江戸時代末期に建造された本堂=薬師堂は重厚感があり彫り物もすばらしい。


内部に入るとお祭りでつかわれる白象さんがいた↑

お堂で売られている「蘇民将来」の御守↑
★蘇民将来伝承
むかしむかし、北の国からきた旅人が日が暮れて一夜の宿を乞うた。
富者の兄・巨旦将来は拒否し、貧しい弟・蘇民将来は暖かく迎えた。
旅人は実は牛頭 天王で、後年巨旦一族を滅ぼすことにした。
弟蘇民の一族は茅の輪を身につけることをその印として難を逃れると決めた。
これが、全国にある「茅の輪くぐり」のルーツ

平安京の前に十年間だけ首都だった長岡京から「蘇民将来の子孫」と書かれた最古の木簡御守りが見つかっている。
千三百年前の人も蘇民将来の御守りを身につけていたのか。
※長岡京市のHPにリンクします
信濃国分寺の建物は江戸時代のものであっても、
国分寺が建設された奈良時代の風俗習慣をしっかり引き継いでいる。
近くの道路にこんな看板?も立っていた。
本堂のすぐ裏には蓮池がある。

↑境内の三重の塔は全国の国分寺にあるなかで最古のもの。
室町時代に建てられたと推察されている。

お天気のおかげで
上田周辺の四つの三重の塔を全部訪れることができた(^.^)

*******

上田をはなれて、今日宿泊する車山高原へのぼりはじめると、すぐに雨がふりはじめた。

今日宿泊するホテルは標高1500メートル近い。

白樺湖が近づくころには霧が深くなっていた。

スキー客でにぎわうだろう大型ホテルに到着(^.^)

明日は景色が楽しめる朝になっていますように
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《手造の旅》信州~上田編(前半)

2022-10-16 05:46:13 | 国内
※この大法寺の塔(国宝)だけは青木村に入ってすぐのところにあるが
上田の塩田平には鎌倉から室町にかけて建造された三重塔が四基も残されている。
**
新幹線の上田駅09:17到着

真田氏の六文銭がデザインされた駅舎。

「お城口」から、ぎりぎり徒歩圏に上田城の櫓が復元されている。

そこへは行かず、「温泉口」方向の塩田平へ。

このエリアでもっとも古くから祀られてきた生島足島神社を訪れる。

池の中に生島神と足島神の二柱を祀った本殿があり、対面して諏訪社がある。
前者を上社・後者を下社と呼び、諏訪大社のミニチュアのようになっている。
御柱も建てられている※今年8月下見のブログに載せております

暑かった下見の日から二か月。紅葉ももうすぐ。

本殿のある池を一周↑夏には気付かなかった小さな田んぼの稲が実っていた。
この米はどういう時に使われるのだろう。

↑降雨量が日本で二番目に少ない塩田平。
↑この池が湧き出していたことが生島足島神社の発祥なのではないかと下見の時に話していたら、ガイドのSさんが宮司さんに訊ねてくださっていた。
「少し先にある溜池から水をひいているのがほとんどで、湧き出している水は少ないそうです」
↑上の写真でいちばん左の土管から引かれてきた水らしきものが池に流れ込んでいる↑
***

すぐとなりの長福寺にある↑下見の時には拝観できなかった奈良時代の観音立像を開帳していただけた↑
※こちらにもう少し書きました

※実物は写真撮影不可
**

昼食は「舌喰池」のベンチで、シーズンの松茸ご飯弁当にした

「松籟亭」は8月の下見でぜったい美味しいのを確認していたのだが…
※8月の下見の時のブログをごらんください

宿での夕飯もがっつりでるに決まっているので、お弁当を選択。

写真映えはしないが、松茸の香りを生かした釜炊きのお米が絶品でした(^^)

★舌喰池の解説版より
いつ建造されたのかはわかっていない。二千年前の弥生時代から水の溜まる窪地をつかって稲作が行われていたと思われる。奈良時代に溜池がつくられ、この頃が舌喰池の人柱伝説のはじまりか? 江戸時代初期にはすでにあった池を拡張・土手の嵩上げ。明治以降も地域の大切な水源。昭和三十年代には鯉を放して産業のひとつにする。※今は鯉料理もほとんどされなくなったけれど、一時は塩田平の名産品のひとつだったそうな。「鯉料理」の看板今も時々見かけた。
平成9年、「蓮の花咲く美しい舌喰池」として上田市誌に紹介される。
++引用終わり++
この頃には近隣にダムが建設によって、塩田平の溜池群は以前ほどの重要性はなくなっていたようだ。
今は「地域の憩いの場」になっているように感じられる。

****

前山寺へ

山門を通して最初に見える塔にはっとさせられる↑
建造物の価値の半分は、その立地が決める↑

下見の時に時間がなかった「くるみおはぎ」を予約してもらっていた。
「すぅごく美味しいんですよ」
今回の旅に参加されている・以前に来て食べたことがある方が説明会で力説された。
それなら食べてみなくちゃ、ということになったのです(^^)

↑お餅の下のクルミのペーストが、はじめての味わい!
↑右上の小皿に乗せられた梅の紫蘇巻きもよく合う(^^)
「普通のクルミじゃなくて、境内でとれる硬いオニグルミを割ってほんのちょっとしかない中身をすりつぶすのです」
どんなのモノか訊ねると、殻をみせてくださった↓

↑鬼みたいに角があるからこの名前?
たしかにここでしか食べられない、手間のかかるおはぎ。

この機会に食べられてよかったです(^^)

前山寺はかつて後ろ独鈷山(とっこさん)にあった塩田城の出先のような場所だった。
庭の塀にも矢間があるのはその名残ということ。
※塩田城は塩田北条氏三代が建設して居城とし、その滅亡後も上田城が建設されるまでは存在した。

鎌倉、室町期にはこれだけの三重塔が建設されるほど栄えていた。

↑欄干や小窓などが省略されているため「未完の塔」と呼ばれるが、無いことですっきりとした美しさを保っている。



境内のムラサキシキブが↑あざやか
*****
冒頭写真の、青木村大法寺へ移動する

↑子檀嶺岳(こまゆみだけ)は印象的なカタチをした青木村のシンボルのような山。
標高1223メートル。
大法寺は青木村へ入ってすぐの傾斜地にある。

できるだけ上の駐車場に止めてもらったがこの階段を登らないと本堂にも三重塔にも行けない。

途中に「昭和の義民・山本虎雄顕彰碑」があった。
あとから調べてみると、青木村は歴史上何回も「義民」の訴えが起こされている場所だった。
※これについてはまた別の機会に


この塔がもし平地にあったら、その価値は半減していただろう。

塔の足元に、古い五輪塔がいくつもみつかる。

儚い自分が消えてしまっても残り続けるだろう美しいモノの近くに眠りたいという気持ちは分かる。

東山道を行く人を何百年もみてきた。

境内にある、日本最古のしゃちほこが乗った小堂を間近に見せていただいた↓



※「ぶった切られた」ようなその屋根について、こちらに書きました

すぐ下の郷土資料館を見学した

三重塔一階部分の彩色を復元したものが見たかったのだが、他にもみるべきものがあった。

明治後半から大正期に、農民たちが豊かに暮らせるように「副業」として人形制作をしていた↑
指導していたのは山本鼎という画家で教育者で社会運動家。16歳から上田に住んでいたのだそうだ。
彼が夭折の画家・村山槐多の従妹だったことが、後に窪島誠一郎さんが無言館をこの地につくることにつながっていく。
まだ知らないこと・知るべきことがたくさんある。

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諏訪下見~諏訪善光寺

2022-10-13 08:05:31 | 国内
明治の「廃仏毀釈」のすさまじさを語る顔。

諏訪善光寺は細い道を抜けた高台にある。

1826(文政6年)の門からパノラマ、二百年の風景↑

廃仏毀釈で取り壊された諏訪大社上社神宮司の仁王門にあった二体は↑最初ここに置かれていた↑
↓これが、それ↓今は屋内で納骨堂を護っている↓

神通力を失わせるために片目をくり抜かれ、装束もはぎとられ、かつては屋外の仁王門に置かれて子供たちがのぼっていた。


吽形も同様

この諏訪善光寺を開いたのは本田善光(ほんだよしみつ)。
長野の善光寺よりも以前になる。
長野善光寺のHPではまったくふれられていないが↓
※善光寺のHPにリンクします
ご本尊が難波から長野へ移される途中、ここに七年滞在したとされる。

それだけの由緒ある寺院だから、諏訪大社上社神宮寺が破壊された時、ゆかりの仏像がここに移されたにちがいない。この二体の仁王が護っているのは本田善光を祀った納骨堂である↓



下の本堂で阿弥陀如来の脇に立つ毘沙門天と不動明王も、諏訪大社上社神宮司の普賢堂を護っていたと伝わる。※現在仏法紹隆寺にあるこの普賢菩薩像があったお堂

鎌倉から室町の時代のもの↑目だけが光っているのは、廃仏毀釈でくりぬかれていたのを修復したから↓こちらの毘沙門天も同様


目の前の仏像がどのような経緯でそこにあるのか・どうして今のお姿になったのかを知るためには、明治の廃仏毀釈を避けてとおれない。黒歴史故に解説するときにもさらっとしか触れられないことが多いのだ。
来週10月16-18の長野上田と諏訪の旅では、諏訪大社がどのような災禍を被ってきたのかも感じていただきたいと思い、ここを訪れることにします。
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